無変換だと本名は千鶴(ちづる)、審神者名は花車(はなぐるま)になります。
花車
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──卯月某日
どこから入り込んだのか、二の間の窓から見える金木犀の枝葉の上で大きめの茶色い体を持つ鳥が宵闇に紛れながら「ギッギッ」と鳴いている。
文机からそれを見つつ、花車は報告書を打つ指を空中でパラパラ動かし、うんうんと悩む。
本日の成果や行動などを書き連ねるのは早々に終わり、出陣などは免除されているため、あとしなければいけない報告は前任の行いだった。
離れにやって来た鯰尾の傷はほぼ全てが前任である月下香の暴力によるものだった。
今剣の小さな傷は二度三度と出陣した際についたものらしく、悪意は見てとれなかったし今剣自身が「ぼくへのぼうりょくはありませんでした」と話していたので花車はそれを信じることにした。
一体何が行われていたのか、断片的にしか知らされていなかった花車は満身創痍の鯰尾を目の当たりにし、かつ小狐丸と今剣から全てではないにしろおおよその全体を聞いて戦慄した。
聞いたものを組み立てて報告書を打ち込むのは簡単ではあるが、それを文字に興すとやはり脳内にはその映像がふわふわと現れて吐き気が襲う。
タタタ、タタとリズミカルなタップ音をタブレットキーへ落とし、花車は舌打ちをした。
部屋の明かりは消してある暗い室内で、文机の上にあるナイトスタンドの柔らかな橙色が忌々しげな舌打ちを照らすようにブワンと一度ぶれた。
隣の部屋からは静かな寝息が聞こえる。泣き疲れて眠った鯰尾がその後起きずにいたため今剣も離れに泊まっていくとのことで夕食も全員で食べて今は小狐丸の隣で就寝している。
夕食の席で今剣が「はくまいってちょっとあまいんですね」と言ってニコニコしていたのが花車の庇護欲を擽ったのか目を潤ませながら「これから沢山食べようね!」と口許を押さえていた。
一度伸びをして、ぎゅうと目元を指で押さえてから空間に浮かぶバーチャルデスクトップから目を離してタブレットキーから指を浮かせるともう一度窓から金木犀を覗く。
まだ茶色の鳥は止まっていて嘴で翼を片羽ずつ手入れをしている。
「…なんで殴ったんだろう」
ポツリと呟いた言葉は夜に吸い込まれた。
花車は手を後ろについて上体を反らし、木目と竹細工が入り組んだ天井を見上げる。頭には昼間に言われたことが代わる代わる蘇り具現化しては悲鳴をあげて通り過ぎていく。
小狐丸は、前任の暴力は小狐丸が顕現した時からあったという。
刀帳には顕現時期が記載してあり、それによると今剣のあとに小狐丸が顕現していたので今剣に詳しい時期を聞こうとすれば「ふたふりめなので しりませんよ」と言われた。
聞けば一番最初に顕現した今剣は折れ、その後に小狐丸、そして今の二振りめの今剣が顕現していた。
他の刀剣も二振りめやそれ以上のものがあるという。中には反発したり諫言するものがいれば逆らうものはこうなるとでも言うように見せしめとして兄弟刀を折ったり折らせたりしたと言うのだから鬼畜のような人間だったことはよくわかった。
蛍丸も何度も愛染を折ったと泣いていたのを花車は思い出し「あー」と唸って畳へ倒れると両手で額を抱えた。
悠長に構えていないで、鯰尾のような刀剣が他にいるのであれば早々に手入れをした方がよいのではないのか。しかし人間に不信感を覚えているのであれば触られたくもないだろうし、などとウダウダと考えていれば、小さく小さく音が聞こえた。
隣の部屋から障子を開ける音がして、板間を軋ませて花車がいる二の間の障子の前で止まると、聞こえるか聞こえないかの大きさで「あの」と声がする。
寝転がって仰向けのままの花車は首だけ障子に向けて暫く固まっていたが、控えめな声がかけられたのと同じくして跳ね上がるように飛び起きて障子を開けた。
勢いよく開けられた障子の向こうには、鯰尾が正座で板間に座り、障子を開けた花車を見上げている。
その両目はどちらも確りと開き、綺麗な黒が、しかし不安そうに揺らぎつつ花車の顔を見る。花車が障子から手を離し、道を開けるように体をずらして二の間へ入るよう促せば、鯰尾は小さく頭を下げて静かに板間から移動した。
「…こんばんは。よく眠れました? お腹減ってませんか?」
鯰尾が中に入ると、然り気無く花車は文机を背にしてタブレットを操作しバーチャルデスクトップを消した。
仄かなナイトスタンドの灯りだけが室内を照らし、鯰尾の艶やかな黒髪を揺らす。
敷居に近い畳の上で正座をする鯰尾へ座布団を差し出すが、ゆるゆると頭を横に振って断った鯰尾は、花車へ静かに頭を下げた。慌てたのは花車で、頭を上げるように伝えるが鯰尾は動かずにまた深く下げる。
「…本当に、有り難う御座いました。俺、なんにも出来ないですけど…治して貰ったお礼はきちんとします」
「お礼なんていいですよ。鯰尾さんが折れなければそれで。…あの、鯰尾さんが眠った後に今剣君や小狐丸さんに色々聞きました。嫌なことばかりあって、人間が嫌になったかもしれませんが…私は前任のようなことはしないとお約束します」
頭を下げたままの鯰尾へ、花車も同じように頭を下げる。
ふたりして、土下座のような形で頭を下げあっていたが鯰尾が「くふ」と空気が抜けたような音を出した。花車が鯰尾を確認するように頭を上げれば、鯰尾は微笑んで花車を見ていた。
「やっぱり、霊力の通りの人ですね。力はその成を現すから、…だから貴方のものは涼やかで、とても気持ちがいいです。前のは重たくて底無し沼のようでした。まあ想像なんですけどね」
鯰尾は姿勢を正すと今度は満面の笑みを花車へ見せる。
「俺の名前は鯰尾藤四郎。燃えて記憶が一部ありませんし、この本丸でも色々ありましたけど…過去なんか振り返りません! …どうか、宜しくお願いします」
「…ぁ、わ…私は後任の花車審神者です。此方こそどうぞ宜しくお願いします! …ありがとぉ…!」
思わず涙ぐんだ花車を見た鯰尾は不思議そうな顔をしてから「涙脆いですね」と呟いたあと、「主、お願いがあるんです」と眼の力を強くした。花車は嬉しさで潤む目を扇ぎつつこくりと頷きを返すと、鯰尾は少しだけ眉根を寄せた。
「…まだ母屋には沢山重傷者がいます。俺はまだ歩けたんですけど、歩けないのもいますし、折れた刀の欠片を離さない仲間もいます」
「…元々、手入れが出来そうならしていくつもりだったから治すことは勿論するけど、私が母屋の皆に自ら会いに行かないのは色々時期を見てのことなの。いきなり見知らぬ人間が来て今日から君たちの主だよ宜しく宜しく、なんて切り替えられないだろうなぁって。それなら折を見て…って。私としてはこの本丸に顕現している刀剣男士さんが折れなければいいだけだから」
鯰尾が首をかしげて、黒髪がさらりと横に流れた。
長い睫毛で縁取られた大きな眼窩でもって彼はまるで精巧な少女人形のようにも見える。
「主は、人間らしいって感じですね。聖人君子を気取る審神者は多くいるのに…俺、主が母屋の手入れ部屋を直しているの窺ってたんです」
明石に案内をされて向かった小さな手入れ部屋、あそこは直した途端に蛍丸の襲撃によって入り口を半壊にさせられた。その襲撃後も直したのだが本丸の御神木に霊力を注いでからは見ていない。明石と蛍丸は彼処に留まってはいないと思うが、彼等は修復された母屋の私室にキチンといるのだろうかと花車は思いを馳せる。
「大和守さんにはバレてたみたいですけど…その時、蛍丸さんに襲われてもわりと飄々としてましたよね。あの時は主に一太刀浴びせられればと思っていたので、蛍丸さんに後はお任せして二階に戻ったんですけど…まさか本丸全てを綺麗にして蛍丸さんも手入れしてしまうなんて思わなかったです」
へへ、と頬をかく鯰尾の脳裏には泣き腫らした顔の蛍丸が浮かぶ。
久し振りに見た健康そうな明石に抱えられて二階へ帰って来た蛍丸は、面映ゆそうな表情で「会ってみたら、いいかもね」と全員に呟いたのだった。
それから鯰尾は一振りで離れへ向かったのだ。
今剣が途中で合流したのは予想外だったが、「あそこには 三条のけはいがするので」と言われれば特になにも言うことはなくなった。
「蛍丸さんと明石さんが言ってました。主は給金のために審神者になったけれど、心根は霊力の通りの人間だからって…だから俺、ここに来たんです。…主なら、骨喰を顕現させてくれるって思って」
鯰尾の眼差しは、先程とは変わって確りと熱いものがある。
橙色に照らされた鯰尾の顔は整いすぎていっそ恐怖すら覚える。花車は指先を少しだけ動かして現実に自分を引き留めて鯰尾と視線を合わせるとコクリと頷いた。
「勿論、頑張るよ。けれど骨喰藤四郎はこの本丸にいるはずじゃないの? 刀帳には記されていたけれど」
振られた黒髪は振り子のように揺れた。
「いない。…いち兄に、折られたから」
下唇を巻き込んだ鯰尾は眉音を寄せて、大きな瞳を濡らす。花車には激しい鯰尾の怒りが肌を突いてきたように感じた。
彼等はみんな、折った折られたという。刀剣男士が万が一にも折れるときは戦場でのみだ。
それを前任はこの憩いの場所でもある本丸で行っていた。休まることがない恐怖、それは花車が生きていた現代社会でも良くあった家庭内暴力に酷似している。外で疲弊して帰宅すれば内で殺されるかもしれない恐怖に苛まれる。
前任は相当歪んでいたに違いない。
「…不用意な発言を許してください。ごめんなさい…そうだと思えなくて、配慮を欠きました」
「いえ! 普通はそんな発想ないですから! 寧ろ主にはこんな面倒な本丸任されるなんてって同情というか…あ、でも主は自ら志願したんですっけ?」
「志願したと言うか、審神者になるには選ばざるを得なかったって感じ…と、とにかく、明日朝イチで骨喰さんは顕現させるね。…依代はあるの?」
ないのであれば鍛刀で喚ぶことになるが、そう狙った刀剣が降りるものでもない。
折れた刀身が残っていたとしても、それにはもう何も宿ってはいないので喚べない。
しかし鯰尾は顔を輝かせながら頷いた。
「遠征や出陣のときに拾った依代は北東の隅にある蔵へ保管してあります! 顕現しても良いことがないから、こっそり其処へ運んで隠してましたから、骨喰もそこに!」
「…なんか闇深案件なことうっかり聞いちゃった気がするけど、聞き流すよぉ……じゃあまあ、朝イチで蔵に行こう」
蔵はこの離れから北東にある。
花車が自室として使用しているこの二の間から出てすぐの広大な畑の東側にでんと大きく建っていた。
米蔵かと思っていたが、もしかしたら色々ごちゃごちゃと詰め込まれた物置のようになっているのかもしれない。明日はともかく花車の刀剣となった全振りで蔵へ赴かなければならないことが決定した。
「ありがとうございます!」
「んーん。皆の話聞いて、ちょっと早急になんとかしないとなあって思いだしたとこだし…折れなきゃ不干渉なんて悠長に構えてらんない気がしてきたもん」
鯰尾のような傷を負っている刀剣が他にもいるかもしれないのだ。
契約はしなくてもいいが、痛みをこらえてじっとしているなんていうのは花車の中で許されない。健全に健やかに顕現していればなにも言うことはないのだから、近日中にでも母屋へ赴き後任の件と手入れの件を申し伝えなければならない。
「それはそうと、鯰尾君起きてからなにも食べてないよね。ずっと寝てたから眠れないでしょ? 私もまだ仕事やんないとだし、息抜きがてら一緒に夜食食べよー」
「いいんですか?! 食べてみたいです! あの、俺、焼き鮭とか餅を食べてみたい! あとお酒も飲んでみたいです!」
酒、と考えてみるが確かに鯰尾の見目は未成年のそれではあるが、生きた年齢と言うもので換算すればざっと花車を数百越える。
そもそも神前に神酒を供えるのであるし付喪神たる刀剣男士に酒は普通なのかと考えて快く頷いた。
酒の類いは明日にでもこんのすけ経由で手配をしてもらうこととして、花車は夕飯の残りである握り飯と、多めに作って朝食にと回していた煮物をタッパーに詰めて冷蔵庫に入れていたのを思い出しながら「焼き鮭も餅も明日にしようね、夜食レベルではないからねぇ」と鯰尾を嗜めると、ふたり連れ立って土間へ向かった。
食べ終わったらば徹夜で報告書を書かなければな、と頭の片隅に記憶しながら。
ふと見れば茶色の鳥はいなくなっている。あれは確か、夜鷹だっただろうか。
→
どこから入り込んだのか、二の間の窓から見える金木犀の枝葉の上で大きめの茶色い体を持つ鳥が宵闇に紛れながら「ギッギッ」と鳴いている。
文机からそれを見つつ、花車は報告書を打つ指を空中でパラパラ動かし、うんうんと悩む。
本日の成果や行動などを書き連ねるのは早々に終わり、出陣などは免除されているため、あとしなければいけない報告は前任の行いだった。
離れにやって来た鯰尾の傷はほぼ全てが前任である月下香の暴力によるものだった。
今剣の小さな傷は二度三度と出陣した際についたものらしく、悪意は見てとれなかったし今剣自身が「ぼくへのぼうりょくはありませんでした」と話していたので花車はそれを信じることにした。
一体何が行われていたのか、断片的にしか知らされていなかった花車は満身創痍の鯰尾を目の当たりにし、かつ小狐丸と今剣から全てではないにしろおおよその全体を聞いて戦慄した。
聞いたものを組み立てて報告書を打ち込むのは簡単ではあるが、それを文字に興すとやはり脳内にはその映像がふわふわと現れて吐き気が襲う。
タタタ、タタとリズミカルなタップ音をタブレットキーへ落とし、花車は舌打ちをした。
部屋の明かりは消してある暗い室内で、文机の上にあるナイトスタンドの柔らかな橙色が忌々しげな舌打ちを照らすようにブワンと一度ぶれた。
隣の部屋からは静かな寝息が聞こえる。泣き疲れて眠った鯰尾がその後起きずにいたため今剣も離れに泊まっていくとのことで夕食も全員で食べて今は小狐丸の隣で就寝している。
夕食の席で今剣が「はくまいってちょっとあまいんですね」と言ってニコニコしていたのが花車の庇護欲を擽ったのか目を潤ませながら「これから沢山食べようね!」と口許を押さえていた。
一度伸びをして、ぎゅうと目元を指で押さえてから空間に浮かぶバーチャルデスクトップから目を離してタブレットキーから指を浮かせるともう一度窓から金木犀を覗く。
まだ茶色の鳥は止まっていて嘴で翼を片羽ずつ手入れをしている。
「…なんで殴ったんだろう」
ポツリと呟いた言葉は夜に吸い込まれた。
花車は手を後ろについて上体を反らし、木目と竹細工が入り組んだ天井を見上げる。頭には昼間に言われたことが代わる代わる蘇り具現化しては悲鳴をあげて通り過ぎていく。
小狐丸は、前任の暴力は小狐丸が顕現した時からあったという。
刀帳には顕現時期が記載してあり、それによると今剣のあとに小狐丸が顕現していたので今剣に詳しい時期を聞こうとすれば「ふたふりめなので しりませんよ」と言われた。
聞けば一番最初に顕現した今剣は折れ、その後に小狐丸、そして今の二振りめの今剣が顕現していた。
他の刀剣も二振りめやそれ以上のものがあるという。中には反発したり諫言するものがいれば逆らうものはこうなるとでも言うように見せしめとして兄弟刀を折ったり折らせたりしたと言うのだから鬼畜のような人間だったことはよくわかった。
蛍丸も何度も愛染を折ったと泣いていたのを花車は思い出し「あー」と唸って畳へ倒れると両手で額を抱えた。
悠長に構えていないで、鯰尾のような刀剣が他にいるのであれば早々に手入れをした方がよいのではないのか。しかし人間に不信感を覚えているのであれば触られたくもないだろうし、などとウダウダと考えていれば、小さく小さく音が聞こえた。
隣の部屋から障子を開ける音がして、板間を軋ませて花車がいる二の間の障子の前で止まると、聞こえるか聞こえないかの大きさで「あの」と声がする。
寝転がって仰向けのままの花車は首だけ障子に向けて暫く固まっていたが、控えめな声がかけられたのと同じくして跳ね上がるように飛び起きて障子を開けた。
勢いよく開けられた障子の向こうには、鯰尾が正座で板間に座り、障子を開けた花車を見上げている。
その両目はどちらも確りと開き、綺麗な黒が、しかし不安そうに揺らぎつつ花車の顔を見る。花車が障子から手を離し、道を開けるように体をずらして二の間へ入るよう促せば、鯰尾は小さく頭を下げて静かに板間から移動した。
「…こんばんは。よく眠れました? お腹減ってませんか?」
鯰尾が中に入ると、然り気無く花車は文机を背にしてタブレットを操作しバーチャルデスクトップを消した。
仄かなナイトスタンドの灯りだけが室内を照らし、鯰尾の艶やかな黒髪を揺らす。
敷居に近い畳の上で正座をする鯰尾へ座布団を差し出すが、ゆるゆると頭を横に振って断った鯰尾は、花車へ静かに頭を下げた。慌てたのは花車で、頭を上げるように伝えるが鯰尾は動かずにまた深く下げる。
「…本当に、有り難う御座いました。俺、なんにも出来ないですけど…治して貰ったお礼はきちんとします」
「お礼なんていいですよ。鯰尾さんが折れなければそれで。…あの、鯰尾さんが眠った後に今剣君や小狐丸さんに色々聞きました。嫌なことばかりあって、人間が嫌になったかもしれませんが…私は前任のようなことはしないとお約束します」
頭を下げたままの鯰尾へ、花車も同じように頭を下げる。
ふたりして、土下座のような形で頭を下げあっていたが鯰尾が「くふ」と空気が抜けたような音を出した。花車が鯰尾を確認するように頭を上げれば、鯰尾は微笑んで花車を見ていた。
「やっぱり、霊力の通りの人ですね。力はその成を現すから、…だから貴方のものは涼やかで、とても気持ちがいいです。前のは重たくて底無し沼のようでした。まあ想像なんですけどね」
鯰尾は姿勢を正すと今度は満面の笑みを花車へ見せる。
「俺の名前は鯰尾藤四郎。燃えて記憶が一部ありませんし、この本丸でも色々ありましたけど…過去なんか振り返りません! …どうか、宜しくお願いします」
「…ぁ、わ…私は後任の花車審神者です。此方こそどうぞ宜しくお願いします! …ありがとぉ…!」
思わず涙ぐんだ花車を見た鯰尾は不思議そうな顔をしてから「涙脆いですね」と呟いたあと、「主、お願いがあるんです」と眼の力を強くした。花車は嬉しさで潤む目を扇ぎつつこくりと頷きを返すと、鯰尾は少しだけ眉根を寄せた。
「…まだ母屋には沢山重傷者がいます。俺はまだ歩けたんですけど、歩けないのもいますし、折れた刀の欠片を離さない仲間もいます」
「…元々、手入れが出来そうならしていくつもりだったから治すことは勿論するけど、私が母屋の皆に自ら会いに行かないのは色々時期を見てのことなの。いきなり見知らぬ人間が来て今日から君たちの主だよ宜しく宜しく、なんて切り替えられないだろうなぁって。それなら折を見て…って。私としてはこの本丸に顕現している刀剣男士さんが折れなければいいだけだから」
鯰尾が首をかしげて、黒髪がさらりと横に流れた。
長い睫毛で縁取られた大きな眼窩でもって彼はまるで精巧な少女人形のようにも見える。
「主は、人間らしいって感じですね。聖人君子を気取る審神者は多くいるのに…俺、主が母屋の手入れ部屋を直しているの窺ってたんです」
明石に案内をされて向かった小さな手入れ部屋、あそこは直した途端に蛍丸の襲撃によって入り口を半壊にさせられた。その襲撃後も直したのだが本丸の御神木に霊力を注いでからは見ていない。明石と蛍丸は彼処に留まってはいないと思うが、彼等は修復された母屋の私室にキチンといるのだろうかと花車は思いを馳せる。
「大和守さんにはバレてたみたいですけど…その時、蛍丸さんに襲われてもわりと飄々としてましたよね。あの時は主に一太刀浴びせられればと思っていたので、蛍丸さんに後はお任せして二階に戻ったんですけど…まさか本丸全てを綺麗にして蛍丸さんも手入れしてしまうなんて思わなかったです」
へへ、と頬をかく鯰尾の脳裏には泣き腫らした顔の蛍丸が浮かぶ。
久し振りに見た健康そうな明石に抱えられて二階へ帰って来た蛍丸は、面映ゆそうな表情で「会ってみたら、いいかもね」と全員に呟いたのだった。
それから鯰尾は一振りで離れへ向かったのだ。
今剣が途中で合流したのは予想外だったが、「あそこには 三条のけはいがするので」と言われれば特になにも言うことはなくなった。
「蛍丸さんと明石さんが言ってました。主は給金のために審神者になったけれど、心根は霊力の通りの人間だからって…だから俺、ここに来たんです。…主なら、骨喰を顕現させてくれるって思って」
鯰尾の眼差しは、先程とは変わって確りと熱いものがある。
橙色に照らされた鯰尾の顔は整いすぎていっそ恐怖すら覚える。花車は指先を少しだけ動かして現実に自分を引き留めて鯰尾と視線を合わせるとコクリと頷いた。
「勿論、頑張るよ。けれど骨喰藤四郎はこの本丸にいるはずじゃないの? 刀帳には記されていたけれど」
振られた黒髪は振り子のように揺れた。
「いない。…いち兄に、折られたから」
下唇を巻き込んだ鯰尾は眉音を寄せて、大きな瞳を濡らす。花車には激しい鯰尾の怒りが肌を突いてきたように感じた。
彼等はみんな、折った折られたという。刀剣男士が万が一にも折れるときは戦場でのみだ。
それを前任はこの憩いの場所でもある本丸で行っていた。休まることがない恐怖、それは花車が生きていた現代社会でも良くあった家庭内暴力に酷似している。外で疲弊して帰宅すれば内で殺されるかもしれない恐怖に苛まれる。
前任は相当歪んでいたに違いない。
「…不用意な発言を許してください。ごめんなさい…そうだと思えなくて、配慮を欠きました」
「いえ! 普通はそんな発想ないですから! 寧ろ主にはこんな面倒な本丸任されるなんてって同情というか…あ、でも主は自ら志願したんですっけ?」
「志願したと言うか、審神者になるには選ばざるを得なかったって感じ…と、とにかく、明日朝イチで骨喰さんは顕現させるね。…依代はあるの?」
ないのであれば鍛刀で喚ぶことになるが、そう狙った刀剣が降りるものでもない。
折れた刀身が残っていたとしても、それにはもう何も宿ってはいないので喚べない。
しかし鯰尾は顔を輝かせながら頷いた。
「遠征や出陣のときに拾った依代は北東の隅にある蔵へ保管してあります! 顕現しても良いことがないから、こっそり其処へ運んで隠してましたから、骨喰もそこに!」
「…なんか闇深案件なことうっかり聞いちゃった気がするけど、聞き流すよぉ……じゃあまあ、朝イチで蔵に行こう」
蔵はこの離れから北東にある。
花車が自室として使用しているこの二の間から出てすぐの広大な畑の東側にでんと大きく建っていた。
米蔵かと思っていたが、もしかしたら色々ごちゃごちゃと詰め込まれた物置のようになっているのかもしれない。明日はともかく花車の刀剣となった全振りで蔵へ赴かなければならないことが決定した。
「ありがとうございます!」
「んーん。皆の話聞いて、ちょっと早急になんとかしないとなあって思いだしたとこだし…折れなきゃ不干渉なんて悠長に構えてらんない気がしてきたもん」
鯰尾のような傷を負っている刀剣が他にもいるかもしれないのだ。
契約はしなくてもいいが、痛みをこらえてじっとしているなんていうのは花車の中で許されない。健全に健やかに顕現していればなにも言うことはないのだから、近日中にでも母屋へ赴き後任の件と手入れの件を申し伝えなければならない。
「それはそうと、鯰尾君起きてからなにも食べてないよね。ずっと寝てたから眠れないでしょ? 私もまだ仕事やんないとだし、息抜きがてら一緒に夜食食べよー」
「いいんですか?! 食べてみたいです! あの、俺、焼き鮭とか餅を食べてみたい! あとお酒も飲んでみたいです!」
酒、と考えてみるが確かに鯰尾の見目は未成年のそれではあるが、生きた年齢と言うもので換算すればざっと花車を数百越える。
そもそも神前に神酒を供えるのであるし付喪神たる刀剣男士に酒は普通なのかと考えて快く頷いた。
酒の類いは明日にでもこんのすけ経由で手配をしてもらうこととして、花車は夕飯の残りである握り飯と、多めに作って朝食にと回していた煮物をタッパーに詰めて冷蔵庫に入れていたのを思い出しながら「焼き鮭も餅も明日にしようね、夜食レベルではないからねぇ」と鯰尾を嗜めると、ふたり連れ立って土間へ向かった。
食べ終わったらば徹夜で報告書を書かなければな、と頭の片隅に記憶しながら。
ふと見れば茶色の鳥はいなくなっている。あれは確か、夜鷹だっただろうか。
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