犬の姫御前
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気のせいだろうか、此処は全てが懐かしい感覚に陥るのだ。
彩登美は学校近くの神社の入り口である鳥居の下で足を延ばして座り込んでいた。
学校生活に慣れ、時も過ぎて半年たった。
留学をしていたために一年歳の差がある編入と言うことで入った彩登美だったが、進学校と言うこともあってか静かにそれは受け入れられた。
何名かの生徒には「もしや」と声をかけられたが知らぬ存ぜぬを押し通した。
楽しみだった弓道部にも入れた彩登美は、もともと向こうでもやっていたのが功を成して、めきめきと力をつけ、もう少し早く編入してくれて引退大会に出ていればいい成績が残せていたのに、と同級生や顧問から惜しまれていた。
公式試合に出てはいないがその弓道の腕を買われ、高校の監督が視察に来た際に推薦が決められた。
後は自分の好きな時に部活をし、勉学に励むだけとなった彩登美は残り少しの中学生活を楽しんでいた。
友人も何名かでき、放課後に遊ぶことはよくあったが、休日に遊ぶことは少なかった。
彩登美は休日、図書館や郷土資料館、道場にめっきり入り浸っていたからだった。
「…なんでだろう…懐かしいなぁ」
膝の上に大きな圖書を乗せて、背中を鳥居に凭れさせる。
彩登美の目線は神社本殿を向いていた。
図書館から借りてきた神隠し関連の本を一通り読んだ彩登美は、一息ついて空を見上げる。
遠く高い空は手を伸ばしても絶対に届かない。
丸く覆う様に、木々が伸びている。
周りの自然は既に冬支度になっているというのに、この神社の森だけは未だ青々としていた。
彩登美は学生生活と現代に慣れる訓練の傍ら、自分の身に起こったことを見つめ直していた。
自分が神隠しにあったのだということは解った。
しかしそれがどういう経緯で、何故平安時代で、妖怪に育てられるということになったのか、それが全く検討が付かなかった。
どの文献を洗っても、神隠しについては記載があるもののきちんとした経緯や、帰ってきた人間の詳細は書かれていなかったのだ。
「…話したくないのは、解るけれど…どういう条件で神隠しにあうのかもわからないのは、困ったな」
子供や女性が神隠しにあう。
精神不安定な者もあう。
そこまではどの文献も同じだ。
自分に置き換えると、子供時分に平安時代に行っているのだからそれを神隠しというのであれば当たっている。
しかし大抵が山で消えるのに対し、彩登美は川辺で消え川辺で発見された。
そうして、自分自身も向こうにいる時に邸の池から伸びた水により、現代へ連れ戻された。
「……櫛なんて、持ってないし。こっちにも、そんな思い入れのある櫛なんてなかったもの」
神隠しと櫛は繋がりがあるようだったが、彩登美にはその櫛に思い当たるものはなにもなかった。
櫛から髪に関連するものと言えば、父母から貰った髪飾り位だ。
彩登美はそっと自分の髪飾りに触れた。
キン、と冷たい銀羽は、郷愁の念を抱かせる。
「会いたいなぁ…母様…殺生丸君、しづお…父上様に、冥加さん…黒漆さん、籐先生、須磨…みんなに、会いたいな…」
羅列した名前を音に出せば、やはり目の前はぼやけた。
施設にいる間は、なるべく昔の事は思い出さないようにしていた。
初めて一人で洋服を着たのも、身支度を整えたのも、包丁を持ったのも、水を汲んだ(蛇口を捻るだけだったが)のも、一人きりでこうやって散歩するのも、前では考えられなかった。
「殺生丸君、元気にしてるかな」
彩登美の脳裏にはいつだってあの綺麗な銀糸が流れていた。
道場で弓を構え、矢を番え的を見据えた先にも、彼の姿を思い浮かべる。
テレビで着物の女性が映ると母を思い出す。
平安時代特集なんてものが放送しようものなら、テレビの前から離れず、ぼろぼろ涙を流して食い入るように見つめた。
「母様、…私のこと覚えているかな…」
妖怪だし、長生きするし、覚えてはくれているだろうが、自分の事を思い出すだろうか。
人の話と自分の記憶とを照らし合わせたら、時の流れは同じだということは解っている。
向こうから戻って三年経った。
覚えてはいてくれているだろうとは思うが、彩登美はなにも言わずにあの場から此方へ戻ったようなものなのだ。
母は彩登美を無礼な奴、愛想の欠片もないなどと思っていないだろうか。
「母様、私、戻りたいよ…。私、こっちで生きるのは嫌だよ…」
神社の本殿が揺らぐ。
木々に囲まれ、喧噪もなく、神聖な空気が漂うこの場所は、あの時代に酷似している。
ぎゅ、と膝の上にある分厚い本を握りしめると、彩登美は等々雫を落とした。
現世に帰りたくて帰ったのではなかった。
自分はとても幸せに暮らしていた。
親戚に突き付けられた現実は辛いもので、蝶よ花よと育った彩登美には到底背負える程のものではなかった。
彩登美からすれば、産みの母より育ての母が本当の母親だったのに、その産みの母の現状や叔父の死、その他諸々全て自分が原因であると言われ、そうしてそれを受け入れ背負えと言う。
4歳まで育ててくれたのは縫であったが、実際自分の記憶にある"母"の像は盈月なのだ。
彩登美からすれば、突然に幸せな家族から切り離され、世間から白い眼と好奇の視線に晒された挙句、突然の不幸を背負わされたようだった。
「やだ…いや…私、こんな世界嫌…母様、会いたい、会いたいよ…っ!せ、っしょうまる、君にも、皆にも、会いたいっ…!」
足を徐々に曲げ、膝を抱えた彩登美は、本を横に置いて顔を埋めた。
幸せな世界と不幸な世界であれば、当然幸せな世界を取る。
誰も知らない人しかいない世界なら、知っている人がいる世界を選ぶのは当たり前。
好いた人がいる世界であれば、そちらを取るのは当たり前。
彩登美にはこちらの世に未練なんてこれっぽちもないのだ。
だと言うのに、周囲の人間は「帰って来れて良かったね」「今の方が便利で幸せでしょう」などと言う。
便利が幸せだなんて彩登美には全く分からない。
不便であっても大切な人がいる世界の方が幸せだ。
「かあ、っさま…!」
膝を抱え、掛守を胸元から引っ張り出して握り込み、ぐずぐずと泣く彩登美に声をかける者は誰もいない。
静かな神社の中、彩登美のすすり泣く声だけが響いていた。
(もうすぐそこ)