うつしおみの夢 2019/05了
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千代が信長公が暫く岐阜城を空けると聞いたのは御濃の方からだった。
つい先々月にも戦があって岐阜城を空けていたが、また空けるのかと千代は御濃の方へ水無月を切り分けながら疑問に思った。
それから、驚くことにこの異世界の戦国乱世の正室陣は戦場に赴く。
一番始め、御濃の方の侍女となったとき、仕事の説明の中に"武器"の項目があったことに驚き、これが確かなことなのかと千代は二度訊ねた。
そこで初めて婆娑羅のことも教えられ、何となく感じていた違和感の正体を知ったのだった。
ここは知っているようで知らない世界であり、千代は無事に自分の世界に戻れるのかを不安に思ったが、抑この城の庭に現れたあの時点で殺されていてもおかしくなったのだ。
それを御濃の方や信長公によって拾われた命、千代は数ヵ月侍女として奉公するうちにすっかり元の世界へ戻ることより、御濃の方への恩義を返すことしか頭になかった。
御濃の方が戦場へ赴くのであれば毎度神経を磨り減らして城で待っていた千代は、今回、御濃の方が出陣しない事に対してホッと胸を撫で下ろすとともに、信長公が近い月日のうち、二度も戦に向かうという事実が、この城内の誰よりも慈愛のある御濃の方の心を鬱屈させているということが許せなかった。
「では、…濃姫様はこの城でお待ちになられるということですか?」
「ええ。今回も上総介様がお一人で軍を率いるらしいの」
「そうですか…」
御濃の方が小さく一口の大きさに切り分けられた水無月を口に運ぶのを見ながら、千代は先日二の丸の庭に貼り出しがあったのを思い出す。
其処には森蘭丸列びに坂井、池田、佐々を隊列に加えた計二万五千の兵を集結させ北近江へ向かうとの事が書き連ねてあった。
字を何度も練習して学習していた千代はその張り紙を見て明智の名が無いことに不思議に思ったが、それよりも北近江へ出陣ということの方が不思議だった。
先々月の戦でも確か越前の方へ向かっていたはずだが、今回もそちら方面だ。
元々歴史は授業より少し知っている程度にしか覚えていない千代は今がどの辺りでどの戦の場面なのかいまいちピンと来ていないし、そもこの異世界が自分の知っている通りに歴史が進むのかも解らなかった。
「御庭の…政札ですが」
千代がポツリと呟くと、御濃の方はお茶を一口飲んでから喉を落ち着けて頷いた。
「見たのね。書いてある通り今回も北近江へ赴くのよ」
「…そちらには、信長様の妹御様、お市の方様がいらっしゃるのでは」
北近江、即ち越前近江の方角は、お市の方とその婿である浅井長政、また浅井と同盟を結んでいる朝倉が大部分を治めている。
織田家とは少なからず縁のある場所だが、一度目の攻めは同盟に首を降らなかったからではなかっただろうか。
その攻めがどうなったのかは下々に伝えられてはいないため詳細は不明であるが、二度の攻めに赴くということは芳しくなかったのだろう。
「…ええ。市も、辛い立場よ…上総介様の妹として生まれた運命はどんなものか」
「明智様は、お市の方様とは仲が宜しいのですか?今回は外れておりましたが」
聞いていいものか、と思ったが、少しばかりの疑問は消えず、千代は探るように御濃の方へ質を飛ばしていた。
しかし事実、信長公の右腕とも言える将であるはずの明智の名は、あの紙には一切記されていなかったのだ。
「良いか悪いかで言えば、悪くはないわ。……そういえば、千代はまだ市に会ったことがなかったわね」
「ええ、はい」
小さく、何となく話題を外された気がしたが、千代は何も言わず御濃の方の話に頷いた。
実際、この岐阜城へ登城してから千代は割りと多くの名のある武将に目通りしてきたが、その一方、岐阜城に拠点を置いていない武将や奥方には一切会ったことがない。
特段気にはしていなかったし、なによりも、わざわざ御濃の方が紹介するような侍女なのであれば何かしらの婆娑羅があるのでは、と期待される顔も千代は好きではなかったから敢えて会いたいなどと自分から言ったことは一切なかった。
「……多分、近い内に会えるわ」
御濃の方が開かれた襖の向こう、綺麗に整えられた庭をぼんやりと見やりながら呟いた言葉は、千代にはどこか不穏に聞こえた。
「あの、濃姫様。お市の方様も、なにか婆娑羅をお持ちなのですか」
切り替えようとした雰囲気が伝わったのか、御濃の方はにこやかな笑顔になって千代の方へ向き、静かに頷く。
「ええ。市は上総介様と同じ、闇の婆娑羅よ」
「ご兄弟らしく、同じなのですね。色も同じなのですか?明智様のと、信長様のは多少ながら違いますが」
「上総介様と市は同じ色ね。私も詳しくは知らないけれど、婆娑羅は持つ人によって多少の差異はでるのよ」
千代の脳裏に、明智の持つ沼色の靄と信長公の持つ墨色の靄が浮かんだ。
そして未だ見ぬ信長公の妹で、美しいと噂のお市の方とおぼしき女性の姿が墨色となって現れて、霧散した。
「…不思議ですね。私の理解の範疇を越える代物ですね、婆娑羅は」
千代が染々と言うと、御濃の方が可笑しそうに噴き出し、残っていた水無月へ手を伸ばすと一口分へ切り、艶やかな唇を大きく開けてそれを放り込んだ。
満足げに、楽しそうに表情を緩ませながら水無月を咀嚼した御濃の方は、こくんと飲み下すと千代へ黒文字を向けて微笑む。
「私からすれば、千代の方が不思議なのよ?世を越えるだなんて不思議で仕方がないわ。時渡りは度々耳にするけれど」
「そう、ですか。いえ、私自身も不思議です。けれどそのお陰で、私は濃姫様や信長様に拾っていただけましたので、感謝しております」
そう言って千代が恭しく頭を下げれば、御濃の方は静かに息をこぼして笑い、千代の右肩へ手をそっと置いた。
「……はやく、帰られるといいわね」
その言葉は、千代の胸へ静かに響いて消えた。
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政札とは、触れ書きの立札みたいなものです。