うつしおみの夢 2019/05了
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ドタドタと遠くで走る音が聞こえていたと思えば、縁側で御濃の方の部屋へ飾る桃の花を剪定していた千代の元へ森家の三男である蘭丸がかけてきた。
自分より歳が上だが身分は下であり、かつ未来人だという奇々怪々な千代に最初、蘭丸は不信感しか抱かなかった。
しかしそんな蘭丸に目もくれず、御濃の方の為に齷齪と働き、明智に稽古をつけられて忙しない千代に蘭丸は無視をされて馬鹿にされていると癇癪を起こした。
それを御濃の方が何とか取り成し、千代も齟齬を無くすために必死に弁明をした結果、蘭丸の手下として認められたのだった。
そんな蘭丸は悪鬼だなんだと言われているが、何だかんだと構われたがりで実に子供らしく千代は気に入っていた。
「おい千代!これ見ろよ!」
「はい蘭丸様。それは…香木でしょうか」
剪定鋏を隣に置いて、桃の枝を取り敢えず縁側の水を張った桶に浸して蘭丸を振り向けば、両手に香木の欠片を持って見せびらかし自慢げの顔で千代を見下ろしていた。
「そうだ!信長様が少しわけてくれたんだぞ。いいだろ」
大事に大事に落とさないようにしながら蘭丸が千代の横に座り、懐から絹を出して香木の欠片を包んだ。
「それはようございましたね。蘭丸様は香も嗜まれるとは…私は全く利き香が出来ませんので羨ましいです」
「なんだったらこの蘭丸様が教えてやろうか」
にこにこと蘭丸の言葉に微笑んでいると、蘭丸と千代の間からするりと銀の糸が垂れる。
「お前が聞香を出来るとは思いもしませんでしたよ」
「げえ、光秀」
銀の糸の正体は明智。
明智を見た蘭丸は肥溜めでも見たかのような顔をして悪態をつく。
千代は明智も座れるようにと桶をどかしてその分横にずれると、明智は「御気遣いを」と涼やかに言いながら何食わぬ顔で二人の間に座った。
「どっか行けよ」
「おや、親に見せる雛のように駆けていった蘭丸に渡すものがあったのですが、いらないということでしょうか」
懐から懐紙袋に包まれたものを取り出した明智に、蘭丸が「毒だ」と喚くが、中をチラリと見た千代が「金平糖でございますか」と呟けば香木を横に置いて直ぐ様奪い取った。
「信長公からのものを忘れていったお前にわざわざ持ってきてやったというのに、お礼も無しですか……これだから餓鬼は」
「なんだと変態」
「蘭丸様、お礼をお伝えするのもお心が広い証拠です」
子供が素直に聞くように千代が煽てつつ嗜めれば、蘭丸は渋々礼の言葉を述べる。
「用が終わったらさっさとどっか行けよ!」
「千代、貴女の世には香木はあったのですか?」
「聞けよ!!」
最初はどうしようかと驚いていたが、この二人のやり取りももう数年一緒にいるため大分と馴れた。
千代は蘭丸の憤慨ぶりに苦笑しつつ、明智の質問に頷いた。
蘭丸は苛々しながら手元の金平糖包みから一粒取り出して大事に口に含むと、表情を一転させて幸せそうに早春の庭先に目をやっている。
「はい。あるのはありましたが、ここと同じで一般的ではなかったですね。代わりに、香水と言うものを庶民…民の者は使っていましたよ」
千代の脳裏には様々な光輝く形のボトルに入れられた薫りの液体達が過る。それはとても魅力的で使いもしないのに数個、購入したのを覚えている。
「香水、ですか。香りに水で正しいでしょうか?」
「はい。作り方までは存じ上げませんが…香りと精製水、少しのアルコールが混ざっていたかと」
ラベルの後ろを思い出しつつ千代が何とか原料を捻り出すと、庭の散った梅を見ていた蘭丸が明智の向こうから千代を見て頭を傾げる。
「あるこーる?」
「ええ、と……端的に言いますとお酒の総称と言ってもいいかと」
化学式だの燃えやすいだのをどう説明すべきかもわからない千代はとても簡単に伝えたが、蘭丸はそれで納得したようだ。
「蘭丸様はなんの香木を頂いたのですか?」
「沈香の欠片だよ。わかるか?」
「ええ、はい、沈香でしたら聞いたことがありますが。しかし流石に香りまでは…」
沈香、白檀、伽羅は香道で使うもの、という認識はあるが組み合わされた組香になれば全く解らなくなる。
御濃の方がたまに部屋で香を焚くが、それも指示をされて香炉に放り込んでいるようなものだ。
「しかしどうして香木を?」
蘭丸がそんなに香を嗜んでいる噂は失礼ながら聞いたことがない。
信長公から頂いたものであれば彼はなんだって喜ぶだろうが、いつもは先ほど明智が持ってきた金平糖のみだったはすである。
「お前知らないのか?」
「はい?」
「信長公が、先日蘭奢待を持ち帰ったでしょう。それのお裾分けで、家臣等にも沈香以下の香木を分けていらっしゃるのですよ」
「何でも良いって言われたけど流石に伽羅物の欠片は貰えないからな。信長様が愛用されてた沈香の欠片を頂いたんだ」
ああそういえば、つい先日に信長公が東大寺へ赴いて何やらと騒ぎが起きていた。
城の者達にはまた寺社関係かと密かなざわめきが起こっていたが、権力の象徴でもある蘭奢待を切り取っていたのか、と千代は記憶の片隅から信長公の歴史を掘り起こした。
「ところで千代。そろそろ、桃を生けないと死んでしまうのでは?」
「え、あ!」
明智に指摘されて隣の桶を見れば確かに既に咲いていた花が少し元気がなくなっている。
蕾が多めのものを選んで剪定はしていたが、流石に萎れかけた花がついたものはいただけない。慌てて水を切って萎れかけた花だけを切り取った。
「申し訳御座いません御二方。私はそろそろ濃姫様の所へ」
正座のまま後ろにずれて頭を下げれば、蘭丸は「光秀が来なきゃもっとちゃんと話せたんだぞ」と目尻を上げて明智にがなる。
「お気になさらず。この子供のことは放っておいて早く帰蝶のもとへ行きなさい」
「なーにが子供だよ!光秀が割り込んだくせに!」
「あの、蘭丸様。また蘭丸様がお暇なときにでも是非お話を聞かせてください」
三つ指をついて眉を下げつつ千代が訴えれば、ころりと気分をよくしたのか蘭丸は快活な笑顔で頷いた。
それを見届けてから桶を持って立ち上がりまたひとつ頭を下げて二人のもとを去る。
後ろからはけんけんと騒ぐ高い声とぼそぼそと低い声が絶えず聞こえ、早春の庭先に賑やかさを一つ、足してくれていた。
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蘭奢待はその後神社と正親町天皇へお渡しになられたとか。