姉上御楼上 2017/04了
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「五月さん」
「はい」
嫋やかな声で呼ばれた五月は、音を立てぬように部屋に滑り込んだ。
部屋の中にいたのは、老齢の山本だった。
てっきりいつもの若いほうだと思っていた五月は内心意表を突かれたが、特段顔に出さず、静かにそのまま山本の前で正座をし、その穏やかな笑顔を見つめた。
「さてさて、五月さんの番ですが、私は貴女にこうありなさい、こうなりさないと言う心算はないのよ」
「はい」
五月達はもうすぐ卒業を控えている。
その前段階で、師である山本と面談を行う時期となった。
最上級生まで上がったはいいが、歳を取るにつれて忍か人間かを悩む者は多い。
その為、山本が真意を訊ね、忍と言った者には更なるくのいちとしての心得を、人間と言った者には真っ当な就職先か退学届の手続きを促す。
五月の先に秋穂が面談を行っていたが、揚々と出てきて五月へジャレついて行った彼女を見れば、忍の道を選んだのは一目瞭然だった。
五月は心の中で様々な考えが浮かぶ。
「…ですが、貴女は今とっても悩んでいますね。色々あるでしょう。お家の事も、友人の事も。ただ、貴女は貴方の人生を歩むのよ。好きなようになさるといいわ」
穏やかな声で、皺をもっと深くして山本は笑む。
五月の視線は徐々に下がり、山本の皺だらけの手の甲をじっと見つめる。
自分の人生。
好きなように歩む。
自分が家を捨ててしまえば、それはきっと容易に出来るだろう。
弟の滝夜叉丸は覚悟を決めていた。
そして姉である五月に「好きに生きてください」と伝えたのだ。
ここ数ヶ月、様々な人から「好きに生きろ」と言われている五月は、どんどん隅に追いやられている気分になっていた。
何とか、"家"という場所に立っているが、あともうひと押し、誰かに「好きに生きなさい」と言われてしまえば、忽ち五月は沼に落下してしまう。
もう家に戻れない、這い上がることが困難な柵のない底なし沼は、五月にとって希望でもあり恐怖でもあった。
「…先生」
「はあい」
「聞いて、くれますか」
震える声で、五月は山本へ囁く。
山本は静かに頷き、いつのまにかにお茶を用意して、長話になるかもしれないという腹持ちで座り直した。
一連の動きを無言で見届けた五月は、震える唇を薄く開く。
「…私、…忍になる心算で。忍になった弟を護り抜くために、最上級生の階段を上がりました。間違ってはいなかったと思います。あの子はとても優秀で、本当に忍になれると思っております。それが父の血だというのもわかっております。私は、あの子の影武者なのです。…幼い時から、私は私の意志であの子を守って庇って、影になろうと思っていました。怜悧な母は賛成をしてくれ、父は姉であろうとするその態度に喜んでいました。懐く滝も可愛くて好きだったのです。愛してました。この子さえ守れれば、何を捨てても生きていけると思って、いずれこの子が平家を継いでも助けられるようにと、政も芸事も兵法も武も、全て求められるまま熟しました。ある日…忍になりたいと言ったあの子に、私……本当は、少なからず失望をしてしまったのです…」
六年間、師として五月を見守ってきた山本ですら、見たことのない、泣くのを必死に我慢している五月。
その上今言った内容に、最愛であり五月自身が目に入れても痛くないと思っているほど大事にしている滝夜叉丸に対する失望の言葉が入っていた。
「…私が、母の言葉を正面から受け入れ過ぎていたのも悪いのです。武家の嫡男は家を継ぐのが当たり前と。母が言うのだからそれが正解なんだと、そう思っていた、から…母への、裏切りだと思って……でも、真剣なあの子の気持ちを聞いていたら、私が間違っていたのだと気付きました。少しでもあの子に失望や裏切りを感じてしまった負い目から、私はそれ以降もっと必死になりました。家を取り潰しにはさせたくない。だから私があの子に成り代わってでも平家を継ぐのだと。そうして裏からあの子を助けて庇護出来ればと。……私、四年の実習の時、人を殺すのに、躊躇がなかったの、覚えていますか」
「ええ、ええ。覚えていますとも。急な襲撃に喚く同級生を尻目に、綺麗に切り捨て、何事もなくしていた姿には驚きましたよ」
あの時に、人の死を目の当たりにした半端な気持ちの同級生達はごっそりと退学していった。
一年当時から仲良くしていたツツジは愕然とし、秋穂は輝いた眼で五月を見ていたのを、山本はしっかりと目に焼き付けている。
それほどまでに、あの山小屋での惨劇は異様だったのだ。
屈強な山賊達は全て切り伏せられ、返り血に塗れた美しい顔立ちの娘が1人、両手に苦無を持って無表情で立ち尽くし、小屋の隅では、鬼や化け物だと涙声で呟く女たちの集団が、五月を畏怖の目で見ていたのだ。
目を瞑り、瞼の裏で回顧した山本は、ゆっくりと五月に言葉の続きを促す。
「…私、あの時、初めてじゃなかったのです。初めての、殺しは、8歳の時でした。あの子の為に、迫った暗殺者を手に掛けた。純粋に、弟を護らなければと必死になっていたのです。だから殺すことに、他人の人生を奪う事に躊躇いがなかった。母には褒められました。よくやった、人の為に命を張れた五月は素晴らしい、次期当主を護ったのだと。けれど、父には頬を打たれました。なんてことをと。お前がこのようなことをする必要はなかったのだと。弟にもお前にも護衛の者は潜ませてあるのだからと。…今となっては理解が出来ますが、当時はよく解らなくて。二人の言葉の差に追いつけなくて。私、褒められた方を取ったのです」
瞬きをすると、頬をするりと涙が滑った。
五月は特に何も反応せず、虚ろな目で山本の手の甲を見続ける。
「だから、あの時あのようになったのね。人の為に……みんなの為に、討つのだと」
「…はい。畏怖される理由も、嫌悪される理由も、解りませんでした。母は褒めてくれたのに、どうしてみんなが一様に慄くのか。今は理解が出来ます。普通は、殺せないんですよね」
山本は驚きの連続と、六年間の五月像を崩されたことに羞恥を覚えていた。
教師ともあろう者が、外からの判断と彼女の普段の言動だけで"五月"というものはこうであるだろうというのを決めつけていた。
学園内にいる多くの者がそう思っていただろう。
あの滝夜叉丸に負い目を感じていたなどと、誰が解るものか。
同級生からの畏怖に心を窶していたなどと。
凛として桔梗のような五月からは想像のできない心の弱さを吐露され、山本は自分自身を恥じていた。
「…私、あの子に覚悟を聞かされ、心の蟠りが落ちた気がしました。継ぐ覚悟が出来たと、本心ではないにせよ伝えてくれたあの子が、愛おしくて。ずっと守ってきたのに、いつの間にかあの子に気遣われて守られてしまったなんて、私はまだまだです。先生、私の左腕の現状からいっても、私は…」
ぐ、と黙り込んでから、五月は今までずっと下がっていた視線を初めて山本の顔へ向けた。
「忍には、なれません」
涼やかな声が、室内に広がる。
いつの間にか妙齢の女性になっていた山本は、その綺麗な眉を中央に寄せ、唇を嚙む。
「…そう、ですか」
残念でなりません、と呟く。
五月は本当にいいくのいちになると信じていたのだ。
ともすれば自分の後継にでも育てて、くのいち教室の教師に斡旋しようかとも考えていた。
しかし、泣きそうなくせに、自棄にスッキリした顔の五月に、山本はもう何も言えなくなる。
「ただ」
ふわりと、五月の表情が和らぐ。
「卒業は、させていただきたく存じます。私は、一般人にはどう足掻いても向いておりませんので、弟の裏方にでも回ろうかと思っております」
「まあ…!」
五月の言葉に、山本は顔を明るくさせる。
この子が辞めてしまっては、残る最上級生二人の士気は愕然とし、なんなら追い掛けて退学するやもしれないという危惧が、消えたのだ。
久方振りに六年間きちんとくのいちを育て上げた山本にとって、三人は特別だった。
ここまで来て、途中退席はさせたくなかったのが本音だ。
それが今守られるとのことで、山本が嬉しく思うのは当たり前であった。
「ということですので、先生。今一度、これより一層、卒業までの間、宜しくお頼み申し上げます」
自棄に畏まり、深々と頭を下げた五月に、山本は珍しく笑いを堪え切れなかった。