無変換だと本名は千鶴(ちづる)、審神者名は花車(はなぐるま)になります。
花車
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──卯月某日
花車の赴任先の本丸は、形はきちんと残っていれどその庭は荒れ果て、家屋自体もかなりの痛みを残していた。そしてなにより、陰の気が全体を覆っているのかどんよりと重い。
「見るからにヤバいってわかるヤバさ。こんちゃん、これマジ? ヤバみしかないのでは? これ私生きて仕事出来んのかなぁ。え、うわぁ…マジかぁ。思ってたより数倍ヤバい」
「これは…確かに不気味だね。見てるだけで気が病みそう」
あまり焦りが伝わらない花車の緩い申告に、こんのすけは戸惑いつつ「申し訳ございません…」と項垂れる。
ゲートからでてすぐ目の前に石造りの鳥居があり、そこを潜れば武家屋敷宛 らの塀がぐるりと囲み、かつては立派であったであろう門が大きな口を構えてなんとか建っていた。
崩壊しそうな門を抜けて、ひび割れて雑草すら生えていない石畳を踏みつけながら花車達は本丸の玄関に上がり込んだ。
「ねえ主、見た? 馬小屋っぽいの潰れてたよ」
「ほんとに? 後で確認しよ。ねえ、こんちゃん。ここの刀剣の皆さんにはさぁ、私が来ること言ってあるのかな?」
意外にも埃の積もっていない綺麗な板間を見つめ、花車はそろそろと指先を押し付け軽く体重をかける。軋む音はすれど沈む怖さはなかったので大人しくモスグリーンカラーのマットなパンプスミュールを脱ぎ捨てて三和土 から框 へあがる。やはりギシ、と音がしただけで抜けることはなかった。
花車に倣って安定も草履を脱いで横に並ぶと、花車の左斜め後ろにそっとついて、いつでも抜刀できるよう鍔に左の親指をかける。
「えっ、なにそれ。私切られる感じ?」
「なんでだよ。僕が主にそんなことするわけないだろ。…何かあってもすぐ動けるようにだよ。僕まだ機動低いんだから」
そうだ、刀剣男士と言えど安定は先程鍛刀されたばかりの錬度1であったと花車は思い出す。ここにいる刀剣達とは比べ物にならない。政府も命の保証はしかねると同意書を渡してきたではないか。
今更ながらに多少の恐怖を覚えた花車はぎゅっと安定の右手を握った。驚きはしつつも安定は大人しく手を握られたまま黙る。
「お伝えはしてありますが、聞き入れてくださってはおりません。ですのでかなり、その、お話しするのは難しいかと…」
「ひえー、早速壁じゃんそれ。てかそもそもここの審神者は殺されたの? 自殺したの?」
「前任様は小狐丸殿によってお亡くなりに…御遺体処理班の報告によれば、御遺体は胴を一突き、それから首を切り離されていたようです。お顔に関しましては何とも…惨たらしい相貌だったとしか…。私室の布団が血にまみれていたようなのでそちらが現場かと」
「あー、ガッツリサスペンスすぎて無理。引くしかない。こわ」
知らずの内に安定の手を握る手に力を入れていたようで安定が少しだけ手を引いて「大丈夫だよ。一先ず僕がいるから…頼り無いかもだけどさ」と励ます。
「…ううん。安定君がいれば頑張れるわ。向こうに話し合いの余地がないなら地雷踏むつもりないし最悪話し合いは無視しよ。あと人が死んだとこで寝起きできないから部屋変えよ。どっかないかな」
そう言うと花車は漸く足を踏み出して歩きだす。
存外綺麗な板間を確認するように恐々ゆっくりと歩いて板間の真ん中辺りに立つと、こんのすけに間取り図をお願いする。こんのすけはすぐに縦に一回転して空間からこの本丸の間取り図を取り出した。
それを覗き込みながら使用されていない部屋はないかと地図上を探し、目が一つのところで止まった。
本丸の母屋北側から伸びる渡りの外廊下、その先に差掛け作りの離れ座敷があるのを確認して、止めた足をそちらに向けて動かす。
「いいとこあったの?」
「うん。安定君、知ってる刀と一緒にいたいかもだけど念のため暫くは一緒に離れで暮らしてくれる?」
「勿論だよ。それにここの刀、知ってるやつがいてもそれはもう僕の知ってる刀 じゃないと思う」
「あーまあそうかもね。安定君は沖田総司の刀だから、新撰組関連の刀がいたら話し合いも上手くいきそうなんだけどなぁ…」
「無理じゃない? 前の審神者、首落ちてたんでしょ? 相当恨みが強いよ。…まあ、やってはみるけどさ」
ギシギシと二人分と一匹の足音を響かせながら玄関から廊下を抜けて離れへ向かう。
本丸は広く、刀剣男士は多数いるとのことなのにたった二人の足音が響く静けさに花車は背筋を冷えさせながら安定と話に花を咲かせる。そうでしもないと弱音を吐きそうな気味の悪さがあるからだった。広大な他人の荒れた屋敷に勝手に侵入しているような罪悪感もある。
気持ち、花車は離れに向かう足を早めた。
ついた渡り廊下の先にある離れは見事に荒れていた。
母屋である本丸はまだマシだったが、こちらは手付かずだったのだろう。
扉は板が貼り付けられていたようだが釘が落ちて板が剥がれかけて、扉が見え隠れしている。渡り廊下ですらゆらぎ硝子が割れかけ、東に見える築山庭へ西側から行けるよう細工した床は板が張られていない所から腐っていて渡し板なんてものを渡して通れば忽ち抜けることは解りきっていた。天井部分も同じく抜け落ちそうな上、隅には審神者のものか刀剣のものかわからない黒い澱がこびりついて霞めている。
「うわ、ボロボロだね…」
「こんちゃん、本丸って審神者の霊力によって季節から天候も決められて、動植物の存在も左右するんだよね? それって無機物も適用?」
「はい。本丸は言わば審神者様方其々の神域です。世界の神によって朽ちるも栄えるも自在です。勿論例外はありますが」
「よし。安定君ちょっと離れて~」
安定と手を離して花車は一歩前へ出る。
素直に安定はこんのすけと一緒に花車の後ろへ下がり、事の成り行きを見守る。花車は袖を肘まであげると、ぺたりと両掌を床につけた。
「イメージ…イメージ…よし!」
呟いたあと、花車はぐっと掌に力を込める。
花車の霊力がジワジワと手から床へと広がり、それは渡り廊下の先まで覆われる。淡くなんとも言えない薄い雪解け氷のような色をした光は安定の目にしっかりと見えている。
その霊力は鍛刀されたとき、顕現されたときと安定の中にしっかりと根付いていて、花車の力が広がる空間がとても気持ちがよかった。
「凄い…!」
「おお、これは!」
心地よい空気は勿論のこと、花車が力を込めて広がったところから綺麗に甦っていく。
劣化して抜けそうであった板は分厚くなりニス塗りされたような艶を出して光り、渡し板も頑丈になっている。落ちてきそうであった天井部分も修復され、隅で澱んでいた黒い靄も消えた。ゆらぎ硝子はひび割れが消えて見事なゆらめきと厚みを見せて艶のある板に揺らぐ太陽光を反射する。
渡り廊下に花車の霊力が充満すると、一息ついたように床から手を離して花車はこんこんと廊下の板を叩いて強度をチェックした。
「うん、渡れそう。よかった~通用して」
「す…凄い! 主凄いよ! 僕感動した!」
「本当に素晴らしいです花車様! やはり選抜された審神者様なだけありますねえ!」
「そんなに褒めても何にもでないけどニヤニヤする~。ありがとー。でも今から離れも直すから、もう一仕事だよ」
そう言うと花車はスタスタと新築同様に改装し直された渡り廊下を歩いて渡り、大本命の離れ座敷に辿り着く。
離れ座敷に入れるであろう渡り廊下と繋がる扉はやはり大きな板で打ち付けられて、出入りができなくしてあった。錆びた釘をちょいちょい触りつつ、朽ちて剥がれかけた板の間から中を覗き込むが、真っ暗でよく解らない。
「よし」
再びぺたりと掌をつけると、息を吐いて集中し、すぐに力を入れる。
渡り廊下と同じくジワジワと霊力が離れを覆って綺麗になっていく。
「……ん?」
花車はなんとなく中の様子に違和感を覚えたが、一先ず綺麗にすることが先決と力を入れ続け、数分後に漸く手を離した。
見えぬ室内もひたすら綺麗にとだけ考えて直したせいか、先程よりも疲弊している。
「つっ、かれたー…あーもーむりMPが足りない気がする…」
「お疲れ様。大丈夫?」
「大丈夫~。今後ここがお家になるからさぁ、頑張ったよー。…これなんだろうね」
花車は気だるい腕を伸ばして頑丈になってしまった板を撫でた。釘も新しくなっているようなので錆びてるより抜きやすいかと前向きに捉え、花車はこんのすけに釘抜きがあるか訊ねる。
こんのすけは直ぐ様バク転をして空間から取り出した。
「めっちゃ便利。ありがとこんちゃん」
綺麗に手入れされた手には似つかわしくない釘抜きを持ち、花車は四ヶ所止めされた釘を抜いていく。
ミシミシと軋む音をさせつつ釘を抜けば、板は花車側に倒れかかるがそれを安定が支えて難を逃れる。直った廊下や離れを傷つけないようにゆっくりと大きな板を二人で横へずらして置き、漸く離れへ繋がる入り口が見えた。
離れにしては珍しく観音開き状の扉は立派な木材で装飾は殆どなく、天窓のように上部にだけ粗い漉き和紙を障子紙として貼り採光を取っているようだ。
取っ手だけは金色に光り、目線の先にだけ申し訳程度の小さな丸硝子が扉の両方に嵌め込まれていた。その硝子も透過ではなく網入りの型硝子で、向こうはなにも見えない。
「…開けるよー」
何と無く声をかけて花車は離れの扉をゆっくりと開いた。
むわりとした、長年開けられていなかったための籠った空気が花車に纏わりつき、それに伴って埃も舞う。
暗い室内に目を凝らしつつ、扉を左右両方とも限界まで開いて安定とこんのすけに庭に転がる玉砂利で大きめのものを複数個取って来てもらってそれをストッパーにした。
「お邪魔しますよー…?」
「…主、誰かいる」
一歩踏み出してすぐ、安定が花車の前に刀を構えて警戒した。
花車は「やっぱり…大丈夫だよ、多分」と呟くと安定に刀を下ろさせ、再び自然に手を繋いでそのまま気配のする方向へ何の迷いもなく歩いていく。
渡り廊下から入ることのできるそこは白樺の床板が広がる広縁で、入って正面には腰付障子がぴたりと閉まり、広縁の左右は壁になっている。
「旅館じゃん。小さいときはここのスペース秘密基地みたいで好きだったなぁ」
呑気なことを言いつつ、花車は障子を片手で勢いよく開ける。
余りの勢いのよさに足元にいたこんのすけが尻尾を逆立てた。
障子の向こうは十畳程の広さの和室だった。
その和室へ入って左手奥、床の間と押入襖の間の柱に誰か一人座り込んでいた。
「…えー、あれは死んでる感じ?」
「折れてたら 顕現してないから、生きてるんじゃない?」
二人があっけらかんと話すなか、こんのすけが慌てる。
「あれは明石国行様です! 刀帳登録申告があってから演練でも姿が見えないと思っていたら、こんな離れに…!」
「そっかあ、閉じ込められてたのかな。ねーえー! 大丈夫ですかー!」
檜の一枚板で出来たニス仕上げの大机を挟んだまま大きな声で呼ばう。念のためと思いつつしたことであったが、杞憂だったようだ。
花車の声に反応した明石はのろのろと顔を上げて大きな欠伸を一つかましたのだ。
「寝とったんかーい」
思わずやる気ない声で突っ込んだ花車に、明石はポカンとしてからすぐに低く笑った。
「おはようさん…あんさん、審神者? いや…新しい主はんってとこ? なんや綺麗にしてもろて、えろうすんまへんなぁ」
「あー、やっぱ貴方のことも序でに治してました? 離れ直してるときに変な感覚あったんですよねー」
刀剣男士は出陣などで負傷した場合、手入れをすれば粗方治るが疲労度や内面の傷までは治らない。基本的には時が解決し、食事や睡眠、抑圧のない環境であれば治りは早い。
しかしそれより早く回復するのは、審神者が直接刀剣へ霊力を流すことだ。
離れを手入れする際、中にいた明石は花車に半強制的に霊力を上書きされ、空腹を始めとした疲労倦怠感も消え去っていた。
「えーと、新しく赴任してきました花車です。こっちは初期刀の安定君です。どうぞよしなに~。明石さんはなんでここにいるんです? お家ですか?」
「何や自分軽いなぁ…。……明石国行いいます、こちらこそどうぞよろしゅう。因みにお家やあれへんで。前の主はんに閉じ込められたんや」
「わあやっぱり? 明石さんも大概フランクで私やり易いですよ。閉じ込められたってことはなんかしちゃったんです?」
明石と話ながらも花車は視線を部屋へくまなくやる。
十畳程の畳が入った純和風の部屋は明石と大机以外なにもなく殺風景だ。
まだ別の部屋へ続く襖が北側と東側に張られているためここ以外にも刀剣がいる可能性はなきにしもあらずで、花車は然り気無く安定の羽織の裾を引いて体を引き寄せた。
「主…?」
安定は首をかしげつつ、やや下方にある花車の顔を確認するが特段変化はなく、花車の顔が自分を見上げることはなかったために暫くして再び明石に目線をやる。けれどその口許は満足げな笑みができていた。
「まあ、色々あったんや。…なんも聞いてへんわけちゃうやろ? こんなとこ来てんねやし」
「それがねー、特に説明なく来たわけですよ。離れに来たのも私が寝起きする部屋を探してのことですし。それで明石さん、此処には他に誰かいますか?」
「ん…多分こっちにおるんちゃうかな…言うて閉じ込められて長いし、審神者以外この離れ全ての襖を開くことはできん仕様になっとるから外の事はようわからんのですわ」
眼鏡を押し上げつつ、明石はその細長い指で自分の左の襖をさした。
花車から見て正面のその襖には霞がかかった春の山裾が描かれ、欄間は豪奢な鷹が松の枝に止まり羽を広げている。
此方の部屋の襖と大分雰囲気が違う様に、花車は少しだけ息を飲んだ。立派な襖は、物淋しい離れには不釣り合いすぎる。
それに母屋である本丸から繋がる渡り廊下からの入り口は釘打ちされて出入りができなくしてあったにも関わらず、なぜこうも豪奢な作りにしてあるのか、花車には理由が全くわからなかった。
「嫌なことしたとしか政府から聞いてないんだけど、ほんとに前の人なにやってたんだろーね」
「さあ? 僕だって主に呼ばれてからしか聞いてないもん。でも滅茶苦茶嫌な人間ってことは理解してきた」
「そうだね。…やっぱ話し合いは無理かもなぁ」
机を挟んで向こう側、その豪奢な作りの襖へ向かうと、花車はそろそろと引き手へ指先を伸ばす。
ちょん、とつつくように触れてから何も起きないことを確認してゆっくりと襖を音を立てないように開く。豪奢な襖は案外あっさりと滑らかに開き、奥の畳に光が指す。
離れ二の間になる部屋は広く、北側には大きく濡れ縁を取っていて外の光が障子を通してうっすらと室内を明るくしている。
ぼやぼやとした午前の日差しの中、一の間より広いその部屋の真ん中に一振りの刀が畳の上へ直にぽつりと置かれていた。その刀の鍔と鞘の間を開かないよう繋ぐよう、堅く五色の組紐が結ばれている。
「…こんちゃん、あれはなに?」
トーンを落とした声で花車が足元のこんのすけへ訊ねる。
ふさりとした尻尾を一振り、こんのすけは淡々と言葉を吐き出した。
「あれは審神者殺しの罪で封印をされております小狐丸様でございます。此方、離れの正玄関が南東にありますがそちらからこの場所へ運び込まれたことは聞いておりました。非常に錬度も高く、神通力も強い刀ですので本霊に戻すのも憚られ一先ず政府陰陽師と巫女一同で封印をさせていただいた次第です。封印解除並びに顕現は新代審神者…つまり花車審神者の一存で決定となりますので、顕現されるかこのままかは御随意にどうぞ」
「…そっか。あの刀がそうなのね…それにしたって政府ってこわーいとこだね。安定君」
「ん?」
じっと太刀の状態である小狐丸を見ていた安定は、目線はそのままに鼻の抜けた声で花車に返事を返す。
その横顔を眺めながら、花車は安定の手を取って握った。
急なことに驚いた安定は、肩を跳ねさせながらも漸く花車を見つめる。
「な、なに?」
「…安定君はどう思う? 私は顕現してみたいんだけどね。安定君は初期刀だし、意見が聞きたいなー」
「……主が、大丈夫ならいいんじゃない? 何かあったら、今の僕じゃ折れると思うけど…ううん、死んでも守るし」
「お?」
目を丸くした花車の表情で、急に羞恥がきたのか安定はブンと握られた手を振りほどき、赤い顔のまま「それに明石さんだっているんだし! 大丈夫でしょ!」と早口で捲し立てる。
「え? 明石さん?」
「…その顔はわかってないやつ? さっき契約の口上交わしてたじゃん。てことはもう明石さんは主の明石国行なんだから万が一小狐丸が刀を向けても庇ってくれるよ」
安定の言葉に床柱の前で座ったままの明石が「疲れるんは嫌やけど主はんのためならしゃあないですわ」と溢す。
花車は再び目を丸くした。
「え! さっきのお互いの自己紹介みたいなので再契約の証になるの? えっ、ゆる! 滅茶苦茶緩い!! 迂闊に自己紹介出来ない!」
「主って本当に成績優秀者なの?」
「うわー、安定君きつーい」
「あーもうほら! 馬鹿なこと言ってないで顕現させるんでしょ。早く行ってきなよ」
キャイキャイ騒いでいたのも束の間、安定がポンと花車の背中を押して二の間へ放り込んだ。
すぐに安定も襖を潜って中に足を踏み入れると、重い空気が肩に振り掛かる。
「…安定君、大丈夫? 紐、ほどくよ」
「ん。大丈夫…。ほどいて顕現の力を込めたらすぐ手放して」
「うん」
そろそろと真ん中にある太刀へ近付き、花車が手を伸ばして紐の片側を持つと安定は花車の隣へ立って鍔に指を掛けて機会を見る。
床柱前に座っていた明石もいつの間にか花車を庇って動きやすい位置に立っていた。
「よーし、行くよー」
しゅるり。
五色の組紐を解いて鍔と鞘を自由にすると、念のために指先だけを鞘に付けて顕現の力を込めた。
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花車の赴任先の本丸は、形はきちんと残っていれどその庭は荒れ果て、家屋自体もかなりの痛みを残していた。そしてなにより、陰の気が全体を覆っているのかどんよりと重い。
「見るからにヤバいってわかるヤバさ。こんちゃん、これマジ? ヤバみしかないのでは? これ私生きて仕事出来んのかなぁ。え、うわぁ…マジかぁ。思ってたより数倍ヤバい」
「これは…確かに不気味だね。見てるだけで気が病みそう」
あまり焦りが伝わらない花車の緩い申告に、こんのすけは戸惑いつつ「申し訳ございません…」と項垂れる。
ゲートからでてすぐ目の前に石造りの鳥居があり、そこを潜れば武家屋敷
崩壊しそうな門を抜けて、ひび割れて雑草すら生えていない石畳を踏みつけながら花車達は本丸の玄関に上がり込んだ。
「ねえ主、見た? 馬小屋っぽいの潰れてたよ」
「ほんとに? 後で確認しよ。ねえ、こんちゃん。ここの刀剣の皆さんにはさぁ、私が来ること言ってあるのかな?」
意外にも埃の積もっていない綺麗な板間を見つめ、花車はそろそろと指先を押し付け軽く体重をかける。軋む音はすれど沈む怖さはなかったので大人しくモスグリーンカラーのマットなパンプスミュールを脱ぎ捨てて
花車に倣って安定も草履を脱いで横に並ぶと、花車の左斜め後ろにそっとついて、いつでも抜刀できるよう鍔に左の親指をかける。
「えっ、なにそれ。私切られる感じ?」
「なんでだよ。僕が主にそんなことするわけないだろ。…何かあってもすぐ動けるようにだよ。僕まだ機動低いんだから」
そうだ、刀剣男士と言えど安定は先程鍛刀されたばかりの錬度1であったと花車は思い出す。ここにいる刀剣達とは比べ物にならない。政府も命の保証はしかねると同意書を渡してきたではないか。
今更ながらに多少の恐怖を覚えた花車はぎゅっと安定の右手を握った。驚きはしつつも安定は大人しく手を握られたまま黙る。
「お伝えはしてありますが、聞き入れてくださってはおりません。ですのでかなり、その、お話しするのは難しいかと…」
「ひえー、早速壁じゃんそれ。てかそもそもここの審神者は殺されたの? 自殺したの?」
「前任様は小狐丸殿によってお亡くなりに…御遺体処理班の報告によれば、御遺体は胴を一突き、それから首を切り離されていたようです。お顔に関しましては何とも…惨たらしい相貌だったとしか…。私室の布団が血にまみれていたようなのでそちらが現場かと」
「あー、ガッツリサスペンスすぎて無理。引くしかない。こわ」
知らずの内に安定の手を握る手に力を入れていたようで安定が少しだけ手を引いて「大丈夫だよ。一先ず僕がいるから…頼り無いかもだけどさ」と励ます。
「…ううん。安定君がいれば頑張れるわ。向こうに話し合いの余地がないなら地雷踏むつもりないし最悪話し合いは無視しよ。あと人が死んだとこで寝起きできないから部屋変えよ。どっかないかな」
そう言うと花車は漸く足を踏み出して歩きだす。
存外綺麗な板間を確認するように恐々ゆっくりと歩いて板間の真ん中辺りに立つと、こんのすけに間取り図をお願いする。こんのすけはすぐに縦に一回転して空間からこの本丸の間取り図を取り出した。
それを覗き込みながら使用されていない部屋はないかと地図上を探し、目が一つのところで止まった。
本丸の母屋北側から伸びる渡りの外廊下、その先に差掛け作りの離れ座敷があるのを確認して、止めた足をそちらに向けて動かす。
「いいとこあったの?」
「うん。安定君、知ってる刀と一緒にいたいかもだけど念のため暫くは一緒に離れで暮らしてくれる?」
「勿論だよ。それにここの刀、知ってるやつがいてもそれはもう僕の知ってる
「あーまあそうかもね。安定君は沖田総司の刀だから、新撰組関連の刀がいたら話し合いも上手くいきそうなんだけどなぁ…」
「無理じゃない? 前の審神者、首落ちてたんでしょ? 相当恨みが強いよ。…まあ、やってはみるけどさ」
ギシギシと二人分と一匹の足音を響かせながら玄関から廊下を抜けて離れへ向かう。
本丸は広く、刀剣男士は多数いるとのことなのにたった二人の足音が響く静けさに花車は背筋を冷えさせながら安定と話に花を咲かせる。そうでしもないと弱音を吐きそうな気味の悪さがあるからだった。広大な他人の荒れた屋敷に勝手に侵入しているような罪悪感もある。
気持ち、花車は離れに向かう足を早めた。
ついた渡り廊下の先にある離れは見事に荒れていた。
母屋である本丸はまだマシだったが、こちらは手付かずだったのだろう。
扉は板が貼り付けられていたようだが釘が落ちて板が剥がれかけて、扉が見え隠れしている。渡り廊下ですらゆらぎ硝子が割れかけ、東に見える築山庭へ西側から行けるよう細工した床は板が張られていない所から腐っていて渡し板なんてものを渡して通れば忽ち抜けることは解りきっていた。天井部分も同じく抜け落ちそうな上、隅には審神者のものか刀剣のものかわからない黒い澱がこびりついて霞めている。
「うわ、ボロボロだね…」
「こんちゃん、本丸って審神者の霊力によって季節から天候も決められて、動植物の存在も左右するんだよね? それって無機物も適用?」
「はい。本丸は言わば審神者様方其々の神域です。世界の神によって朽ちるも栄えるも自在です。勿論例外はありますが」
「よし。安定君ちょっと離れて~」
安定と手を離して花車は一歩前へ出る。
素直に安定はこんのすけと一緒に花車の後ろへ下がり、事の成り行きを見守る。花車は袖を肘まであげると、ぺたりと両掌を床につけた。
「イメージ…イメージ…よし!」
呟いたあと、花車はぐっと掌に力を込める。
花車の霊力がジワジワと手から床へと広がり、それは渡り廊下の先まで覆われる。淡くなんとも言えない薄い雪解け氷のような色をした光は安定の目にしっかりと見えている。
その霊力は鍛刀されたとき、顕現されたときと安定の中にしっかりと根付いていて、花車の力が広がる空間がとても気持ちがよかった。
「凄い…!」
「おお、これは!」
心地よい空気は勿論のこと、花車が力を込めて広がったところから綺麗に甦っていく。
劣化して抜けそうであった板は分厚くなりニス塗りされたような艶を出して光り、渡し板も頑丈になっている。落ちてきそうであった天井部分も修復され、隅で澱んでいた黒い靄も消えた。ゆらぎ硝子はひび割れが消えて見事なゆらめきと厚みを見せて艶のある板に揺らぐ太陽光を反射する。
渡り廊下に花車の霊力が充満すると、一息ついたように床から手を離して花車はこんこんと廊下の板を叩いて強度をチェックした。
「うん、渡れそう。よかった~通用して」
「す…凄い! 主凄いよ! 僕感動した!」
「本当に素晴らしいです花車様! やはり選抜された審神者様なだけありますねえ!」
「そんなに褒めても何にもでないけどニヤニヤする~。ありがとー。でも今から離れも直すから、もう一仕事だよ」
そう言うと花車はスタスタと新築同様に改装し直された渡り廊下を歩いて渡り、大本命の離れ座敷に辿り着く。
離れ座敷に入れるであろう渡り廊下と繋がる扉はやはり大きな板で打ち付けられて、出入りができなくしてあった。錆びた釘をちょいちょい触りつつ、朽ちて剥がれかけた板の間から中を覗き込むが、真っ暗でよく解らない。
「よし」
再びぺたりと掌をつけると、息を吐いて集中し、すぐに力を入れる。
渡り廊下と同じくジワジワと霊力が離れを覆って綺麗になっていく。
「……ん?」
花車はなんとなく中の様子に違和感を覚えたが、一先ず綺麗にすることが先決と力を入れ続け、数分後に漸く手を離した。
見えぬ室内もひたすら綺麗にとだけ考えて直したせいか、先程よりも疲弊している。
「つっ、かれたー…あーもーむりMPが足りない気がする…」
「お疲れ様。大丈夫?」
「大丈夫~。今後ここがお家になるからさぁ、頑張ったよー。…これなんだろうね」
花車は気だるい腕を伸ばして頑丈になってしまった板を撫でた。釘も新しくなっているようなので錆びてるより抜きやすいかと前向きに捉え、花車はこんのすけに釘抜きがあるか訊ねる。
こんのすけは直ぐ様バク転をして空間から取り出した。
「めっちゃ便利。ありがとこんちゃん」
綺麗に手入れされた手には似つかわしくない釘抜きを持ち、花車は四ヶ所止めされた釘を抜いていく。
ミシミシと軋む音をさせつつ釘を抜けば、板は花車側に倒れかかるがそれを安定が支えて難を逃れる。直った廊下や離れを傷つけないようにゆっくりと大きな板を二人で横へずらして置き、漸く離れへ繋がる入り口が見えた。
離れにしては珍しく観音開き状の扉は立派な木材で装飾は殆どなく、天窓のように上部にだけ粗い漉き和紙を障子紙として貼り採光を取っているようだ。
取っ手だけは金色に光り、目線の先にだけ申し訳程度の小さな丸硝子が扉の両方に嵌め込まれていた。その硝子も透過ではなく網入りの型硝子で、向こうはなにも見えない。
「…開けるよー」
何と無く声をかけて花車は離れの扉をゆっくりと開いた。
むわりとした、長年開けられていなかったための籠った空気が花車に纏わりつき、それに伴って埃も舞う。
暗い室内に目を凝らしつつ、扉を左右両方とも限界まで開いて安定とこんのすけに庭に転がる玉砂利で大きめのものを複数個取って来てもらってそれをストッパーにした。
「お邪魔しますよー…?」
「…主、誰かいる」
一歩踏み出してすぐ、安定が花車の前に刀を構えて警戒した。
花車は「やっぱり…大丈夫だよ、多分」と呟くと安定に刀を下ろさせ、再び自然に手を繋いでそのまま気配のする方向へ何の迷いもなく歩いていく。
渡り廊下から入ることのできるそこは白樺の床板が広がる広縁で、入って正面には腰付障子がぴたりと閉まり、広縁の左右は壁になっている。
「旅館じゃん。小さいときはここのスペース秘密基地みたいで好きだったなぁ」
呑気なことを言いつつ、花車は障子を片手で勢いよく開ける。
余りの勢いのよさに足元にいたこんのすけが尻尾を逆立てた。
障子の向こうは十畳程の広さの和室だった。
その和室へ入って左手奥、床の間と押入襖の間の柱に誰か一人座り込んでいた。
「…えー、あれは死んでる感じ?」
「
二人があっけらかんと話すなか、こんのすけが慌てる。
「あれは明石国行様です! 刀帳登録申告があってから演練でも姿が見えないと思っていたら、こんな離れに…!」
「そっかあ、閉じ込められてたのかな。ねーえー! 大丈夫ですかー!」
檜の一枚板で出来たニス仕上げの大机を挟んだまま大きな声で呼ばう。念のためと思いつつしたことであったが、杞憂だったようだ。
花車の声に反応した明石はのろのろと顔を上げて大きな欠伸を一つかましたのだ。
「寝とったんかーい」
思わずやる気ない声で突っ込んだ花車に、明石はポカンとしてからすぐに低く笑った。
「おはようさん…あんさん、審神者? いや…新しい主はんってとこ? なんや綺麗にしてもろて、えろうすんまへんなぁ」
「あー、やっぱ貴方のことも序でに治してました? 離れ直してるときに変な感覚あったんですよねー」
刀剣男士は出陣などで負傷した場合、手入れをすれば粗方治るが疲労度や内面の傷までは治らない。基本的には時が解決し、食事や睡眠、抑圧のない環境であれば治りは早い。
しかしそれより早く回復するのは、審神者が直接刀剣へ霊力を流すことだ。
離れを手入れする際、中にいた明石は花車に半強制的に霊力を上書きされ、空腹を始めとした疲労倦怠感も消え去っていた。
「えーと、新しく赴任してきました花車です。こっちは初期刀の安定君です。どうぞよしなに~。明石さんはなんでここにいるんです? お家ですか?」
「何や自分軽いなぁ…。……明石国行いいます、こちらこそどうぞよろしゅう。因みにお家やあれへんで。前の主はんに閉じ込められたんや」
「わあやっぱり? 明石さんも大概フランクで私やり易いですよ。閉じ込められたってことはなんかしちゃったんです?」
明石と話ながらも花車は視線を部屋へくまなくやる。
十畳程の畳が入った純和風の部屋は明石と大机以外なにもなく殺風景だ。
まだ別の部屋へ続く襖が北側と東側に張られているためここ以外にも刀剣がいる可能性はなきにしもあらずで、花車は然り気無く安定の羽織の裾を引いて体を引き寄せた。
「主…?」
安定は首をかしげつつ、やや下方にある花車の顔を確認するが特段変化はなく、花車の顔が自分を見上げることはなかったために暫くして再び明石に目線をやる。けれどその口許は満足げな笑みができていた。
「まあ、色々あったんや。…なんも聞いてへんわけちゃうやろ? こんなとこ来てんねやし」
「それがねー、特に説明なく来たわけですよ。離れに来たのも私が寝起きする部屋を探してのことですし。それで明石さん、此処には他に誰かいますか?」
「ん…多分こっちにおるんちゃうかな…言うて閉じ込められて長いし、審神者以外この離れ全ての襖を開くことはできん仕様になっとるから外の事はようわからんのですわ」
眼鏡を押し上げつつ、明石はその細長い指で自分の左の襖をさした。
花車から見て正面のその襖には霞がかかった春の山裾が描かれ、欄間は豪奢な鷹が松の枝に止まり羽を広げている。
此方の部屋の襖と大分雰囲気が違う様に、花車は少しだけ息を飲んだ。立派な襖は、物淋しい離れには不釣り合いすぎる。
それに母屋である本丸から繋がる渡り廊下からの入り口は釘打ちされて出入りができなくしてあったにも関わらず、なぜこうも豪奢な作りにしてあるのか、花車には理由が全くわからなかった。
「嫌なことしたとしか政府から聞いてないんだけど、ほんとに前の人なにやってたんだろーね」
「さあ? 僕だって主に呼ばれてからしか聞いてないもん。でも滅茶苦茶嫌な人間ってことは理解してきた」
「そうだね。…やっぱ話し合いは無理かもなぁ」
机を挟んで向こう側、その豪奢な作りの襖へ向かうと、花車はそろそろと引き手へ指先を伸ばす。
ちょん、とつつくように触れてから何も起きないことを確認してゆっくりと襖を音を立てないように開く。豪奢な襖は案外あっさりと滑らかに開き、奥の畳に光が指す。
離れ二の間になる部屋は広く、北側には大きく濡れ縁を取っていて外の光が障子を通してうっすらと室内を明るくしている。
ぼやぼやとした午前の日差しの中、一の間より広いその部屋の真ん中に一振りの刀が畳の上へ直にぽつりと置かれていた。その刀の鍔と鞘の間を開かないよう繋ぐよう、堅く五色の組紐が結ばれている。
「…こんちゃん、あれはなに?」
トーンを落とした声で花車が足元のこんのすけへ訊ねる。
ふさりとした尻尾を一振り、こんのすけは淡々と言葉を吐き出した。
「あれは審神者殺しの罪で封印をされております小狐丸様でございます。此方、離れの正玄関が南東にありますがそちらからこの場所へ運び込まれたことは聞いておりました。非常に錬度も高く、神通力も強い刀ですので本霊に戻すのも憚られ一先ず政府陰陽師と巫女一同で封印をさせていただいた次第です。封印解除並びに顕現は新代審神者…つまり花車審神者の一存で決定となりますので、顕現されるかこのままかは御随意にどうぞ」
「…そっか。あの刀がそうなのね…それにしたって政府ってこわーいとこだね。安定君」
「ん?」
じっと太刀の状態である小狐丸を見ていた安定は、目線はそのままに鼻の抜けた声で花車に返事を返す。
その横顔を眺めながら、花車は安定の手を取って握った。
急なことに驚いた安定は、肩を跳ねさせながらも漸く花車を見つめる。
「な、なに?」
「…安定君はどう思う? 私は顕現してみたいんだけどね。安定君は初期刀だし、意見が聞きたいなー」
「……主が、大丈夫ならいいんじゃない? 何かあったら、今の僕じゃ折れると思うけど…ううん、死んでも守るし」
「お?」
目を丸くした花車の表情で、急に羞恥がきたのか安定はブンと握られた手を振りほどき、赤い顔のまま「それに明石さんだっているんだし! 大丈夫でしょ!」と早口で捲し立てる。
「え? 明石さん?」
「…その顔はわかってないやつ? さっき契約の口上交わしてたじゃん。てことはもう明石さんは主の明石国行なんだから万が一小狐丸が刀を向けても庇ってくれるよ」
安定の言葉に床柱の前で座ったままの明石が「疲れるんは嫌やけど主はんのためならしゃあないですわ」と溢す。
花車は再び目を丸くした。
「え! さっきのお互いの自己紹介みたいなので再契約の証になるの? えっ、ゆる! 滅茶苦茶緩い!! 迂闊に自己紹介出来ない!」
「主って本当に成績優秀者なの?」
「うわー、安定君きつーい」
「あーもうほら! 馬鹿なこと言ってないで顕現させるんでしょ。早く行ってきなよ」
キャイキャイ騒いでいたのも束の間、安定がポンと花車の背中を押して二の間へ放り込んだ。
すぐに安定も襖を潜って中に足を踏み入れると、重い空気が肩に振り掛かる。
「…安定君、大丈夫? 紐、ほどくよ」
「ん。大丈夫…。ほどいて顕現の力を込めたらすぐ手放して」
「うん」
そろそろと真ん中にある太刀へ近付き、花車が手を伸ばして紐の片側を持つと安定は花車の隣へ立って鍔に指を掛けて機会を見る。
床柱前に座っていた明石もいつの間にか花車を庇って動きやすい位置に立っていた。
「よーし、行くよー」
しゅるり。
五色の組紐を解いて鍔と鞘を自由にすると、念のために指先だけを鞘に付けて顕現の力を込めた。
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