五月になります
姉上御家芸
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「平家御当主様におかれましては本日まで大変長い間勉学に励まれ、ようやっと平家当主の後継となられましたこと、大変嬉しく思う所存でございます」
脂の浮く鼻で長々と諂笑 をする男は深く下座で頭を下げ、目の前で胡坐で座る当主をちらりと見る。
その顔には額から鼻筋まで布面が下がり、涼し気な口元しか見えない。顔を隠すということはさぞ醜いのであろうと男はほんの少し同情を寄せた。
先代当主よりも体格は細く、頼りなくは見えるが雰囲気は凛としていて、ただそこに座しているだけだというのに圧が凄まじい。しかし濡羽色の髪は高く結い上げられていて、髷がないためか随分幼い印象もある。
不思議な人間だということしかわからないが、この使者の男はそれよりも当主の後ろに控え座す小姓のような雰囲気の侍女の方が恐ろしかった。
得物を持っているわけでも帯刀しているわけでもないのに、幾分も隙がなく、その両の手さえあればいつでも自分の息の根を止められるのでないかと、無意識に喉を上下させる。
「頭を上げよ。其方こそ、遠路遥々大儀だったな。三浦は遠いであろう」
凛として、少年のような声が響く。男はそろそろと頭を上げて、正面に座する男を見る。
背筋を伸ばし、しゃんと座る当主が身に着ける薄紫と枯葉色の着物が歳嵩を余計に惑わす。
労いの言葉に頭を振り、男、枝野は低頭し、本来の要件である使いの文を差し出し、同盟一筆の旨を話す。
静かに聞き入れ、当主の男は下座にいた小姓に文を持ってくるよう指示をして、自らの手でそれを開き読み進める。文面を検め、そうして深く頷くと、枝野へ後日自分の署名を認めた文持たせて使者を遣わすと約束する。
良い返事を聞いた枝野はまた深々と頭を下げ、謁見の応接間より退室した。
数分待ったのち、当主の男は深い溜息を吐きだし、そのまま何も言わず立ち上がると自室へ滑るように入り、その背後で侍女も室内へ入ると静かに襖を閉めた。
「はあー……本当に低い声出すのって難しいわね。こんなことなら喉潰してしまえばよかったわ」
当主の男、と思われる人間から出たのは高く綺麗な女の声。
そうして面布を剥ぎ取って出てきた顔は平家長女である五月の顔だ。
本来なら嫡男の滝夜叉丸が当主に就くはずではあるが、現状学園の卒業を待っているため二年間は五月が替え玉となって当主を務めあげている。
その間、五月の父、将継が現行すればよいという考えもあったが、もう高齢、そうこうしている間に病で倒れて後継ぎ不在となれば寝覚めが悪い。氏族である北条の当主も将継と同じような年代の為そろそろ危ういであろう。
細い体躯を誤魔化すために着込んでいる上着を脱ぎ捨てると、室内に一緒に入っていた侍女が文句を言いながら拾い、掛け台へ掛ける。
「ちょっと。高価なものなのだから、ちゃんとして。皴になるでしょ」
「それを直してくれるのがツツジの仕事じゃない」
「…あんた、当主になってから自堕落が増えたわね」
「方々の圧が凄いし考えることが多くてしんどいの。しかも滝ちゃんにも会えないし……私生活にも響くってものよ……」
呆れ果てた目で五月を見るのは同じ学園で鎬を削ったツツジだ。
学園からの縁で五月の侍女を務めている。なんだかんだと五月に対して誰にも言えぬ独占欲を持っているツツジは、結局卒業後に離れることを拒んだのだ。
きっとあの若藤の髪を持つ穴掘り小僧も自分と同じ轍を踏むだろうとツツジは考えている。
他にも、平家には学園の仲間が数人在籍している。
「それで、同盟は美味しいものなの?」
「そうねぇ……、特にうちへのメリットはないし、かといってデメリットもないわ。それにこれは北条家の同盟後押しの署名だし、氏長 様は潔白ですよー同盟してもいいんじゃないですかーっていう程度のものだしね。夕刻に署名して使者に渡すわ」
「そう。小田原に向かわせるのでしょ? 普通だと半日はかかるけれど、秋穂に頼むの?」
文机の前に置いてある座布団に静かに座った五月は、顎に手を当ててツツジの提案に思案する。
確かに足の速い秋穂であれば半日を割る勢いで届けてくれるだろうし、道中何かあっても腕に覚えがあるため安心ではある。けれどここ最近の情勢を思うとキナ臭い部分が他国で見え隠れする。
有事の際に困るため、あまり兵力を分散したくないのも事実だ。
「他のに頼むわ。万が一を考えておかないと。長次君はもう戻る頃合い? 何かあっても、父上の忍軍と、かか様の侍共、そこへ長次君と秋穂がいれば万全だけれど」
五月が当主となる前、先の戦いで氏族の北条は水軍戦での痛手を負った。
それを皮切りにこの三浦衣笠に平家を移住させたのは里見らを見張らせるためだ。敗戦を喫したくせにまだ上総を目論もうとする北条に五月は辟易とするが、そこは氏族・御屋形様の言いなりになるしかない。
合戦では内通者のせいで負け戦となったのを鑑みてか、北条はやけにそこを探らせ炙り出そうとする。
平家が忍の学園に入っていたのと将継の出自を見越しての山城移転だった。
言うなれば平家は北条お抱えの忍の一家という立ち位置であり、やはり仕事や題目も諜報のようなものが多い。
平家は天下を狙うわけではないため別段そこに思い入れはない。ただ、きちんと働いた分の報酬さえ出ればそれでいいのだ。
風の噂では、平家は東の傭兵一族風魔と並び称されているとかいないとか。
しかもその風魔ですら、北条が召し抱えている現状、どれだけ裏切りが怖いのだと五月は踏ん反り返っているはずの爺に呆れと同情を向けるほかない。
まずは関東平定を目論むと豪語する爺も五月から見れば頭に座布団を被って震えているようにしか思えなかった。
「そうね。……中在家が戻れば、少し私と入れ替わるわ。武田領が動いていると情報があったから」
「諜報は別に長次君でもいいじゃない。どうしてわざわざツツジが行くの」
「……はあ…久々に会えるのだからめいいっぱい中在家に甘えればいいのにという私の寛大な心遣いがわからないとは」
呆れたツツジが大袈裟なまでにリアクションをすれば、白い頬が一気に赤く染まる。
ひと月前に中在家が里見側へ偵察に向かってからというもの、何かにつけて話題に出し、かつ心配そうに空へ向かってため息を出していれば嫌でも二人の時間を作ってやろうとツツジは思わされた。だというのに本人は全く無自覚だというのだから困る。
「そういう……よくわからない援護射撃みたいなの、もういいわよ」
「あ、そうそう。二年間は子供作っちゃダメなの、わかってる?」
「ツツジ!」
羞恥に顔を染めて少し潤んだ瞳で睨み上げてもツツジはどこ吹く風。
言われずとも理解していると五月がツツジに文句を飛ばそうとすれば、バタンと板を外して天井裏から秋穂が顔を覗かせた。
逆様になって浅紫色の柔らかい髪をぶらりと垂れ下げたまま、五月を見つけるとにんまりと目元だけで笑む。音もなく舞い降りるとそのまま五月へ体当たりのように抱擁をかました。
「ただいまー! 寂しかったよ五月ちゃーん!」
「はい、お帰りなさい。今回も無事の様で安心したわ」
「五月ちゃんのところへ戻ってこないとだからね、絶対足だけは怪我しないようにしてるよ!」
「そう、偉いわね。ありがとう秋穂」
褒められた秋穂は飼い犬のごとく五月へ頭を擦り付け、尻尾があれば引き千切れんばかりに振っているだろう喜びを全身で表す秋穂に、ツツジは大きな溜息をつく。
誰も見ていないからいいとはいえ、今はもう同級生ではなく主と部下、ひいては忍など武器なのであってこう対等に話す立場ではない上に、本来なら勝手に私室へ入り抱き着くなど言語道断なのだ。とは言いつつも自分も同じような立場なのに敬う言葉すら使っていない時点で似たり寄ったりなのだが、と頭を振った。
秋穂は抱き着いたまま五月の耳元で任務の報告をすると、文机の上の書簡に目を留める。
「あれ、またお届け物?」
「いえ、これは別の人間に頼むわ。秋穂は暫くお休み。いつ里見が……いえ、武田かしら。秋穂、婚約祝い後の武田と織田の雰囲気はどうだった?」
秋穂を引き離して、五月は文机の上の書簡を広げて、先程の北条使者からの文ももう一度確認する。
しっかり御屋形様の花押が捺されている文には同盟後押しのこと、それから有事の際には一族郎党戦に出る旨をのたのたと書かれている。別に忍ばせていた諜報の者から先月に届いていた書簡には織田家と武田家の婚約祝いについての情報があり、それを秋穂に目で確かめさせに行っていた。
「うん。ほんわかって感じ。でもそれより幕府様が越前を出た。近辺の奴らの動き的に、もしかしたら織田は入洛するかもしれない。幕府様も同じように浅井や六角引き連れて京へ向けて動いてる」
「そう……もしかしたら噂程度になっているあの話、本格的になるのかもね」
秋穂が首を傾げれば、ツツジが五月の言葉を補足する。
「征夷大将軍にするかもってことよ。織田を」
「そうなの? どこの噂? 私探ってた時、京付近の人間からは聞こえなかった」
五月は暫く真っ白の紙を目前に悩んでいたが、漸く筆を取って文を認める。
同盟は後押しさせてもらうが、中央との有事の際には後ろから挟まれれば一溜りもないので平家はそのまま残り、里見からの攻撃を防ぐに徹する旨を書き連ね、そうしてもう一通にはただ単に同盟後押しの旨のみ書く。
二つに花押を描いて乾くまで放っておくと、届いていた書簡と文を持って中庭に続く縁側へスタスタと歩き、ポイと地面へ打ち捨てた。
それを後ろから見ていたツツジは用意良く火打ちを持って庭へ降り、紙へ火をつけて燃やす。
「学園側からほんの少し情報がもらえるし、西にある城には善法寺がいたでしょう」
「え? あ、噂」
「そう。アレがいる城は弱小とは言え、忍軍は一流よ。宝の持ち腐れね……というより、玉を懐いて罪有りかしら」
「雑渡が玉ァ? じゃあ、私、雑渡に勝てたら五月ちゃんの玉になれる?」
「あら、秋穂は既に私の玉 じゃない。それにあそこと戦っても利益はないわ。手を結ぶ方が有益よ。善法寺もチラチラとだけど情報をくれるしね」
ゴウゴウと燃える書簡を見つめ、五月は頭の中で二年後までなんとか家を存続させ、戦火を掻い潜らなければいけないと様々な情報を引っ張り出して考える。
滝夜叉丸のためにも、安寧な道をなるべく敷いてやりたい。
ひとまずは武田だ。
そもそも御屋形様の采配のせいで戦とならんとしているわけだが、織田が征夷大将軍となるのであれば武田もすぐにでも動くだろう。
何よりも天下を狙う男なのだし、織田と武田は現在同盟を結んでいるため、一先ず手っ取り早く駿河への侵攻はされると五月は踏んでいる。
それは御屋形様も考えているため、そのための今回の越相同盟だ。
それに乗じて確かに里見が動かないとも言えない。挟み撃ちなどされれば今川諸共討ち死には目に見えているのだからこそ、平は動かない。
弟が当主として花を咲かすまで死んでなるものか。
そのうちの鞍替えも視野に入れつつ五月は胸中で戦火に近い西にいる弟を案じた。
脂の浮く鼻で長々と
その顔には額から鼻筋まで布面が下がり、涼し気な口元しか見えない。顔を隠すということはさぞ醜いのであろうと男はほんの少し同情を寄せた。
先代当主よりも体格は細く、頼りなくは見えるが雰囲気は凛としていて、ただそこに座しているだけだというのに圧が凄まじい。しかし濡羽色の髪は高く結い上げられていて、髷がないためか随分幼い印象もある。
不思議な人間だということしかわからないが、この使者の男はそれよりも当主の後ろに控え座す小姓のような雰囲気の侍女の方が恐ろしかった。
得物を持っているわけでも帯刀しているわけでもないのに、幾分も隙がなく、その両の手さえあればいつでも自分の息の根を止められるのでないかと、無意識に喉を上下させる。
「頭を上げよ。其方こそ、遠路遥々大儀だったな。三浦は遠いであろう」
凛として、少年のような声が響く。男はそろそろと頭を上げて、正面に座する男を見る。
背筋を伸ばし、しゃんと座る当主が身に着ける薄紫と枯葉色の着物が歳嵩を余計に惑わす。
労いの言葉に頭を振り、男、枝野は低頭し、本来の要件である使いの文を差し出し、同盟一筆の旨を話す。
静かに聞き入れ、当主の男は下座にいた小姓に文を持ってくるよう指示をして、自らの手でそれを開き読み進める。文面を検め、そうして深く頷くと、枝野へ後日自分の署名を認めた文持たせて使者を遣わすと約束する。
良い返事を聞いた枝野はまた深々と頭を下げ、謁見の応接間より退室した。
数分待ったのち、当主の男は深い溜息を吐きだし、そのまま何も言わず立ち上がると自室へ滑るように入り、その背後で侍女も室内へ入ると静かに襖を閉めた。
「はあー……本当に低い声出すのって難しいわね。こんなことなら喉潰してしまえばよかったわ」
当主の男、と思われる人間から出たのは高く綺麗な女の声。
そうして面布を剥ぎ取って出てきた顔は平家長女である五月の顔だ。
本来なら嫡男の滝夜叉丸が当主に就くはずではあるが、現状学園の卒業を待っているため二年間は五月が替え玉となって当主を務めあげている。
その間、五月の父、将継が現行すればよいという考えもあったが、もう高齢、そうこうしている間に病で倒れて後継ぎ不在となれば寝覚めが悪い。氏族である北条の当主も将継と同じような年代の為そろそろ危ういであろう。
細い体躯を誤魔化すために着込んでいる上着を脱ぎ捨てると、室内に一緒に入っていた侍女が文句を言いながら拾い、掛け台へ掛ける。
「ちょっと。高価なものなのだから、ちゃんとして。皴になるでしょ」
「それを直してくれるのがツツジの仕事じゃない」
「…あんた、当主になってから自堕落が増えたわね」
「方々の圧が凄いし考えることが多くてしんどいの。しかも滝ちゃんにも会えないし……私生活にも響くってものよ……」
呆れ果てた目で五月を見るのは同じ学園で鎬を削ったツツジだ。
学園からの縁で五月の侍女を務めている。なんだかんだと五月に対して誰にも言えぬ独占欲を持っているツツジは、結局卒業後に離れることを拒んだのだ。
きっとあの若藤の髪を持つ穴掘り小僧も自分と同じ轍を踏むだろうとツツジは考えている。
他にも、平家には学園の仲間が数人在籍している。
「それで、同盟は美味しいものなの?」
「そうねぇ……、特にうちへのメリットはないし、かといってデメリットもないわ。それにこれは北条家の同盟後押しの署名だし、
「そう。小田原に向かわせるのでしょ? 普通だと半日はかかるけれど、秋穂に頼むの?」
文机の前に置いてある座布団に静かに座った五月は、顎に手を当ててツツジの提案に思案する。
確かに足の速い秋穂であれば半日を割る勢いで届けてくれるだろうし、道中何かあっても腕に覚えがあるため安心ではある。けれどここ最近の情勢を思うとキナ臭い部分が他国で見え隠れする。
有事の際に困るため、あまり兵力を分散したくないのも事実だ。
「他のに頼むわ。万が一を考えておかないと。長次君はもう戻る頃合い? 何かあっても、父上の忍軍と、かか様の侍共、そこへ長次君と秋穂がいれば万全だけれど」
五月が当主となる前、先の戦いで氏族の北条は水軍戦での痛手を負った。
それを皮切りにこの三浦衣笠に平家を移住させたのは里見らを見張らせるためだ。敗戦を喫したくせにまだ上総を目論もうとする北条に五月は辟易とするが、そこは氏族・御屋形様の言いなりになるしかない。
合戦では内通者のせいで負け戦となったのを鑑みてか、北条はやけにそこを探らせ炙り出そうとする。
平家が忍の学園に入っていたのと将継の出自を見越しての山城移転だった。
言うなれば平家は北条お抱えの忍の一家という立ち位置であり、やはり仕事や題目も諜報のようなものが多い。
平家は天下を狙うわけではないため別段そこに思い入れはない。ただ、きちんと働いた分の報酬さえ出ればそれでいいのだ。
風の噂では、平家は東の傭兵一族風魔と並び称されているとかいないとか。
しかもその風魔ですら、北条が召し抱えている現状、どれだけ裏切りが怖いのだと五月は踏ん反り返っているはずの爺に呆れと同情を向けるほかない。
まずは関東平定を目論むと豪語する爺も五月から見れば頭に座布団を被って震えているようにしか思えなかった。
「そうね。……中在家が戻れば、少し私と入れ替わるわ。武田領が動いていると情報があったから」
「諜報は別に長次君でもいいじゃない。どうしてわざわざツツジが行くの」
「……はあ…久々に会えるのだからめいいっぱい中在家に甘えればいいのにという私の寛大な心遣いがわからないとは」
呆れたツツジが大袈裟なまでにリアクションをすれば、白い頬が一気に赤く染まる。
ひと月前に中在家が里見側へ偵察に向かってからというもの、何かにつけて話題に出し、かつ心配そうに空へ向かってため息を出していれば嫌でも二人の時間を作ってやろうとツツジは思わされた。だというのに本人は全く無自覚だというのだから困る。
「そういう……よくわからない援護射撃みたいなの、もういいわよ」
「あ、そうそう。二年間は子供作っちゃダメなの、わかってる?」
「ツツジ!」
羞恥に顔を染めて少し潤んだ瞳で睨み上げてもツツジはどこ吹く風。
言われずとも理解していると五月がツツジに文句を飛ばそうとすれば、バタンと板を外して天井裏から秋穂が顔を覗かせた。
逆様になって浅紫色の柔らかい髪をぶらりと垂れ下げたまま、五月を見つけるとにんまりと目元だけで笑む。音もなく舞い降りるとそのまま五月へ体当たりのように抱擁をかました。
「ただいまー! 寂しかったよ五月ちゃーん!」
「はい、お帰りなさい。今回も無事の様で安心したわ」
「五月ちゃんのところへ戻ってこないとだからね、絶対足だけは怪我しないようにしてるよ!」
「そう、偉いわね。ありがとう秋穂」
褒められた秋穂は飼い犬のごとく五月へ頭を擦り付け、尻尾があれば引き千切れんばかりに振っているだろう喜びを全身で表す秋穂に、ツツジは大きな溜息をつく。
誰も見ていないからいいとはいえ、今はもう同級生ではなく主と部下、ひいては忍など武器なのであってこう対等に話す立場ではない上に、本来なら勝手に私室へ入り抱き着くなど言語道断なのだ。とは言いつつも自分も同じような立場なのに敬う言葉すら使っていない時点で似たり寄ったりなのだが、と頭を振った。
秋穂は抱き着いたまま五月の耳元で任務の報告をすると、文机の上の書簡に目を留める。
「あれ、またお届け物?」
「いえ、これは別の人間に頼むわ。秋穂は暫くお休み。いつ里見が……いえ、武田かしら。秋穂、婚約祝い後の武田と織田の雰囲気はどうだった?」
秋穂を引き離して、五月は文机の上の書簡を広げて、先程の北条使者からの文ももう一度確認する。
しっかり御屋形様の花押が捺されている文には同盟後押しのこと、それから有事の際には一族郎党戦に出る旨をのたのたと書かれている。別に忍ばせていた諜報の者から先月に届いていた書簡には織田家と武田家の婚約祝いについての情報があり、それを秋穂に目で確かめさせに行っていた。
「うん。ほんわかって感じ。でもそれより幕府様が越前を出た。近辺の奴らの動き的に、もしかしたら織田は入洛するかもしれない。幕府様も同じように浅井や六角引き連れて京へ向けて動いてる」
「そう……もしかしたら噂程度になっているあの話、本格的になるのかもね」
秋穂が首を傾げれば、ツツジが五月の言葉を補足する。
「征夷大将軍にするかもってことよ。織田を」
「そうなの? どこの噂? 私探ってた時、京付近の人間からは聞こえなかった」
五月は暫く真っ白の紙を目前に悩んでいたが、漸く筆を取って文を認める。
同盟は後押しさせてもらうが、中央との有事の際には後ろから挟まれれば一溜りもないので平家はそのまま残り、里見からの攻撃を防ぐに徹する旨を書き連ね、そうしてもう一通にはただ単に同盟後押しの旨のみ書く。
二つに花押を描いて乾くまで放っておくと、届いていた書簡と文を持って中庭に続く縁側へスタスタと歩き、ポイと地面へ打ち捨てた。
それを後ろから見ていたツツジは用意良く火打ちを持って庭へ降り、紙へ火をつけて燃やす。
「学園側からほんの少し情報がもらえるし、西にある城には善法寺がいたでしょう」
「え? あ、噂」
「そう。アレがいる城は弱小とは言え、忍軍は一流よ。宝の持ち腐れね……というより、玉を懐いて罪有りかしら」
「雑渡が玉ァ? じゃあ、私、雑渡に勝てたら五月ちゃんの玉になれる?」
「あら、秋穂は既に私の
ゴウゴウと燃える書簡を見つめ、五月は頭の中で二年後までなんとか家を存続させ、戦火を掻い潜らなければいけないと様々な情報を引っ張り出して考える。
滝夜叉丸のためにも、安寧な道をなるべく敷いてやりたい。
ひとまずは武田だ。
そもそも御屋形様の采配のせいで戦とならんとしているわけだが、織田が征夷大将軍となるのであれば武田もすぐにでも動くだろう。
何よりも天下を狙う男なのだし、織田と武田は現在同盟を結んでいるため、一先ず手っ取り早く駿河への侵攻はされると五月は踏んでいる。
それは御屋形様も考えているため、そのための今回の越相同盟だ。
それに乗じて確かに里見が動かないとも言えない。挟み撃ちなどされれば今川諸共討ち死には目に見えているのだからこそ、平は動かない。
弟が当主として花を咲かすまで死んでなるものか。
そのうちの鞍替えも視野に入れつつ五月は胸中で戦火に近い西にいる弟を案じた。