犬の姫御前

名前変換

トリップ少女。
おなまえ


――・・**



彩登美が目を覚ました時、そこは現代の自室だった。

記憶が所々抜けているが、自分はどうしたのだろうとぼんやりと考えていると、扉が開いた。
逆光の中立っていたのは、施設職員の山本だった。

そっとベッドの傍まで寄って来た山本は、目尻に皺を作って微笑む。
その顔が悲しく見えたのは彩登美の気のせいなのかは、わからなかった。


「体は大丈夫?彩登美ちゃん、随分寝ていたのよ」

「…ぁ……」


返事を返そうとした彩登美は、自分の喉の違和感に驚きすぐに口を閉じた。
ヒリヒリとして乾ききった砂漠のようだった。

山本がベッドサイドに置いてあった水差しを取り、彩登美の口元に傾ける。
大人しくそれを口に招き入れ、音を鳴らして飲めば、じわりじわりと罅割れた喉に浸み込んでいった。


彩登美ちゃんね、3日寝ていたのよ。頭痛はしない?息は苦しくない?」


潤ったとはいえ、また声を出してひりつくのが怖かった彩登美は、こくりと小さく頷く。

うろ、と目線を自分の腕へやれば、透明な管が伸びていた。


「病院から電話があってね。彩登美ちゃんが倒れたって。慌てて迎えに行って、…先生が自宅で療養をって言ってくれたからね、帰って来たんだけど、目を覚まさなかったから…昨日から点滴入れてもらってたの」


山本は話しながら、彩登美の布団を優しく直していく。

そうして、彩登美の頭を優しく撫で、辛そうな悲しそうな顔で笑いかける。


「…お母さん、名前しか覚えていないみたいね。…彩登美ちゃんは、……」


山本が口を噤む。
何かを考えてから、山本はふう、と静かに息を吐いた。

彩登美はゆっくりと起き上がる。
右腕に刺さる点滴の管が動き、動いていなかった彩登美の体には敏感に痛みとして伝わった。

それでも少しずつ体を起こして、ベッドの上に座った彩登美は、静かに掛守を握り締める。
纏められていない髪はさらりと肩口から胸へ落ちた。


「…ぁ…ま、とさん…山本、さん」


掠れた声で、彩登美が何とか声を出す。


「なあに?」

「…ぁ、たし、私の、髪、飾り…どこですか」


銀の羽がどこにも見当たらなかった。
肌身離さずと言われていたのに。

彩登美はベッドサイドの上にも自分の頭にもない飾りに焦っていた。

しかし山本はそれに対して特に焦った様子もなく手を伸ばしてベッドサイドの引き出しを触った。


「ここにあるわよ」


山本はベッドサイドの引き出しから、布に包まれた銀羽を取り出す。


「なんだかね、これ、持つと静電気みたいな…なんていうかピリピリするんだけど、彩登美ちゃん平気?」


だから包んであったのよ、と山本が言いながら髪飾りを彩登美に手渡した。

彩登美が触っても、その髪飾りに何も感じない。
それどころか少しばかり安心するくらいなのに、と不思議に思うが、盈月達の妖力が働いているのかも知れないと嬉しくなった。

あれは嘘でも白昼夢でも、精神鑑定の人が言っていた現実逃避の上での妄想でもなかったのだという証拠のようで。

受け取った銀羽を横にまとめた髪の先に引っ繰り返して巻き込み、綺麗に留めた。


「…平気です。ありがとうございます」


髪飾りを指先で撫でながら、彩登美が穏やかに声を出すのを見ると、山本が何かを決心したように眼に力を込めて彩登美を見つめた。


「ねえ、彩登美ちゃん…その…言い難い、ことならごめんなさいね」

「…なんでしょう?」


山本は自分の手を擦り合わせてから、小さく口を開いた。


「どこへ…帰りたいの?」


今度は彩登美が言葉に詰まる方だった。

山本の言葉の真意が読めないが、心当たりがあり過ぎる彩登美は、どれに対して何を言えばいいのかがわからなかった。

それに、今まで何も言ってこなかった山本が意味深な言葉を発したのも気にかかる。


「‥…かえ、りたい…って、なんのこと、ですか」

「…寝ている間ね、彩登美ちゃん、ずっと…」


山本が話している途中、コンコンとノックがされた。
はっとした山本がすぐに立ち上がり、ドアを開けた。


「あら、目が覚めたんですね。お話しできている感じですか?」


器具を持った看護師と思われる女性が部屋に入り、彩登美を見ながらも山本に話しかける。


「ええ、はい。先程起きて…水も飲んで話も少しずつですができてます」

「それはよかった!犬江さん、お腹は減ってますか?食欲があるようであれば無理しない程度に食べてくださいね。点滴はもう半分以下ですし、なくなってから外しますね」

「…はい」


彩登美の下瞼を押し下げて血色を確認し、首に両手を置いて脈拍を見てにんまりと笑う。
てきぱきと動いて歯切れよく話す看護師に押されつつ、彩登美はなんとか返事を返す。

点滴のパックを少しだけ押して、腕時計で時間を確認した看護師は、山本に「後1時間後にまた来ますね。先に無くなりそうであれば連絡ください。近くのカフェにいますから」と言ってから大きなカバンを持ち上げてすたすたと部屋の外に出ていった。

嵐が去ったような静けさが部屋に広がり、山本はふう、と息をつく。

看護師の影響で僅かだが妙な緊張が解けたのか、山本は居住まいを正してもう一度彩登美の近くに座った。


「ごめんね。あのね…彩登美ちゃんが寝ている間ね、起きているのかなって思うくらいはっきりと話しているときが何度もあったのよ」


水差しの補充用に持ってきていた飲料水をコップに注いで、彩登美に手渡す。
受け取った彩登美は少しだけ口を付けた。


「嫌な事だったらごめんね……。母様、せ…なんとか君、しづ、なんとか。父…様?あと、会いたい、帰りたい…ずっと言ってたの。ねえ、私は養護施設の職員だけど、この施設での親だと自負してるわ。力になりたいの。子供の幸せが何よりなの。話せることがあれば、教えてくれないかな」


山本から出た言葉は、全て彩登美の記憶に留まっている名前たちだった。

譫言を言うほど、会いたかったのだと思うと自分の弱さにほとほと呆れた。
それと同時に、ぼろりと涙を零す。


「……ぁっ、わ…私…、母様に、あいたいんです…!みんなに…っ殺生丸君に会いたいの…!お母さんは、お母さんだってわかっているけど!っでも、…私にとっての母、はっ!…母様だけなの…!私何も言えずにこっちに来ちゃったの、凄く後悔してるの…!帰りたい、会いたい…こっちに戻って来たくなんてなかった!」


彩登美の声は掠れ、嗚咽を挟みながらの言葉は聞き取りにくかったが、大きな声量でもないのに部屋に響き渡った。

しん、と静かな空間で彩登美の声が反響して消える。

突然の心情の吐露に山本は驚き、そうして初めて彩登美を年相応の子供に見ることができた。
ずっと敬語で話し、澄ました体勢で表情の変化も乏しかった彩登美は、妙に周囲から浮いていたのだった。
けれどそれも、強がって気を張っていただけなのだと山本は今痛く感じ取った。

大声で泣くのを必死に堪えるため布団を握り締めて耐えるその姿は、酷く健気で痛々しい。

山本はそっと彩登美の頭に手を伸ばし、繊細なガラス細工を触る手付きで指先だけで撫でた。
ぴくりと肩を揺らした彩登美だったが、それも少しすると緊張を解き、パタパタと雫が音を立てていく。


「……どうすればいいのか、私には何もわからないけれど、彩登美ちゃんがそんなにも居心地がいい場所なんだもの。私も、返してあげたい」

「うう…っ」


もう涙を拭くこともせず、彩登美は山本の言葉に顔を上げた。


彩登美ちゃんは川で見つかったの。病院のお母さんもしきりに水はだめって言っていたわ。もしかしたら…彩登美ちゃんが平安時代に行ったのもこっちに戻ってきたのも、水が関係しているのかな」


彩登美の濡れる目尻を撫でながら、山本は静かに考えを零す。
彩登美の涙は引っ込み、みるみる眼が見開く。


「一度、そういうお話とか、神社とか川とか、調べてみるわね」

「っ、わ、私っ!私もっ…!調べる!」

「ふふ、一緒に調べたら帰り道なんてすぐ見つかるわよ」


山本の言葉に勇気づけられ、励まされたのか、彩登美はもう涙を流してはいなかった。

丁度その時、また扉がノックされ、看護師が点滴を外しに来たのだった。






(さあ、立って。捜しに行こう)
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