玉依姫(五年) 2017/12了
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私の悪口が学校内で当たり前になった。
いい八つ当たり先を見つけた同級生は、
初めは泣いて塞いでいた私だったけれど、徐々に心が冷えてきた。
みんな自分の事ばかりで、汚い。
自分さえよければ、他人の心の傷なんてどうでもいいんだ。
三郎様の言う通り、嫉妬は醜い。
私は楽なんてしてないし、なんなら普通に大学進学だってしてみたい。
けれど彫金師になると言えば父が喜ぶのだ。
季節はもう息が白くなるほど進んだ。
行き帰りは手先が
学校からの帰り道、私はいつもとは少し外れた通学路から帰路についていた。
川が流れる畦道を横目に、舗装された道を歩きながら空を見上げる。
鉛色の空はあと少しすれば雪でも舞いそうだ。
冷たい空気は私の冷めた心に馴染むようで、少し痛い。
ふと泣きそうな感情が押し寄せてきた。
もう、嫌だなぁ。
あと少しの辛抱だけど、やっぱり私が悪いのかなぁ。
我慢しなきゃいけないのかなぁ。
そんな色々な考えが巡るなか、私は立ち止まって静かに流れる川をじっと眺めた。
「冷たそう」
呟いてからすぐ、私は川へ歩いていってローファーとタイツを脱いで鞄にタイツを押し込むと、ローファーを片手に持って川の中へザブザブ進んでいった。
あ。冷たい、ようで普通。
寧ろ水の中のが暖かいような気もする。
さらさらと私の足首より上を触って流れていく水流が気持ちいい。
何だか、私の嫌なものが全部、流れていってくれてるみたい。
暫くじっとその足にまとわりついて消えていく水流を眺めていたけれど、ふと視線を感じて顔を上げた。
同じように、川の中に佇む男の人が私を見ている。
黒く柔らかで豊かな髪に、白い肌。大きいけれどつり目がちの目。
美しい、と言える顔立ちの人だ。
けれどその着ているものは、珍しく、そして既視感がある。
一般的ではない、白い水干のような形に紺の袴、片側にその豊かな黒髪を流して結んでいるものは、紺の組紐だ。
ああ、もしかして三郎様や雷蔵様と同じ倦属なのかもしれない。
私がじっと見ていたからか、その人は少しだけ頭を下げるように頷いて、そしてザブザブと音を荒く立てて近付いてきた。
私は慌てたけれど、立ち尽くしたままでその人が至近距離に来るまでその場に突っ立っていた。
「冷たくないのか?」
睫毛長いなぁ、目も黒と紺を混ぜた色で深海のようだ。
声も高すぎず低すぎず、調度良い心地好さだ。
ぼうっとしたまま見上げていれば、さらりと髪を流して首を傾げられた。
「あ、いえ。気持ちいいです。水の中のが、暖かいくらいです」
返事を返してから、この間、勘右衛門さんや雷蔵様達から「矢鱈と言葉を返すな」と言われていたのを思い出す。
ああやってしまった。
何かあったら、やっぱり叱られるんだろうなぁ。
2回目だし、今度は助けてくれないかも。
でも玉依姫だとか言われていたし、助けてくれる?
そもそも玉依姫ってなんだろう。
雷蔵様が教えてくれた気もするけど、あまり覚えてないな。
またちゃんと勉強しなければ。
頭の中で色々考えていると、低い笑い声が聞こえた。
見れば、彼は可笑しそうにクツクツと笑っている。
手を口許に当てて、目を細めて私を見ながら。意外にもその手は節が多い。
「……どうして笑っているんですか」
「いや、お前は顔に出やすいなと思ったのだ」
表情がよく変わるな、と言われて少し恥ずかしくなった。
「俺は
自己紹介をしてきた彼は、ゆるりと目尻を下げた。
睫毛が目尻に少し掛かって影を作る。
「み、くまりのかみ?」
「ああ。水神であり、分配を司る。この川の…言うなれば主というものなのだ」
「…水神様でしたか。どうりで清廉な雰囲気だと。私は飯綱弥咲です」
ぺこりと頭を下げれば手に持ったローファーがポコンと揺れた。
くつくつと兵助様が笑うので、私は少しだけ首をかしげる。
何かおかしかったのだろうか。
「あの……?」
「いや、警戒心がないと思って。今時の子にしては珍しいのだ。…ところで、何をしていたのだ?」
そっか、水神様と言っても、安直に信用してはいけないんだった。
神様にも色んなタイプがいることを先日三郎様達に教えてもらったばかりだったのに。
けれど何となく、この兵助様は悪い神様に見えなくて心が落ち着くような気がした。
この川の神様だし、私に何かするつもりなら足を突っ込んでいるから簡単に出来てしまうのだろうなぁ。
そうなっても、いい気はする。
兵助様のようなお綺麗な神様に召されるなら、いい最期じゃないか。
あ、でもそれだと三郎様と雷蔵様に物凄く叱られそうだなあ。
「……おい?」
「あ、あ、ごめんなさい。…ええと、……足を水に晒してました」
呼び掛けにハッとして戻ってきた私がポツポツと言えば、兵助様は首をかしげる。
黒く豊かな髪が少しだけ右に揺れて流れた。
「この寒い時期に水浴びとは可笑しな人間なのだ。皆一様に厚着をしているから、それなりに寒いんじゃないのか?」
「…神様は、温度は感じ取れないのですか?」
「全員と言うわけではないよ。ただ、俺は寒さには鈍感だ。逆に暑さには弱くて、日照りが続くと少し困るのだ」
少しだけ眉尻を下げてへらりと笑った兵助様は、なんだか妙に人間臭くて、親近感が沸いた。
私はどんどん足の感覚が鈍くなっていくのを無視して、兵助様に少しだけ近寄った。
「時に弥咲。足は痛くないのか? 変色が来ているけど」
その言葉通り、確かに私の足首は少し赤みが強くなっており、他者から見れば痛そうに見えるような色味だ。
実際は痺れるような感じで感覚はほとんどないのだが。
それがもうだいぶと冷たさのせいで感覚が麻痺しているせいなのだと気付くことはなかった。
「冷たさはいまいち感じません。兵助様は、冷たくないのですか?」
彼の足首も私と同じように水に浸かっている。
私がじっとその場所を見ていると、兵助様は「ああ…」と呟いて片手を持ち上げ、掌を水面に向けて翳した。
途端に彼の足首周りにあった水がぐにゃりと歪み、兵助様の足元にはぽかりと空間が出来て川底が顔を見せた。
「す、ごい……神通力ですね!」
「いや、神通力とは少し勝手が違う。この川は俺自身であり俺の倦属であり、…まあ、兎に角、俺の意思で動かせるのだ。だから俺が濡れることはないんだ」
少し複雑そうな顔をした兵助様は、そう言うともう一度手を翳して、今度は私の足首周りの水をぽかりと開けた。
途端に足に寒さが訪れる。
つんざくように冷たい冬の空気が、風に乗って私の肌を刺していく。
「俺では暖かさの調節は出来ない。水分は取ってあげたから、早くその布を履いて、履き物を履くといいのだ」
促され、渋々その場でタイツを履く。
スカートの下まで来た時、兵助様は顔を逸らして私を見ないようにしているのが少し可笑しかった。
「兎に角岸まで行こう。俺の姿は常人には見えない。弥咲一人が此処にいるように見えているから、人間の常識だとそれはおかしいだろう」
そう言うと兵助様は私の背を軽く押して、岸まで歩かせる。
私が歩く先の水は全て消え、川底が顔を見せて私の道を作ってくれていた。
兵助様の気遣いに喜び半分、畏れ半分で岸まで辿り着くと、兵助様はすとりと大きな石の上に座った。
その下に、石を背凭れにして私が座れば兵助様が「人の世は」と呟く。
声を聞きながら、黒いタイツに覆われた足首に手を当てると、ひんやりとした冷たさが掌に移った。
「何かと面倒そうだな」
「…そうですね。神様からすれば、面倒だと思います。腹に一物抱えて過ごして、言葉と心は正反対。素直にものを言えば攻撃されて、自分を卑下して謙遜して生きなきゃいけない。けれど謙遜しすぎると今度はそれが仇となって嫌われて……」
何故か、すらすらと言葉が口から滑り落ちる。
三郎様にも雷蔵様にも愚痴ったことのない言葉が、さっき会ったばかりの川の神様に溢せることが不思議でしかたがなかった。
人間の愚痴なんて聞かせてはいけないと思うけれど、頭を占領するのはクラスのあの子達の高い笑い声や罵声で、どうしても口が止まらなかった。
最初は、落ち度なんてなにもなかったはずの私の人生が、こうも簡単に転がり落ちるものなのかと驚いた。
けれどそれは段々と心を麻痺させていって、今じゃ彼女達が憎くて仕方がない。
それなのに何かを怖がって私は口をつぐんでただひたすら、彼女達の言い分を受け止めている。
それがもう、だいぶ限界に来ていた。
本当はこの川をもっと下って、深いところまで進んでしまおうと思っていた。
そんなこと、神様には言えないけれど。
ちらりと兵助様を見上げれば、うんうんと神妙な顔で私の話を聞いていたようで、私とパチリと視線が混じった。
するりと兵助様が石の上から降りてきて、今度は私の隣に座った。
そして、暫く顎に手を置いて思案したかと思えば、ゆったりと私の頭へ手を伸ばし、緩く髪を撫でられる。
「へ、いすけさま?」
「人間はよく頭を撫でるだろ? 聞いていれば、頑張った者や愛しい者、幼子、そう言った類いで撫でているようなのだ。だから、弥咲も、よく頑張っているのだなと言う意味で、撫でてみたのだ」
ゆるりと口の端を上に持ち上げて、笑顔を浮かべる兵助様は美しい。
緩くうねる豊かな髪は、夕日を受けて綺麗に縁取られている。
嗚呼、本当に神様なのだと納得する美しさだった。
途端に、私の視界がぼやけ、するすると音もなく頬を滴が伝った。
「よしよし。弥咲はよく頑張っているのだ。面倒で不可思議な人の世を、精一杯生きている。俺は素晴らしいと思うよ。神の身である俺がもし万が一、人の世に生を受けていたら、…弥咲のようにはうまく生きていけなかったかもしれないなぁ」
兵助様の言葉は、痛くて、優しくて、不思議な程慈愛に満ちていて、私の心をじんわりと暖かくする。
堰を切ったように私の涙は溢れて、ボロボロと大きな滴が落ちていく。
右手で頭を撫で、左手で私の右頬に手を添えて親指で涙を掬う兵助様は、困った風もなく柔らかい笑みのままだ。
「ご、めんなさ……ごめんなさい、っ、わたし……」
嗚咽が混じってしまって、上手く言葉にならなくて、いっぱいいっぱいな私はぎゅうっと目の前の兵助様の白い服を握り締める。
「気にしなくていいのだ。弥咲がその命を無駄にしなくなるまで、涙を流せばいい。…ごめん、川に入った瞬間から弥咲の深い心情は伝わってきたのだ……だから、止めようと思って」
「ば、れてたん、ですね……ごめんなさい」
涙をぼとぼと落としながら、バレていた気恥ずかしさとまんまと兵助様に自殺を止められた芯の無さに、へらりと笑いが込み上げる。
すると兵助様は撫でる手を止め、私の脇の下に急に手を差し込むと、今度は自分の膝の上にひょいと乗せ、ぎゅうっと抱き締めてきた。
突然の事に目を白黒させると、兵助様はくつくつと笑う。
「この間河川敷で喧嘩をしていた男女が、最終的にこうして笑いあっていたのだ。涙を流していた者もスッと泣き止んでいた。心を穏やかにするんだろう? 弥咲の平穏になればいいなと思って」
兵助様の低く穏やかな声が耳元で聞こえて、私は熱い顔のまま慌ててこの体勢の意味を教えることとなり、兵助様が頭を下げてくるまでもう少し。
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