うつしおみの夢 2019/05了
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二ノ丸から続く庭の片隅、誰も人など入ってこないであろう場所から、何かを振るう音、微かな息、砂を踏む音が絶えず聞こえてくる。
不思議に思った明智は静かに流れるように根源へ近付いて、影からひそりと覗きこんだ。
見ればそれはいつぞやからこの岐阜城城主、織田信長公の正妻である御濃の方付きになった侍女だった。侍女は必死に細い薙刀を振り回しては引き、突き出しては引き、を繰り返している。
先の世から来た等という世迷い言を受け入れた信長により、存命している小さな灯火は今や傍らの蝶の恩恵を存分に注がれ、並の兵が悪さをしようものなら首が撥ね飛ばされるのも笑い事ではない者となっていた。
そんな、密やかにけれど確かに護られている存在の彼女が何故、必死に得物を振り回すのか。誰に師事している訳でもないのは簡単に見てとれる。
明智は面白そうにその薄い唇を歪めると、態とらしく砂を蹴りつけながら侍女、千代の元へ歩み寄った。
ハッとして思わずだろうか、薙刀を振り回して回転させ、切っ先を明智の顔へ向けた千代は、誰にその煌めきを向けたのか理解をしてさっと顔を青ざめさせる。
「おや、怖い怖い」
大して怖がってもいない口調で、おどけるように宣う明智に、千代は薙刀を地面に落として、そして自分の膝も土につけた。
平身低頭のまま、震える声で謝罪をする千代は、小さい。
「も、申し訳ありませんでした…!誠に、なんとお詫び申し上げれば良いのか……!」
ガタガタと震える千代は、頭に彼の部下が大きな爆弾を背負わされ特攻をさせられている映像が浮かんでは消えている。
自分もあのように一瞬で有無もなく断罪されてしまうのでは、と思えば思うほど地面につける指先が土を抉る。
「…何をそんなに謝るのです?」
惚けた、何とも言えない声色で明智が訊ねる。
「わ、私は、咄嗟の事とは言え御大名である明智様に白刃を向けました…。抑、このように敷地内で武器を振り回す事こそ危険行為であるのにその上失礼をするなど」
「気にしておりません。顔をおあげなさい」
涼やかな、けれどどこかねばつく声で明智が許せば、千代は何とも言えない顔でゆっくりと顔を上げて見上げる。
彼の言葉から出された命令には、一度で聞かねばならない。
いや、彼のではなく織田軍所属の大名武将からの命令には、が正確ではある。
二度目の命令はそれ即ち死である。存外短気なものが多いのと、二度手間を嫌いしつこいのも嫌う織田軍ならではと言うものだ。
恐る恐る窺う千代に、明智はにこりと笑みを向けた。
それに素直にホッとするでもなく、震えは一層強まる。
「貴女程度の刃で傷をつけられることはありませんから、本当にお気になさらず…。それにしても、……何故、武器を?」
「それは……」
武器を取った理由。
其れを話すことによって千代は話したことを後悔すると同時にめいいっぱい誉めてあげたいと微妙な狭間で揺れることとなる。
***
「踏み込みが遅いです」
「はい!」
「今度は回しが遅いですよ」
「すみません!」
「突き出しが弱いですね。そんなことでは帰蝶の盾にも藁にもなれませんよ」
「はい!」
キュキュ、と床板の鳴る音がその手入れの行き届いた綺麗さを示している道場で、ガンガンと堅いもの同士がぶつかる音を響かせる。
汗を流して必死に食らい付く千代と、それを涼やかに軽やかに遊ぶように受け流す明智だ。
しかし明智は遊んでいるように見えてきちんと明確に的確に指示を出し、軌道を正している。
「はい、ここまでです」
「っ、有り難う御座いました!」
「お疲れ様でした」
出ているものなどないのに汗を拭う仕草をする明智に、頭を下げてお礼をいい、すぐにお茶の準備をする千代。
いつぞやかの時から千代は明智によって薙刀指導をしてもらうようになっていた。
最初、御濃の方に相談をすればそれは嫌そうに顔を歪めていたが、千代の熱意によって渋々許され、一日のうち一刻だけと決められて稽古を許可された。
事の発端としては明智の暇潰しのためと、なんの取り柄もない侍女でも少しばかり使えるようになれば御濃の方の盾にはなれるであろうということだった。
盾に、というのは抑本人の希望ではあったが。
「明智様、お茶で御座います」
「毎度のことながら有り難う御座います。貴女と稽古を始めるまで、まさか道場という汗臭い所でお茶を頂けるようになるとは思いもしませんでしたよ」
褒めているのか貶しているのか解らない明智の言葉を千代は慣れたように現代で身に付けたアルカイックスマイルで受け流す。
疲れたあとにいつでもお茶を飲めるようにと、千代は茶筒を婆娑羅武器職人にお願いして改良してもらい、簡易な水筒を作り出した。
魔法瓶程ではないが熱さや冷たさを少しだけ保ってくれる優れものだ。
稽古がある日は朝一で茶を沸かしてこの水筒に入れ、茶器も一緒に持って道場へ赴くのだが、最初明智はにんまり笑顔のままやんわり断っていた。
それを今や自ら「喉が乾きましたねぇ」なんて催促するほどだ。
最近空いた時間に千代が明智と薙刀稽古をしているのを知った女連中は、其ほど仲が縮まったのだろうときゃあきゃあ騒いでいるが、千代は心底陰鬱だった。
明智には勿論感謝はしている。握って振り回すだけであった薙刀を、どうにか農民足軽程まで稽古をつけてくれたのだから。
しかしその、底が知れない冷えたにやけ顔としなやかに延びる長い手足、光る銀糸にねばつく言葉と沼色の婆娑羅は気味の悪さを犇々と感じさせる。
自分程度の人間にここまでよくする理由もわからない。
大抵部下である彼らに爆弾を背負わせてゲリラ戦法のようにしていたり鎧を腐らせる香や痛覚を鈍らせる香を焚いて人間を傀儡のように扱う銀の死神が、何故瀕死にさせることなくちょうど良い配分で稽古をつけてくれているのか。
「……そろそろ、使いやすい形にはなってきたでしょうか」
手の中で揺れるお茶を眺めて思考に耽っていた千代は、びくりと肩を震わせて明智を見上げた。
にんまりと引かれた唇は薄く開く。
「いえね、最初の貴女の理由ですよ。如何でしょう?」
まさか。
「……明智様は、本当に、純粋に私を濃姫様の盾にしてくださる為に……稽古をつけてくださっていたんですか」
目を丸くして驚きの色を滲ませる千代を見て、明智は幼子のようにきょとりとした後、くつくつと深く笑いだす。
ああ、話さなければ本当に絵にはなる人だな、と千代は感心をしつつ彼の武将が話し出すのを待った。
「当たり前でしょう。貴女は帰蝶の盾として、存分に働いていただきます」
あ、これよく蘭丸様に嫌味を言うときの笑顔だ、と千代は瞬時に悟った。
その笑顔のまま残ったお茶を飲み干した明智は、千代へ空いた湯呑みを押し付けるとすらりと立ち上がって「本日はお疲れさまでした」とあっさりと去っていったのだった。
「……頑張らねば……盾になる前にあの人に殺される……」
残された千代の乾いた声は誰に拾われることもなくただ静かに道場内に響いた。
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明智の武器を薙刀と言っていいのか。