犬の姫御前
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――・・**
「ねぇ、犬江さんってすごく弓上手いよね。留学先でやってたの?」
部活が終わり、弓の手入れをして胴着を畳んでいた彩登美に同じ部活の同級生が声をかけた。
彩登美は少しだけ名前を考えたが、結局誰だったか思い出せず、曖昧に笑うことにした。
「ええ、はい。…昔、先生に教わっていたのです」
彩登美の脳裏に黒い髪を一本で結い上げた籐の姿が過る。
奥歯が歯痒くなった。
「そうなんだ!ちょっとやってましたーっていうレベルじゃないなぁとは思ってたんだよねー。私なんてさあ、三年間練習してんのに全然上達しないんだよね」
そう言いながら、同級生は片付けた自分の弓を見た。
彩登美も自然に弓に視線が行く。
綺麗に並べられた弓はどれも等しく同じに見えて同じではない。
全て使い手、弓士の癖や握りによって個性が出ている。それだけで、この学校が強豪校だということがわかるものだ。
一般的にはあまり軸に癖がつくまでやりこまないのだと、顧問に教えてもらっていた彩登美は、感心をしていた。
歴史や現代史を学ぶにつれ、この平成の世では戦はなく、何かと対峙する事もそうなく、弓を使う場所は道場や神事・行事の時ばかりで実践的に使用することはなくなったと知った。
それなのにこの学校の部活は和弓を極めていた。
初めて部活見学をしたときに驚いたこともあった。
彩登美の今まで使っていた弓は生徒が使っていた弓より短かったのだが、その生徒が使っていた大弓は、かつて弓の師である籐から貰った弓にそっくりだったのだ。
あの時籐は「まだ試作段階」だと言っていたが、時を超えて籐の試作弓は大弓として人々が使用していたのだ。
この事に感動し、彩登美は暫く道場の前で動けなくなっていたものだった。
「吉村先輩、犬江先輩、お先に失礼します!」
「お先に失礼します」
後輩たちが二人に頭を下げ、道場の入り口でまた頭を下げてから帰路についた。
「はーい、気を付けてねー」
「お疲れ様でした」
彩登美は後輩たちに手を緩く振ってから、再び同級生に目を向ける。
後輩のおかげで目の前の彼女の名前が分かった。
「…吉村さん、は、どうして弓をしているんですか?」
「ええー?なんでって、単純に日本文化で一番しっくりきたからだよ」
彩登美が通う中学校には、弓道のほか、剣道、華道、茶道、柔道、書道といくつか道文化の部活がある。
彼女はその中でも体を動かせて、かつ男臭くない弓道を選んだという事だった。
「だから別にこれと言ってちゃんとした理由はないんだよね。高校行ったら弓道も辞めちゃうし」
「そうなんですか」
胴着を畳み終わった彩登美は、少しだけ吉村の考えに悲しくなった。
では別に、上手くなりたいなどと思わなくてもいいではないか。
大会も終わり、三年生は残す公式試合は何もない。
来年にはやめるのであれば、なにもしなくてもいいではないのだろうかと。
胴着を鞄に詰め、彩登美は静かに立ち上がり、自分の名札をつけた筒袋を手に取って肩にかけた。
「もう帰るの?」
「はい。用事がありますので、お先に失礼致します」
「そっかぁ、お疲れ様。気を付けてね」
「有難うございます。吉村さんも、お気をつけてお帰り下さい」
ぺこりと吉村と道場にお辞儀をして、彩登美は足早に道場を後にした。
「生きる上で学び始めた私とは、根本的に異なるのよね…それが今の世の現状なんだけど」
夕暮れの帰り道、筒袋を肩にかけて歩く彩登美はポツリと呟く。
悪い妖怪や悪党に少しでも致命傷を与えられるようにと教わり始めた自分では、弓に対する見方がまず違う。
生きるための弓と道として学ぶための弓では全く違うのだ。
其処で生まれる感覚のズレは仕方がないと彩登美は割り切っていたが、やはりむず痒い所も多くある。
「今、…大変」
買ってもらった腕時計に目を落とし、彩登美は少し駆け足になった。
今から産みの母である縫のところへ見舞いに行く予定をしていた。
一ヶ月に一度、顔を見せることになったのは施設職員との約束でもあった。
実際、彩登美が顔を見せたところで我が子であるという認識がない女性と何を話せと言うのだと思っていたが、最近縫は何かを懐かしむように目を細めるようになっていた。
彩登美はバスに乗り込んで、少し小高い山の方へ進む。
見えた先にでんと大きく構えた静かな灰色の建物が精神障害の入院病棟だ。
受付で名前を告げると、すぐに病室へ通された。
彩登美の後ろには看護師が控え、静かに親子の謁見を見守る。
「…お母さん」
彩登美が小さく呟くが、縫は静かに腹を撫でて笑っている。
後ろの看護師が大きめの声で「犬江さん!娘さん来てくれましたよ!」と言う。
そこでやっと、縫は顔を上げて彩登美を視界に入れた。
大きな目はうろうろとし終始落ち着かない。
黒髪は肩で切られており、看護師が手入れをしているのか綺麗だ。
入院をしていると聞いたときは細い印象を受けていたが、実際に会ってみれば縫はふっくらとしていた。
曰く、子供を産むためには栄養を取らなければと言って量を多めに食べているのだそうだ。
「娘?何を言ってるのかしら佐伯さんは…ありがとうね、彩登美ちゃん。また来てくれて。ほら、座って」
「…はい」
子供に対する記憶障害と想像の赤子以外は至って常人な縫は、彩登美に微笑みかけて近くの椅子を示す。
看護師は扉の前にいると言って病室を出ていった。
彩登美が椅子に座り、筒袋を横に立てかけると、縫は珍しいものを見たためか目を丸くした。
「それはなに?」
「……これ、は、私、部活で弓道をしているのです。この中にはその弓が入っています」
説明をすれば、へぇと顔を綻ばせた。
そうして腹に手を置いて、撫でさする。
「この子もね、女の子なんだけど、彩登美ちゃんみたいに育ってくれると嬉しいなあ」
「…そう、ですね」
彩登美は擦られる腹を見つめる。
以前逢った時より少しふっくらした。
丁度3ヶ月前、縫は"出産"をしていたが、その後また孕んだらしく先月はニコニコしていた。
彩登美は頭が痛くなる。
その腹の中には何も入っていないのに。
「彩登美ちゃん、お母さんは心配していない?私の所に来ると、帰りが遅くなるでしょう?この子が生まれて、この子の帰りが遅いと、心配しちゃうわ。特にね、一人で出歩かせるのは嫌なの。水辺なんて以ての外なのよ。落ちちゃったら大変だわ」
彩登美は叫びたかった。
喉が焼けるくらいい叫んでやりたくなった。
帰れるものなら帰りたい、母の、盈月のもとに帰りたい。
貴方が生きていたから、貴方がまともじゃなくなっていたから、私は。
そう言いたい気持ちを我慢して、彩登美は俯いて笑う。
「平気です…。あの、どう、して、水辺はだめなんですか」
盈月の言葉のようだった。
水辺がダメ。
彩登美が向こうで言われ続けていた言葉を、産みの親の縫からも聞くとは思わなかったのだ。
声が震えているのは、悲しいのか、笑えるからなのか、なにもわからなかった。
「どうしてって…。どうして…危ない、危ないから、どうして…。水はだめ…だって、水は。言ったのに、水は…っ!」
「…お母さん…?」
縫の言葉の変調に、彩登美は俯いていた顔を上げる。
そこには酷く動揺して、目をぎょろぎょろ動かす縫がいた。汗が凄い。
咄嗟に彩登美は立ち上がり、扉に向かって駆けた。
引き戸に体当たりするように手を伸ばし、勢い良く開ければ、看護師が驚いた顔をしている。
「あ、あっ、看護師さん!お母さんが変で…!」
聞いてすぐに、看護師は病室内に入る。
縫は肩を抱き、何かをぶつぶつと呟いていた。
「犬江さん!犬江さんしっかりして。聞こえる?返事して。大丈夫、なにもないからね。彩登美ちゃん、一応ナースセンターに伝えてくれるかしら」
「…は、い」
声は焦っていたが、看護師の顔は何も焦っていない。
寧ろそれが日常だという様に流れるように縫をベッドに戻し、肩や手を撫で擦っていた。
急な変貌に恐れつつ、彩登美はゆっくりと足を後退させ、病室を出る。
「…帰ってきて、彩登美…」
「っ」
綺麗に響いた声に驚き、彩登美は後ろを振り向く。
縫は天井を見て、ボロボロと涙を零していた。
その口は静かに「帰ってきて、ママ待ってるから」と繰り返し動いている。
何とも言えない感情が彩登美を襲う。
もうどうしていいか、どうやって立っていいか、息を吸えばいいか、わからなくなった。
後ずさりした足を最後に、彩登美は意識を失った。
(全部、みんな、平和になる方法があればいいのに)