姉上御楼上 2017/04了
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「おねえさーん」
緩く柔らかい声が競合地区にある蛸壺の中に響いた。
蛸壺を作り上げた張本人の綾部は穴の縁に膝を着いて下を覗き込む。
「だいじょーぶですかー?」
「平気よ喜八郎君。でも間の悪いことに私、苦無を持っていないのよ」
「そうなんですかあ。それは大変ですねえ…」
綾部の声色は本当に思っているのかどうか判断がつきにくい。
現に少し離れた位置で聞いていた黒門は自分の先輩は落ちた人を助ける気がないのでは、と顔が引きっている。
「僕が出して上げましょうかー?」
そう言いながら片手で愛用の踏鋤を穴の中にいる五月へぷらりと下げる。
運悪く綾部作の落とし穴にハマった五月は、砂や泥をたたき落としながら困った顔で綾部を見上げた。
「…喜八郎君一人だと私を引き上げるのは難しくないかしら?何なら縄梯子をくれると一番有り難いのだけれど」
「おねえさん一人ならだいじょーぶでーす」
こう見えて筋肉は滝よりありますよーと踏鋤を揺らしながら言うが、五月はどうも信用できず、踏鋤をとるのを躊躇う。
どうしようか、と綾部を見上げていると、ひょこりと横から新しい顔が出てきた。
大きな目で五月を見下ろし、さっとその顔は青くなる。
「ちょ、ちょっと綾部先輩!くのたまじゃないですか!」
「そうだよ?」
「そ、そそうだよって!何でそんなに暢気なんですか!」
「伝七ったら煩いなあ」
黒門はぎゃあぎゃあ言いながら綾部へ叫ぶ。
「蛸壺なんかに落として報復されたらどうするんですか!」と喚く黒門に、綾部はきょとりと頭を傾げた。
「おねえさんはそんなことしないよ」
「な、なんで言い切れるんですか?!くのたまなんですよ!」
黒門は訳が分からない!と混乱した目で綾部に迫ってから、ぐるりと穴の底を覗く。
やりとりを見上げていた五月と黒門は、ばちりと視線が合致すると、途端に小さな悲鳴を零して黒門はのぞき込む頭を少し下げた。
「一年生の装束ね。その反応から、随分手酷く下級生ちゃん達にやられたのかしら?」
くすくすと五月は笑い、黒門から面白いと目を離さない。
黒門はその笑ったときに細めた目が、何処かで見た覚えがあった。
くのたまへの恐怖より、目の前の五月への興味が出た黒門は、もう一度ゆっくり覗き込む。
「私は五月。くのたま教室六年い組の平五月よ」
「えっ、あっ…一年い組の黒門伝七です…え…平?」
警戒はまだ解かれていないが、基本的に素直な下級生は、相手から自己紹介をされるといい子の見本のように挨拶を返す。
上級生や教師陣は「そう言うところも治していかなければ忍としてあるまじきこと」と言うが、その言葉の意味ですらまだ一年生達は解っていない。
二年生は理解しているが反射的に返してしまう分及第点だろう。
三年になると警戒心はきちんと心得、上手く交わす者もいれば真っ向から何故名乗らなければいけないと軽い喧嘩腰の者もいる。中にはバカ正直に答えてしまう者もいるが、あれは無意識に答えていいものか見極めて決断しているので大丈夫だろう。
ともかく、そのまだまだ忍に非ずな一年生を見ると、五月は悉く顔も性格も緩くなる。
滝夜叉丸の前ではもっと酷いが。
「そう、伝七君。ねぇ、喜八郎君と一緒に縄梯子を持ってきてくれないかしら」
「おねえさん僕を信用してないんですね」
「してるのよ。でも喜八郎君の腕に私の体重は負担よ。脂肪は少なくても筋肉はあるし、重いの」
「た、助けたら、穴から出ても何もしませんか!」
「ええ、約束するわ」
ふわりと笑った五月に黒門はうっと、顔を赤くする。子供は笑顔のお姉さんに弱いものである。
黒門の横で綾部が「おねえさんはそんなんじゃないって言ったのに、伝七も僕のこと信じてないの」とブツブツ言っているが顔は無表情のままだ。
黒門はそろりと穴から顔を逸らし、綾部へ謝りながら「縄梯子借りてきます!」と駈けていった。
残された綾部は、黒門の後ろ姿を見てから、もう一度五月を見る。
「…伝七行きました」
「そうね。可愛い子。喜八郎君の後輩なの?」
「そう。作法の後輩です。伝七、おねえさんに惚れちゃったらどうするんですかー、顔真っ赤でしたよ」
「ふふ、ないない。あの年頃は年上は憧れか、からかいの対象でしょう」
穏やかに笑う五月に「そんなわけない」と思うが、綾部は言わずに黙った。それにどうせ五月の本性を知れば閉口するに決まっている、とも思った。
遠くから黒門の声が聞こえ、それは走って近付いてきた。
話し声が聞こえるということは、もう一人いるのだろう。
「お待たせしました!綾部先輩!」
息を整えて綾部の横へ来た黒門の手に繋がれていたのは、作法委員長だ。
自分で作った蛸壺を眺めている綾部を見ると、なんなんだ、と怪訝に顔をゆがめた。
「おやまあ」
綾部はぽつりと呟いてから、蛸壺の中へ声をかけた。
それによって立花は底に人がいるのだと漸く気付く。
「おねえさーん、伝七は縄梯子じゃなくて立花先輩連れてきましたー」
「はあ?」
穴の中から帰ってきた返事は、心底棘のある声。
立花は聞き覚えのある声に、黒門と手を繋いだまま穴の縁へ寄り、中を覗き込む。
見上げた顔はやはり良く知っている、五月の顔で、立花は思いっ切り口元をひきつらせた。
それは面白可笑しいのを我慢している顔だと言うことが五月にはすぐに解り、眉間にしわを作り、上を睨み上げる。
隣にいた黒門は小さな悲鳴を上げる。
「ほーう、なんだ、貴様喜八郎の落とし穴に落ちたのか。無様な」
今度は立花の言葉に、黒門は瞠目する。
「その口を閉じろ立花仙蔵、寧ろ私が縫い針で綴じてやろうか私を見下ろすな虫酸が走る」
そして五月の表情と言葉にも黒門は目を丸くする。
だってさっきまであんなに綺麗に笑って綺麗な言葉遣いだったのに!と二人をきょろきょろと行ったり来たり視線を動かす黒門に、綾部は何ともない声でその険悪な空気の真相を告げた。
「お二人は仲が悪いように見えるけれど、本当は仲がいいから気にしない気にしなーい」
「「よくないっ!!」」
「ほーら、仲いいじゃないですか。因みに伝七、教えてあげる。立花先輩はおねえさんが好きで、おねえさんは立花先輩が滝よりサラストランキング上なのが気に入らないんだよ」
綾部がつらつらと黒門に伝えると、立花は綾部の頭にごつりと拳骨を落とした。
ほんの少しだけ血色が良い立花の顔に、黒門は何故かぞっとした。
それは飄々と澄ます顔の立花が年相応な表情をするのを見慣れないためだったが、穴の中から五月は歯に衣着せず、悪態をつく。
「気持ち悪い顔を一年生に見せるんじゃないわよ。伝七君、縄梯子でよかったのよ、寧ろ使えぬ立花仙蔵より縄梯子の方が幾分も使えるのに…伝七君それは先輩の皮を被った敵よ」
「何だと貴様」
「す、すみません…!いや、でも、立花先輩はこう見えて力はありますし、あの、…」
心底困った顔で、ともすれば泣きそうになりながら謝る黒門に、五月はふう、と溜息をつく。
そして諦めたようにもう一度立花を見上げた。
「私が踏子ちゃんを持つから、貴様は喜八郎君を支えろ」
「ふざけるなそんな面倒なことより私がそのままお前を引き上げた方が早い。掴まれ」
そう言うと手を差し出して穴に身を出す立花に、五月はチッと盛大な舌打ちを返した。
綾部は「ふぅん」と言いながら下がってしまったため、穴にぶら下がるのは立花のすらりとした手だけだ。
五月は二度目の大きな舌打ちをする。
立花の眉間にはしわが出来たが、何も言わずに差し出し続けた。
「…チッ…」
三度目の舌打ちとともに、五月が立花の手に掴まると、立花は勢い良く腕を引き上げた。
人一人分を重力を無視して穴から引き上げた立花に、黒門は素直に賛辞の拍手と言葉を贈る。
「ふふん、どうだ。早かっただろう。使えぬ立花という言葉を撤回しろ」
「ドヤ顔腹立つからやめろ少しは使える立花仙蔵」
「素直に礼くらい言えんのか!そもそも何故お前が喜八郎の蛸壺に落ちたのだ情けない」
腕を組みながら鼻を鳴らす立花に、五月は埃を叩き、じろりと立花を睨み上げる。
「は?滝ちゃんのこと考えていたら目の前が突然下がったのよ!私を詰る前に喜八郎君の蛸壺能力を褒めたらどうなんだアホ立花仙蔵!なんせ私が落ちたのだからな!」
「あれー僕のこと褒めてくれたんですか?わーい、おねえさんに褒められた」
「立花仙蔵といると喜八郎君の可愛さが際立つわね…今回は私の完璧なミスだから、喜八郎君は何ら気にしなくていいのよ。助けようとしてくれて有り難う。また滝ちゃんのお話聞かせてね。序でに寝起きの滝ちゃんが見たいから今度お部屋に忍んでも良いかしら」
「五月は相変わらず気持ちが悪いな。…ん?おい、今喜八郎には礼を言ったじゃないか!私には!」
「黙れ立花仙蔵」
ギブアンドテイクの関係だからですよお、と綾部は何とも思っていない顔で立花に告げ、五月には「寝起きドッキリはお断りしまーす」と飄々と伝える。
五月は喚く立花を無視して、黒門へ近寄り、膝を曲げて目線を同じにする。
黒門は立花に一瞬視線をやり、すぐに五月へ目を合わせた。途端にカッと顔が赤くなる。
「伝七君、何を連れてきたかは別として、助けを呼んでくれて有り難う。助かったわ」
「…っ、いえ!今度から、あの、気をつけます…!せん、…、五月先輩!」
赤い顔で必死に言う黒門に、五月は素早く立ち上がり、顔を片手で覆いながら綾部の肩をぐっと掴み、叫ぶ。
「きゃぁああ!五月先輩だって!聞いた喜八郎君!何この子凄く可愛い…!」
「滝の次に、ですね」
「当たり前よ!」
そのやりとりに、黒門は首を傾げる。
「あの、先程から気になっていたのですが、滝、って滝夜叉丸先輩のことですか?」
「ああ、五月は滝夜叉丸の姉だからな」
五月の暴言とスルーから立ち直ったのか、さらりと言った立花に黒門は丸い目をもっと丸くして驚く。
何度も何度も五月の顔と立花の顔を見比べ、「滝夜叉丸先輩の…姉…」と信じられないと言った顔でつぶやいた。
その間にも、五月は立花に突っかかる。
どうも弟の名前を呼び捨てにしたのが気にくわなかったようで、凄まじい覇気で立花を至近距離で睨むが、立花は何処吹く風で五月を流すことに努めた。
「あ、あの、綾部先輩…姉って」
「本当だよ?おねえさん、一、二年生には優しいから、あんな風にはならないと思うけど、伝七もおねえさんの前では滝の話は気をつけてするんだよー」
面倒だからね、と綾部は踏鋤を肩に担いで歩き去る。
あんな風、と言われて黒門は上級生二人をちらりと見て、綾部の言葉を胸刻み込んだ。
「(だって俺、女の人に胸倉掴まれたりされたくない…!)」