犬の姫御前
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――・・**
その日、自棄に彩登美から血の匂いがしていた。
不快な鉄錆の匂いではなく、なんとなく甘ったるい何とも言えない匂いだった。
鼻が利くからと言って、体内を流れている皮膚の下の血液の匂いまでは解らない殺生丸は不思議に思っていた。
以前は感じなかったはずだった。
何と無く香のかおりが強い時はあったが、その時彩登美は決まってあまり近寄りたがらず「焚き過ぎた香の匂いに気分が悪くなってはいけないから」と殺生丸を遠ざけていた。
思えば昨日一昨日から少し甘い匂いはしていたが、今日になってそこへ血の匂いが混じったようだった。
怪我はないのかと思い、それとなく探してみたり訊ねてみたりしたが彩登美からは不思議そうにされただけだった。
暫くフンフンと鼻を鳴らす様にひくつかせ、隣からする香りによって妙な気持ちになる事に、まだまだ未熟者だということを痛感した。
見かねたのか、彩登美がとうとう殺生丸の手を引いていつも二人で眺める湖畔へ向かい、柔らかな緑に腰を下ろし、すぐに訊ねる。
「ねえ、殺生丸君。どうしたの?なんだか落ち着かないようだけれど」
今朝からずっと私の周りをうろついて忙しないけれど、と零すように呟いた彩登美に、殺生丸はそんな風に見えていたのかと少しだけ嫌になった。
幼き頃のように夢見でも悪かったのかと訊ねられて、殺生丸はやっと素直に口を開くことにした。
「…お前から、血の匂いがする」
「え…」
彩登美は殺生丸の言葉に目を丸くしてから、すぐに耳を赤く染めて視線をうろつかせた。
無意識に、自分の腹に手をやって庇うようにする。
彩登美は月の物が来ていたのだった。
今までは殺生丸を始め邸内の男らに気付かれぬよう、しづおや盈月が眉を顰める位に香を焚き染めていた。
盈月がそうしろと言い、香と共になるだけ部屋から出ぬ様に言い含めていた。
此処にいるのは良識ある妖怪だけだが、血の匂いを嗅げば万が一と言うこともありうるからだった。
そうして彩登美特有なのか、彩登美の経血は少し甘ったるい匂いをしている。
月の週間だけ毎朝、強い香を焚き染めにくるしづおでさえも少し恍惚とした表情となっているのを盈月も彩登美も知っていた。
匂いについては侍医に相談したが、特に障りは見当たらないし単純に体質か、妖怪と人との差ではないかと一蹴されてしまっていた。
そうやって過ごしていた彩登美だったが、ここ最近は殺生丸が自分の所へ入り浸っていて失念していたのだ。
今朝もしづおが香炉を持ってきていたような気もするが、殺生丸が既に室内にいたために追い出す様に焚く訳にもいかず、右往左往した結果結局香炉ごと下がったのだった。
ああどうしよう、母様に言われていたのにと彩登美は顔色がさっと変わる。
万が一とは言われていたが、何が万が一なのかあまりわかってはいなかった。
あの時のあの男のように、爪や牙を向けられるのだろうか。隣の殺生丸が、あのようになってしまうのだろうか。
彩登美は鼓動が早まるのを感じていた。
暫くして、彩登美がやっと口を開く。
「あの…毎月、なの」
「…毎月?」
「この、血の匂い…実は。ちょっと前までは、殺生丸君に、気付かれない様にって強い香を焚き染めていたんだけれど」
ばれちゃったね。
困った様に笑いかける彩登美だが、殺生丸はそこになぜか羞恥が隠れているのを見つけた。
実は毎月あったという血の匂い。
時折母の盈月や筆頭侍女などが数日身を隠す時があったがもしや彩登美もそれと同じなのだろうかと思う。
しかし彩登美は人間で、盈月達の様に何かを隠さなければいけないようなことがあるのだろうかと不思議になる。
困惑と羞恥、それを混ぜた顔の彩登美に追及をしてもいいものかと思案するが、やはり考えても解らぬし、今後また気分が悪くなるような強い香りを纏われても嫌だと思った殺生丸はいざやと聞いた。
「母上らも、時折数日身を隠すが、それと同じなのか」
「え、あ…た、多分?」
彩登美のしどろもどろな答えに、殺生丸はちらりと視線を隣に向ける。
「お前も何か知られたくないことがあるのか」
盈月達は妖力が不安定になるからといった名目で、犬の姿で身を眩ます。
人間である彩登美にそのようなことはないと思っているが、念のためにと殺生丸は訊ねる。
今後も彩登美が望むのであれば隣にいると母に豪語ではないが、努めて冷静に伝えたのだ。
知っておかなければならない、と考えたが故だった。
しかし徐々に彩登美の顔は赤く染まり、目には涙が膜を張り始めた。
泣く手前のような顔に、殺生丸は内心驚く。
それは表情には僅かにしか出なかったが。
「あの、あの…その…せ、殺生丸君」
「……なんだ」
口を開いては閉じるを繰り返した彩登美は、漸く思い切ったように視線を殺生丸にやった。
「話してもいいけど…あの…殺生丸君、あの…犬の姿に、なってくれたら…話しやすいの…」
考えあぐねた結果の言葉がそれか、と僅かに瞠目した。
殺生丸は未だにきちんと正体を見せていない。
一度幼少の折に手だけが半化けになったことがあるが、それくらいだった。
そうしてなんとなく、彩登美にはあの姿を見せたくなかった。
可愛いやら格好いいやらと寝惚けた感想を羅列するであろうことはわかっていたが、人の姿の方が隣に立っていて違和感がないだろうと思っていたからと言うのもあった。
しかし、羞恥によって泣きそうになっている彩登美の嘆願だったうえ、隠していたことを話してもらうのだ。
それ位の妥協は致し方なし、と殺生丸は静かに頷く。
ぱ、と彩登美の顔が華やぐ。
それを見て単純にこれは自分の正体が見たかっただけなのではと勘繰ってしまったが、見せると頷いたのだからと溜息をつきながらぶるりと身震いをし、体内の力を放出、纏わらせる想像をすると、気付いた時には殺生丸は大きな白い犬の姿となっているのだった。
「わあ…!!殺生丸君?綺麗…!」
「……」
何と無く、褒められるのは気分が良かった。
しかし早く話せと鼻先を思わず立ち上がっていた彩登美の肩に押し付ける。
彩登美はそれを受け止め、優しく毛並みを解き解すかのように細い指を立てて撫で梳き、そっとその鼻先に顔を寄せた。
犬の姿になったからか、彩登美の血の匂いがより明確にわかるようになった殺生丸は腹の座りが悪くなる。
一度脅してやろうかと言う悪戯心も沸き上がったため、グルルと喉を鳴らして少しだけ口を開いて牙を見せる。
「あまり近付くと食うぞ」
なるだけ低い声で言って見せたが当の彩登美はきょとりとし、次いで快活に笑った。
「平気よ。殺生丸君はそんなことしないもの。それにね、殺生丸君になら、食べられちゃってもいいかなぁって思うの。その次は母様にかな」
どうせ短命ですから綺麗な人の血肉になるなら、嬉しい事よと笑う彩登美に、ますますやり場がなくなった。
「…あのね、殺生丸君。私ね、まだまだ子供だと思っているの。母様もしづおも、それこそ本当にややの様に大事にしてくれるし、生きている年数も、一番低いでしょう?」
数年前、殺生丸が自分より倍以上も歳を取っていることに彩登美はしこたま驚いていたのだ。
見た目はさほど変わらないと思っていたから余計に驚いたと言っていた。
「けどね、体は大人になっていっているみたいでね…あの、血の、においね。それ、女の人はみんなあるの。ややが、出来る体になった証拠なんだって侍医様が言っていたわ」
「…やや?」
この目の前の少女と言っても可笑しくないほど小柄な彩登美が、ややを宿せるなど到底信じられなかった。
「うん。月に一度、ややのために血が出るの。月の物が来たら、大人の仲間入りだし、嫁いでも問題ない歳なんだって」
「……」
殺生丸の鼻先から移動し、首の辺りの毛に埋もれるように顔を押し付けた彩登美の耳は赤い。
何が照れる必要があるのか、さっぱりわからなかった。
殺生丸は少し想像もした。顔も知らぬ男の横で、人間の嫁入り姿で座る彩登美を。膨れた腹を優しい顔で撫でる彩登美を。
そうして、なんとなく不愉快になったがその横に座る男がいつの間にか自分にすり替わっていた時には不愉快な気持ちは霧散していた。
足を折り、草原へ横たわると彩登美の足も必然に曲がって座り込む。
ぐるりと自分の体で彩登美を覆う様にすれば、すっぽりと隠れてしまった。
ひょこりと少しだけ彩登美の黒い頭の先が見えているだけだ。
何と無く、その状況に満足した殺生丸はそのまま静かに目を瞑る。
「…殺生丸君?」
「原理も意味もよく解らぬ。が、中から出血しているのであればどこかしら気怠いだろう」
「凄いね。その通りだよ」
「…少し休め。帰りは背に乗せてやる」
特に何も考えずに口をついて出ていた言葉だったが、彩登美は驚きで目を丸くしまじまじと殺生丸の大きな瞳を見る。
「…いいの?」
「銜えられたければ銜えてやろう」
「是非背に乗せてください」
「ふん」
また静かに瞼を下ろした殺生丸に倣って、彩登美も緩んだ満足気な表情で殺生丸の体へ沈み込み、夕餉前の休息につくことにした。
(妖怪と人間でややは出来るのだろうか)
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補足
平安期をイメージしておりますので、生理については全て知識が乏しい設定です。殺生丸様もまだ子供なので半妖のことは詳しくありませんという設定です。
因みに、経血が甘い香りがするのは稀にあります。乳酸菌異常とか諸々の原因ですが差し障って病気の兆候ではありません。