キリケムリ
「ゲシュ?」
「……」
「ゲシュ〜、おーい」
「……ァ……うぇ……ふ……」
「あ〜りゃりゃ駄目だこりゃ」
車の助手席、だらりと不安になるほど脱力したゲシュ。その顔の前でテインは手をヒラヒラ振っていたが、とうとう反応が返ってこないので、溜息と共に運転席に背を預けた。
ゲシュはたまにこうなる。虚脱状態というか、トリップというか、完全な無気力というか。
「今日は休業だな」
やれやれ。瞑想と祈りでもしようかな、もしくは散歩か昼寝か……なんてテインは独り言ちた。魔物の血はそんな毎日飲まなくても大丈夫なので、魔物を血眼になって探す必要もない。窓の外は今日も霧深い世界だ。霞んだ世界。白と灰色の惑星。
一人であまり危険度の高くない魔物を狩りに行ってもいいが、今は戦いの気分ではなかった。となるとやることが真面目にないので、テインは車のエンジンを切った。スイッチ一つの簡単操作だ。
それからメモを取り出し……一瞬、文字を書きかけたので、絵に方向転換。自分の簡易な似顔絵、それが車の外へ歩き出すイラストを描く。もしもゲシュが目を覚ました時用の、「ちょっとお外を散歩してます」の置きメモだ。脱力しきっているゲシュのごつい腿の上に置いておく。
「ん~~~~……」
車から降りて、伸び。護身用としてのメイスを片手に、テインは霧の世界を歩き出す。霧深いせいで変に歩き回ると遭難の危険があるから、あまり遠くには行かないが。
毒霧の世界は静かだ。小鳥や虫のさえずりなどはない。向こう側に木々のシルエットが黒く浮かんでいる。耳を澄ませば川のせせらぎが聞こえた。近くに川があるのだろう。
ちなみに水も霧の毒を溶かし込んで猛毒だ。魔物の血を飲んでいるテイン達は普通に使用できるが、そうでない人間は炉から出る煙で浄化された水を用いている。
テインは原っぱの上に座り込むと、祈りの瞑想を始めた。終わりゆく病んだ世界を憂い、御光の降臨をこいねがう。
――どれほど時間が経っただろうか。
瞑想の為に目蓋を閉じていたからか、テインはその音にすぐさま気付いた。重い足音、車輪の音。立ち上がってそちらを見やれば、霧の向こうから大きな影がこっちに向かってくるのが見えた。よその魔物狩りだ。
「おーい」
魔物と勘違いされて撃たれるのは困るので、テインは自分から手を振って挨拶を。そうすれば向こうも「どうもー」と返事をしてきた。
やがて霧から現れるのは、品種改良されたずんぐりと大きい牛に曳かせている牛車だ。発電装置は数に限りがあるので、テイン達のように魔物の死骸発電による車を用いている魔物狩りはあまり多くない。彼らのような品種改良生物に曳かせる車が専らだ。
御者役として牛の背に乗っていた者が、牛の足を止めさせる。派手に塗装されたフルフェイスヘルメットの男だった。
「ういーーすどうもどうも~」
「やあ、ごきげんよう」
御者の男と挨拶を交わせば、牛車の中から3人が降りてくる。年若い、男女半々のグループだ。お揃いのヘルメットにお揃いの塗装、ともすればちょっとしたカラーギャングのようである。
「あれ? お兄さん一人スか?」
テインが一人で突っ立っていたので、カラーギャング団の一人がたずねてくる。
「いや、そこにトラックがあるだろう。中に一人いる。ちょっと昼寝中だがね」
「あ、ほんとだー……車いいッスねえ~」
「ははは、ありがとう。故郷を出る時に『もらっていい?』って優しく聞いたらプレゼントされたんだ」
「いいッスねえ~いいッスねえ~」
「きみたち4人はお友達かね?」
「2人が兄妹で、残りがまあお友達って感じスわ。俺がそのアニキ」
「ご兄妹! 家族っていいものだね」
「まあね。バウ! ご挨拶は」
アニキが振り返れば、少し小柄な乙女が「どもーっす」と片手を上げた。彼の妹らしい。続けて、他のメンバーも自己紹介をしてくれた。アニキはギルスという名だった。
「私はテインだ。寝ているのがゲシュ。よろしく」
こんな感じで会話は友好的だ。だがその裏で、お互いは安堵していた。
たまに――
狂った魔物狩りがいるのだ。魔物の血によって精神が破綻し、同業者に襲いかかってきたり、廃人状態になって彷徨しているような者が。
だから魔物狩りは同業者同士で遭遇したら、他愛のない会話をして出方を見る。会話が成立するかを確認する。相手が壊れていないか審査する。
今回はお互い、意思疎通のできる人間だった。そのままテインとギルス達は他愛のない会話をする。ギルス達は町専属の魔物狩りだと言った。若者が交代制で町の外から魔物を取って来るのが彼らの町のルールなのだと教えてくれた。
「俺達の町にいつでも遊びに来ていいよ。うち、魔物狩りの地位はけっこ~高いからさ。ヨソみたいに煙たがられないよ」
「ほー、珍しいもんだね」
「持ち回り制だからさ。多分それで」
そんなこんな、会話も一段落したところで。4人は互いにアイコンタクトを取ると、「この人らならいいいんじゃない?」「確かに」などヒソヒソ会議をしてから、改めてテインへ向き直る。
「お兄さん腕に自信は?」
「一応この仕事を5年やってる。相方は10年。これで返事になってるかね?」
「ごっ……じゅッ……!? マジッスか パネエ~……ってか大丈夫なんスか!?」
露骨に驚いた様子で、一同がテインを二度見三度見する。テインは朗らかに肩を竦めてみせた。
「それはきみ達の判断に委ねよう」
「お~……いやマジですごいッスね」
「どうもありがとう。で――実力のことを聞いてきたってことは、協同作戦か何かの提案かね?」
「ああ、ハイ」
ギルスの態度がちょっと恭しくなった。彼はこう説明を始める。
「ここのずっと先――けっこーデカめの『遺跡』があるんスよ」
遺跡。過去の開拓者が遺した文明の残骸だ。炉や発電機が見つかることもあり、非常に有益な存在である。
「そこ、魔物がスッゲー多くて。調査もしたいし、魔物をいっぱい狩れたらしばらく働かなくてもいいぐらい死体も手に入るし……手伝ってもらえたらチョー助かるんスけど、どうッスかね? もちろん死体は山分け、むしろそっちがいっぱい倒してくれたらそっちがいっぱい持って帰っちゃってもいいんで」
魔物の死体は基本的に腐敗速度が非常に遅い、魔物の死体を喰らう存在もいない、ゆえに運搬に苦労はしない。持ちきれない分も往復すればいい。なおどうしても長距離運搬が必要なら、防腐剤を使うこともある。
「ふむ」
ギルスの言葉にあごをさすったテインは、「ちょっと待っててくれたまえ」とジェスチャーをした。
「相方に聞いてみる。ちょっと時間もらうかも」
「ういっす、時間ならあるし待ってますよ」
「どうも」
テインはトラックへ向かい、ドアを開けた。
「ゲシュ! おい、ゲシュー!」
「……」
「も~こんな時に限って……まあいいか。協同作戦するからなー」
「……あぇ……」
「はいはいはーい」
ゲシュの性格的にNOとは言わんだろうと確信しているテインは、ギルス達の元へ戻る。
「『やってやらあ』だって」
「うお! マジッスか助かります! おおお10年選手の戦うとことかチョー気になるッスわ」
「すごいぞーうちのゲシュはすごいぞー。……すまんがちょっと今は車から出たくないってさ、あとでちゃんと挨拶するから。悪い奴じゃないから安心してくれたまえ、会話も通じる」
「了解ーッス。じゃ今から出発でもいいスか? そちらさん何かご用事あります?」
「いや特に。善は急げとも言うしな、向かおうか」
では、とそれぞれが互いの乗り物に戻っていく。
運転席に戻ったテインは横目にゲシュを見た。「ゲシュ」と呼びかけたが無反応だった。しょうがない。牛車の先導で発進する。
進むのは、森の間の道だ。道路の跡地が見えるので、本当にかつて開拓者達がここを往来していたのだろう。
道は倒木などで塞がれていることはなかった。ギルス達はここへ何度も下見に来ており、その際に少しずつ道を切り拓いていたのだと語った。
「この辺りから魔物がちらほら出始める。どうしまスか? 車を置いて森から静かに進むか、ギリギリまで車両で行くか」
車と牛車は並走している。御者のギルスが運転席のテインへ声を張った。
「ふーむ……ちなみに魔物はどういうのが多い?」
「小~中型ってとこですね。飛行はしないけど滑空はする感じで、跳びかかってきて尻尾で刺してきます。同型ばっかなんで、多分なんスけど、遺跡で繁殖してるんじゃね? って」
「繁殖?」
魔物について分かっていることは少ない。かつてはいろいろと分かっていたのかもしれないが。
分かっていることと言えば――基本的に群れない、おそらく性別がなく単為生殖、魔物同士で縄張り争いや捕食などはしない、食事をしない(霧から栄養をとっている?)、人間に対して凶暴で攻撃的だが人間を食うということはしない、といったことぐらいだ。種々様々な魔物がいることは確認されているが、どんな生態でどれぐらい……という点も不明のままである。
「うまく討伐する数を調整したら、永続的な資源になりそうだな」
「永続的な……、はえ~先輩マジパネエッスね、俺ら魔物をなるたけぶっ殺して、自分らの任期中はもう外に出なくてもいい感じで考えてたんスけど」
「全部取り尽くしてしまったらもうなにも取れないが、繁殖してるっていうのなら、安定して魔物がとれる場所にできたら、任期が終わった後も安心してすごせるだろう」
「はええ~~~先輩マジクソ頭良~~~! んじゃ絶滅はさせねえ方向でおけまるでーす」
そう言ってから、ふと。ギルスは首を傾げた。
「俺ふっと思ったんスけどね……魔物をさ、町でニワトリとか牛とか豚とか飼ってるみたいに家畜にして繁殖させられたら、俺達がわざわざ外に出る必要なくなることないッスか?」
「魔物の家畜化か……そういえばどこでもされてないな。そうできたら画期的なのだが」
そんな会話の直後だった。霧の一本道、その道沿いに看板が一つ建っていて……
『この先 F38地区原生生物養殖研究センター 徐行』
「……。昔の開拓者達も、ギルスくんと同じことを考えていたようだね」
「え~……ってことはうまくいかなかったんスかね?」
「うまくいってたら我々は不要になってたろうから……さもありなん。ところで」
テインは前方を静かに見据え、ギルスにたずねた。
「アレがこの辺に巣食う魔物達かね?」
視線の先。地面にぽつぽつ、形も大きさもラグビーボールめいた楕円形のモノが生えている……立っている? 黒くててらてらしている。
「そッスね」
ギルスは腰のホルスターから大振りな拳銃のような武器を取り出した。牛車から身を乗り出す仲間達も同じ武装を持っている。
「それは?」
テインがたずねると、ギルスは得意気に片手で銃をくるくる回した。
「過去の遺物ッスわ。仕組みは発電機と一緒で、魔物の肉とか血をカートリッジに装填したら――」
霧の向こうへ銃を向け、引き金を引く。バヂッと火花が散るような音がして、銃口からレーザービームが迸った。それは前方の『ラグビーボール』を幾つも焼き切る。ヘドロのような黒い血が飛び散った。
「こんな感じでエネルギーが発射されるんスわ。なかなかいいでしょ」
「おお~~~便利だね」
さて。今の攻撃で生き残った魔物達が動き出した。ラグビーボールが蠢いたかと思うと、ばぞっと宙へ跳び上がる。それはエイのような四角い生命体だった。ボールのように見えたのは体を折り畳んでいたのだ。内側には牙がビッシリと生えており、鋭い棘が一本ついた尻尾がひとつ伸びる。跳び上がった勢いに乗って、ヒレのような部位を泳ぐように動かし、人間達へと跳びかかって来る。
「うおっ」
思ったより速い。テインは慌てて車を停め、片手で咄嗟にメイスを掴んでドアから飛び出そうと――
「オラアアアアアアアアアアアアア」
した時にはもう、外に出ていたゲシュが大暴れしていた。拳で魔物を粉砕し、跳び蹴りで魔物を粉砕し、掴んだ魔物を握り潰して粉砕し、頭に飛びついてきたものも両手で引き千切って粉砕する。尻尾の棘を突き立てられても力んだ筋肉は鋼のごとく穴が開かず、返す刃ならぬ返す拳で魔物を粉砕する。
人智を超えた暴力の極み。瞬く間に魔物は殲滅され、辺りは肉片と黒い血で凄惨に汚される……。
「ん~~~~~~ よく寝たっ!」
全身ドロドロの状態で、ゲシュがん~っと伸びをしている。『後輩達』はポカーンとしている。
「あれ? テインここどこ? このひとたち誰? こんちはーっ! つーかおなかすいた~ドーナツまだ残ってたっけ~?」
「……あ~……」
テインは一先ず辺りの安全を確認してから、メイスで肩を叩きつつ友に近付いた。
「ここは『F38地区原生生物養殖研究センター』――遺跡に向かってる道だ。彼らは同業者だよ、彼はギルスくん、あっちが妹のバウくん、そっちがミトくん、ラスくん」
「ほえ~」
「あ~絶対覚えれてない生返事~」
「ゲシュだ! よろしく! なあテイン、ドーナツある?」
「おととい食べきったでしょ」
「こいつらと一緒になんか狩るのか?」
「そうだな。この先に魔物が繁殖してるかもしれなくて、うまくいけばガッポリ儲かるぞ」
「ああ! 見て命の木! 今日は凄く綺麗に見えるなぁ」
「あ、あ~、あはは、そうだなアハハ……ゲシュ、我が友よ、車の中に乾パンあるから食べておいでよ。氷砂糖もボリボリしていいぞ。ついでに補給もしておいたらどうだ」
たったこれだけの会話で、ゲシュがちょっとネジの緩んだ人間だと分かることだろう。というかそもそも、魔物相手に素手な時点でおかしいし、それで殺傷できてるのが意味不明だし、防具もつけてないのはもっと頭おかしい。
「うちらも十年戦い続けたらあんなことになるんか……」
牛車の中で、ギルスの妹・バウが呟いた。シン……と静まり返る牛車の空気が何よりも雄弁だった。
さて。
死体を積むのは帰りに、ということでそのまま進む。
道中、先ほどと同じ感じで魔物がちらほらいたが、どれも狩人達によって撃滅されていく。
「いや~道中だけでしばらくは楽できそうなぐらいッスねえ」
「遺跡にはどれぐらいいるんだろうな」
ぷぎ、と車と牛で死体を踏み潰しつつ。そうしてセンターに到着した頃には、白兵戦型であるゲシュもテインも返り血と返り肉片まみれになっていた。
「あの……タオル使います?」
牛車から顔を覗かせたチームギルスのメンバーが聞いてくる。「どうせまたグチョグチョになるしいいよ、ありがとう」とテインは苦笑まじりで断った。
「うっひゃー! ヤッベ~!」
その隣、トラックのターフの上でゲシュは額に手を久のように宛がって景色を覗き込んでいる。深い霧の中、遺跡は佇んでいた。大きいし広い、お屋敷のようだ。中央に長い煙突。敷地内は雑草まみれになって、灰色の外壁もくすんで汚れて、部分的に崩落もして、窓も全て割れている。途切れた錆の鎖が一本、かつてはここを頼りなく封鎖していたのだろう。
だがそれよりも、ゲシュが「ヤッベ~!」と言った理由は。
建物が半ば、黒い肉のようなものに浸蝕され、同化しているのである。魔物の仕業だろう。建物を覆うように肉を拡げて巣にしているとでも言うのか? よく見れば蠢くように脈打って、あちこちに小さな瘤が――例のラグビーボールエイ(ゲシュは「トゲツキトビマルシカク」と名付けた)が生えている。細胞分裂のように増殖している。
「おお……キモ……」
思わずテインもそうこぼす。一方でギルス達は完全にドン引きしていた。
「うげぇおぉ……こんなんヤバすぎっしょ」
「ここまでとは聞いてない……」
「え? マジで行くの?」
「流石にこれはヤバいってぇ……! 無理だってぇ……!」
いやいやと首を振って腰が引けている。巨大な魔物とも戦ったことはあるが、ここまで大規模でエグいのは流石に見たことがなかった。
テインはというと、車から降り、しげしげと遺跡を観察する。
「見たまえ、発電施設と炉がある。復旧させれば魔物はどっか行くだろうから安心して探索できるな。それに炉があるから、ここを新しい街にできるかも……永続的に魔物資源の確保は諦めねばならんが」
どうする? と牛車の方を見る。メンバーはリーダーであるギルスの方を一斉に見た。
「いや、これはちょっ……俺らには荷が重いっつーか……テイン先輩達の意見に従いまーす……いやでも突入はちょっと! ちょっと考えさせてくださいっていうか! これ無謀じゃないスか!?」
「ふむふむ」
数度頷いて、テインはゲシュを見上げた。
「ゲシュ、我が友よ。私はね、ここの遺跡を調べたい。魔物のことや――もしかしたらきみの言う、命の木について何かわかることがあるかもしれない。救いの御光についても何か手掛かりになる古文書があるやも。ただそうするとなると、炉を再起動させて魔物を追い払うことになるから……ここを『いつでも魔物が取れるウハウハゾーン』にすることは諦めなくちゃいけないんだ。きみはどう思う?」
「いいよ」
「何が『いいよ』か教えてくれるかね?」
「テインのやりたいことでいいよ。だって友達だろ。魔物なら幾らでもいるんだし」
なんてことない物言いでゲシュは言う。テインは兜の中で笑った。
「ありがとう。じゃあそうさせてくれ。お礼に、次にきみがやりたいことがあったら、それを最優先しよう」
「じゃあ一緒に命の木まで行ってよ」
「ずっと前にいいよって言ったじゃないか、我が友よ。忘れてくれるな」
「そうだった」
――というわけだから。テインはギルス達へ振り返った。
「きみ達はここで自衛と援護射撃してくれたらそれでいい。ヤバくなったら撤退してもいい。私はゲシュと炉の再起動を目指す。かまわんね?」
「ハイッ、どうぞどうぞどうぞ」
ぺこぺこと会釈する。内心では「マジかよ、死ぬぞこいつら」と鼻白んでいた。
「それじゃあ行こうかゲシュ」
「あいよ、やってやろーぜテイン」
ゲシュが車から降りる。拳を鳴らす。テインも血の滴るメイスを担いで、二人一緒に悠然と、遺跡の中へ、膝ほどある雑草を踏み分け進んでいく。
「テイン、まずは炉を目指せばいいんだな? ……動くかな?」
「そうだな。動くことを祈ろう。我々には御光の加護があるさ」
がさ、がさ、雑草の揺れる音。大きく動いてトゲツキトビマルシカクを刺激したくない。だがそんな気遣いも束の間――魔物が気付いた。一斉に、あちこちで、黒い肉壁から魔物が飛び立つ。たちまち辺りは不気味な羽音と、滑空する黒い四角で覆われる。
「ゲシュ、来るぞ!」
「おう! 後ろは蹴散らしてやっから、テインは炉へ走れ!」
炉を目指し走り出す。過去も来るまで魔物の死体を運搬していたからか、一本道だ。ゲートの跡地であろうバーをテインがメイスで殴り飛ばして破壊する。その後ろ、ゲシュが飛びかかって来る魔物を殴り飛ばし、掴んで地面に叩きつけ、踏み潰す。
「クソッ数がバカ多いな!」
テインはメイスで魔物を殴り飛ばすも、重い武器で四方八方から素早くわらわら来るのを捌くのはちょっと難しい。魔物の棘尾が振るわれて、兜にギャリッと傷が走った。
「うおおおおがんばれー! 先輩方がんばれ~~~~~~っ!」
そんな彼らを、ギルス達が支援する。レーザー銃をぶっぱなし、一匹でも多くの魔物を撃墜する。そうすると彼らの方にも魔物の群れが向かうが、おかげで相手側の戦力を分散できた。
この数ならどうにかできる。たまにかすり傷を作りながら、テインは走った。背を護ってくれるゲシュは相変わらず無傷だ。全く頼もしい親友である。
かくして炉までたどり着いた。錆びついている炉の蓋を、テインは魔物の血による怪力で強引にこじ開ける。真っ暗がぽっかり口を開けている。あとはここに燃料となる魔物の死体をブチ込んで、あのツタが絡みついた錆レバーを下ろせばどうにかなるはず。どうしてそうすれば起動するのか、細かくて高度なテクノロジーはテインにもゲシュにも分からない。
「ホイッ!」
意図を汲んだゲシュが、空中で掴んだ魔物を炉の中にブチ込んでいく。キャッチしてはぶち込み、キャッチしてはブチ込み、あるいは足元の死体を拾ってブチ込み。テインは炉を背にして防衛に専念した。ちょっと数が多いので拾って投げてる場合じゃない。ゲシュに任せよう。そして空には光線銃が飛び交っている。
「いででっ……このカトンボ共がぁぁ~~~殺すぞ」
常人ならとっくに息切れしているし、魔物の傷でもっと流血しているだろう。だがテインの息は乱れておらず、傷もかすり傷で済んでいる。まあ鬱陶しいのでイライラは溜まるが。
「テインあとどんぐらい?」
貫き手で貫通させた魔物をノールックで炉に放りながらゲシュが言う。ずっとゲシュがポイポイしていたのでそれなりの量にはなったはずだ。
「そろそろ……動かしてみるぞ! 護ってくれ!」
「おう!」
テインが再び炉の蓋を閉め、レバーを掴んだ。その無防備をゲシュがカバーする。跳びかかる魔物を鋭く素早いパンチで次々に撃墜していく。
「ふんぬううううううう」
兜の下の顔を真っ赤にして、テインは力の限りレバーを――ゴギギギギギギとすごい軋みを立てながら――下ろしきった。
ぶーーーーーーん。低い、地鳴りのような音が炉から発せられる。続けてゴウンゴウンゴウンと起動の音が、徐々に大きくなっていって、1分ほど――古い古い炉の煙突から、最初は黒い煙がバフッと、しかし次第に色が薄まって、白い煙が立ち昇り始めた。
「やった! 活きてた!」
テインは煙を見上げてグッと拳を握り込む。炉が動くかどうかは半ば賭けだった。長年放置されても活動できるように頑丈に作ってくれた過去の開拓者達に感謝である。
と、その時だ。遺跡の建物が軋み、揺れて、一部では壁が崩落した。トゲツキトビマルシカクは既に人間を襲うことは止め、大慌てで本体と思しき黒肉壁に戻っていく。そして人間達は気付いた。件の黒い肉壁が動いている、と。
べりべりべり――皮を肉からを引き剥がすような音を立て、黒い肉は一か所に集まって『見慣れた』楕円球状に変化する。そして逃げるように飛び立ったのは、トゲツキトビマルシカクの超巨大版だった。
「うわっ……でッッッけぇえええええ~~~~~~~!!」
これには十年やってきたゲシュも面食らう。空を覆う巨体に、辺りが一瞬夜のように暗くなったほどだ。
「ひいいいいいいいい!」
「おしまいだ~~~~!」
ギルス達は震えあがって牛車の中に逃げ込んだ。テインも流石に狼狽えて後ずさる。
あんなに巨体の魔物相手に、ちょっと勝てるビジョンが見えない。恐怖する人間達だったが――巨大魔物は霧の向こう、空の彼方へ飛び去って行く。やがて羽音も聞こえなくなり、辺りは完全に静寂となった。
「た……助かった……御光よ、感謝いたします……」
テインは深々と息を吐き、メイスを下ろした。装甲も兜も細やかな傷まみれで、装甲のない部分は細々と、わずかに血が滲んでいた。
「大丈夫?」
肩を回しているゲシュが覗き込んでくる。「ああ」とテインは肩を竦め、落ちていたトゲツキトビマルシカクの肉片を拾い上げると、その血を喰らい始めた。負傷した時、魔物の血を摂取すると早く治るのだ。
「はあ……なんとかなったな……」
血を飲み切った肉片をポイと捨て、テインはその場に座り込む。霧の向こうから、ギルス達が走って来るのが見えた。
「ウオオオオオオ先輩方ご無事ッスかあ~~~~~~!」
「生きてる生きてる。少々骨が折れたがね」
「エ!!? 骨折!!? ヤバ!!!」
「あ、そういう意味じゃなくて慣用句的な……」
「カンヨウクって何スか!? 強いんスか!?」
「チョー強いヨ……」
疲れているので説明が面倒くさかった。でもあとちょっとだけ頑張らねば。
「ギルスくん、少しお仕事を頼んでもいいかな」
「ハイ! 何スか!」
「あっちに発電機があると思うから、その辺に散らばってる魔物の死骸を装填しといてくれないかね。この施設の電気を復旧させたい」
「それぐらいならいくらでも! おいおまえら、聞いてたな? 行くぞ!」
うぃーーーす、と返事が聞こえた。「それじゃ行ってきます」「先輩方は休んどいてください」「これ水とタオルです、どうぞ」「お疲れ様でーす」と、4人は霧の向こうへ小走りに駆けて行った。
「俺もあの子ら手伝ってこようか?」
ゲシュもまた魔物の肉片から血を摂取しつつ、足元で座っているテインへ問う。
「いや……念の為にここにいといてくれ」
テインは表面的には友好的だが、同時に極めて疑り深い。ギルス達のことは一先ず仲間として見ているが、万が一、億が一、全ての手柄を持っていく為や、車や食料、発電機を奪う為にこっちを陥れようとしてくる可能性もゼロではなかった。過去にもそういう連中がいたからだ。だから、こうして二人でいれば、少しでも安全である。
「じゃあ俺も休憩する~」
ゲシュはデンと足を投げ出して座り、ギルス達が渡してくれた水筒の蓋を開け、ガスマスクをずらしてグビグビ飲む。変なものが入ってないことを確認してから、テインも同じように水を飲んだ。そして、タオルで簡単に血を拭いた。
「しかし炉も発電機も生き残ってる遺跡があったとはなあ」
手の甲で唇を拭い、ゲシュが遺跡の長い煙突を見上げている。白い煙が流れている。
「ここ、町になるのかなぁ。そうしたら皆よろこぶかなぁ」
「そうだね。きっといい町になるさ」
しばらく、「どんな町になると思う?」なんて話に花を咲かせて――
霧の中に幾つも光が灯った。どうやら発電機が復旧したようだ。電気系統も活きていたらしい。
「先輩方~~~電気つきました~~~」
霧の向こうで4つのシルエットが手を振っている。「ありがとうー」と二人は返事をして、さて、と立ち上がった。
●
崩落に気を付けつつ、荒れた遺跡内部を探索する。電気が復活しているので明るく、活動しやすい。魔物ももういないので安全だ。
メンバーの中で知識に関心があるのはテインだけで、ギルス達は専ら武器や使えそうな道具やお宝がないか探していたし、ゲシュはテインの傍でボーっとしたり物をどけてあげたりしていた。
そうこうしていると外が暗くなってくる。テインが懐中時計を確認すると、もう夕暮れ時だった。
炉が復旧したので、今夜は遺跡の敷地内での野営となる。
地下水を汲み上げる装置が発電装置のおかげで復旧したので、体に着いた血の汚れも落とせた。
そして夕飯である。ゲシュとテインはまだ残っていたトゲツキトビマルシカクの肉を食べた。魔物の肉を食べていれば飢えることはないし、栄養失調にもならない万能食材だ。見た目は最悪だし味は皆無だが。
一方のギルス達は、火をおこして、乾燥野菜と干し肉を水で戻した鍋に堅パンといった非常に人間らしい食事風景だった。
「あの……先輩方、それで大丈夫なんスか?」
4人で仲良く鍋を作っていたギルスが――全員ヘルメットを脱いでいる、いずれも15~20ぐらいの若者達だ――心配げに聞いてくる。
「俺達いつもこうだけど? あ! でも町に寄ったらいろいろ食べるぜ! おいしいし」
「楽だし効率いいしな魔物肉」
ぐぢりと魔物の肉を食いちぎりながらゲシュとテインが答える。
「……最初の頃は、私もきみ達のようにちゃんと料理をして食べていたものだよ。3年ぐらいしたらもういいかなってなる」
「俺は覚えてないけど料理した記憶がねえから最初から魔物食ってたんじゃねえかな?」
そんな先輩達の言葉に、4人は顔を見合わせて。
「あの~……コレちょっと食べます?」
「いいよいいよ、おまえらで腹いっぱい食べな。食べるのは生きる上で大事だからさ」
ゲシュは「気ぃ遣ってくれてありがとな」と優しく言った。そのおおらかな物言いに4人はちょっとホッコリするも――
「もしかしたら味覚障害が起きて、永遠に何がおいしいのか分かんなくなるかもだし。今の内に謳歌して」
続けられた言葉に「ハイッ」と即答し、取り分けたスープにがっつきはじめるのであった。
「で――」
食事の途中、ギルスがゲシュ達を見た。日もだいぶ暮れて、ランタンと焚火が霧の暗い夜を照らしている。
「先輩方、何か収穫はありました?」
「ああ、結構な。そっちは?」
尻尾を噛み砕きながらテインがたずねれば、
「いや~めぼしい物は特には。車の残骸があったんスけどボロッボロで……かなりガチめに修理しないと無理そうッスねえ。まあ、生きてる炉と発電機があるだけラッキーって感じで」
そっちは、と促している。なのでゲシュは口の中のものを飲みこんでから、一同を見渡した。
「うむ。それじゃあ、私が調べたことをまとめよう。なかなか衝撃的な事実だぞ――」
この遺跡は看板にあった通り、魔物の養殖を研究している施設だった。
だがその研究は、今日において魔物を全く制御できていない現状を見れば分かる通り、失敗に終わっている。
以下は開拓者による魔物に関する調査結果と考察。
魔物は細胞分裂のような増殖は行うが、番うことはない。
捕食を行わない。消化器官等がない。狩りを行うこともない。
どうも霧の中の毒素が生命維持に必要らしい。霧が無毒化された場所に長時間いると死亡する。
同族同士で争わず、捕食もせず、そんな生物だが、なぜか人間に対しては非常に凶暴。
仮説。魔物はこの惑星の白血球のようなものだ。この深い霧という血液の中で、そこを荒らす侵入者・外来生物を殺す為に存在しているのではないか。惑星の天然防衛装置とも呼ぼうか。
ゆえに人間には制御ができない。そもそも人間の生存の為に必須な炉の範囲内では生きられず、共生ができない。どういう理屈か分からないが、遺伝子組み換えや改造手術なども失敗に終わっている。この星という生命体の意志でも働いているのだろうか。
「魔物とは……この星の意志なのだよ! 我々はこの星から拒絶されているのだ――外来種であるがゆえに。ウム、早急に救いの御光臨が待たれるところだな……やはり我々はここにいるべきではないのだ。ここは我々の場所ではないのだ。いてはならないのだ。どうにか、地球に帰らねばならないのだ。手段はないものか……私が思うに、救いの御光というのは何か……『何か』のはずなんだ……神話や伝承は必ず『元ネタ』がある……私は地球からの迎えなのではないかと実は思っている……だが現状では地球から迎えが来ることはあるまい……どうにか、地球に我々がここにいるのだと伝えねば……しかし我々は元は罪人の末裔でそれも難しいか……う~む……」
つらつら。
そう語るテインに、一同は目を点にしている。
「え~と……テイン先輩は、地球に帰りたいんスか?」
ギルスは首を傾げた。
「え……? そらそうだが……? だってこの星の現状を見てみろ、炉はいつまでも動くか分からんし……人間が生存するのにはあまりに不向きな毒霧の世界で……誰かが気を狂わせたり命を落としてまで魔物を狩ってくるなんて……おかしくないか?」
「そ、そッスか、ね……? 別にこれで俺達は生きていけてるし……、え?」
「え?」
「え?」
沈黙、束の間。他の者も食事の手を止め、テインとギルスのやりとりに固唾を飲む。
「あー、えーっと、きみ達は……、救われたいとは思わないのか? この惑星から?」
「救われるも何も……俺達ここで生まれ育ったんで、ここが故郷っつーか……」
「……」
「……」
「怖くないのか?」
「えっと、何が、ですか……?」
「未来が……」
「べ、別に……」
「……」
「……」
シン、と静まり返る。火の音だけがパチリと爆ぜる。
ゲシュはテインが兜をしたままでよかったと思った。付き合いが長いから分かる、テインはキレている。憤怒の顔をしている、あの兜の下で。
だからゲシュはテインの肩をガッシと組んで、ギルス達へピースサインを向けた。
「俺達はさ! 命の木に行くんだよ! 見えるだろ、あの黄金に輝く綺麗な光が。あの下にはきっと楽園があるんだ。皆が幸せに生きられる場所が。毒も何もない場所が。俺達はきっと大丈夫だよ。だからきっと大丈夫だ。なんかあったら俺がおまえらを迎えに来てやるから、心配すんな」
「あ、アハハ~……どもッス……」
「今日はほんとみんな頑張ったよな! スッゲ~よ! えらいよ! おまえらレーザー銃の支援ありがとな! すげえマジ助かったから! な! ありがとう! ほらメシ冷める前に食えよ! アハハ! かんぱい!」
努めて明るくそう言えば、4人はやっと安堵して、そそくさと食事に戻っていった。
「テイン! 殴っちゃダメだよ! 殴っちゃダメだよ! ちょっと考えが違っただけさ、フライドポテトに塩をかけるかケチャップをかけるかみたいなもんさ」
ゲシュは小声で、兜の耳元に囁く。
「わかってる……わかってるよ」
明らかに不服の声でテインが呟いた。
●
ギルス達はここで夜を過ごすと言ったが、テイン達は車でその場を去ることにした。
残った死体を詰め込んで、トラックは夜霧の中を進む。視認性は最悪だからゆっくりめの速度。
「テイン~……」
助手席のゲシュはそわそわしている。真っ暗な車内、不安げに指を組む。
「怒らないでくれよ~……あいつらも悪気があったんじゃないよ~……」
友の精神状態に、ゲシュはハラハラしてしまう。何かできないか、いろいろと考える。
「わかってるよ……ただ……理解ができないだけなんだ……」
ぼそぼそ、テインはハンドルを握りしめながら答える。
「どうして……ああ、すまない、ゲシュ、我が友よ、きみを不安にさせたいワケじゃなくて……だから手首を噛んだりしないでおくれよ、そんなことになったら俺はもう駄目だ……俺は……俺はもう駄目だ……」
「大丈夫だよテイン、大丈夫だよテイン、ほら命の木が見えるだろ、あっちの方角だ」
テインは兜の暗がりから、刺青の手が差す方向を見た。何も見えない。暗闇ばかりだ。
「なぜ俺には見えないんだ、俺に救われる資格はないのか?」
「え? 見えない……?」
「あ! うそ! うそうそうそ! 見えてる! 見えてるよ! 本当だ綺麗だ! 大丈夫……大丈夫……」
内心でテインは理解している。この衝動的な感情や、精神のぐちゃぐちゃした不安定は、魔物の血をとり続けたせいなのだと。生来から短気で衝動的だったが、昔よりもその暴力性が大きくなっているのを理解している。分かっている、だが心がついてこない。
「あ、あ、うううう ダメだこのままだときみに八つ当たりをしてしまう ゴメンちょっと待っててくれすぐ戻るからすぐ戻るから」
車を急停止させる。メイスを掴んで、車から降りる。「テイン……」と呼びかけたゲシュに後ろ手に親指を立てて、ゲシュはふらふら、道路沿いの森の中へ。そして――メイスを振り上げた。
「あああああああああクソ! なんでどいつもこいつも俺の言うことを理解してくれねえんだ! クソ! クソクソクソ! 無知蒙昧な愚物ばかりめ! 能動を知らない馬鹿どもめ! このままでは先細りの終焉しか見えていないのになぜ誰も行動しないんだ! このままではいけないのに――誰かが何かをしないといけないのに――待っているだけでは救いなんて訪れないのに……どうして誰も現状を恐れていないんだ! 狂ってる! どいつもこいつも! なぜだ! なぜだ! なぜ! クソが! どいつもこいつも死んでしまえ! そんなに死にたいならここで死ねッ! 死ねえッ! 死ねええええええええええええええええ」
暴れ回る。当たり散らす。心が落ち着くまで。体が疲れるまで。自分が少しずつ狂っていっている自覚を持ちながら。叫ぶ。吼える。木の幹を殴り壊し、蹴り飛ばし、凶器を振り回し続けた。世界が狂っていて自分だけが正気であることはとてもとても恐ろしかった。
しばらくして。
「ただいま」
テインは戻って来た。ハァハァと息を弾ませ、兜の下に嫌な汗をいっぱいかいて。運転席に座り込む。息を吐く。
「ごめんねテイン」
ずっと待っていたゲシュが呟いた。
「どうしてきみが謝るんだ、ゲシュ、我が友よ。謝るのは私の方だ。すまないね、こんな人間で。いつもうまくいかないんだ。もっとうまくやろうと頑張っているのに。俺は駄目な人間だ……」
「そんなことねえよ、俺の友達だろ。それだけで最高だよ」
「アハハ……きみが友達でよかった」
「乾パン食べる? 氷砂糖、残しておいたから……」
「うん、そうしようか。今日はとっても疲れたよ……氷砂糖を舐めたら、もう寝ようか」
「そうだな、そうしようそうしよう。俺今日ここで寝る」
「上に行かなくていいのか? お気に入りの場所だろう」
「今日はここでいい」
「そうか、ありがとう」
甘い味を口に放った。幸いにして味覚障害はまだ二人とも起きていない。月の見えない霧の空を見上げる。
暗い中、ゲシュは自分の掌を見つめていた。そこにはテインとの出会いが刺青にして刻まれている。友達との思い出は、いつもゲシュの心に希望の光を灯してくれる。そうして一つずつ思い出しながら、覚えていることを確認しながら、ゲシュは目を閉じるのだ――……。