星の夜に竜が来るから
水晶の剣閃が煌めく。
切っ先は竜の喉首を、深く――波打つ刃は捉えた場所を引き裂くように切り裂いた。
竜は血の代わりに黒い塵のようなモノを傷から吹き、絹を割くように吼え叫ぶ。尽き果てる寸前まで最期のあがきと暴れ狂う巨躯という武器は、剣を持つ姫を護るように割り入った騎士が、大盾でことごとくを受け止めた。
だがそれも一瞬の出来事。力尽きた竜は崩れ落ちる。その姿は、鱗の一つ一つ、角、翼、目玉に至るまで色とりどりの宝石で造られていた。着飾ったその身は、「美しくなりたい」、あるいは富への執着、はたまた虚栄の成れの果てか……。いずれにせよ色の粒はがらがらと落ちて、散らばって、そして、塵となって消えた。
ふ、とマルクトは息を吐いた。竜が完全に消えたことを確認してから納刀し、戦闘状態の気持ちを解く。それから周囲を見渡した――いつもの戦場、塔の天辺にはそこかしこに「細かいつぶてが降り注いだような」損傷があった。かの竜がその宝石の鱗を飛ばして攻撃を行ってきたからだ。塔にめり込んだ宝石については、全てがもう塵となって消えている。
そして損傷についてはマルクトの体にも幾つか。掠ったものばかりだが、そのドレスと玉肌が傷ついてしまっている。今夜のドレスはシックな黒だ。両腕、胸元から首は、薔薇を描く黒のレースに包まれている。髪もまた烏の濡れ羽のように黒く、ベリーショートだ。耳元は大振りな黒水晶の耳飾りで彩られている。顔に施された化粧によって、凛とミステリアスな少女に見える。
「バチカル、治してくれ」
「御意に」
流れ弾を浴びぬよう隠れていたバチカルが、ぬるりとマルクトの真後ろに現れる。その華奢な両肩にぽんぽんと触れて、指先をするりと動かせば――塔の損傷も、マルクトの傷も、ドレスのほつれも、それからケテルの鎧も盾も、綺麗さっぱり元に戻った。
その間にも、満天の星空だった空を、澄み渡っていた世界を、霧が覆い隠していく――マルクトは塔の天辺から彼方の地平線を望もうとしたが、この夜の闇が城の外の景色を黒に閉ざしてしまっている。そうしてほどなく、世界はいつものように白い霧に包まれるのだ。今日もまた。姫が城の外の風景を見ることは叶わなかった。
「……、」
城の外はどうなっているの?
その問いの答えなら、もう知っている。本で幾つか読んだこともある。極まった文明と、たくさんの人と建物と、それが崩壊していった虚しい終末の風景――。
知ってはいる。知識はある。けれど実物を見たことがないから、マルクトにとってはどこか絵空事のような感じだった。だから「城の外はどうなっているの?」と問いを口にしかけて、噤んだのだ。
「姫、どうかなされましたか」
沈黙していたマルクトにケテルが問いかける。そちらへ向いた姫は微笑と共に「ううん」と首を横に振った。
「平気、なんでもないよ」
「考え事? 遠くを見ていたねぇ」
首を傾げた道化が言う。外のことを考えていたんだろう、と見透かすような様子だった。だからマルクトは隠すことはしないで、「ちょっと遠くを見てただけ」と素直に言う。
「……目覚めたばかりの頃は、外に出たいと強く思っていたものだな。今だってもちろん興味はあるけれど、諦めたとか褪せたとかじゃあなくて……幾らか『そういうものなんだから』と整理できたというか」
「懐かしうございます」
ケテルがしみじみと頷く。
「ようやっと日々に慣れてきましたものね、殿下は。されど驕れる者は久しからず――慣れてきた時が一番危険なのものなのです」
「ではどうしたら気を引き締められる?」
「初心忘るべからずという概念があります。最初の頃を思い返してみるのはいかがでしょう?」
「なるほど、初心を――」
言葉の間も塔の扉へと歩いていた。騎士と道化が開ける先、長い長い螺旋階段を一段ずつ下りながら――マルクトは最初に目を覚ました時のことを、思い出してみる。
●
いつから眠っていたのだろう――……緩やかに浮上する意識と共に、目を覚ました。
まず見えたのは真っ白い天蓋だ。体で感じたのは柔らかさと温かさだ。上体を起こせば、天蓋付きベッドで眠っていたことに気付く。
そして――その者は、自分の名前が「マルクト」であることに気付いた。だがそれ以外は分からない。
ここはどこなのだろうか――たおやかな天蓋をのけてベッドから下りれば、辺りは豪奢な寝室だった。だが全てがなめらかに白く、どこか神聖な雰囲気すらも感じる。
「……あ」
ここでマルクトは、自分が服を着ていないことに気付く。かつ、見下ろした体には何もなく――男でも女でもないことを知った。
その時である。
「やあ、我が主!」
真後ろからいきなり、肩に両手を置かれて耳元で呼びかけられて。
「わあッ!?」
驚いて振り返れば、白い仮面の顔。ぬうと長躯な黒い道化。細い指が、金属の指先が、仰天するマルクトの唇にちょんと触れた。「騒ぐ必要はない」、と伝えるような仕草だった。
「わたしはバチカル。きみの心から生まれた、きみの原始的欲求が形を得たモノ、きみの願いと欲望の具現、そしてきみのイドの化身」
恭しく、わざとらしく、ボウ・アンド・スクレープのお辞儀。マルクトは瞬きをひとつした。
「イドの――」
「そう! だからきみの欲求はお見通しさ――まずは着飾ろう、そうしよう!」
そう言ってバチカルは軽々と主人を姫抱きにすると、寝室の隣、更衣室へ。有無を言わさぬ動作だった。だが裸のままでは落ち着かないことは事実、この奇妙な道化に不思議と安心感を覚えたのも事実。なのでマルクトは抵抗することはしなかった。
かくして辿り着いたのは寝室のように白くて、最低限の物しかないが瀟洒な趣の空間だった。
「さあさあ、このクローゼットを開けて!」
マルクトを下ろして、くるくる、踊るように軽快に、バチカルは部屋の片隅のクローゼットを示す。マルクトは一抹の緊張を抱きながらも、真っ白いクローゼットを開いた――そこには王子がまとうような麗しい礼装と、姫君がまとうような豪華なドレスが。
「そうか! きみは男の子であり女の子でもあるからね。だったらこうしよう!」
言うなり、バチカルは王子の服を手に取って――手際よくマルクトにそれを着付けた。アンティークローズ色に、黒を差し色にした、凛々しくも華やかで美しい衣装だ。
更に道化はクローゼット内の姫君のウィッグを取ると、マルクトに着ける。檸檬色の、ウェーブがかかったセミロングの髪だ。それを結い上げてまとめる。
「……私は王子なのか? それとも姫?」
大人しく着せ替え人形状態になりながら、マルクトは道化に問いかける。彼は変わらぬ芝居がかった物言いで答えた。
「王子であり、姫でもある。衆生の理想と願いの具現。救ってくれる白馬の王子様にして、竜が来る城に囚われたお姫様」
「願いの具現……竜……?」
「お化粧するから口を閉じて。きちんと説明するけれど、それより先に身支度だ」
言うや、ぽんと中空に化粧道具が現れる。手品ではなく魔法だと、マルクトは不思議とすんなり理解した。
言われるままにじっとして、目を閉じたり――バチカルの器用な指先は、瞬く間にマルクトの顔を彩り終えた。「さあどうぞご覧あれ」と道化は姿見を覆っていた布を恭しく取り払う。主人がその前に立てば、鏡――男装の麗人が映っている。王子の服をまとった、凛々しく美しく麗しい姫君だ。惚れ惚れするほど優雅である。
「これが……私」
マルクトは鏡に触れて、初めて見る自分の姿をつぶさに見つめた。檸檬色の睫毛に縁取られたペリドットの瞳。微笑んでみる。鏡の中の王子の姿をした姫が、薄紅色の艶やかな唇で弧を描いた。
「綺麗だよ、世界で一番ね」
頬を合わせるように顔を寄せ、バチカルが囁いた。外見を褒められるのは生まれて初めてでマルクトははにかむ。
と、道化が王子の手を握って、引いた。
「さあおいで! まっさらなきみを彩っていこう!」
バチカルは楽しげに走り出す。マルクトはバチカルに不安感などを一切抱いていない自分自身に気付いた。だから手を引かれるままに駆けるのだ――ドアを開け放てば、真っ白な廊下。どこまでも続いているかのような。並ぶ窓の外も真っ白だ。霧だ。霧である。濃霧が外を包んでいるのだ。
それにしても、色彩こそないがなんとも豪華で典雅な空間だ。王子は黒銀の飾緒を揺らしながら、手を引く道化を見やった。
「ここはお城? それともお屋敷?」
「お城だよ。名前はない。白霧の城とでも名付けようか? きみが城主だ、マルクト。ここはきみの城だよ」
「私の?」
「そう。わたしたちだけの城」
白いシャンデリアの下を潜り抜ける――ひときわ大きく立派な扉の前にたどり着く。「少し待っていて」と動作の後、バチカルが重々しい扉を開いた。
――そこは玉座の間であった。この世全ての美しさをあしらった、君主に相応しき荘厳な空間。最奥の白い玉座には誰もおらず、代わりにそのそばには鎧の騎士が控えていた。しろがねの、厳かな存在だ。
「我が主、玉座へ」
低く、理知的な優しさを湛えた男の声だ。丁寧な仕草で彼は玉座を示す。それだけで、この騎士がマルクトにとって友好的な存在であることがわかった。
王子は控える騎士と、玉座を示している道化とを順番に見て――ゆっくり、玉座へ向かった。色のない、しかし心奪われるほど美しいその御座をそっと撫で、ひんやりした凹凸を指先で感じてから、座る。初めて座るはずなのに、その玉座はずっと昔から座っていたような落ち着きを感じた。これは自分の為の存在なのだ、とマルクトは理解する。そして――玉座が自分のものということは、この城もまた、間違いなくマルクトの為のものなのだ。
玉座からの景色を一通り心に留めた後、マルクトは前を見る。騎士と道化が御前にかしずいていた。
「――そこの騎士、名前は?」
「ケテルと申します。御身の心が側面のひとつ、超自我の具現、御身を護るために生まれました」
「ケテル……それから、バチカル。君達は私自身ということ?」
「広義としては然様でございます」
騎士ケテルが答え、バチカルがうんうんと顔を上げて頷いている。
マルクトは質問を続けた。
「私は一体何なんだ?」
「それを説明する為には、まず、この星とそこに住んでいた存在の昔話をしましょう」
――むかしむかし。
星に願いを……その言葉が示すように、星には願いを叶える力があると考えられていました。
あらゆる理想が実現する、夢のような力……。それに憧れ、ついに人々は星の願いを組み上げる装置を作ります。
人々の願いは、星の力によって次々と叶えられていきました。
あらゆる夢が叶えられ、人々はもう諍いや飢えや病に苦しむことはなくなりました。
人類の栄華。黄金の時代。誰もが富み、満たされたのです。
けれど――星が全てを与えてくれる日々の中で。
ひとつの願いが叶えば次。
それが叶えばさらに次。
飽食状態となった人々は、満ち足りることをいつしか忘れてしまったのです。
膨れ上がる際限のない願いは――いつしか欲望に成り果てました。
そうして膨大な欲望は、いつしか竜へと姿を変えました。
願いの成れの果て、永劫の渇望たる竜は、もはや人の手で制御できるモノではなく。
竜を消そうにも、星にはもう願いを叶える力がほとんど残ってはいなかったのです。
こうして世界に災厄がばらまかれたのでした。
「……めでたしめでたし、とは思えないな」
「そうでしょうとも。この物語には、まだ続きがあるのですから。このままでしたら、人は滅んでしまいますから」
では、とマルクトは眼差しで続きを促した。ケテルは朗々と語り始める。
――あちらこちらで荒れ狂う竜によって、世界は滅茶苦茶になっていきました。
このままではいずれ、この世界は壊れてしまうでしょう。
そこで人々は、ほんのわずかに残っていた星の力を集めて束ねて、それに全ての希望を託すことにしました。
竜の矛先を引き受け、そして、竜を浄化できる存在の誕生を、願ったのです。
そうして。
竜を惹き付ける存在――お城に閉じ込められたお姫様が。
竜を退治する存在――悲劇を救い助けてくれる王子様が。
一つの存在となって、生まれたのです。
「それこそが殿下、御身とこの城でございます。我々はマルクト様の心の側面の具現にして、王子であり姫である御身に仕え支える忠実な臣下であり、御身の自我防衛機構なのでございます」
「王子であり姫……それで私は」
マルクトは自分の手と、そして姿とを見た。人々の願いによって生まれた理想、それでこのような姿なのか。説明に違和感はなく、すとんと腑に落ちるような心地がした。
「お城に閉じ込められた姫、ということは、私はこの城からは出られないのか?」
「然様でございます。お試しになられますか」
「……うん」
マルクトは少し息を呑んでから立ち上がった。控えていたケテルが「こちらでございます」と案内してくれる。
「この城も人の願いから生まれたのか?」
「そうだよ。綺麗だけど色がなくてつまらない?」
真っ白い廊下を歩きながら――答えたのはバチカルで、マルクトの言いたいことを見透かすようだった。王子は「少しね」と苦笑すれば、道化は無貌の仮面の奥でくつくつ笑った。
「飽和する願いに、みんな色を忘れてしまったのかもね」
「私達まで無色じゃなくてよかった」
「ケテルは白いけど!」
黒衣の道化が首を傾け騎士を見る。「これは銀色だ!」とケテルはやけにむきになって答えた。バチカルはケラケラ笑っていた。
マルクトの心の側面だけあって、道化と騎士はなんだかんだで仲が良いらしい。王子はそれらを微笑ましく見守った。
そうして、広い城を緩やかに歩いて幾ばくか。
扉から外に出れば、そこは白い霧に閉ざされた世界だった――彼方は見通せず、しっとりとした空気が音もなく横たわっている。
霧の中に見えるのは薔薇の庭園だ。だがただの薔薇ではない。硝子細工の薔薇だ。葉も茎も棘も霧に溶けてしまいそうな透明。色付いているのは花だけだ
「……綺麗……」
マルクトは薔薇を覗き込む。繊細な、そして触れれば砕けてしまいそうなほど薄い、儚げな花。硝子のわずかな厚みと曲線が微かに色の濃淡を移ろわせるのだ。初めて見る自分達以外の色彩。顔を寄せれば甘く気高い香りが心をくすぐった。作り物の見た目なれど、マルクトは確かにその薔薇に息衝く命を感じた。
いや、確かに命なのだ。この薔薇も、この城も、マルクトもケテルもバチカルも。願いから生まれた、見た目だけが違う同じ存在なのだ。
「この薔薇には色があるのだな」
飽和する願いに、みんな色を忘れてしまったのかもね――バチカルの言葉を思い出し、マルクトが言う。道化の言葉が正しいなら、飽和した願いの中にも確かに色が残っていたのだろうか。
「薔薇が気に入られましたか」
ケテルはマルクトを急かすことはなく、穏やかに問うた。顔を上げた王子は「うん」と頬を薄い薔薇色に染めて微笑む。すると騎士は、兜で見えぬそのかんばせを確かに笑ませたのだ。
「然様でございますか。しからば殿下のお部屋に飾りましょう。きっとよい香りがお部屋に満ちましょうとも」
「それはいいな。ありがとう」
「いえいえ」
お待たせ、とマルクトは案内の続きを騎士と道化に頼む。静かな静かな庭園を、三人分の足音。
――果てに辿り着いたのは、城門だった。なめらかで重厚な扉は固く固く閉ざされている。門番などはいなかった。道中にも誰もいなかった。この城にいるのは自分と騎士と道化だけなのだとマルクトは改めて思い知る。
(私は、城に閉じ込められたお姫様……)
聞いた言葉を思い返しつつ、マルクトはそっと城門へと歩み寄った。見上げる――立派な造りの扉だ。物言わぬそこに、マルクトはしららかな掌をそっと置いた。
力を込める――だが、扉は開かない。びくともしない。鍵がかかっている、訳でもなさそうだ。
では、とマルクトは扉から離れて辺りを見渡した。抜け道の類いは……見当たらない。高い城壁を見上げた。乗り越えられそうにない。
「本当に私は閉じ込められているのか」
「然様でございます」
ケテルが頷く。マルクトは振り返った。
「梯子などを使っても出られない?」
「然様。枝から離れたリンゴが天ではなく、地に落ちるようなものです」
「……いつか城から出られるのか?」
「出られるさ、願い続ければね」
ケテルの代わりにバチカルが答えた。
「閉じ込められたら、外が気になるのは当たり前さ。いつかここを出ていこう!」
道化は手を広げて、踊るようにくるりと回った。
本当に閉じ込められている、という事実は確かなショックだったけれど、マルクトはバチカルの明るい様子に心が幾らかほぐれるのを感じた。微笑と共に二人を見る。
「私は竜を退治する為に、人々から願われて生まれたんだろう? だったら、全ての竜を倒し切れば――私はこの城から飛び立てるかもしれない」
閉じ込められているからこそ、沸き立つのは外の世界への憧憬だ。マルクトは白い扉に今いちど掌を触れ、見上げ、夢を語る。
それから「あ」とペリドットの目を丸くした。
「竜を退治しなくちゃならないってことは、竜と戦うんだよね? 私、戦いなんてどうすればいいか……」
「ご安心下さい!」
得意気にケテルが胸を叩いた。
「このケテルが幾らでも鍛練にお付き合いしましょうとも」
「そうか、助かる。……確かに君は強そうだ。竜と戦うのは君でもいいんじゃないか?」
冗談としてそう言った瞬間――「ならぬのです!」と前のめりに大真面目な騎士は答えた。
「殿下でなければ、竜に手傷を負わせることはできぬのです。竜を倒せるのは、世界に殿下だけなのでございます」
「それは、私がそのような存在であれと願われたから?」
「然様でございます。御身は世界で唯一無二の奇跡であると認識下さいませ」
「なるほど……」
「それでは早速、鍛練と参りましょう! 武道だけでなく、殿下には王子として姫として相応しき教養を身に付けて頂かなければ」
「もちろん人生の楽しみ方や遊び方もね!」
バチカルが割り込むように言葉を継いだ。「娯楽を否定はしないがほどほどに」と騎士は息を吐いた。
「さて王子、塔へ向かいましょう。こちらです」
そう言ってケテルは、霧の中を再び案内し始めるのだ。
●
城の敷地内にそびえる主塔。その扉の先は、長い長い螺旋階段だった。
「……これを全て上るのか……?」
うんと上を見上げながらマルクトは呟く。
「そうだよ、早く早く」
バチカルは軽やかに階段を上り始める。うむ、とケテルも鎧の金属音と共に上り始める。
「まあ上るけれども……」
致し方なし。マルクトは意を決して一段ずつ上り始めた。
白い世界の例に漏れず、白い白い階段――壁に取り付けられた照明と空間の白さで影はなく、今が何時頃なのかも分からない。三人分の階段を上る音が長い塔に木霊する。耳を済ませればそれぞれ誰のものか分かった。規則正しく重いのがケテル、不規則で弾むようなのがバチカル、そして……休み休みしんどそうにしているのがマルクトだ。
「はぁっ……はぁっ……待っ、て……」
太腿の筋肉が千切れそうで、肩を弾ませるマルクトは遂に膝に手をついて足を止めてしまった。何段上っただろうか、まだゴールは見えない。汗が出ているが化粧が崩れてやいまいか、少し心配になった。
「王子! これしき上りきらねば竜には勝てませぬぞ!」
幾分か上から、ぞ……ぞ……ぞ……と語尾をエコーさせながらケテルが言う。一応男装をしているということで王子呼びのようだ。マルクトは立ち止まってくれている騎士を見上げた。
「……よくそんな重装備で、こんなに歩けるな……」
「御身が為の騎士ですから」
「騎士……でも、竜とは戦えないのか?」
「手傷を負わせることはできませぬ。しかし竜の攻撃から殿下を護ることと、戦いの支援はできますよ。共に戦いましょう、マルクト殿下」
待ってくれているケテルが掌を差し出した。伝わってくる応援の気持ちに、王子は「うん」と頷き再び歩き始める。
そして――何度も休みながら、屋上への扉にようやっと。
扉の外は満点の星空だった。夜になっていたのだ。
「霧がない――」
呼吸を整えながら、マルクトはどこまでも澄み渡った世界を見渡した。霧のない世界は白ではなく、夜の黒に染まっている。ここから城の全景が見えた。ならば外の世界はどうか、とマルクトは塔の縁に駆け寄った――しかし城門から外は真っ暗闇で、彼方の地平もまた黒く、そこに何があるのか見通すことはできなかった。まるで真っ黒の中に、白い城だけがぽつねんと存在しているかのようだ……マルクトはそんな感想を抱いた。
ではと空を見上げる。真っ黒い天蓋に散りばめられているのは光の粒。明るいものから暗いものまで、赤っぽいもの、青いもの、白いもの、銘々に煌々と瞬いていた。夜を染め上げる煌めきに、マルクトは息を忘れるほどだった。
「……、」
綺麗な景色だ、と思いはあれどなぜか言葉にできなかった。奇妙なのだ。こんなにも美しい星空なのに……胸騒ぎがする。
と、その時だった。
見上げていた星空の彼方――何かが、こっちに飛んでくる。
「……一度、訓練を行ってから相対したかったのですが……やむを得ぬことでございますね」
隣に並ぶケテルが低く呟く。「あれは」と問うまでもなかった。あれは何か、マルクトには理解できたのだ。
「竜――際限なき願いの成れ果て、欲望と衝動の化身」
それは夜よりなお真っ黒い、牙と爪と角とを生やした、有翼長尾の鱗の怪物。巨躯は暴力的そのもので、荒々しい怒気と敵意と殺気とをみなぎらせながら、塔の天辺へと轟音を立てて降り立った。
ドス赤いまなこに理性は欠片もない。手懐ける、ましてや話し合いで解決など、不可能であることが即座に理解できる。剥き出しの衝動と生々しい激情は対峙した者を戦慄かせた。
初めて目にする怪物に、マルクトは冷や汗と共に後退る。と、その下がる背中をバチカルが留めるように受け止めた。王子が振り返れば、道化は仮面の下でニコリと笑い――
「どうぞ、わたしの王子様」
自らの影から現れ出でる剣を、マルクトへと差し出した。薔薇模様が彫られた、全てが灰銀で彩られた細身の剣だ。
「この剣、は……」
差し出されるままに受け取るマルクトだが、どこか懐かしいような馴染むような心地を覚えた。「この剣は、自分のものだ」。そんな強い確信がある。
そんな想いのままにマルクトは鞘から剣を抜き放った。星空の下、祝福されるような瞬きの中、焔紋がごとき水晶の剣が現れる。その夜を映す輝きは王子の目を奪うほどに美しかった。
「『最後の剣』。願いから生まれた、きみから生まれた、きみの為だけの剣だよ。そしてその剣でのみ、かの願いの成れ果てを切り裂くことができる」
さあ、とバチカルは竜を掌で示した。
「世界を救おう、王子様!」
言葉の直後に、襲いかかる竜。その角による突進を、盾を構えるケテルが受け止める。硬いもの同士がぶつかり合う凄まじい音がして、騎士は後ろに押しやられるものの拮抗する。
「殿下、攻撃を!」
「わ――分かった!」
戦い方なんて知らない、剣を握ったのだって『生まれて初めて』だ。それでも不思議と、戦い方が分かる。竜へと踏み込むマルクトは剣を竜の首めがけて奮った。
刃と鱗がぶつかり、一瞬の火花が散る。硝子の刀身だが割れやしないかと思ったが、刃には傷一つ付かなかった――同時に竜の鱗の方にも、浅い傷しか負わせられていない。踏み込みが浅かった。どう動けばいいのかは分かるのだが、それに体がまだうまくついてこないのだ。
「く、」
自分の動きを「つたない」、と感じる。そのもどかしさにマルクトは歯噛みした。
直後、首を振るったドラゴンがその質量のまま王子を吹き飛ばす。体に直撃する衝撃にマルクトの視界が揺れた。受け身もままならずに倒れ込んでしまう。冷たい石の足場が体を擦った。
体中に傷を感じながらもどうにか身を起こす――視界には、その鉤爪を振り上げた竜。振り下ろす先にはケテルがいて、騎士のしろがねの体は容易いほどに圧し潰される。
「ケテル!」
マルクトが叫んだ、そのすぐだった。
振り抜かれる竜の尾が、王子の小さな体を木っ端のように吹き飛ばす。
無重力――マルクトの視界には満天の星、そして、落下。
●
「――は、っ」
目が覚めれば地面の上、マルクトは仰向けに倒れていた。遥かそびえる塔が見え、その彼方に星空が見える。
夢、かと思ったがそうでもないらしい。塔の彼方から竜の咆哮が聞こえた。
「やあ、お目覚めかな」
そんな視界を覗き込んできたのはバチカルだった。
「立てるだろう? 傷なら治したからね。いやあ、おもしろいぐらいグシャングシャンのグニャングニャンになっていたよ」
「私は、いったい……」
「覚えてるだろう、竜と戦って、吹っ飛ばされて、落ちた。そして傷をわたしが治して目を覚ましたんだ」
差し出される道化の手。マルクトはその手を取り、上体を起こし、ふらりと立ち上がった。
「ひとつ教えてやろう。きみはどれだけ傷を負っても死ぬことはない。正しく言えば、死ねない体なんだ」
「願いから生まれた存在だから?」
「そう。ただの人間じゃない。特別製なんだ」
言いながら、バチカルは王子の服についた土埃を手で払ってあげた。そういえば竜から攻撃されて痛みを感じなかったし、血も出なかった、とマルクトは思い出す。つくづく竜と戦う存在なのだと思い知る。層まで考えたところで、マルクトはハッと気付いた。
「そうだ、ケテルは」
「無事です、殿下」
見渡せば彼はすぐ傍にいた。鎧には傷一つない。声も負傷したそれとは思えない。
「大丈夫なのか、君……竜の手に潰されていたが」
「ご心配をおかけいたしました。バチカルが治してくれましたので、ご安心を」
かしずく騎士の傍、道化は両手でピースをしている。
「わたしには戦う力がない。治すことしかわたしにはできない。悪しからず、だが役立つだろう?」
仰々しく、芝居がかって、バチカルはくるりと回ってみせた。
「さて、王子様」
回る動作を止めて道化は言う。
「竜はまだ生きているよ。息の根を止めに行かないと」
「然様。我らは戦い抜かねばならないのです」
騎士も共にマルクトを見据えた。
王子は落ちていた剣に視線を落とす。痛みを感じず、死ぬこともなく、竜が斃れるまで延々と戦い抜かねばならない、絶対不可避の宿命。それに悍ましさを感じなかったと言えば嘘になる。
「でも、戦える存在は私しかいないんだろう」
今は心に感じた『染み』のような心地を無視せねばならなかった。なにせ城から出られないのだから逃げることはできず、竜はずっと敷地内にいるから安寧の場所もない。
やるしかない。やるしかないのだ。マルクトは剣を拾い上げ、震えそうになる心地を潰すように柄を握った。
「行こう」
それは自らを叱咤するように。自分は王子、そして姫。気高くあらねばならないのだ。
無理にでも前を向く。突き落とされた塔へと、再び。
「本当は逃げたいと思ったろう」
長い階段。その隣を歩むバチカルが、マルクトの相貌を覗き込む。
「戦わずに隠れている手段だってあったのに」
「そうだとして、それでどうする? 結局あの竜はずっといる。逃げても……私はお姫様なんだろう、どのみち竜に追われるんじゃないか? 何も進まない」
深呼吸をする。視線を落とすと二度と上げられないような気がして、マルクトは短く息を整えた。
「だったら、迎え撃つのみだ」
バチカルは何も答えなかった。ただ、仮面の下で笑ったような気がした。
かくして道化は指を鳴らす――そうすればマルクトの体に魔法によって軽鎧が施された。手に、脚に。その白銀の煌めきには、麗しい薔薇の意匠が咲いていた。
「竜は、世界に何匹いる?」
「それは分かりません」
答えたのはケテルだ。
「今も増え続けている?」
「それもまた、分かりません」
「ずっと戦い続けなければならないということ?」
「そうなるように願われたのです」
「……さながら、台本に縛られた舞台役者だな」
小さく笑った。目の前には扉がある。従者らに目配せすれば、まるで開幕のように――扉は開かれる。
かくして黒い怪物はそこにいた。マルクトは刃を構える。
「殿下、恐ろしいですか」
ケテルが問いかけた。
「……何も怖くないと言えば嘘になる。痛みも感じず死にもしないとはいえ、やっぱり……害されるのは恐ろしいよ」
「それは殿下の心が生きておられるなによりの証です。ゆえにこそ、強く願いましょう。我々は願いから生まれた存在、願いこそが力なのです」
「願い……」
一歩、また一歩、竜は唸り迫りくる。そんな中、マルクトは目を閉じて自らの心を直視した。深く、深く、覗く、自分の願い、それは――
「早くこんなこと終わらせて、おいしいもの食べてベッドでごろごろしたい! 戦いなんて面倒臭い!」
「王子として姫として、皆の願いを果たさねばならない。それが宿命というものならば、気高く在らねばならぬのだ!」
イドと超自我がそれぞれマルクトの心を口にする。
ちぐはぐのようで、願いの方向性は同じだった。すなわち、「竜を倒す」。
「お前が倒れるまで、挑ませてもらうぞ」
竜の暴力極まりない咢が開かれ、迫る。マルクトはすれ違うように剣を薙いだ――竜の片頬を深く斬る。顎を使い物にならなくする。竜は血の代わりに黒い塵を吹き出しながら、その硬い鱗の巨体を王子に叩き付けんとした。
が、割り入るのはケテルだ。白い盾と黒い巨躯がぶつかり合う。先程よりも堅牢に受け止めているのは、マルクトの願いゆえだろう。
踏みとどまる騎士を、再び振り上げられた鉤爪が狙った。だがその時には――片膝を突いたケテルの背と肩を足場に跳んだマルクトが、一閃を以て竜の手首から先を刎ね飛ばす。
怒号のような絶叫。荒れ狂う巨体が、薙ぎ払われる尾が、あちこちを滅多矢鱈に打ち据える。それは着地したばかりのマルクトをも襲った。
「う……!」
叩きつけられる。ただの人間だったならば骨が砕け内臓が潰れているのだろう。だが道化の魔法が負傷などなかったかのように治癒してしまう。
「殿下、後ろへ」
すぐに駆け付けてくれたケテルが盾を構えた。嵐のような攻勢を防ぎ続ける。
「マルクト様が願い続ければ、わたくしは無敵です。わたくしは殿下を護るために在るのですから」
「……ケテル」
王子はその手を騎士の大きな背中に添えた。支えるように。
「頼んだ」
「お任せを!」
直後、竜が吐き出す火焔が世界を焙った。裂けた顎では火も分散するが、それでも驚異的な灼熱だ。なれど騎士の盾は無傷。
「暴れ疲れた今が好機です、殿下!」
「ああ!」
ケテルの言葉通り
竜たちはどこへ行く?
最後の剣に切り裂かれて朽ちることで、星から生まれた願いの力は千々となり、星へと還る
いずれ、誰かの願いを叶える力となるのでしょう
(物凄い書きかけで没ったやつ)