犬の姫御前
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――・・**
どれくらい気を失っていたのか、彩登美は解らなかった。
気付いた時には緑が生い茂る場所で猫のように丸まっていた。
日差しが腹にかかり、風がそよりと吹く場所だった。
「…ここ…ていうか、私…?」
彩登美はゆっくりと起き上がり、そこに座って辺りをぐるりと見渡す。
木々が茂り、風によって葉が騒めく音や、鳥の鳴き声が響くここは深い森のようだった。
彩登美が横たわっていた地面は柔らかい草で覆われ、その向こうも土と草が入り混じっている。
秋の装いだった彩登美は暖かい気候に、長袖を肘までたくし上げた。
大きく深呼吸をすると、肺一杯に深い新緑の空気が充満する。
ふと何かの視線に気付き、彩登美は顔をそちらへ向けた。
「…ひっ、!」
木々の向こう、太い木と鋭い茂みの向こうから、よく分からない化け物が彩登美の様子を窺う様にしていた。
猿の顔の様なもの、鬼の様なもの、蛇の体を持つ女、巨大な蜘蛛、それぞれがギチギチと妙な音を鳴らし、そうしてうろうろとその周囲を動いていた。
「…よ、妖、怪…?」
彩登美は瞬時に頭の中に気を失う前のことが駆け巡った。
哭澤女神によって、彩登美は時渡りをしたはずであった。
「じゃ、じゃあここは元のあの場所…?でも、哭澤女様は…望む場所にっておっしゃって…」
―違う。あの神は「望む世」と言ったのであって、「望む場所」に落としてやろうとは一言も言っていなかった。
彩登美は思わず唇を巻き込んで、妖怪の群れを睨んだ。
自分と今の妖怪の距離ならば、弓があれば余裕で射ち狙えることができるが、肝心の弓がない。
こんなことになるのであれば、部活のあの弓を日暮神社に行くときも持ち歩いていればよかったと彩登美は小さく後悔する。
座ったままでは何れ食い殺される。そう考えた彩登美が立ち上がり、妖怪の群れを睨みながら一歩後退した。
「……?」
彩登美は警戒姿勢を解き、首を傾げる。
彩登美が立ち上がろうと動いた時、妖怪達はざわりと動いた。
しかしそれ以降距離を詰める事もしなければ、動くことすらしない。
只管に彩登美と一定の距離を保っていた。
「おかしい…どうして、近付いて来ないの…」
その時、彩登美は自分の持っている物に気付いた。
掌の中には、あの神との問答の時のまま水水晶を握り締めていたのだ。
「…これのおかげで?」
悪い物を退けるとは言っていたが、こうも効果があるとは思わなかった彩登美は先程までの及び腰が嘘のようになり、兎に角この森を抜けようと決意した。
しかし彩登美が一歩踏み出した時、妖怪の群れの一匹、蛇女がずるりと這い出て彩登美の目の前を塞いでしまった。
「な、に…あ、貴女、私に近付けないのでしょう。怖くなんて、ないから!」
彩登美が蛇女の顔を見上げて叫べば、蛇女はギギと笑った。
引眉が妙に滑らかに動き、紅で縁取られた唇が奇妙に動く。
「小娘、何を持っている?その手の中じゃ。それさえ無ければ小娘の体なぞ無力じゃろうて、さあ早う手放せ。妾が食ろうてやる」
「ば…馬鹿なことを言わないで!食べられると解っているのに、手放す人が居るものですか!」
蛇女に彩登美が啖呵を切れば、蛇女の後ろに居た手の長い土色の妖怪が飛び出した。
「全員でかかれば何れは手放すぞ!食らいたいものは続けぇ!」
口の端から涎を垂らし血走った目で駆けてきた妖怪に、守護があるから大丈夫だと思っていても一瞬怯んだ彩登美は思わずその場に蹲った。
「ギャッ!」
音や気配が近付き、振り上げる腕を見てから彩登美が一瞬目を瞑った瞬間だった。
妖怪が潰れた様な声を上げたかと思えば、何かが溶けるような音がした。
恐る恐る目を開けてみれば、目の前には視認できる程の薄い半透明のような膜が出来ていた。
それは目の前の妖怪を消し飛ばし、浄化してしまうと見る見るうちに消えて空気に溶けていった。
「あ…す、ごい…!」
距離を詰めることはできるが攻撃をすることはできないのだと理解すると、途端に足に力が戻り、彩登美は勢いよく妖怪たちとは反対方向に駆け出した。
その後ろから、草をかき分け木々を薙ぎ倒す音が聞こえることから自分が追われているのも理解した。
「どうしよう…!どこまでっ、行けば…!」
水水晶の加護が永続的なのは知っているが、ああやって攻撃を受け続けていても加護が解けないかはわからない。
彩登美は必死に走り、兎に角森を抜けることに専念した。
しかし元々あの邸に居た時から野山をかけることはしてこなかった上、現代であっても授業以外に長時間走る事なんてなかった彩登美は、早くも限界になり足が縺れてしまった。
「っあ!」
危ない、と思った時には既に彩登美の顔や体は地面に横たわっていた。
盛大にこけた彩登美は、膝の痛みや顔の擦り傷の痛みを感じるより先に背後を振り向いた。
ザザザと音をさせて大量の妖怪達が向かってきている。
「や…っだ…」
加護があると解っていても、恐怖というのは拭えない。
足首だって痛めてしまったのか、全く動かない。
「す…て…たす…けて…っ」
一匹、大蟷螂の妖怪が鎌を振り下ろした。
バシュと音をさせて片腕は弾け飛んだ。
もう一匹、土蜘蛛のような妖怪が糸を吐いた。
足に絡みつく前に、ジュッと綺麗な燐とともに消えた。
四方八方から立て続けに行われる攻撃に、彩登美は吐き気を感じる。死なないけれど精神的に生殺しだった。
「やだ…いや、…」
涙で潤む視界に、銀の髪が広がる。
「っ助けて…!殺生丸君!母様!」
いるかいないか、そんなことはどうだってよかった。
ただ名前を呼べば、心が落ち着くのではないかと思ったのだ。
ぼろりと涙を落とした瞬間、目の前を取り囲んでいた妖怪達が一斉に吹き飛んだ。
物凄い断末魔を響かせながら、幾数十の妖怪が全て薙ぎ払われた。
「…え…」
ぱた、ぱた、と落ちる涙が尽きた時、そこには銀の髪を流し、白い毛皮を纏った麗人が二人、佇んでいた。
ゆっくりとこちらを振り向いたその顔は、彩登美が命を懸けてでも会いたいと切望した人たちだった。
「…あっあぁ……!…かっ…あさまっ!殺生、丸…君っ!」
止まったはずの涙が、また止め処なく溢れ始める。
地面に蹲ったまま、顔を覆って泣き始めてしまった彩登美に盈月は穏やかな表情で近付き、自分も腰を下ろして優しく強く抱きしめた。
「…よう、戻ったな…彩登美。大事ないか」
「ひっうぅう…ああっ母様、母様ぁ…!ううー…」
「よしよし…初めて会うた時もお前は泣いていたが、そこは変わらぬようだな」
自分の顔を覆うのをやめ、彩登美は必死に盈月の体に腕を伸ばし、これでもかというくらいにぎゅうぎゅう抱き着いて泣き崩れた。
「こら殺生丸。お前も久々に会ったのだから、抱き締めてやるぞ?」
「………」
やりとりを傍に佇み、ずっと見ていた殺生丸は母の言葉に眉を顰めて鼻を鳴らした。
彩登美が静かに顔を上げる。
「……ただいま…やっと戻れたよ…殺生丸君」
泣き腫らして真っ赤な鼻と瞼に、涙と鼻水のようなものでぐずぐずの顔のまま、彩登美は華やぐ様に殺生丸に笑いかけた。
(おかえりなさい、おかえり。待っていたよ幾百年もの間、変わらずに)