姉上御楼上 2017/04了
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「姉上」
五月からすれば、鈴を転がすような声が、しんとした夜の空気に溶けた。
いつものくのたまの明るい忍装束ではなく、宵闇に溶けるような墨色の忍服に身を包み、口布を鼻頭まで引き上げていた五月は、ぴくりと静かに反応し、声には出さずに表情だけで喜色満面を浮かべる。
音も気配も立てずに、声の聞こえた障子まで駆け寄り、するりと静かに滑りの良い障子を開けた。
そこには夜着に身を包み、降ろし髪の滝夜叉丸が静かに座っている。
『滝』
声に出さず、姉弟だけの矢羽音を飛ばした五月に、滝夜叉丸は僅かに目を大きくしたが、すぐに五月の服装に気付いて、同じように歯を合わせて息を吐いた。
五月が学園に入学したと同時に矢羽音を学び覚え、実家に帰るたびにまだ8歳の滝夜叉丸に伝え、そこから二人独自の矢羽音を作り上げた。
幼いころに作ったものであったから、単語単語の至極簡単なものであったが、歯鳴り等も組み合わせているため未だに解読されたことはない。
更新されずに使用していたが、滝夜叉丸はこの幼い矢羽音が好きだった。
この時に伝わる「滝」という音が、凛と美しく、それでいてとても甘美に聞こえていたからだった。
『姉上、東、三の山』
久々に聞いた矢羽音の「滝」に内心で打ち震えながらも、滝夜叉丸も矢羽音で端的に返す。
伝えるなり、滝夜叉丸は直ぐにその場から消えた。
足音も気配も四年生にしては極薄く、その場から消えるように去るのは贔屓目なしでも素晴らしい、と五月は心中小躍りする。
しかしそれも直ぐに正し、滝夜叉丸に伝えられた通り、東にある三の山、つまり裏裏裏山に向かうため、すぐに後を追った。
わざわざ矢羽音で会話をした意味をすぐに理解して、ここから遠い場所を指すとは、と大きな感心を抱きながら。
***
裏裏裏山の一等高い楠から三番目に高い山毛欅の木に、滝夜叉丸はいた。
いつの間に長屋に取りに行ったのかわからないが、その身に秋葉色の打掛を羽織っており、冬の入りと共に赤くなりだした遅れ紅葉の山毛欅の木に溶け込んでいる。
「滝ちゃん!」
梟でも飛び立ったのかと思うほどの軽い音を立てて、滝夜叉丸の真横に五月は降り立つ。
「姉上、良いのですか?」
「ええ、誰もいないわ。ここなら一先ず普通に会話をしても平気よ」
口布を顎下まで下げ、破顔するが、滝夜叉丸は首を振って否定する。
「それではなく…姉上、任務なのでしょう?それなのに私とここにいてよいのでしょうか…いえ、誘いたてたのは私なので何をというところですが、やはり気になって…」
「ああ、そっち。いいのよ。明朝までに帰っていればいい潜入調査だもの。可愛い滝ちゃんの用事の方が大事よ」
気遣わし気に訊ねる滝夜叉丸に、五月はころころと笑う。
「そうですか…」
「それで?夜分にどうしたの?珍しいわね滝ちゃんから此方へ来てくれるだなんて!お姉ちゃんとっても嬉しかったわ。任務なんてなければあのまま一緒に寝ていたのだけれど、あ、でももういいかもしれないわ、任務は得意分野のツツジにでも任せておこうかしら」
「姉上、それはいけません!」
滝夜叉丸が少しだけ大きな声を出したことによって、隣の木の上で休んでいた百舌鳥が一斉に飛び立った。
瞬間的に騒がしくなり、反射的に二人は木の幹へ近付き、息を潜めた。
滝夜叉丸はその時、触れた五月の肩が思っていたより冷たくなっているのに気付く。
「あ、姉上、すみません。寒い夜半にこのような」
「なぁに?大丈夫よ、慣れているもの。滝ちゃんに心配されたということだけで心がとっても温かくなったし、大丈夫!」
いつもの調子で返す五月に、滝夜叉丸は少しだけ眉を寄せてから、胸元に入れてあった、紫と白の、男が持つにしては少々派手な温石袋を取り出し、五月の手へ無理矢理握らせた。
「え、だめよ。滝ちゃんが寒くなったら困るわ」
「いえ、私は二つあります。今だけ喜八郎のを借りているので、姉上には私の温石を今一時お貸しいたします」
そう言うと五月の手の上に、滝夜叉丸が温石を離さないようにと握り込む。
事実、滝夜叉丸の懐にはもう一つある。
濃紫と藤色の波紋の袋に綾部の温石が入っている。
その温石自体は滝夜叉丸が冬でも蛸壺を掘り続ける綾部にと一年の終わり頃に袋と共に贈ってやったものだった。
つい先日、綾部が何か巾着はないかと滝夜叉丸に訊ねてきたので、何かと思えばずっと使っていた温石袋が破れてしまった序に古いので新しいのにしてしまおうと思ったと言われ、まだ持っていたのかと驚いたのは記憶に新しい。
温石自体はそれなりに高いし物持ちは良いので無くさない限りあるとは思っていたが、袋まで一年生時分のままだったとは。
案外の物持ちの良さに二度驚いた。
「喜八郎君、そういうの持っていたのね。意外だわ」
「私があげたのです。…一年当時はあいつ、襟巻も何もせずに外にいたので…」
五月の頭に、現在のもこもことした綾部が浮かぶ。
そうか、あの薄藤の襟巻も、掛布団のような格子の半纏も、滝夜叉丸だったのか。
そう言えば滝夜叉丸が二年生の頃、一緒に出掛けた際に友人にあげるのだと襟巻を一緒に選びに行った。
あの半纏の模様も見覚えがある。
我が家の襖奥に眠っていた古くて使わなくなった客用布団だったではないか。
そしてつい先日、浜と一緒に縁側で藁と葦を使って深靴と蓑を作っていたのを思い出した。
個数的に同級生で仲のいい彼ら分だということは解ったが、なぜか一緒に作られていた猫ちぐらはよくわからなかった。
誰か猫でも飼っているのだろうか。
「滝ちゃんいい母親になれるわ…いえ、まだはやいけれど」
「母にはなれませぬ」
話が脱線した、と滝夜叉丸は思い一息入れて、姉である五月をゆっくりと覗くように見た。
結い上げられた髪は流れ落ちてさらりと音を立てる。
今は降ろしている自分の髪の先を見て、ぐっと唇を噛んだ。
「……もう、いいのですよ」
「…え?」
蚊の鳴くような声で呟いた滝夜叉丸に、五月は思わず聞き返す。
何を言ったのかが聞き取れなかったわけではない。
内容が解らなかったのだ。
何が、もういいのだ。
「滝ちゃん、どうしたの」
幼い子にするように、しゃがみ、滝夜叉丸を見上げて訊ねる五月に、無言で滝夜叉丸はその結い上げられた髪に手を伸ばし、やわりと掴んだ。
「滝…?」
「…もう、いいですから。私の、影真似は」
その言葉に、心配そうに見上げていた五月の顔が固まった。
影真似、つまり影武者だ。
二番目の子と言えど平家嫡男である滝夜叉丸は必然的に守られる立場だった。
何人かの影武者を用意されていたが、まだ幼い影武者候補たちを可哀想に思った将嗣が全て家に帰し、堂々と守れるという気概を掲げたのと同時に、姉の五月が「自分が影武者とし、顔を隠した際の印象が全て似通うように育つ」と申し出たのだ。
当然将嗣は大反対だったが、母である喜美は静かにそれを是としたのだ。
以降着るものから何まで全て同じになり、後姿だけでは親でさえわからずというまでになった。
それも成長すれば性差が出てしまったために、近いものには見抜かれるようになってしまったが、目暗まし対象には気付かれまいと、喜美は新しい影武者を用意することはなかった。
その内情を父の将嗣は露知らず、喜美達が影武者の話を通しに来ないのは、滝夜叉丸自身が忍術学園において力を付け、自身の身は自身で守れるようになったからであると思い込んでいた。
そして五月自身も、それで最愛の弟の身が守れるならと、なり替わることに関して何の疑問も抱いていなかった。
寧ろそうすることが当たり前だとも思っていた。
だというのに、今弟の口から出た言葉は何だ。
自分が当たり前だと思っていたことを否定するものではなかったか。
五月の頭はぐらぐらする。
「た、き…滝夜叉丸、それはどういうことなの?」
「そのままの、意味です。私はもう、姉上に私の代わりになってほしくないのです。いいのです。私は私、姉上は姉上で。本当はその髪も、簪や組紐で結い上げたいのだということは知っております。なれど私の後ろ姿に似せるために私と同じ髪紐を使っている。長さも質も同じ。どんどん男の為に体格がよくなる私に少しでも追いつくようにと過度な修行をしておられるのも存じております。もう、いいのです」
「……」
滝夜叉丸の言葉に、五月はしゃがんでいたのをやめ、すとりと太い枝に腰を落とした。
目を見開いて、只管に滝夜叉丸の足首を見る。
滝夜叉丸が、ゆるりと掴んでいた手を放し、その結い上げている髪紐に手を伸ばし、簡単に解いた。
サラサラと髪が落ち、滝夜叉丸と同じ降ろし髪となる。
顔に黒い髪が落ち、白い肌を一層際立たせた。
「…姉上、無茶な修行をしなくとも良いのです。程々に、姉上の体を考えた配分でいいのです。それに…私はもう知っています」
ぴくりと、五月の指が動く。
瞬きもせず、座り込む五月は人形のようだ。
あの最愛の弟に話しかけられ、髪を撫でられているというのに、何の反応も返さない。
「姉上。手は、日常生活に支障はきたしておりませんか?任務に差支えはありませんか?」
「!!」
その慈しむ様な優しい声色で訊ねられた言葉に、五月は勢いよく顔を上げた。
その眼は大きく見開き、闇夜だというのに光って浮いている。
追い打ちをかけられたような状態の五月の目に水の膜が張っていることを滝夜叉丸は確認し、同じように座り込んだ。
「…んで……それ…なんで」
隠していたはずだった。
自分から言おうと思っていた。
バレていないはずだった。
あの場にいた四人も、立花も、保健委員も、皆が一様に口を閉ざしていたはずだった。
五月の声は掠れる。
「見ていれば解ります。弟ですよ私。喜八郎も誰も、気付いておりませんが。私を抱き締める時の腕の力が左右で大きく変わりました。寸鉄を投げる速度が落ちました。左腕だけで木の枝を掴んでいませんでした。つまりご自分の体重を左では支えられなくなったということでしょう?以前は出来ていましたので」
淡々と、優しい顔で伝える滝夜叉丸は緩く緩く五月の前髪を撫でる。
泣き出してしまいそうな五月の顔に笑いかけると、五月はパシリと滝夜叉丸の、自分を撫でている手首を掴んだ。
「…姉上?」
「………さい…」
「?」
「ごめんなさい…ごめん…早く伝えればよかったのに、言えなくて、ごめんなさい…ごめんなさい」
滝夜叉丸は、少しだけ動揺した。
初めて見るのだ。このように弱った姉は。
弱弱しく謝るその姿は、幼い頃に将嗣に頬を打たれていたあの瞬間だけを記憶している。
あれも、どうして優しい父が聡明な姉に手を挙げたのだったか。
そしてあの時も、こんな風に目を見開いて泣くのを必死に耐えて涼しい秋の風のような声で謝っていた。
「いいのです。いいのですよ姉上。忍稼業には付き物です。ただ私は心配なだけなのです。その力の弱くなった左腕で、このまま危険な道を歩んでほしくないのです。私の為に必死になっているのは存じてます。だからこそ、私の影真似をやめてほしいのです。もう、好きに生きていいのです。…滝は覚悟が出来ました故。後のことはお任せください」
滝夜叉丸は内心の動揺と、少しばかりの恐怖心を見せぬように、バレぬようにと務めて嫋やかに笑む。
もういいのだ。
自分が嫡男ということは変わりない。
なぜその重責を女である姉に押し付けられようか。
家を守るのは女の仕事であっても、家を継いで繫栄させるのは男の仕事だ。
それ相応の覚悟もできた。
ただひたすらに、姉だけを守ってやりたい。
幸せになってほしい。
「たき、やしゃまる…」
「軽蔑も侮蔑もしません。止めてご自分の道を歩むのを、棄てることだと思わないでください。しっかり後釜を育成して継いだのだと、胸を張ってください。滝夜叉丸は姉上の後継です。姉上は歩みやすい道を作ってくださったのです。それだけです。私を守ることは役目ではありません。私のために死のうとしないでください。好きに生き、私と共に笑ってください。私が家督を継ぐ際の条件として、姉上を政の道具に使わないよう、提言も致します」
「たっ、き…」
とうとう、五月の目から涙が溢れ、嗚咽が飛び出した。
弟は、なんて立派なのだ。
虚栄は交じっている。それは見抜ける。
けれでもこんなに姉の心配をし、幸せを願ってくれる弟は他にない。
見抜かれぬように必死に踏ん張る滝夜叉丸に、どうして腕を突っ撥ねることが出来ようか。
五月は只管頭を動かし、滝夜叉丸に頷く。
ありがとう、愛しているわ、ありがとう。
ただただ、その言葉を繰り返して静かに泣き縋り付いた。
(ああ、あの時はそうだ。姉上が初めて、ヒトをあやめた時だった)
(私の為に、ヒトをあやめたときだった。そして父は、お前がそのようなことをせずともいいと、泣いていたのだ)