犬の姫御前
名前変換
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―――・・**
確か、お母さんに言われていた。
「一人で危ない所に行っちゃいけません」と。
けれど子供の好奇心なんてそれこそ大人が考えるよりも大きくて、ダメと言われれば反対のことをしたくなる年頃真っ只中だった私は、縁側でうとうとしていた叔父を尻目に庭先からそのまま外へ飛び出したのだった。
沢山歩いて、沢山走って、疲労を覚えて近くを流れる小川に立ち寄ったのは覚えている。
今となっては小川だけれど、当時四歳だった私からすればあれはとても大きな川だった。
川の中にキラキラ光る何かを見つけた私は、それを欲しがってそのまま身を乗り出して、ドボン、と落ちたのだ。
もがいて暴れて、けれど段々疲れて動けなくなって、そのまま流されていった。
勿論、キラキラ光るものは手に入れられなかったし、落ちた瞬間よく見えたが、あれは単純に瓶の破片だった。
そうして、気付いたら知らないお家で寝ていて、知らない女の人に布のようなもので顔を拭かれていた。
それが、養母であり大妖怪であり美しくて優しい
目を覚ましてすぐに飛び込んできた色彩にとても驚いたのは鮮明に覚えている。
なんせ初めて見た配色のひとだったからだ。
あれはもう昔の話、確か。
***
「だ…れ?」
「ああ、目を覚ましたか。かなりの水を飲んでいて大変だったのだ。体は大事ないか小娘」
「おみず…」
体を横たえた儘、幼い娘は目を丸くしてキョロキョロと辺りを見渡す。
傍で控えていた侍女がそっと体を支えて起き上がらせると、黒い髪を肩の下まで伸ばした幼女は目の前にいた女の姿に驚いて固まった。
月光のような白銀の髪に、鋭い金色の瞳、そして頬と額には赤い文様が浮き彫りになっている。
凡そ彼女のいた世界の人間にはいなかった外見に、驚いていた。
「どうした。何処か痛いのか?唯でさえ脆い体であるのに、その小娘ときたらどのようなものか、私にはとんと検討が付かぬ」
長い爪を綺麗に赤で装飾した白い手を、ゆったりと目の前の驚く幼子の頬に滑らせる。
それから、「ふむ」と赤い唇が綺麗に弧を描いた。
「小娘。名は何と申す」
その言葉に、やっと自分に理解が出来る言葉がきたと思った彼女は、勢いよく返事を返した。
「彩登美!わたし、彩登美…あなたは?」
彩登美と名乗った幼女は、純粋に首を傾げて訊ねる。
彩登美の後ろに控えていた侍女は、自分の主に対して砕けた口調で話しかけた彩登美に一瞬肩を震わせた。
よもや無礼なと殺されるのではあるまいか。
まだ妖怪としては若い侍女は人間の、しかも幼子を殺すことに不快感しか感じなかったために、主の一挙手一投足を気に掛ける。
しかし、気負いしていたその感情は無駄に散った。
「くっ…はははは!……良いな小娘、いや…彩登美、だったか。私が怖くないのか?」
本当におかしそうに笑った主を見て、侍女は胸を撫で下ろした。
機嫌がいいのだ。この彩登美とやらが殺されることは一先ず今日はないだろう、と。
「こわい…?こわくないよ、どうして?とってもきれいなの、こわくないよ」
「いいや…そうか…不思議な小娘よ。…私は盈月だ。此処では主、御方様、御母堂様など…好きに呼ばれておる」
彩登美は言葉の大半の意味が解らなかったため、首を傾げつつ唯一文脈として意味の分かった名前の部分に記憶を留めた。
「えーげつ?」
「こ、こら小娘!御方様に対してなんという」
今度こそは幼いからと言っても注意をしなければ、と後ろで控えていた侍女が言葉に出して彩登美を咎める。
急に後ろから叱られた彩登美は、焦った剣幕の女が真後ろにいて、しかも自分に大きな声をあげてきたということに驚き、途端に顔をクシャリとした。
侍女は「ああ、泣くのか」と頭の片隅で冷静に思ったが、それからまたすぐに混乱することになった。
なんと自分の主、盈月が彩登美を後ろから抱き上げて、そのまま自分の膝の上に乗せたのだ。
「お、おか、御方様…?」
「良い。先程の顔は泣く直前の顔であろう?泣かれると面倒だ。殺生丸は泣かぬ子だった故、よく解らぬが。一度以前、人里に降りた時に聞いておる」
子供の泣き声は、我ら一族には聞き苦しい。と呟いてから彩登美の頭を恐る恐る撫でた。
「う…うぅー…」
「嗚呼、泣くでない。我慢をして偉いな彩登美。私の事は好きに呼ぶといい」
冷たい目のまま優しく諭すように言う盈月に、侍女は唖然とする。
何があの御方様にこうさせるのだ、と叫びたくなるくらいの光景だった。
しかし泣き止んだ彩登美に侍女は、流石に名前呼びは許しても敬称を外すことは譲れぬと、なんとか彩登美に「えーげつさま」と呼ばせることに成功した。
「して、彩登美よ。何故我が
「…いけ?」
先程からあまり言葉が通じていないことを不思議に思った盈月は、彩登美に歳を訊ねる。
ぱ、と明るい顔をした彩登美は、元気よくその紅葉の手を前に出し、ピ、と四本指を立てた。
「…四つ…彩登美、お前はまだ四年しか生きておらぬのか」
盈月はその切れ長の涼しい目元を丸くして驚く。
自分の息子である殺生丸は、姿かたちは彩登美とあまり変わらないが、今年で20年生きている。
産まれてまだ4年ならば、何もかもが解らないのは仕方がないのかと思いつつ、盈月はなるべく優しい言葉を選んだ方がいいのかと侍女に訊ねる。しかし侍女も「人間の子ですからね…私達とは勝手が違うやもしれませぬ」と困った顔で呟いた。
「…難しいな…彩登美よ」
「んー?」
盈月の膝に乗っていた彩登美は、初めこそ大人しく座っていたが今は向きを変え、盈月の肩から伸びるもこもことした毛皮を撫でて遊んでいる。
「家は何処だ?」
「いえ?おうちー?あっちだよ!」
「あっち…」
彩登美が元気よく指さした方向は東。
しかし向こうは崖だ。
盈月が無言で侍女へ目を向ければ、侍女は頭を振る。
凡そ適当当てずっぽうに答えたのでは、と。
「一度人里に降りるか」
「お、御方様!そう簡単に出歩かれては」
「なんだ。アレには伝えなくともよいであろう。そもそも此処は私の邸だ。邸の主がどう致そうが勝手であろう」
「そ、そうですが…せめて若君様にはお伝えをば」
「いらぬ。どうせ今も修練場にでもいるのだろう。全く年々可愛げのない…」
ふん、と鼻を鳴らしてその銀の柳眉を寄せて立ち上がると、手に抱いていたおよそ盈月には軽すぎるであろう彩登美を一度畳の上におろす。
「良いか。暫し二人で降りる。…彩登美今から散歩だ」
「おさんぽ!ママにあえるー?」
「ま…?よく解らぬが会えるかもしれぬな」
盈月は不思議な言葉を言う彩登美に首を傾げるが、子供の言うことだからとさして気にせず、着いて来いと踵を返して縁側に降り立った。
彩登美も小さな足を動かして凛と立つ盈月の後ろを追いかける。
二人の背中をポカリと間抜けに見送った侍女は、漸く慌ててどうしようかと考えた結果、結局盈月の息子へ伝えに行くのであった。
(ほうら、人里だぞ。何か覚えておらぬか?)
(どこ…?ここ…)
(…ああ、困ったな)