犬の姫御前

名前変換

トリップ少女。
おなまえ


――・・**



電車に揺られて数時間、彩登美の体感的にはあっと言う間だった道中。

ついた場所は更地になっていた。

山本から聞いていた彩登美の住んでいた旧住所は戸建の面影もなく基礎から全て解体撤去されてがらんどうの空き地になり、大きくその手前には売地の看板が突き刺さっていた。

印象も記憶も薄れていた彩登美にとって、空き地を見たところで何も浮かんでは来なかったが、家の前に伸びている道路に立ち、くねるその先を見た時に昔の光景が脳裏に過った。

そうして赴くままふらふらと歩き出し、気付いたら小さな畦の向こう側に流れる小川を見付けた。


「ああ…ああ、そうよ。私、あの時…叔父さんが寝ていたから…暇で…ママが、いなくて、それで……」


彩登美はふらりと小川に続く草が無数に生え伸びた道を歩く。

冬の入りだというのに青く茂る草は不思議だが、彩登美は気にも留めず歩き続け、とうとう小川の縁に座り込んだ。


「わ、たし…私……川の底、そう、川の中に、キラキラ光る何かがあって…身を乗り出して…私は落ちて」


彩登美はじっと川を見つめる。

水は枯れておらず、ゆったりと流れ続ける小川は大人であれば膝上位の深さがある。
幅は大きくなく、助走をつければ飛び越えられるくらいだ。


「……もっと、大きい川に…記憶していたけれど…こんなに小さかったんだ」


見つめる川の底には、水草が揺れている。
きらりと反射するのは、小魚だ。
水の中で静かに泳ぐ小さな魚を見ていると、ふと懐かしみを感じた。


「……透明な魚は、流石にいないのね」


自嘲するように浅く笑いを零すと、水面がコポリと動き波打った。

特に大きな魚がいるでもなく、何か虫が飛び込んだわけでもない。
前触れもなく水面が流れに逆らって水泡を吐き出した。
驚いた彩登美だったが、躊躇いつつもゆっくりとその水面に手を近付ける。
ひたりと冷たい水が掌に広がるが、突き刺さるような冷たさはなく、なんとなく纏わりつくようなゆったりとした冷たい水が手の全体に広がった。


「っあ」


水が。そう思った時には既に彩登美の体は水に巻き付かれていた。

大きな水流は彩登美の体の爪先から頭の天辺までぐるりと覆い、絶えずその周りをぐるぐると動いている。

彩登美は溺れる、と息を止めたが体が一切濡れていないことに気付き、恐る恐る口を開けて息を少しだけ吸ってみた。


「…息、できる…なに、なんなのこれ」


彩登美が不思議に思って目の前で絶えず流動し続ける水の塊に手を伸ばすと、パシンと叩き払われた。

驚いて手を引っ込めると、ゆらりと目の前の水が動き徐々にそれは人の形のようなものを模る移動を見せた。


「…な、に?」


呟いた言葉に呼応するかのように水は波打ち、波紋を広げる。

掛守がふわりと浮き上がり、淡く光っているのに気付いた彩登美は、それをそっと袋から取り出す。
中の水水晶が蛍の様にほわりと光っている。


「ああ、そうだ。それを持っていたからか」


耳元からの様な、それとももっと遠くからの様なよくわからない距離感の声が響いた。

不思議と安堵する声に、彩登美は身を硬くせずにそのままできょろりと周囲を見渡す。
しかしどこにも声の主がいない。
するとぽこりと音を出して、目の前で人の形を模っていた水が動く。

今はそれはもう、彩登美の周囲で流動する水とは離れて一つの人型となっていた。


「遠く古の時代より生きるその水が、私を呼んだか。さても何故ヒトの娘が持って居るのやら」


声は、彩登美の目の前の水の人型が発していた。


「だ、れ…ですか…?」


恐々と声を出した彩登美に、人型は揺らめきつつ答える。


「私は古来の神、今は忘れられて久しい神。名を哭澤女なきさわめ。其の方の持つ水水晶の中の水、其れは私のものよ」

「神様…?水水晶の、…?」


彩登美は水が言う様に、手元の水水晶をまじまじと見る。
神代の水を閉じ込めて、とは聞いていたが、目の前の神と名乗る水のものだとは知らなかった。


「其の方、一度この川の龍に悪さをされて、この川の出来た時代へ遡らされ…罔象女みづはのめによって戻ったのではなかったか」


哭澤女の言う言葉に、彩登美は愕然とした。
自分がどうしてあの時代に行ったのか、今初めて謎が解けた。
しかも案外と理由のないことだった。

この川の龍が悪戯に彩登美を飛ばしたのだという。


「…では、あの…邸の池がこの小川の源流ということですか」

「古くは池だった。今の世になるにつれ、池は無くなり、川となった。あの池の下には地下水脈がある。あの池は滾々と湧き続けていたろう」


確かに、あの邸の池の水はいつだって綺麗だった。池特有の臭みなどはなく、清廉な水の匂いがしていた。
それは、池の水が循環し入れ替わっていたからだったのだ。

そうして、源流が何処かは解らないがこの小川はあの池に繋がっていた。


「私を…戻した…方は…神様なのですか」

「如何にも。罔象女は私と同じく水を司る。罔象女の守護は地下水故、あの邸の池に現れた。龍のした事を知った罔象女が龍を咎め、其の方に心を砕き産まれの世に戻したと聞いたが」


水の神は淡々と喋り続ける。

そうして手を模した二本の水が伸びて、彩登美の顔を包んだ。
冷たくもなく濡れもしない、その不思議な水の両手はゆっくりと彩登美の顔を撫でてから、手の中にあった水水晶を包んだ。


「其の方は、どうも産まれの世と水が合わなかったようだな。戻すのが遅かった故か。此処へ来たのは舞い戻りたいが故か?」


哭澤女の言葉に、彩登美は肩を揺らす。

心を読まれたようで居心地が悪くなったが、この水の人型は神であったことを思い出す。


「…神様、私はこの世では生きれません。私は、あちらの世での家族が一等大事なのです。戻るのが遅すぎました。折角罔象女様が慈悲の心で私を救い戻してくださりましたが、私にはこの世はいりません。もう一度…もう一度だけ、家族に会わせてくれませんか!」


彩登美の嘆願に、哭澤女は暫く黙っていたが水を揺らめかせて笑った。


「私が何を司るか知らぬ故に願っておるのであろうな。其の方、私は何の神だ?」


問われた彩登美は、目前の水をじっと見る。

哭澤女という言葉すら聞き覚えがなかった彩登美は、この神が何の神なのか検討が付かなかった。
最初に哭澤女が言っていた、水を司るというのは見ての通りであり、神が望む答えはそうではないのだろう。

震える指で手の中の水水晶を握り、彩登美は涙を零す。
なにの感情で涙が溢れているのかはわからなかった。

しかし、哭澤女がその涙に反応した。


「…良かろう。純然たる涙を流す娘よ。其の方の涙に免じて聞き入れてやろう。しかし人と神と約束を交わす場合、何かの代償が必要だ。其の方からは、現世での寿命を頂くぞ」

「現世、での寿命…?」


涙は相変わらず止まらないが、哭澤女の水の手がそれを掬い取っていく。
水の手に涙は溶けて混ぜっていく。


「如何にも。時を超える力の代償は大きい。其の方は二度と此方の世界には戻れぬ。此方の世界で生きる事が出来る命を全て私が貰い受ける。時を超えた先では生きることが出来るが、その寿命も少ない。今より20年、生きれれば良いほうだ。それと…生死を守護する神としてだけではなく、涙を司る神として、その純粋な涙に免じ、死ぬ間際まで今の見目のまま老いぬようにしてやろう」


生死と涙を守護する神、哭澤女はそう言うと、流動し続けていた水をピタリと止めた。

彩登美の目はウロウロと彷徨い、俯く。

今、頷いてしまえば自分のこの世での命はなくなり、向こうに戻れる。
20年しか生きられなくても殺生丸君達と一緒にその間いられるのであれば、と考えた彩登美は大きく深呼吸をすると、すぐに顔を上げた。


「お願い致します、哭澤女様」

「あいわかった。心意気やよし。其の方の望む世へ送り届けてやろう」


哭澤女が水の腕を一振りすると、彩登美の足元に空間が広がった。

途端に襲う浮遊感に、彩登美は呆気なく意識を失った。










(どうせ同じ時間は生きられないのだから)
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