姉上御楼上 2017/04了
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部屋の中に墨の匂いが充満する昼下がり。
さらりさらりと筆を走らせる音と、外からうっすらと聞こえる雨の音が五月の鼓膜を滑っていく。
今日はくのたまの授業が無く、任務も言い渡されていない。
忍たまと違い、行儀修行目当ての多いくのたまのほとんどは半ばで退学していき、六年ともなれば残っているのは例年数えるほどしかいない。0人の年さえあった。
現に五月の代の六年生は五月を入れて秋穂、ツツジの三人だ。
一、二年時には同室もいたが、今は各々一人部屋になってしまった。
それを少し寂しいと思いつつも、残すはこの一年だけであるし、たった三人で多くの課外実習と任務を行ってきたお陰で、個人の力で生き抜き、逃げ延びる術は身に付けられたのだと五月は前向きに捉える。
この少人数体制での生活も悪くはないと、五月はくのたま六年生を満喫していた。
ただ一つ、気になることを除いて。
かたり、と廊下から音がしたので、五月は任務報告の筆を止めた。
誰か来たのだろうか。
くのたまの下級生はまだ授業だろうし、ツツジ達は町に買い物に出かけた。
生憎五年のくのたまは不在で、長屋にいるのは五月一人だ。
右手は筆を持ったまま、左手だけそろそろと動かし、袖に忍ばせている暗器に触れるか否かで、障子扉越しに声が掛けられた。
「おねえさーん」
聞き覚えのある、間の抜けた柔らかい声に五月は左手を元に戻し、苦笑しながら返事をする。
「はぁい、入って来なさい」
声を返せば、すぐに障子扉は開かれ、忍たま四年生の綾部がするりと入ってきた。
「お邪魔しまーす」
「久し振りね、喜八郎君」
「そうですねぇ、おねえさん、食堂にも中々顔を出さないですしー?」
ぶつくさ言いながら綾部は五月の背中に凭れて座った。
珍しくも綾部は愛用の踏鋤を持っていない。
五月はちらりと入り口についた泥を見咎めたが何も言わなかった。綾部と泥はワンセットなのだと理解をしているからだ。
「ああ、ごめんなさい。ここ最近忙しくて」
綾部に体重を掛けられながらも、五月は体勢を崩さず一笑し、そのまま筆を進めた。
何せ三人しかいないのだ。
回ってくる任務やおつかいの多さは忍たま六年の比ではない。
おつかいに関しては特段くのたまじゃなければいけないものは少ないためそうそうないが、任務に関しては別になる。
忍たま六年が出来ない任務、いわゆる色の任務での情報収集は忍には欠かせない。くのたまであろうとも、いや、くのたまであるからこそ、学園にいるうちに色の実技任務を熟していけなければ今後くのいちとしてやっていけない。
学園にいる間は本番までしないのが暗黙の掟ではあるが、どうにも口を割らない場合は、仕方がなしに最中までを制限として、万が一挿入に至るまで引き延ばして聞き出せなければ相手を昏睡させるしかない。その時点で任務は失敗となるので、くのたま六年は毎回疲れ切っている。
酒豪でザルの五月は、殆ど酒で酔わせて寸前で喋らせることが巧いため、そうそう本番まではいかないので色の任務は容易い。しかし暗殺術もそれなりに巧いため、色の任務だけに駆り出される訳ではない。
それ故五月は、連続で休む暇なく任務を回されるため、いつも疲弊していた。くのいちになれば悲鳴を上げる暇もなく仕事漬けなのだからと、山本が容赦をしないせいもある。
食堂に行こうにも、疲れた体を引きずって長屋に帰り、体を清めるので精一杯。
小腹が減れば簡単な携帯食料に手を伸ばし、報告書を提出し、時折ある授業に顔を出して死んだように眠るという日々を過ごす五月達くのたま六年は、忍たま敷地まで歩いて食堂に行くのですら億劫になっていた。
こんな時、優しい弟が同室であればと五月が考えると同時に、どうして私は今の今まで大人しくツツジの言いなりとなって弟に会いに行っていないのだろうと思った。
弟の為であれば、疲れた体なぞ放り捨てて食堂にでもどこにでも行けるというのに。
じんわりと背中の温かみで、今は綾部がいるのだと我に返った五月は、静かに息を整えると質問をする。
「喜八郎君、今日はどうしたの? 落とし穴は良かったのかしら」
「ターコちゃんはもう掘ってきましたあ。今日はおねえさんにお伝えしたいことがあって」
なあに? と声に出さず、空気で伝える。
五月の背中は、綾部の背中の体温でだいぶ暖まった。
「んー……滝夜叉丸のことなんですけどね」
ぴくり、と字を書く手が止まった。
五月は筆を止め、ともすれば息すらも止めているのではないかという風に静かになった。
部屋は雨の音だけが聞こえる。
「滝ちゃんが、どうしたの」
五月の声は柔らかく、其れでいて何処か焦燥に満ちていた。
綾部はくるりと振り返り、肩越しに五月の横顔を覗き込む。
さらりと揺れる黒髪。長めの睫毛と整ってはいるが、どこかおっとりとした雰囲気のある顔立ち。
綾部は無表情のまま、五月の頬をつつく。
「滝ちゃんがどうしたの、ねえ」
「いつも思いますけど、あんまり似てませんよねえ、おねえさん」
そう綾部は言いながら頬をつつき終えると、五月の小刻みに震える肩へ顎を置いた。
綾部の同室でもある平滝夜叉丸は平五月の実弟である。
顔立ちは正反対でありながら美人。
弟の滝夜叉丸は凛とした涼しい顔立ちだが、姉の五月はおっとりとした柔らかい顔立ちだ。
性格も違う。ぐだぐだとナルシスト発言と自分自慢の長口上を述べる滝夜叉丸に比べ、五月はあまり自分のことを言いたがらない。いつもゆったりと笑って構えている。
しかしそれは表面上の話であり、実の所、姉である五月の方が性格に難ありだ。
忍たま下級生から「滝夜叉丸は性格カス」と言われているが、五月はツツジやくのたま生から「ブラコン気違い」と言われているのだ。
つまるところ平姉弟は、見目は良いが性格が癖の強い姉弟であるということだ。
そしてそれを知っているのは五月の同級生と一部の忍たまや綾部だけだ。
大多数の忍たまは、そもそも滝夜叉丸と五月が姉弟であるということも知らない。
五月が任務に追われていて中々滝夜叉丸に会えないから、と言うのも事実であるが、真相はツツジと秋穂が五月から滝夜叉丸を隠しているからだ。
会えば必ず頭の可笑しい姉になる五月を相手にする滝夜叉丸に同情し、ツツジはなるべく姉弟が会わないように試行錯誤していたのだ。
そんなこんなで五月はもう、愛する弟が入学したあの時期、五月が三年生時から会えていない。
つまり、滝夜叉丸の入学時期から三週間しか会えず、それ以降はツツジになんやかんやと引き離されているのである。勝手に向かおうものなら二人からの猛攻が待っており、おいそれと抜け出せない。
長期休みには会えるのだからいいじゃないかと諭しても、毎秒会いたい五月には通じなかった。
一時は会えなくなった辛さで五月は壁のシミと話をしていたほどだった。気持ちが悪いと隣の部屋から苦情が来て、五月はツツジに叱られた。とんだ理不尽だと五月が暴れたのも今となっては思い出話だ。
そんな五月が、二ヵ月ぶりに綾部の口から聞いた弟の名前。五月の腹の底が色々な感情でグルグル渦巻く。
五月の一つ気になるものは、この弟のことでもあった。
弟の滝夜叉丸、それだけが気懸かりだった。
「ねえ……ねえ、喜八郎君。滝ちゃんがどうしたの。元気でいるの。この二ヵ月喜八郎君にも会えてなかったから滝ちゃんの生活が全く解らなくてやきもきしていたの。忍び込んでやろうかと思ったんだけど、敏感で繊細な可愛い滝ちゃんの事だし気付いてしまう可能性のが大きいでしょう? そうなると目が覚めてしまうでしょう? 滝ちゃんの眠りを妨げるのは辛すぎるからやっぱり忍び込むなんて出来なくて。そもそもツツジのアホがバカみたいな力出して止めるんだけど……。だからねえ、滝ちゃんがどうしたの?」
「似てないなんて嘘でした。やっぱりおねえさん、滝夜叉丸のおねえさんですねえ」
「当たり前でしょう私は滝ちゃんの姉上で滝ちゃんの一番の理解者で滝ちゃんの一番のファンで滝ちゃんを一番愛している姉上なのよ」
弟は自分の話をグダグダと、姉は弟の話をグダグダと。
平の血筋は口が達者だ、と綾部は無表情で思った。
五月の肩口に顎をグリグリと押し付けて、綾部は態とらしく悲しい声色を出す。
弟と似ていると言われて少し機嫌が良くなったのか、五月は止めていた筆を動かし始めた。
筆運びが早く、文字も浮ついて見える。
「それがですねえ……おねえさん。滝夜叉丸、体育委員会にいるのはご存知ですよねぇ?」
「ええ。流石滝ちゃんよね、花形委員会に入るだなんて私も鼻が高いわ。でもやっぱり心配なのよ? だって滝ちゃんったら凄くお肌がキメ細かくて繊細でしょう。玉のような肌なわけじゃない? 体育委員会なんて歴代の委員長達も熱血体力バカみたいな人達ばかりだった上に、今期はあの七松だと言うじゃない。五年生も不在だと言うし、私の滝ちゃんが潰れてしまわないか心配で心配で」
「おやまぁ、ある意味当たっていますよぉ、おねえさん」
綾部の言葉に、五月はぴくりと筆を持つ手に力を入れた。墨が其処だけぶれて落ちてしまう。
「…はあ? 綾部喜八郎、どういうことだ?」
口調が変わった五月に動じることなく、綾部は肩口から離れ、五月のすぐ後ろで、後ろ手に体重を乗せて足を放り出して寛ぐ。
「七松体育委員長ですよ。最近、滝夜叉丸が委員会終わりに部屋に帰ってくるとものすごーく疲れてるんです。それはもうこっちが可哀相になるくらい。だから僕も滝夜叉丸のお話聞いたり、たまにテッコちゃんや踏子ちゃん触らせてあげるんです。ボクの泥落としのお世話もままならないくらいなんです」
「その二体の手鋤と踏鋤に触れて癒されるのは綾部喜八郎お前一人だろうし、そもそもいい加減同室だからと言って滝ちゃんに甘えるのも大概にしておけと言いたいところだが、今はそこじゃない。なんだと七松小平太がなんだって? ちょっとお姉さん聞き取りにくかったんだが、七松小平太が、私の可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い滝ちゃんに対して疲労困憊になるほどの行動をしていると、そう言ったのか」
完全に口調が変わりましたありがとうございます。と思うのも束の間、べきりと嫌な音がしたと思えば素早く五月が立ち上がる。
その背中は小さくゆらゆらと揺れていて、五月のパニック具合が見て取れる。今必死に脳内で様々なことを組み立て中なのであろう五月に、綾部は追い打ちを掛ける。
「予算案とかも滝夜叉丸がやってるみたいですし、後輩の面倒とかもそうですし、ともすれば七松先輩の面倒も見ているみたいですよお」
まるでお母さんですよねぇ、と自分のことを棚に上げて真顔で言えば、五月は一歩荒々しく踏み出した。
「……今日は雨ですから、マラソンもしていないですよ。それに僕、ここに来るとき六年長屋で滝夜叉丸見ましたあ」
話し終えて直ぐに、部屋から消え去った五月の背中を見つめて、「怒った顔はそっくりですねぇ」と綾部はのんびり呟いた。
文机に残されたのは墨が飛び散った半紙と、真っ二つに折れた太筆が転がっていた。
