犬の姫御前
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彩登美の一日は割と忙しい。
朝餉を終えれば舞、雅楽、漢学儒学と同時に教わり、太陽が真上に来た時に菓子類を盈月ととり、少しばかり談笑をする。
そうしてまたすぐに弓の練習に行き、その後に夕餉まで殺生丸と過ごす。
目まぐるしい一日を終えて、夜に眠るまで殺生丸と話しているのは彩登美にとって幸せ以外の何物でもなかった。
この時に彩登美はいつも、自分の時がこのままで永遠に止まってしまえばと願わずにはいられなかった。
殺生丸達とは違い、自分はどんどんと速い速度で老いていく。
見た目にも、時の流れは反映する。
彩登美の髪の長さはもう腰の下まで届いていた。綺麗に毎日梳かれ、椿油で磨かれ、月に一度洗髪をされる。そうして絹糸を墨で染めたかのような綺麗な髪を維持されていた。
同じような見た目になった、いや、それでもまだ殺生丸の方が見た目的に少し幼いが、その殺生丸の髪の長さは今背中の辺りで止まっている。
一向に伸びなくなったおろし髪に、彩登美が切っているのかと訊ねれば何もしていないと首を振られたのは彩登美の記憶に新しい。
体の中の時の流れの違いを見せつけられた瞬間だった。
今はもう、盈月の様に高い位置で二つに結わえるのをやめて長い髪を横に流し邪魔にならぬよう、組紐の様に編み込んである。
それでも毛先は臍の少し上をゆらゆらしているが。
そうして今日も又、彩登美の一日が始まる。
しかし今日は朝から人里に降りると盈月から使いがきた。それに快く返事を返して、彩登美は殺生丸のもとへ急いで寄り、人里に行ってくることを伝えた。「言わずとも、匂いで何となくわかる」と言われてはいたが、それでも会える口実として逐一伝えに行っていた。
「彩登美、支度はできたか?」
「はい、母様」
盈月に訊ねられ、彩登美はこくりと頷いて笠の端から降りる薄衣をさらりと持ち上げた。
「ああ、こら。隠し姫がそのようにしてはならぬ」
笑いながら盈月がしづおに指示を出して薄衣を直させ、きちんと彩登美の顔を隠させた。
「もう、やめて下さい母様。ソレは嫌いです」
小さく文句を言いながらも、彩登美達は歩き出して里へ近付く。
近くまでしづお達が大犬に化けて来ていたので彩登美はその背に乗せられ、とても早くに里へついていた。
いつもいる童達は、何故か大きな布包みを一人一つ抱えていたが、盈月が何も言わないのであるから何か思うところがあるのだろうと彩登美は触れずに歩みを進めた。
「里の者からそう呼ばれて返事をしていたではないか」
「それは…」
以前から少しずつ降りていたが、目立つ母の髪色と簡素にしていてもわかる高価な着物ということで人々の記憶に留まった彩登美達は、いつの間にか呼び名が付いていた。
「おお、今日は来なすったぞ」
「ほんに、いつ見てもお綺麗だね」
「隠し姫様と月の方様だよ、お綺麗に決まっているじゃないか」
これである。
彩登美達がどこの奥方と姫君か頑なに言わなかったかことが原因か、勝手に呼び名が付けられていたのだ。
盈月はその月光の様な髪と容姿から月の方様、その娘である彩登美は、月の方がどこかの誰か(もう民の間では帝だと思い込んでいる)との間に出来た秘蔵の姫だということで隠し姫様と呼ばれていたのだった。
呼ばれて無視をするわけにもいかず、彩登美がそう呼ばれて返事をしたものだからそこから定着もしてしまっていた。
「隠し姫様、この日においでくださってようございました」
いつも向かう先の店子が彩登美に声をかける。
古桃の小袖を着た、割と身なりの良い店子がいる店は京の都からの支店だった。
同じ西国、貴族大大名がいる里には手広く店を広げているやり手の小間物屋でもあった。
にこにこと愛想のいい笑顔で店子は話し掛ける。
言い方に含みを感じた彩登美は、なにかと訊ねた。
すると店子は少しだけ眉を潜めて、周囲を警戒してから小さく囁く。
「…つい最近、ここいら近くを治めている貴族様が来なすったんですよ。なんでも、隠し姫様の事をどこかで聞いたみたいで、探しに来たとか…」
店子の言葉に、後から出てきた店主が渋い顔で口添えをする。
「あまりいい噂を聞かぬ人だもんで。しかも姫様を探しているというのに刀も弓もぶら下げて、戦張りの付き人もいたんで、私らはそんな姫様の話は聞いた事もないって追い払ったばかりだったのですよ」
彩登美の眉間にしわが寄る。
するりと、後ろから白魚の手が伸びて店先の者を指さした。
彩登美が振り返れば、盈月が綺麗に微笑んで赤い爪の先で長机に置いてある箱に入った扇子や紅差しを示している。
「母様?」
「よく姫を守ってくれた。御礼にそこな品、全て貰い受け致す」
その言葉に店主は渋い顔から一転、崩れんばかりに喜んで急いで店子に指示を出す。
「他の者も、口を揃えてくれたのであろう?お前に褒美を渡すから、分配するとよい」
盈月がそういうと、童達が抱えていた包みを店主に差し出す。
ああそれを抱えていたのか、と彩登美はやっと謎が解けたが新たに疑問が浮かんだ。
事前に用意していたということは、盈月は先の話を知っていたということかと。
それでいて今日人里に降りると言ったのは、里の者たちへの褒美のためかと考えて、存外母も人に優しくなって嬉しいものだと顔を綻ばせた。
「あ、あ、有難うございます!有難うございます!そんな褒美を頂けるようなことは何一つしておりませんのに!」
「姫は私にとってとても大事でな。姫には姫が想う者と一緒になってほしい。突然にそのような粗暴そうな輩に連れ去られては可哀想だ。それらの危機を回避してくれたのだ。褒美をやらねば私の気が済まぬ」
いつもより饒舌な盈月に、筆頭侍女が苦笑をした。
そっとしづおが彩登美の耳に口を添える。
「御方様、この間、人心掌握のうまい人間の話し方を随分熱心に鬼姫に聞いておりました。多分、いつか使いたいと思い聞いておられたのだと思います」
「人心掌握…」
盈月はきっと能のように演じて面白おかしく言っているのだろう。
しかしその綺麗な顔から紡がれる言葉は優しく、そうして目の前に餌を吊り下げたやり方は普通の善良な民であればちゃんと騙されてくれる。
この盈月の前に居る店主や店子は勿論の事、近くでちゃっかりと聞いている里の者たちも素晴らしい奥方様だと信者の様な顔をしている。
「さあ、もう帰ろう。またいつその粗暴な輩が来るかもわからぬ。姫を浚われてしまえば、我が一族が黙っておらぬ故」
「おお、やはり高名な一族の秘子様であるか。隠し姫様、月の方様、私らはこれからも姫様を陰ながらお守り致します故、ご安心して今後も何卒私共めの場所へそのおみ足をお運びくださいます様…何卒、どうか」
店主が里を代表して額づく勢いでお願いしだせば、慌てて彩登美が止めさせる。
そこでまた心優しい姫様という評価を貼られることになったのは、いうまでもない。
(どう足掻いても民に好かれる)