姉上御楼上 2017/04了
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「降り続けてるわね」
「…ええ、寒くはありませんか?」
返事を返す前に、滝夜叉丸は火箸をかき混ぜた。
爆ぜる音が強くなって、少し室温が上がる。
五月は柔らかく笑むと、滝夜叉丸の右隣へ移動し、ぎゅうっとその腕にひっついた。
「姉上?」
「こうしてるほうのが、暖かいの。滝ちゃんに触れてもいられるもの。しあわせ」
「確かに、くっ付いていたほうのが暖かいですね」
「でしょう!」
滝夜叉丸は、腕に寄り添う姉の頭を静かに見つめる。
いつから、追い越したのだろうか。
昔はほぼ同じ背丈であった。
容姿は少し違ったが、後ろから見ればそっくりだと。目を隠せば正面も瓜二つだと言われていた。
それがいつからか、姉の目線より少し上になった。
四年生時分で久々に会えた際には、幾何か自分の肩の高さが姉の肩より上であった。
手首も、掌も、足首も、首筋も、何もかもが昔と違い、自分の方が太く逞しくなっていく。
性差を見せつけられるかのように、姉は昔の儘、成長は止まり、女になっていき、自分は男になっていく。
それに伴い、いつまでも子供の考えではいられなくなった。
家からの手紙には、家督相続の事、姉の事、父の事がずらずらと述べられていて、最後の締め括りに「五月の卒業迄に」と書き記してあった。
わざわざ、母の花押まで書いてあったため、これは殆ど正式な書簡という意味合いなのだと、滝夜叉丸は心が重くなったのを感じた。
その手紙が滝夜叉丸の元に来たことを、五月は何も知らない。
五月は五月なりに考え、頭を抱えていた。
それを知らない母ではなく、娘を言い包められ、いい方向に持って行けるのは息子である滝夜叉丸であると目を付け、遠回しに二人の逃げ場を消していくことを画策した。
結果はいい方向に転び、滝夜叉丸は真面目に考え、姉の幸せと母の望みを取った。
自分に成り代わろうとする姉を諫め、次期当主はきちんと自分が自分の意志でなること、姉には姉の幸せであると思う道を進んでほしいこと、全てを伝えた。
五月は面食らったが、滝夜叉丸がそうでいいのであれば、と様々な胸中渦巻く中、頷いた。
そこに母の思惑が混ぜ込まれているとは思いもせずに。
「……姉上」
五月の頭頂部は、綺麗な流し髪で渦巻くものが見えない。
滝夜叉丸は少しだけ体制を崩し、五月の頭に自分の頬をゆっくりと押し付けた。
少しだけ、五月の体が揺れたが、五月は特に何も声に出さなかった。
「滝ちゃん、どうしたの?寂しいの?」
「…いいえ。まあ…学園に姉上がいないのだと実感すれば、その時寂しいと感じるでしょう」
「私も卒業したら滝ちゃんと易々と会えなくなるのだと思えば、苦しくて死んでしまいそう」
五月はきっと、綺麗な唇で穏やかな眼差しで、淡々と今の言葉を吐いたのだろうなと、滝夜叉丸は何の気なしに考え、ゆっくりと瞼を閉じてから、数秒後にゆっくりとまた開いた。
「暫くは、家にいるのでしょう?」
もう五月が、何処かの城に就職するという選択肢は消えた。
なれば好い人である中在家の家に転がるのかと思っていたが、そうでもないらしい。
中在家にそれとなく聞いた滝夜叉丸は、中在家からの「五月は自分の家に来ることを望んでいるわけではない」という言葉に驚いたのを覚えている。
まさかそんな、と。
自分が家督を継いで、姉の五月はやっと自由を謳歌できると思っていたのに、なぜ中在家の元へ行かないのか。滝夜叉丸には不思議でならなかった。
「…家…どうして?」
五月の目は爆ぜる炭を見ている。
黒い炭は周りに灰色を塗され、所々に紅色が点在する。きっとあの中は熱い。
滝夜叉丸に訊ねられた言葉は、五月を驚かすのには充分だった。
まだ家にいるかも、城に行くかも何も話していないはずだったからだ。
「申し訳ありません。少しだけ、中在家先輩とお話しをいたしました。姉上があちらへ行くのであれば、こちらも何かと準備が必要かと思ったので」
眉を寄せて、何かが込み上げるのを滝夜叉丸は必死に抑えた。
奥歯が詰まる。
「…なぁに。滝ちゃん、餞別でもくれるつもりだったの?私、滝ちゃんが生きて存在してくれているという事実だけで充分なのに」
五月は滝夜叉丸の声を聴いて、なんとなく今の滝夜叉丸の表情が想像できた。
きっと眉を寄せているのであろう、と思い、くっつけていた頭を外して窺えば、やはりそこには何かを必死に耐える表情の弟がいた。
ああ、と五月は恍惚感と心痛を覚える。
必死に何かを堪え、感情を律する大人であろうとするその様は実に美しく、庇護欲と少しの加虐心を煽られる。
美しいものは何をしても、どのような表情をしても美しいままであるというのを、五月は自分の弟にいつも教えられる。
それと同時に、このような表情をさせているのは自分のせいなのだという事を考えれば、申し訳なさしか溢れない。
「…私ね、確かに暫くは家にいるわよ。滝ちゃんが…滝夜叉丸が、卒業するまでの間、贋者の当主として居座ってあげるわ」
眼を見開く滝夜叉丸の頬を撫でながら、五月は緩く笑う。
「あね、うえ…それは、っそんなことは!この滝夜叉丸!何も聞いておりませぬ!私はそんなことを望んでおりません!私が卒業し、家督を継ぐまでの間は現当主である父上がいるではありませんか!だというのに何故姉上は私の代替えのようなことをなさるのです!」
暫く唖然と聞いていた滝夜叉丸であったが、呑み込んだ瞬間に撫ぜる五月の手首をパシリと取り上げ、ともすれば泣き出しそうな剣幕で捲し立てた。
唖然とするのは今度は五月の方であった。そんなに感情を剥き出しにするとは思わなかった五月は、少したじろぐ。
「…た、滝」
「私は!姉上が大事で、…一等大切で…だから…私は…」
いらない。いらないのだ。
滝夜叉丸は本当は、家督も当主の座も権力もなにもかもいらないし、どうだっていいのだ。
ただひたすらに、五月の幸せと平穏を願っている。
そして本当であれば、自分も、当主の座に治まらず、戦忍として華々しく生きたいのだ。
しかしそれをすれば五月が女当主として治まるか、もしくは家督相続不在で家はいずれ衰退し、最後は目に見えている。
何故できようか。
雁字搦めで、何もかもが自由にならない。
どうして、と考えれば、我慢していたはずの滴がぼたぼたと落ちていく。
五月を捉えていた手がゆっくり外され、滝夜叉丸の頭を五月が抱えるようにして抱き締める。
まるで泣くのが解っていたように、五月は優しく優しく滝夜叉丸の頭と背中を撫でる。
「…ごめんなさい。ごめんね。ねぇねの為に、私の為に追い詰めてしまって。でも、とっても嬉しいの。幸せなの。私本当に、今がとても幸せよ。滝ちゃんが私の事を考えてくれて、そばにいてくれて、生きていてくれて。本当にそれで幸せなの。私があの家を継いでも、贋者で座しても、別に何とも思わないの。だってそれは、全て愛する滝ちゃんのためだもの。根源が滝ちゃんであれば、私はなに一つだって不幸だと思わないわ」
語るに連れて、五月の腕の力は強まり、ぎゅうぎゅうに抱き締める。
すると滝夜叉丸の涙は知らぬ間に治まっていく。
滝夜叉丸はぼんやりと思い出す。
昔、小さい頃にもこうやって、自分が泣けば痛いくらいに抱き締めてくれていたことを。
「……あねうえ」
「ん~?よしよし、可愛いねぇ滝ちゃん…どうしたの?」
畳についていた指先を動かし、滝夜叉丸は五月の腰へ手を伸ばして、ぎゅっと握りしめた。
一層、五月の腕の力は強くなる。
離さない様に、逃さない様に、盗られない様に、必死に必死に抱き締める。
「姉上が、いいのであれば…私はもう、姉上のなさることに何も言いません……しかし、お体はご自愛ください。長期休暇になれば必ず家へ戻りますので」
「ありがとう、ありがとうね。必ず学園へ遊びに来るから…」
喋る振動が、心地よい。
喉元にある滝夜叉丸の頭から、声が出る度に低い振動が伝わる。
丁度変声期の時期である滝夜叉丸は、低かったり高かったり裏返ったりと、妙に落ち着きない声色だったりするが、今は静かな低い声が漂っている。
きっと六年になれば声も落ち着き、今より低くなり、色気も出るだろう。見目は女子の様に美しいので、女装実技だってお手の物になるはずだ。声さえ気になるというのであれば、声の出ぬ女を演じればいいのだから。
五月は弟の未来を想像して、心が温かくなる。
どうしたって不安はなく、誇らしく幸せな未来しか考えられない。あとは卒業後にうまく相続をして、落ち着けばよい。
そのためにも、自分は今から不穏分子の露払い、滝夜叉丸が困らぬように徹底的に武家の学と政を覚えていけばよいのだ。
「……はあ…滝ちゃん、ねぇねは凄く凄く幸せよ」
「なんですか、何度も聞きました…私も、姉上と一緒だと幸せです…あ」
「ん?」
もぞもぞと動いた滝夜叉丸に、五月は名残惜し気に頭を離し、顔を窺う。
そこには目元を赤くしてはいるが、さっぱりとした顔の滝夜叉丸がいた。
「なあに?」
「いえ、あの…その…姉上にお伝えしなければいけないことがあります」
やけに言い淀む滝夜叉丸に、五月は不安になる。
なにか、と考えてから、五月の頭はもしかしたら好い人が出来たという報告なのかもしれない!という答えを弾き出した。急激に顔が青ざめる。
「だ、だめよ滝ちゃん、その話は今いやだわ。私まだ心の準備が出来ていないもの!そもそもまだ滝ちゃんには早いと思うの!現を抜かせばねぇね、その相手をどうにかしてしまうかもしれないわ…!」
「え?…姉上、何か盛大な勘違いをされていませんか」
その言葉で、今度は五月がキョトンとした。
その顔を見て、滝夜叉丸が少し息を吐いてから、静かに笑う。
「はは…姉上、私には意中の人などいませんよ。そうですね、強いて言えばこの私の様に美麗で華麗で才能溢れて尊敬が出来る女子がいれば、話は変わってきますが、そんな女性は今のところ姉上と母上、山本シナ先生くらいですかね。全くもってまだまだ先のお話です。私はその話ではなくて、…」
コホン、と咳払いをして滝夜叉丸は居住まいを正した。
「私が当主となった折に、少し我儘を通させてほしいのです」
「わがまま?」
こくり、と頷けば、肩口の髪が滑り落ちる。
「はい。……忍となっても城付をするつもりのない友人たちを、お抱えにしたいのです」
その眼は、とても凛としていて、五月は既視感を覚える。
「…お抱え…それは、滝ちゃんを主として…付き従え、その子たちを養うという事…?」
「ええ」
嫌なタイミングで、鉢屋の言葉がよぎる。
「……うまく、我らを使える……」
小さく呟いた言葉は、滝夜叉丸の耳には届かず、不思議そうに首を傾げた滝夜叉丸に、五月は首を横に振る。
「…いえ、なんでもないの。滝ちゃんが、そういうのであれば何も言わないわ。当主になってから決めるのであれば、滝ちゃんが一番の権力者ですもの。有無を言わせる立場ではないから」
「姉上は、私に論じてください。私が道を踏み外しかければ、導いてください。なので、この話も是非は姉上と決定致したいのです」
背筋を伸ばし、しゃんと五月を見据える滝夜叉丸は、もうすでに当主のようだ。
五月は僅かに瞠目してから、ふ、と表情を和らげ、勿論よ、と飛びついた。
(かか様の眼と同じだったのよ)