犬の姫御前
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――・・**
―ねえ、母様、あれはだれ?
―…あれは子狐の妖怪、小妖怪だから危ないことはしてこぬが、騙されぬようにな。
―ねえ、母様、あれは?
―ああ、妖刀は触るな。殺生丸の奴、片付けぬか。
―あやかしがたな?
―そう。我等妖怪が扱う刀は、全て人間からそう呼ばれておる。
―…へー、そうなんだ…。
***
「よう、かい…」
ゆっくりと目を開けた彩登美は、起き抜けに小さく掠れた声で呟いた。
昔の夢を見ていた。
彩登美が川岸で発見され、神隠し報道が過熱したのも三年前。
当時13歳の女の子が川岸で絢爛豪華な着物を着たままずぶ濡れで倒れているのはセンセーショナルに報道された。
第一発見者の近所の主婦は、発見当初は映画の撮影だと思った。しかし周りに誰も何も機材すらないことを不審に思い、恐る恐る近付くと気を失っていることに気付き、酷く驚いて警察に連絡をした。
かけつけた警察によって救急車が呼ばれ、緊急出動した車両に食い付いた記者たちが挙って現場に向かい、目撃者から様々なインタビューを取った。
髪は黒く真っ直ぐで、腰の下まであったこと。源氏物語に出てきそうな着物を着ていたこと。ずぶ濡れで川岸にいたのに溺れた形跡はなく、肺に水もなく比較的健康状態は良好だったこと。そうして彼女、彩登美が何も覚えていなかったことでマスコミは勿論、世のオカルト好きは大興奮で彩登美を狙った。
実のところ何も覚えていなかったは語弊であり、実際は自分の名前、養母の盈月や兄の殺生丸、侍女のしづおや邸の事などはきちんと筋だって話せていたのだが、それも噂を加速させる油となった。
平安時代からの神隠しか、などと騒がれ、着ていた着物は化学鑑定へ、所持物も鑑定に出されようとしたが、モノに関しては彩登美が酷く拒んだため、それは調べられなかった。
結果、着物は酷く新しい上質な絹糸を使ったもので、現代の工法で織ろうものなら巨額な値段がするものだと報じられると、平安時代からの神隠し説は尚更過熱した。
しかしそこで擁護団体が現れ、一人の少女のプライベートなものまで探ろうとし、かつ保護施設にいる彩登美へ執拗に質問をし、剰えカルトの様に彩登美を祀って騒ぐのは頂けないまだ未成年なのだという主張があってからは報道は急速に下火になっていった。
一年も経てば時の人扱いとなっていたが、未だに真相は謎のままの未解決事件としてオカルト好きからは憶測を交えて考察され続けることとなった。
彩登美は本当に右も左もわからなかった。
ただ、ここが今までいた場所と違う事。妖怪が周知の事実ではないこと。そうして何と無く、白霞の夢の世界で見た場所だということがわかった。
最初は目を白黒させながら攻めてくるカメラと人々に圧倒されて聞かれるがままに答えたが、着物を提供してくれと言われ、そうしてモノまで提供してくれと言われたときに我に返った。
ここは危険な場所で、あまり母たちのことを話してはいけないのだと。
必死に髪飾りと水水晶は守り、そこからは一切口を開くことはなかった。
そうして自分の姓である「犬江」を手掛かりに、施設の団体が身内を探してくれた。
全国の犬江姓の家へ彩登美の顔写真と名前を記載した資料を配布し、情報を呼び掛けた。
結果、一つの家が名乗りを上げた。
そうして、その家の現在の主である男とその妻が一緒に彩登美のいる施設まで赴いてくれたのだった。
「彩登美ちゃん。犬江さん来られたから、面会するけれど、大丈夫?」
施設の人間が、彩登美のいる部屋まで来て呼びかける。
それに反応して彩登美が静かに顔を上げ、読んでいた参考書をベッドサイドの棚に置いて立ち上がった。
「わかりました。そちらへ向かいます」
読んでいた参考書は、中学生用のもの。
こちらへ来て初めて、彩登美は元々未来である此処にいて、そして自分が過去に戻り、そうしてまた未来にいることを理解した。
自分が母の元で読んでいた「源氏物語」や「蜻蛉日記」が古書として扱われ、文字ですら全く見知らぬものになっていた。
話す言葉も音や速さが所々違う。
全てが慣れず、四苦八苦した。
しかしそれも元々自分がこちらにいたからなのか、数ヶ月で順応した。
平仮名から覚え直し、片仮名、漢字、ローマ字、全てをゆっくりと覚えていった。
その文字の先生も、一般の国語教師では難しいとされ、平安期古文書学の専門学者と学術学芸員によって文字の手解きをされた。
学者も半信半疑ではあったが彩登美の平安期文字の読解能力の高さに驚き、そうして現代の文字が全く読めないことに神隠し説を信じるを得なかった。
生きた平安期の人間の言葉や文字に学者は彩登美へ接する意欲がどんどんと沸き上がっていき、結果数ヶ月で彩登美は文字を習得することとなったのだった。
算術や政治、そのほか全てが真新しく難しかったが、一つ一つ潰して勉強していき、今ではやっと自分と同い年の人間が教わる範囲にまでたどり着いていた。
「彩登美ちゃん、こちら犬江さんよ」
応接室のドアを開けた先に、犬江夫妻が座っていた。
彩登美は少し戸惑いつつも、静かに応接室のソファに座る。
対面してから少しだけ静寂があり、そうして彩登美が小さく頭を下げた。
さらりと、肩の少し下まで切り揃えられた黒髪が音を立てる。
長い髪に未練はなかったが、やはり切られてから少しの間は櫛を通すときに寂しくなったものだった。
「この度は、お忙しい中おいでくださりまして有難うございます」
綺麗な日本語で、凡そ10代とは思えない言葉で話した彩登美に犬江夫妻は面食らう。
どういった経緯の子なのか聞いてはいるが、いざ目の前にするとやはり想像を超えたものだった。
男の方が咳払いをしてから「いや」と声を出す。
「単刀直入で悪いけど、私達はきみの力にはなれない。けれど、君を知っているから、…そのために来たんだ」
そう言うと、目の前に出されてあった御茶を持って一口飲み下す。
「私は君の母親の従兄弟だ。生まれてすぐに君には会ったけど、それっきりだった。…君が失踪してから、写真で見るまではね」
「…え」
犬江氏の話はこうだった。
彩登美が数十年前、4歳の時に突然いなくなったという。
そうして彩登美の母親がすぐに捜索願を出し、警察協力の元3年捜したが見つからなかった。
父親は元々いなかったため、母親とその叔父とで出資をしながら捜索し続けたが、3年目になると気力もお金もつきかけた。
母親はとうとう精神虚弱になり入院、叔父は4年前に亡くなったという事だった。
母親は生きているが、彩登美が生まれていないと思い込んでずっと想像妊娠を繰り返しているらしい。まともに話せる状態ではないという事だった。
彩登美は、全てを聞いて愕然とする。
白霞の中で見ていた光景と「ママ」と呼んでいた人物。全てがカチリとはまった瞬間だった。
そうして猛烈に後悔した。
あの時小川にでかけなければ、自分はあの時代に行かなかったのではないか、そうして母親や叔父をなくすことはなかったのではないか。
もっと早く、こちらに帰ってきていられれば、こんなことには。
しかし後悔をしても後の祭りだった。
震える手で、彩登美は自分の口元を抑える。
全て自分が原因だ。
母親と叔父が自分を必死に探している間、自分は盈月達と何不自由なく生きていた。
酷い、人間ではないか。
「…あなた、ちょっと」
犬江の妻が、夫の言葉を嗜める。
しかしそれを犬江氏は首を振って拒否した。
「聞いてほしいんだ。辛辣でも、言わなければいけない。どういう経緯で君がいなくなったにせよ、ひとつの家というのを壊したのは、君の失踪が原因なんだから。君は見たところ健康そうで、そうして教養もあるようだ。……
そういうと、犬江氏はやっと口を真一文字に結んだ。
代わりに、彩登美がボロボロと涙を流す。
母の従兄弟の最後にいった言葉に、全てが込められていた。
只管に、母の従兄弟は彩登美が憎いのだ。
大切な従兄弟の姉弟を一気に失ったから。
面識のあまりない従兄弟の子供より、従兄弟そのもののが大事なのは当たり前だった。
彩登美は小さく小さく呟くように謝罪するしかなかった。
何を言われても、仕方がない事だったから。
嗚咽すら、出すことはできなかった。
(ずっと待っていてくれるのなんて、お伽話でしかありえない)