犬の姫御前
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――・・**
「ねぇ殺生丸君。私が黙って消えるときには、御免なさいって言うからね」
「それは、黙って消えていないだろう」
「ああー、そうだねぇ」
そう言って笑っていたのが、遥か昔の話のようだった。
***
彩登美は突然消えた。
殺生丸が政の勉学をし終わり、いつものように剣の修練に向かおうとした時だった。
「…?」
違和感を感じて立ち止まった殺生丸は、それよりも先に耳が別の音を感じ取った。
バタバタと煩い音が遠くからしていたかと思えば、寸瞬後にその喧噪は一気に邸内に充満した。
何事かと思い、殺生丸は自室へ踵を返す。
盈月の妖気が強まり、邸内には盈月の匂いが充満している。
「……」
先程から彩登美の匂いが入ってこない。
朝餉の折にはいた。
喧騒が始まる時、違和感を感じ取って立ち止まった時から彩登美の匂いがぱたりと消えていた。
いつもの匂い消しのキツイ香かと思ったが、その香の匂いもしない。
自然と、殺生丸の足が早くなる。
耳に入る声は「探せ」「いない」「そんなはずは」。
それだけで凡そいくらか状況は判断できた。
盈月の妖気が充満しているということは、盈月はこの事態を知っていて、そうして怒りか何かで感情が昂っているのだろう。
殺生丸は盈月の妖気の濃い元へ急ぎ飛んだ。
盈月がいたのは自室ではなかった。
彩登美が使用している庵の中で、白く大きな犬の姿のまま室内をぎゅうぎゅうに狭めてくるりと体を丸めていた。
そんな母の姿に少なからず驚いた殺生丸だったが、その傍で首を垂れている母付きの筆頭侍女を見つけ、それに近付く。
「……」
殺生丸の気配に気付いた筆頭侍女は、すぐに頭を上げて殺生丸を視界に収め、そうして勢いよく額づく。
「申し訳御座いませぬ!申し訳御座いませぬ!」
謝られるだけでは意味が解らない。
訝しげに眉を顰め、犬のままの母に視線をやる。
鋭い金の目は忌々し気に歪み、鼻っ面には皺が幾本も寄っている。
その白い体毛の下に、紫と緋色の着物が見えた。よく彩登美が着ていたものだ。
今朝は萌黄の上掛だった。
盈月は息子からの視線に少しだけ唸り声をあげる。
「……」
何があったのか、殺生丸が無言のまま見続けて問う。
「……彩登美が、いなくなったのだ」
その言葉を紡いだ盈月は、するするといつもの人の姿に化ける。
その腕にはしっかりと彩登美の着物を掻き抱いていた。
「…いなくなった…?」
それならば捜せば良い、とは殺生丸は言えなかった。
邸内の喧騒は彩登美捜索の喧騒だったからだ。
盈月が体を化け犬にしていたのも、初めは盈月本人が捜していたからだろう。
そもそも、盈月程の鼻があれば捜すことは容易い。
それなのに「いなくなった」と言ったのだ。
一体どこへ。
彩登美本人が出歩ける範囲などたかが知れている。
妖怪にでも攫われたか。しかしこの警護と犬妖怪の邸に易々気付かれず侵入する妖怪はそういない。
それならば。
「…神か」
呟いた殺生丸に、ピクリと盈月の指が動く。
「そうだとも、そうだ。神以外にいるものか。彩登美は再び神隠しに会うたのだ…」
譫言の様に呟く盈月に、筆頭侍女が再び頭を下げて謝罪を口にする。
「御方様、面目次第も御座いませぬ!私やしづおがきちんと言い含めておりましたらっ」
「煩い!!」
珍しく声を荒げた盈月に、筆頭侍女は肩を震わせて静かに下がった。
「……珍しい」
「…私が見ておればよかったのだ。…お前には、酷い事を…」
殺生丸の言葉の後、小さく呟いた盈月の声は酷く弱弱しかった。
そしてすぐ、ふらりふらりと着物を抱えたまま彩登美の庵を出ていく。
その後ろ姿を見送ると、盈月に変わってすぐさましづおが飛んできた。
殺生丸の足元へ額づき、体を縮こませて震えるしづおの手は、赤く、臭い。
「誠に、っ誠に申し訳ございません!申し訳御座いません殺生丸様!このしづお、如何なる罰もお受け致します故!」
震えながら謝罪を叫ぶしづおに、漸く事の成り行きが聞けると殺生丸は僅かに安堵した。
「話せ」
「…っは、い…。ひい様は、雅楽を嗜まれた後、小休憩を取りたいとおっしゃいまして。…私は、お茶を淹れに厨へ…ひい様の元へはあまりひい様に馴染みのない女中を…っそ、それが間違いだったのです!なぜ、何故私は女中に頼まず、あの場を離れたのか…っ」
「その女が何かしたのか」
殺生丸は、少しだけ腹の底がざわついたのを確認した。
段々と手に力が籠る。
「い、え…直接手は…っ、あれは、知らなかったのか…ひい様を池へ…っ!邸の池へ、連れて行ったそうでっ、けれど知らないなんてそんなことは、あるはず…っ」
盈月により、彩登美が盈月や殺生丸なしで水辺へ近付くことは禁じられていた。
それは邸に勤める者全員が共有していた情報だ。
それなのに女中は彩登美を池へと連れて行ったというのだ。
特に禁じられていた邸の池へ。
殺生丸は自分では理解できない感情が渦巻くのを感じた。
その女中に会わなければ気が済まない、盈月が既にしてしまったのかは解らないが、その身を八つ裂きにしてやりたい心持になったのだ。
そして、震えるしづおの手をもう一度見た。
赤い。
そうして独特の臭気。
「…その手」
咎められたと思ったのか、しづおはすぐさま隠すように手を丸めた。
「私が見たのは、池の畔で何かにっ、…引っ張られ、池へ光り沈んでいくひい様、と…それを佇んで見て、いた…女中、だけで…すぐさま池に飛び込んだのですが、なにも、どこにも…っひい、様の姿はなく…っ」
殺生丸の方からは、しづおの顔は見えない。
しかし、その顔が今、濡れているであろうことはよくわかった。
池へ光りながら沈む。
それは正しく妖か神の仕業だろう。
「女中、は、…あの女、は…っ私が池から這い出て、上った折には、既に骸と…」
しづおはその骸の処理をしていたのだろう、だから手先が赤く染まっているのだった。
誰がその女を骸にしたのかは、聞かずともわかる。
盈月にも僅かばかり知らぬ血の匂いがついていたのだ。
あれはその女中だった女の匂いだったのか、殺生丸はもうぶつけられる相手がいない憤りを何とか飲み込もうと必死になる。
「……よく見てくれていた」
「…っ」
殺生丸は一言、それだけを呟いて庵を後にする。
直後に、しづおの咆哮のような犬と人間の間の泣き声が響き渡った。
殺生丸は池の傍まで進むと、静かにその畔に佇み、池の中を見る。
畔の地面は一か所だけ土が抉られ、そこだけ無理矢理にどこかへやったかのようだった。
池の中には悠然と透明な魚の妖が泳いでいる。彩登美が好きだったものだ。
きらりと光を反射し、綺麗な池の水面は何もおかしなところはない。
なぜ、母が彩登美に水辺の接近を禁じたのか、彩登美が池の中へ引きずり込まれたのか、何もかもが解らなかった。
彩登美は突然現れた。
母が拾ったのだと言っていた。
どこから、どうやって、そんなものは何一つ教えてもらっていない。
しかしやたらと彩登美を可愛がっていた。
水の夢や白霞の夢のことを聞いたとき、母の顔色が変わったと彩登美は殺生丸に零していた。
何が、あったのだろう。
「……黙って、消えたか」
変わらず、このまま傍にいようと思っていた。
彩登美が望むのであれば、殺生丸はずっと横に立っていようと。老いて死ぬまで。
それが急に、池の水に浚われてしまった。
しかし、実はそうだろうか。
もしかしたら、元々彩登美はこの池の水が連れてきたのではないのか。
だからあそこまで母が水辺の接触を禁じ、白霞の夢に狼狽したのではないのだろうか。
殺生丸が神の名を口にしたとき、母は「再び神隠しに」と言っていた。
時か世か、解らないが彩登美はそれを超えてここへ来たということか。
それではまるで竹取物語の月の姫のようだと思った。
さすれば残された自分は、彩登美へ恋慕の情を抱いていた自分は帝か。
初めて目を通した際には、不死の薬など要らぬから戻ってきてほしいと願う心を鼻で笑ったが、浅ましい人間が書いたにしてはよくできていると思った。
その立場になるとは、思ってもみなかった。
そしてその鼻で笑った心が、今になって沁みて解る。
「戻って来ぬか…」
水面に映る自分の顔を見ながら、殺生丸は静かに言葉を溶かした。
(逢ふ事の もはらたえぬる 時にこそ人のこひしき こともしりけれ)
-古今和歌集八壱弐番
第一部 完