犬の姫御前
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――・・**
その日、殺生丸は虫の居所が悪かった。
いつもよりも仏頂面で、蚤妖怪一匹ですら近付けばその冷徹の目で氷漬けにしてしまうのではないかと思える程、虫の居所が悪かった。
先程まで親族一同の宴の場にいた殺生丸だったが、その場の空気が昔から好かなかった。
父である闘牙王にあからさまに取り入ろうとして媚び諂う輩。
大した統率力も力もないくせに、
嫉妬や羨望で溺れそうになっている輩。
全てが欲に溺れて汚らわしい老い耄れの集いで、男共に吐き気がした。
母には同じように諂う同胞の女共や嫉妬を憎悪に変えた顔の女共がいて、そちらも男同様醜い。
殺生丸にも媚びを売る輩が出ているし、あの醜い親族の子供らも殺生丸を持ち上げる。
次期当代様に気に入られれば、本家での召し抱えも期待できるし、他の妖怪共にも大きな顔が出来る。その見え透いた腹の中が殺生丸には気にくわなかった。
大きな顔をしたいのであれば、己で努力をしろ。
力も不相応なくせに、欲だけは大きく贅肉だらけの心の者が、同じ一族だと思うとこの手で一人ずつ引き裂いてやりたかった。
醜いあの場を後にしてから、殺生丸はふと義妹の事がよぎる。
彩登美は人間であるからこの宴には出席しないと、彩登美自ら辞退していた。
盈月と闘牙王は気にせずとも、と言っていたが頑なに首を振らなかった。賢い選択だと、殺生丸は思った。
あのように欲に肥えた者どもが彩登美を見れば、人間だと卑下するか、それこそ御人好し気味な彩登美に取り入って、溺愛している盈月や闘牙王に口添えをしてくれと頼むであろうことは目に見えていた。
育ててもらっているとはいえ、もう大人としても女としても目覚め、人里にも頻繁に盈月と降りている。
その上で妖怪である自分達を畏怖せず、剰え本来の姿を見ても可愛いやら格好いいやらと、間抜けな感想を呟く。
同じ妖怪でも近付き難い殺生丸にでさえ、臆せず近付き、笑顔を向ける。殺生丸は不思議で仕方がなかった。
父母に貰った髪飾りを付け、長い黒髪を揺らしながら駆け寄り、殺生丸の腕に纏わりつく。
昔よりも随分と距離が近くなった。一度自分から手を差し出したあの時から、何処へ行くときも小走りで近付いて片手を絡ませてくるようになった。
昔の殺生丸であれば振り払っていただろうに、いつからか何も言わずに好きにさせている。
初めは怒られるかとビクついていた彩登美も、好きにさせてくれる殺生丸に安心したのかやたらと絡む。
周囲は義兄妹とはいえ仲良くなってよかったと言っているが、なぜか盈月だけは妙な顔をしていた。
そうやって彩登美のことを思い出していると何と無く、ムカムカしていた腹が治まったような気がした。
「……――のか!」
少し遠くから、利き覚えのある香りと、聞き慣れない声が風に乗って流れてきた。
足音も気配も殺して、殺生丸は風の先に進む。
そしてぴたりと渡り廊下の先、閑静な庵の手前で止まった。
この先の庵には、最近室を移した彩登美がいる。
水の音が聞こえ、桜と紅葉が並んで植わる庭が目の前にあるこの場所がいいといって、引越しをしていた。
彩登美は今日、そこで引篭もっていると言っていた上、侍女であるしづおは宴に駆り出されていて近くにいない。
他に誰がいるのだ、と殺生丸が静かに庵の入り口に影を隠した。
「おい人間。聞いているのか」
ああ、あれは宴に出ているはずの一族の一人だ。
闘牙王の横にへばり付いていたが、何時ぞやを境にぱたりと諂うことがなくなっていた。
ちょうど風下、殺生丸の匂いは強い風に乗って消えている。
少し会話を聞かせてもらおう、と殺生丸はその場にいることに決めて静かに耳を澄ませる。
部屋からは衣擦れの音が聞こえ、彩登美がいることもわかる。
「貴様、御館様に囲われているのか。それとも御方様の慰み用か?浅ましい人間の分際で我ら一族に取り入って、何が目的だ!」
取り入ろうとしていたのは貴様だろう、と思うが殺生丸は声に出さなかった。
しかし今の言葉、父母が聞いたら八つ裂きだろう。
治まっていたはずの腹の座りがまた悪くなる。
「所詮、御館様…いや、闘牙も俗だったという事か。人間なぞを養子にし、育てるなど。高が知れる。今は幅を利かせているが、時期に奴の時代は終わる。御方様といわれる盈月も、人間に現を抜かす闘牙から相手にされぬ故に自分の意のままに動く手遊び人形が欲しかっただけだろう。貴様なんぞ、すぐに飽いて殺される」
今のうちに逃げ出してはどうだ?と男が下卑た笑いをした直後、ガシャン、と軽いものが倒れる音がした。
ピクリと殺生丸の指が動く。
「…黙って、…っ聞いていれば…!大きな口を叩き過ぎではございませぬか!私だけの謗り端しりであれば我慢もできます!しかし、貴殿は私の母と父…闘牙王様と盈月様の事まで唾罵致しました!それがどういうことか、御存知でしょう!」
とうとう、彩登美が大きな声を出した。
外で聞いていた殺生丸は僅かに驚く。
今まで彩登美がこんなにも怒って怒鳴ったことは一度だって聞いたことがなかったのだ。
「…ハ、小賢しい娘だ。口が利けるではないか。言葉だけは知っているようだな?その達者な口で殺生丸の小僧も落としたというではないか。その話は本当か?誠であれば、あれも闘牙の血よな。人間にはとんと甘い!あの倅が次期当代だと?反吐が出る!我らはまた煮え湯を飲ませられるではないか!」
「あ、貴方という方は…っ!せっ、…兄上様までも辱めるとは!煮え湯を飲ませられるのは、貴方がそういうお考えだからでしょう!原因は貴方にあるのではないのですか?!それを父上様や母様の責にしてっ!貴方は父上様の同胞でしょう!なぜそのような事が言えるのです!父上様は貴方にもきちんと拝領していて、貴方方の事もきちんとお考えくださっているでしょう!?」
「なっ…!!貴様ァ…小娘の分際でェ!」
ああ言い過ぎたな、と殺生丸は静かに思った。
しかしその口元は冷静な頭とは裏腹に、緩くにやけている。
それがこの男への怒りのせいなのか、それともまた別の感情なのか。
ひとまずは口の達つ彩登美に言い負かされたような空気になっている男が、何を仕出かすかは明白なのだ。
盾になってやろうではないか、可愛い彩登美のために。
ふわりと先程より笑みを濃くして、殺生丸は静かに部屋の中へ入る。
今、男はその鋭い爪を出して彩登美に目掛けて振り下ろそうとしているではないか。だというのに彩登美は口を真一文字に引き結んで、決壊しそうな目でもって男を睨んでいた。
がしり、と男の手首を掴んだ殺生丸は目を細める。
「楽しそうなことをしているではないか」
「なっ、せ、殺生丸、様…!!」
「殺生……あ…兄上様?」
男の目は血走り、正体を現す前になっている。
人間に言い負かされたと気付いて、頭に血が上ったのだろう。
何処までも愚かな奴だと嘲る。
「私の…妹になんのようだ」
「!!」
後ろで、彩登美が肩をびくつかせたのが気配で読めた。
ああ、そうだ。
初めて今、他者の前で妹と言ったな。
何と無く、違和感はあるが。
「それで、誰に手を上げている?その爪は、父上様への反旗と見て良いのか?」
にまりと笑みを濃くしながら、殺生丸もピキピキと顔を変化させていく。
手首を掴んでいる手の爪は、もう毒爪と化していて徐々に男の肌の色を変えている。
「あ…あ……っめ、滅相もない…!!」
ガクガクと震え、変化も解けていく男は肉の裂ける酷い音を立てて無理矢理毒爪から逃れ、庵から遁走した。
殺生丸は小さく舌打ちをする。しかしまあ、顔も匂いも覚えた。後でどうとでも出来るだろう。
毒爪を元の爪に戻していると、くい、と着物の裾を引かれる。
静かに振り向けば、彩登美が不安そうな目で見上げていた。
その横には、引っ繰り返った蛤と漆の器、櫛が乗った台座があった。これを引っ繰り返したのか。
「…ご、ごめんなさい…」
何を、と思う。
殺生丸は静かに腰を落とし、彩登美の前に座る。
「殺生丸君、ごめんね…ごめん…私」
「何故お前が謝る」
「だって、だって…私、自分で何とかできなくて…結局!」
そんなことかと思った。
これはなぜか一度自分で言ったことは頑なに通そうとする。
弓道を学び始めた折り、殺生丸の手を煩わせないようにと息巻いていた。そのことだろうと思ったが、今回はその想定と勝手が違う。
「…私は、お前が父上や母上のために怒ったのを、聞いている」
「え…」
殺生丸は言外に、言葉で戦ったではないかと伝えた。
彩登美はそれをちゃんと汲み取ったようで、ぎゅうっと下唇を巻き込む。
何と無く。何と無く殺生丸は目の前の頬に手を伸ばして、撫ぜる。
まろい。
盈月はこの頬を撫でるのを好んでいた。
殺生丸も、どのようなものかという興味だけで手を伸ばした。
存外冷たい。いつもより白い。先程の事で血の気が引いたのだろう。
瞬きをすれば落ちてしまいそうな程水の膜を張っていた瞳は、今はもう潮が引いたように何もない。
しかし畳の上に置いてある両の手は、硬く握られて殊更白くなっている。
ああしかし、掌に吸い付くような頬の柔らかさだ。
「…せ、っしょう、まる、君?」
「まだ怖いか」
いつもと同じ視線の強さで彩登美を見るが、そこには盈月や闘牙王のような感情が滲んでいる。
彩登美は先程の恐怖が全て飛んだ。
確かに怖かった。初めて殺されるような敵意を向けられ、命を散らせられる刃である爪を向けられた。
身を護るためにと弓を習っていたが、こんな近さでは何もできなかった。只管に、睨むことしかできなかった。
目を逸らせば、それこそ罵倒された父母や殺生丸を護れないと思ったからだった。
それが、殺生丸の背中が現れて護られていると気付いた瞬間、恐怖が霧散し安堵した。
これでもう大丈夫。
そう思った自分に嫌気がさし、そしてもうこの先もずっと、自分はこの殺生丸以外を見ることはできないのだと思い知ってしまった。
撫でられる頬が熱く、恐怖の震えではなく緊張の震えに変わっている今、彩登美の心はもうどうしようもなくなっていた。
「へい、き…大丈夫、だから。ありがとう、助けてくれて」
およそ思っていたより不愛想な返事をしてしまった。
また羞恥が襲うがもうなんにも考えられず、引っ込んでいた涙が急に増え、ぼたぼたと滝のように溢れて落ちた。
直後、すぐに闘牙王と盈月が駆けこんできて、殺生丸は何事もなかったように頬から手を離すのだった。
(ああ、なんだろうな。この感情は)