犬の姫御前
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―――・・**
「それは…誠ですか」
まだ高い声で抑揚なく小さく呟いたのは、近くにいる侍女の腰辺りまでしか等身のない殺生丸だった。
殺生丸は、目の前で肘掛けにしな垂れて座る母を見てから、そうしてその母の前でぺたりと座っている、随分前に泣き腫らしたのだろうか赤い瞼が重そうな幼女を見た。
つい最近、殺生丸は母付きの侍女から「御方様が人の子を拾いました」と報告は受けていたが、その後何も音沙汰がなかったため、きっと飽いて捨てたか殺したかしたのだろうと思っていたのだが、目の前の奔放な母はその斜め上をすっ飛んでいった。
その赤い唇から滑り出た言葉は、その人間の子供を養うという事だった。
何故呼び出されたのだと思っていた殺生丸は、その母の発言に眉を
「…お言葉ですが母上。戯れが過ぎます」
「何を。戯れなど言わぬ。喜ばぬのか?妹が出来たのだぞ」
馬鹿な事を、と殺生丸は思う。
何が妹か。自分達は犬の妖怪で、その小娘は人間ではないかと。
種族が違うのは元より、殺生丸は人間を好いていなかった。
直ぐに壊れて死ぬくせに、横柄にしていて妖怪を見れば逃げ出すか退治などと口走る。
何が退治か、貴様らの愚行に妖怪が人間を退治てくれるわ、と常々思っていた。
大妖怪である母も、勿論そうだと思っていたのだ。
「ふざけたことを…ソレは人ではないですか」
「ああ、人だね。可愛いだろう?今はこんな瞼だが、もう幾ばくかには引いているだろうよ。昨夜家人を思い出して泣き腫らしたのだ。可哀想にな」
穏やかに話し、目の前にいる幼子を長い爪で傷つけぬようにと優しく撫でる母の顔は、殺生丸には見覚えがないものだ。
「……」
意味も相変わらず解らない上に埒が明かぬと、殺生丸はすぐ後ろに控えていた侍女に目をやった。
暗に、お前が説明せよというその表情に、侍女は低頭してから恐る恐る言葉を紡ぎ出す。
「その…、若君様も人の子を御方様が御拾いになられたのは御存知かと思いますが。その日のうちに一応親探しを致したのです。御方様自ら人里に降りられて…しかし彩登美が言うには、場所も違えば見たこともないしで、解らず仕舞い…彩登美には苗字がありました故、人で姓を名乗れるのは限られておりますのでそれも探したのですが…」
侍女がいう、彩登美というのはこの目の前で殺生丸から目を逸らさない子の名前なのであろうというのは読み取れた。
しかし行き場がないというのはどういったことか。
「時に殺生丸よ。お前もよく人里を駆けるであろう。犬江、というのを聞いたことがあるか?」
「…ありません」
「そうか。この母も、父上も知らなかったのだ。もしやお前はと思うたがやはり知らぬか。…のう彩登美」
「んー?」
侍女が再び顔を伏せたのを見て、盈月は口を開く。
さらさらと彩登美の黒く柔らかな髪を撫ですきながら、眉を寄せてみせるが声は淡々としており、悲しそうなのは表情だけだ。
名前を呼ばれた彩登美はゆっくりと殺生丸から目を離し、後ろにだらりと座っている盈月に顔を向ける。
「お前の姓である犬江は何処の貴族豪族でもない。お前はやはり此処にいるしかないようだぞ」
「…ママ、あえないの…?」
今にも泣きだしそうな顔で落ち込む彩登美に、ここ数日でママの意味を理解した盈月はこくりと頷く。
まろい頬を撫で、その金色の瞳で彩登美の黒目を覗き込む。
「お前の母君には会えぬが、その間、私がお前の母だ。異論はないだろう?」
「いろん?」
「そうか、彩登美には難しい言葉は理解できぬのであったな…。私と一緒にいるのは、嫌か?」
わざと、自分の立派な尾を彩登美の顔に押し付けて毛並みの良さを確認させる。ここ数日で彩登美がこの尾を大層気に入っていることを理解しての行動だった。
案の定、白い毛に溺れそうになりながらも彩登美は「いやじゃない!」と叫ぶと、ぎゅっとその立派な尾にしがみ付く。
「よし、では彩登美。兄上に挨拶をしなければいけないな」
「あにうえー?なにそれ?」
何がよしか、と二人のやり取りを冷たい目で見ていたが、不意に彩登美が殺生丸に視線をやったことで殺生丸もじっと彩登美の目を見た。
彩登美も彩登美で、負けずにじっと殺生丸の金色の瞳を見つめる。
「こんにちはー…」
恐る恐る、彩登美が声をかけたが殺生丸は微動だにせず腕組みをしている。
白い尾からそっと離れて、彩登美はぽてぽてと覚束無い足取りで殺生丸に近付き、近くから見上げた。
身長は殺生丸のが少し高く、彩登美の頭は殺生丸の胸あたりだ。
「わたし、犬江彩登美だよ。おにいちゃんは?」
興味津々の顔で殺生丸を見上げる彩登美を、殺生丸は澄ました顔で見下げる。
しかし殺生丸の心中は荒れていた。
何が楽しくて、人間の小娘を妹と呼ばねばならぬのか、ずっと後ろで楽しそうに笑顔を浮かべている母も、おろおろとしている侍女も、眩しい顔で見上げる彩登美も、全てが不愉快で意味が解らなかった。
「…おしゃべり、しないの?」
「彩登美。口下手な息子ですまぬな。そやつは殺生丸だ」
口下手の意味は理解できなかったのだろう、盈月の助言に首を傾げながらも、名前は解ったようでパと笑顔になり、目先にあった殺生丸の手を取った。
「!」
「よろしくねえ、せっしょーまるくん!」
「な…」
笑顔のまま健やかに言った彩登美に、殺生丸をはじめその場にいた全員が驚き、固まった。
しかしそれもすぐに盈月の笑い声と、侍女の「なんと恐れ多い事を!」という声によって殺生丸も我に返る。
すぐさま取られている手を弾いて踵を返し、母である盈月に何も言わずに去って行った。
「え?」
パシン、といい音をさせて手を払われた彩登美は、最初ポカンとしながら殺生丸の背中を見ていたが、頭の処理がやっと追いついたのだろう。
くしゃりと顔を歪ませると、そのまま大声で泣き始めた。
「ああ、よしよし。痛かったろう」
いつの間にかに盈月が近付き、泣き叫ぶ彩登美を抱きかかえる。
仰け反って嫌がるかと思い侍女が彩登美の背中側に急いで回ったが、杞憂であった。
彩登美は数日のうちに盈月に懐いており、抱えられた瞬間に盈月の首に腕を回してしがみ付いたのだ。
すんすんと盈月の首元に顔を埋めて泣く彩登美を見て、侍女は寒気を覚える。
人間と自分達妖怪の生きる時は違う。
盈月は長い悠久の時の中で、そこらにいる猫や野良犬を拾ったような感覚なのであろうが、彩登美からすれば短い人生の中で盈月と言う存在は重要な存在という立場になってしまっているのだ。
そもそも、幼い子供は火が付いたように泣く時、母親以外が抱き上げると余計に喚き散らす傾向がある。だというのに、彩登美はそのまま盈月の首にしがみ付いて大人しくなったのだ。
もう既に、母代わりと言うのをどこかで受け止めていて、幼いながらもこの状況を理解しているということなのだろう。
「そこの」
「は、はい」
「彩登美が寝た。私も惰眠を貪ろうと思うてな」
「直ぐに寝台のご用意を致します」
とんとんと背中を叩きながら言う盈月は、産まれたばかりの殺生丸を見ているかのような顔で彩登美の頭に頬を寄せる。
侍女は慌てて頭を下げて、バタバタと寝所へ駆けていった。
あの方はなんて残酷なことを、と思いながら。
(小さきものは愛いな…いつの間に大きくなったのやら)