姉上御楼上 2017/04了
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鹿威しの音がして、暫くするとヘムヘムがお茶を持って室内に現れる。しかしそれもすぐに退出し、室内は再び静寂が訪れた。
ずず、と茶を啜る音の後、漸くこの学園の長である、大川が口を開く。
「…漸くじゃな」
五月は髪の音だけをさせて、静かに頭を下げた。
「大変長らく、お世話になりましたこと、心より感謝いたします。まだまだひよっこの私でございますが」
「ああ、よい。そのように堅くならずとも、ワシはそなたの主ではないのじゃ」
ぴくりと、畳につけていた指先が動いたが、ゆっくりと瞬きをして五月は自然な動作で頭を上げる。
「いえ、まだこの学園にいる間は、学園長先生は我ら卵の主です」
やんわりと告げれば、大川はカッカッと笑う。
「…して、山本シナ先生からは少ししか聞いておらぬが、そなた、卒業後は決まったのか?」
五月は少しだけ目線を下げて、ゆらゆらと立ち昇る、少し薄くなった湯気を見る。
陽炎のようで、見ようと凝らせば凝らすほど、わからなくなる。
「…ええ、もう、決まりました。考える時間を下さり、ありがとうございます」
「いやなに、よいのじゃ。生徒達の人生、ワシらがするのは歩きやすいように杖を授けることだけ。その先の道を決めるのは各々じゃろうて」
笑いながら大川は、音を立てて茶を啜り、干菓子を摘まんで口の中へ放り投げた。
「ふうむ、うまい!」
片目を開いて笑む大川に、五月は肩の力を抜いた。
「先生。私の先については、何もお聞きになられないのですか」
その言葉に、大川は少しだけ眉を潜めたが、すぐに口を開く。
「教師としての立場であれば聞かねばなるまい。一介の老人という立場であれば、特に聞く義務もあるまいて」
穏やかに笑いながら言う大川に、五月はひどく安心した。
それから、あと数日でこの学園から去り、自分の境遇ががらりと変わることに少し恐怖を抱いた。
「では…学園長先生…いえ、大川様。私の独り言、聞いてくださいませんか?」
小首を傾げ、ゆるりと五月が笑めば、大川は片目を開く。
その眼は大きく丸く開かれているが、次第にゆっくりと閉じた。それを見届けてから、五月は静かに口を開く。
「私、卒業したらこの学園を出て、実家に帰るのです。実家に帰れば、一先ずは政に関しての勉強や、当主としての作法手習いばかりするかと思います。学園で過ごした日々の様に、…任務などのように、敵地に忍ばなくても、生死をかけた日々を過ごさなくても…よくなるのです。それが幸せなのかは、私にはわかりません。私は、…仮の当主なので、弟が学園を卒業する二年後、その座を退きます。恙無く。そうして、その後は…あの子がいろ、と言えば家の御着きになりますし、去れと言えば商いでも始めます」
五月は震える声で、けれどその表情は穏やかに語る。
「山本先生には、くのたまの教師として就任すればよいともいわれましたが、子供に何かを教えるのは、私には不向きです。護ることはできても、示教することはできません。だって、私が迷っているのですもの。迷い生きている人間には、別の人間を導くことはできません。杖を、授けることもできません」
どうあっても、私は盾にしかなれないのだと、小さく呟いた五月に、大川は息をつく。
大川は長く生き、様々な人間を見てきた。時代的にも、この平五月のように家に縛られる人間を億ほども。
源平からされ何百年、時代は変わったのだと思っても、まだまだ御家掟というものは凝り固まってこびりついている。雁字搦めの柵の中で言われるがまま成長して、なにが大人か。
「私、本当に弟は大好きです。しかし、あの子の為にと思うこの感情がなんなのかは、わかりません。自分の意思がないわけでもないのです。ただ、只管…自分よりもあの子を優先しなければいけないと、私の心が叫ぶのです。前世の因果でもあったのでしょうか。私は…私達平家は、時の合戦に敗れました。それに関しては幾代も前の話なので、私達後の者からすればお伽話や英雄譚のようで、思い入れもなにもありません」
呟くように話す五月の頭には、鉢屋の言葉が巡る。
「…以前、何処かの誰かに言われました。私達は上に立つ人間であり、曳いては別の一族ですらその統制の為に尽力を尽くす様な家なのだと。…もう、時代は終わりなはずなのです。平家の時代は。落魄れて、都落ちした我らに何を成せと言うのか。時は足利政権、それすら今は危うくなり、また再び世は変わろうとしております。既に源平の時代は終わっております。今更何を」
話しているうちに、五月の目には涙が浮かぶ。
今は平然と「平」と名乗ってはいるが、昔は表向きは後北条の家であった。
隠されて育った寵姫である母の喜美は今更「平」と名乗ったところで誰も何も勘繰るまいと考え、夫で忍び頭の将嗣と共に家を出て後ろ盾は後北条の、あの平とは何も関わりのない「平家」を作り上げた。
叔父達からは下手な動きをすればと、釘を刺されてはいるが、そこは聡明怜悧な母と実力で伸し上がった父。うまくやって家を大きくし、今では何千石の家となっている。上総を統一など考えてはいなかったが、父の心に動かされて、着いてくる部下が多い今の平家は、今や後ろ盾であったはずの本家後北条と引けを取らないくらいの兵力がある。
それを、丸々継ぐことになるのが、滝夜叉丸だった。
五月はぐ、と拳を握りしめる。
「何がいいのか、わかりません。我らは統一など狙っておりませんが、天下を目論む輩に黙って蹂躙される気も毛頭ありません。なればやはり戦になります。それをあの子が指揮できるのか、平家の重圧に潰されないか。全てが心配です」
「ふうむ…面白い」
大川の妙な返事に、五月はぱっと顔を上げてそのしわくちゃの翁を見る。
「学園…大川様、何を」
「いやなに、継ぐのはどうだとか言う割には、お主の考えはもう、当主のソレじゃよ」
「あ…」
その言葉に、五月は震える。
いつの間に、と思った。いつから家の事ばかりを、家の存続の事ばかりを考えていたのだろか。
五月は、一瞬で全てを悟り、笑う。
「、ふふ…はは…もう、ダメですね」
「ん?」
「私、もう当主でしたか。そうですか…決まりました。大川様。いえ、学園長先生」
やけに吹っ切れた顔で笑い飛ばす五月に、大川は片目をぱちりと開く。
「私、平家当主を精一杯頑張ります。あの子が当主になるまで、お家存続と発展に尽力を尽くします」
「ああ、そうか…そうじゃな。それが良いであろう」
五月は、初めと同じように髪の音だけをさせて頭を下げる。
「つきましては学園長先生。私が卒業した翌月に、此方へ使者を送ります故、宜しくお願い致します」
「…使者?」
「ええ、卒業後は、学園の就職先として、お付き合いが出来ればと思いまして」
頭を上げた五月は、にっこりと、御手本の様に綺麗に笑っている。
大川は驚いたようにその眼を大きくしたが、それも直ぐに沈み、不敵に笑む。
五月はそれを見て、商談が成立したのだと確信をし、今度こそ深く頭を下げて無言の内に静かな庵を後にした。