うつしおみの夢 2019/05了
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一報が入ったのは春が過ぎて暑い盛りのときだった。
千代は女中のツタより信長公の妹御であるお市の方が岐阜城へ上がられることを聞いた。
昨夜から女中達が慌ただしく部屋を作っていたのは知っていたため、誰かが来るのだろうと思ってはいたが、まさかお市の方だとは思わなかった千代は「はあ」と気の抜けた返事をすることとなった。
そんなことよりも今は自分の主である御濃の方へ氷をお持ちするのが先だと話もそこそこに千代はツタの前から去っていく。
後ろからツタの喚く声が聞こえたが素知らぬ振りをした。
***
一言で言えば妖艶。
しかしそこへ重苦しいほどの儚さがのし掛かり、ピンと張り詰めた細糸のような、月灯りに輝く銀の鋼のような不思議な雰囲気を纏っている。
千代は静かにお茶を淹れながら、目の前に座り千代の手元をじぃっと深淵でも見るかのように黒く丸い瞳で視線を逸らさないお市の方を窺った。
御濃の方へ氷を届けた後直ぐに「明日にはお市が来るから一日話し相手になってやってちょうだい」と愁い顔で言われた千代は思考することなく頷いていた。
近江攻めの際に気にはなっていたが、流石に是非も無しの信長公と言えど、実妹には情けをかけたようで五体満足のまま彼女は城へ上がるという。
千代は闇色に霧散したままのお市の方を漸く象れることに嬉しく思っていた。
そうして登城したお市の方は流石と言うべきか、噂通りの美女だった。
濡れたような瞳で頭を下げて入る千代をチラリと見た後、何も言わずにただそこへ座っている。
明智や信長公とはまた違った雰囲気に、闇の婆娑羅持ちはみんなこのように扱いづらいのかもしれないと千代はいりもしない情報を得た。
ととと、急須から茶が淹れ終わり調度よく冷ますために別の茶器へまた淹れ直してからお市の方へ差し出し、最近吉野より仕入れた葛粉で作った蒸し羊羹を一口大に切って机に乗せた。
「お口に合うか解りませんが、どうぞ」
「……ありがとう。市、羊羹好きよ」
「それはようございました」
冷まされたお茶を一口含むと、今度は黒文字で優しく羊羹に切れ目を入れて桜色の紅を引かれた小さな口へ運んだ。
お姫様然としたお市の方を千代が思わず吐息を出す。
「…おいし」
「お口におあいしたようでよろしゅうございました。厨番に伝えておきます」
笑顔で千代が喜べば、お市の方はまた深淵の瞳でじっと見る。
その瞳は闇を携えていて、千代は哀しくなる。
つい先日、お市の方は嫁ぎ先の浅井家から織田へ戻ってきた。それには近江攻め、俗にいう姉川の戦いでお市の方は夫である浅井長政を亡くしたため、信長公が慈悲の心で命を見逃し連れ帰った、と女中の間では語られているが、家臣の間では浅井をお市の方の目の前で討ったのは信長公であると密やかに語られていた。
千代の知る歴史では信長公が一等愛した妹だったため見逃した、という通説もあったがどうもここの信長公を見る限りそれはなさそうである。
御濃の方からは浅井とは仲睦まじく相思相愛のようであったと聞いているため、目の前で亡くし、しかもそれを討ったのは実の兄、その心情たるや如何様なものか。
「……ねぇ、蜉蝣さん」
鈴を転がした可愛らしく大人しい声が千代を呼ぶ。ともすればそれは庭でけたたましく鳴き喚く蝉に欠き消されてしまいそうだ。
「私のことでよろしいでしょうか」
「うん。蜉蝣さんは、お名前、なんていうの?」
「千代、と申します」
名乗れば、お市の方は小さく小さく微笑んだ。
「千代。ねえ、千代は長政様が何処にいるか、知ってる?」
千代の肩が僅かに動く。
ミンミンと蝉の声が一際大きく聞こえた。
哀しい質問に答えるべく、千代は頭を下げて静かに口を開いた。
「……失礼ながらお市様、長政殿は」
ぱしゃりと、千代の言葉を遮るようにお市の方が湯飲みを畳に転がした。ジワジワとまだ新しい畳にお茶が広がり染み込んでいき、藺草の色が深くなる。
恐る恐る千代がお市の方を仰ぎ見れば、美しい顔に笑みが浮かび愉しそうな声を上げて笑っていた。
「ふふ、ふふふふ。…意地悪なことを聞いて、ごめんなさい。長政様は、此処に居るのに。千代、長政様よ」
にこりにこりとお市の方は笑いながら千代に見えない浅井を紹介する。
カタカタと自然と千代の指先が震え、この場にいない自分の主である御濃の方の名前を縋るように心中で叫んだ。
お市の方は俯き、笑ったり頷いたりを繰り返す。
千代は急ぎ誰かを呼ばなければと庭先に視線をやる。
「長政様、此処は寒いね……千代、優しいね……うん、うん……そうね……うん……市、千代と仲良くなりたいの……うん」
ぞわぞわと這い上がる何かの感覚に目を見開いて、夏の陽射しが痛い緑から再びお市の方へソロソロと視線を戻すと、お市の方は闇色の数多の手に包まれていた。
ヒ、と小さく声を上げて正座を崩し、思わず仰け反ればお市の方はゆっくりと千代を見る。
するとふわりと婆娑羅が消えていき途端にお市の方は泣き崩れた。
「…う、うう……いや…………な…がま…さま…なが、…さまぁ……」
「……お市、様?」
ポロポロと雫を流すお市の方はまるで迷子のように泣き続ける。
千代はよろけつつも恐々とお市の方へ近付き、そっと白魚のような手に自分の手を乗せた。
とても冷たくまるで死人のようだ。
再び闇色の婆娑羅を呼び出されてしまえば千代は一堪りもないな、とぼんやりと思いつつ、お市の方の頭へ手を伸ばして優しく撫でる。
「失礼ながら、……お市様には少し休息が必要かと思われます」
優しく優しく、千代自身もう忘れかけている平成にいるであろう母のように頭を撫でて慰める。
お市の方はもう声を出すことなく、しかし依然として雫を落とし続ける。
「お市様、長政殿はお市様のすぐ傍におられます。安心なさってください。何も怖くありませんよ」
お市の方は浅井が討たれたことを受け入れられないでいるのだ。
心神耗弱といったら適切なのかは千代にはわからないが、そう言った人間には現実を突きつけたところでパニックになり会話ができなくなるものだ。
父を亡くした友人を思い出し、千代は優しくぬるま湯のような言葉をお市の方へかけ続ければ、次第にお市の方は雫を落とすのをやめてゆるゆると千代の手を甘受し始める。
「…優しいのね、千代……千代には、わかる…?市の傍に、長政様がいるの」
「……ええ、ええ。その感覚はお市様への長政殿からの愛情でございます。お大事になさってください」
それはいずれ、消えてしまう感覚だから。
いつの間にか畳はお茶を吸いきって、張り替えないといけなくなってしまっていた。
*****
闇属性って一般人は触れたら死ぬんでしたっけ。体力が奪われるだけでしたっけ。