姉上御楼上 2017/04了
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ごろり、猫のように丸まっていた五月は火鉢の方へ寝返りをうつ。
外の気温は低く、その体には綿を入れた羽織が掛けられている。
万が一、燃えてはいけないと、近付き過ぎない様に転がった五月の体を中在家が手でやんわりと止める。
丁度良いところで止めてもらい、五月は柔らかくお礼の笑みを浮かべると、胡坐をかく中在家の脹脛へ手を伸ばし、ぐっと掴んだ。
しかしそれもすぐにへにゃりと力が抜ける。
「……まだ、痛むか」
中在家が気遣わし気に小さく訊ねると、五月は首を横に振る。
「痛くない。けれど、何か、痺れる感じはするわ」
「………」
五月がなんともない顔をして答えを返せば、中在家が自分の脹脛に添えてあった五月の手を取り、労わる様に撫で揉む。
それに対して、くすくすと押し殺したように笑った五月は、直ぐに手を引っ込めた。
「いいのよ、そんなことしてくれなくても」
そう言うとやっと起き上がり、掛けてあった羽織を膝元へかけ直し、自分の少し緩んだ髪を括り直す。
さらさらと五月の細く綺麗な黒髪が音を立て、それが火鉢のはぜる音と重なり、見事に調和する。
中在家は暫く静かに聞いていたが、徐に懐へ手を突っ込むと、手櫛でやっている五月へ無言で櫛を差し出した。
武骨な持ち主によく似て、粗削りの持ち手に細かい並び歯、渋柿の色をしている。
渡された五月は快く受け取り、楽しそうに櫛で髪をとく。
「ありがとう。正直利休櫛よりこっちの男櫛のが使いやすいと思うのよね」
「…持ち手があるからな。…そもそも女は櫛を装飾として、使うからだろう」
持ち手がないのはそのためだ、と含ませれば、五月は唸る。
「町の看板娘や武家の女ならともかく、一般の女子供は高く結い上げてすらいないのだから、こっちが普及してもいいと思うわ」
ぶつぶつ文句を言う五月に、中在家は仏頂面のまま頷く。
一理ある、と言えば、そうでしょう!と五月は喜ぶ。
綺麗に結い直した後、懐紙で櫛を包もうとすれば、その手を中在家にやんわりと止められた。
「でも」
渋れば、ふるりと首小さく降られる。
「…いい。五月しか使っていない」
そう言うと、中在家は静かに五月の手から櫛を抜き取り、懐に仕舞う。
五月は暫く中在家の動きをじっと見ていたが、思い出したかのように動き、膝で擦り寄ると、頭を中在家の肩へぐっと押し付けた。
「五月」
「だめ。長次君、そういうのって、狡いわ」
どこまでも優しく、嬉しいことを言ってくれる中在家に、五月は心臓が苦しくなる。
その声が震えていることに気付き、中在家は少しだけ腹の底がざわついた。
「…疲れているな…」
よしよし、と低い声で言いながら、中在家は慣れた手付きで五月の頭を撫でる。
もう片手は五月の背中を回り、緩く叩いている。
そんな優しい包容に、五月は涙腺が緩みそうになるのを必死に堪え、ぎゅっと中在家の肩口を掴んだ。
目を閉じれば色々な事が走馬灯のように流れる。
家のことも、将来のことも、弟のことも、鉢屋のことも、嫌なことも良いことも、全部全部流れていく。
けれど今は、なにも考えたくない。
今はもう、平家のことも忘れたい。
「…、ちょ、うじくん」
どうして、この世はこんなにも面倒なのだろう。
生き辛いのだろう。
どうして、自分と、弟と、親しい人たちの優しい世界だけでは生きていけないのだろう。
何もかもが思い通りにならない歯痒さが身を襲う。
「五月、好きにやるといい…どちらに転んでも、私はそれについていこう…」
中在家は、五月の考えを見透かしたかのような言葉を毎度くれる。
その度に見透かされる自分が嫌になる。
初めもそうだった。
一年生の時に家が、弟が恋しくて泣いていたら、仏頂面で芹の花を突き出し、慰めてくれた。
理由を話せば皆が斯様に呆れたのに対し、中在家はひたすらに受け入れて理解をしてくれた。
そこまで弟を恋しく思えるのは素晴らしいことだと、姉弟愛が強いことは良いことで、何も恥ずべきものではないと、強すぎる想いは時に強い力にもなると、優しく宥めてくれたのだ。
思えば、あの時から中在家に甘えることを覚えてしまった。
「ば、か…長次君、本当、馬鹿」
下唇を噛んだ五月に気付いたのか、中在家がすっと撫でる手を止めて、頭を上げさせた。
素直に従い、五月は頭を持ち上げると、中在家のカサついた親指が噛まれて赤くなった唇を押し撫でる。
「……噛むのはいけない」
普通の人には解りづらいくらいの優しい眼差しで、その赤く腫れてしまった唇を見ながらまるで壊れ物を扱うかのように撫でれば、五月は目を細める。
「…ん」
撫でられることに大人しく従い、力を抜けば、褒めるように中在家は唇から親指を離し、また頭を撫でたかと思えば、ぐっと抱き寄せた。
男女の抱き締めるではなく、それはまるで親子のような、安心をさせる為だけの行為だった。
緩い五月の涙腺は壊れる音を立てる。
「…ちょっと、だけ…今だけ…」
掻き抱かれたままだった五月は、甘えるようにぎゅっと自らもっと近付くようにすり寄った。
その態度に、中在家は普段の笑顔ではなく、素直に緩く笑む。
「…ゆっくりするといい。…素直に泣けば、ボーロを作ってやろう」
その言葉に五月はひとつ笑うと、その後大きな息を吐いて、ひとつ、ふたつと滴を落とした。
肩が濡れそぼるのも厭わず、中在家はひたすらに頭を撫で、背中をリズミカルに優しく叩き続けた。