キリケムリ


 どこまでも広く、霧が深く、辺り一帯に立ちこめている。

 曇天のような灰色の世界、褪せた色の短い葉と苔からなる草原、そこを一台の車が進む。
 小型トラックトレーラーといった趣のそれには、少量の荷物しか積まれていない。運転席に一人、助手席に一人、そして車体の上に一人、合計3人の男がそこにいた。
「この仕事は初めて、と聞いたが?」
 運転手の男がそう言った。金属板によるハンドメイドのバケツ型兜を被り、装甲付きスーツにサーコートという、手作り聖騎士然とした男だった。サーコートには太陽をシンボライズしたような意匠が描かれていた。
「はい! 町の外に出たのも初めてです! 今日から皆の役に立てるんだと思うと気が引き締まるような思いです!」
 助手席で声を弾ませたのは、ガスマスクに装甲付きのスーツの男。そわそわとした様子、緊張感から、初々しさがにじみ出る。まだ年若き青年だ。
「いい心がけだ。御光も喜ばれることだろう……」
 コスプレ騎士のような男が口にした『御光』とは、この惑星で最も民間的な、というか唯一の宗教らしき考え方だ。「いつか人々を救済する光がこの世界に降り立つ」という理念に基づき、その救いの一秒でも早い到来を求めて祈り捧げるものである。
「まあ我々は長いことこの仕事をしているのでね。困ったことがあれば何でも聞いてくれたまえ、モーブくん」
「はい、テイン先輩!」
 新入り青年のモーブは、コスプレ騎士のテインに瑞々しく答えた。それから、先輩に質問を。
「そういえばテイン先輩は、どれぐらいこの仕事をされてるんですか?」
「今年で5年目になる」
「えっ! すごい……大ベテランじゃないですか」
「ゲシュはもっとすごい。私の2倍だからな」
「2倍って……、10年!? し、信じられない……」
 その時だ。
「俺のハナシした~?」
 開けっ放しの窓から覗き込んでくるのは、ガスマスクに、上半身裸の男。隆々とした肉体には所狭しと刺青が――様々な図柄があまりにも雑多に――彫られている。
 唐突に覗き込まれてモーブはビクリと驚くも、リスペクトの眼差しを刺青男ゲシュに向けた。
「えっと……ゲシュ先輩のキャリアの長さがすごいな、って!」
「10年だからなぁ〜。普通は頭クルパーして廃人になってるもんな! ハハハ! 俺は文字が読めなくなった程度で済んでるよ!」
 ルーフをバシバシ叩きながらゲシュは笑った。
「あはは……それはなんというか……すごいですね……」
「5年以内に辞めたら障害は残らないさ」
 引きつり笑いの新人に、テインが軽い物言いで言う。
「テインはそろそろなんか症状出るかもな~!」
 今度は運転席側の窓を上から覗き込むゲシュが笑った。テインは鼻で笑う。
「それも御光の試練なれば」
「ハハハ! ――あ! 見てみろよオイ!」
 顔を上げ、彼方を指さし、ゲシュが踵でルーフを叩いて二人にも見るよう強制する。指の先には、深い霧が灰色に広がっている。
「今日は命の木がよく見えるなぁ」
「お~そうだなぁ」
 一瞥だけして相槌を打ち、テインは車の速度を落とさない。一方の新入りは一生懸命に霧の彼方へ目を凝らすが、何も見つけられなかった。
「あの」
 テインに確認しようとした瞬間、肘で小突かれる。「あッはい」と彼は背筋を伸ばした。
「そうですね!」
 命の木とは一体。それはゲシュだけに――この『毒霧』の中に長く長くいたせいで頭が壊れつつある狂人にしか見えない、何かなのだろうか。
「あ! おーい! テイン!」
 車の上で辺りを見ていたゲシュが声を張る。
「二時の方向! 魔物だ! タテナガデカサソリ」
「タテナガデカサソリ?」
 助手席の新入りが復唱すれば、「我々で勝手につけた魔物の名前だ」と運転手が答えた。どうやら今度は『幻覚』ではないらしい。モーブがしっかと見据える先に、霧に蠢く巨影が見えた。
 大きさは5メートルほどか。虫めいた長い脚が4本、柱のように立ち、その上部に平べったい胴体。胴の全体には複眼の目玉が配置されている。全体的に濃い灰色で、体表は硬質的だが擦りガラスのように光を照り返さない質感をしていた。
「う、わ、アレが魔物」
「生きてるのを見るのは初めてかね?」
 臆する新人に対し、全く動揺していないテインが尋ねる。頷くモーブに、彼は「気楽にやればいい」と言うが、初めて目にする巨大生物に新人が気楽にできるワケがなかった。
「まあ無理せず、死なないことを最優先して動きたまえ」
 テインは車を停めて、車内に積んでいる重厚な戦棍(メイス)を取り出し、車から降りた。新人もボウガンを持ってそれに続く。ルーフに乗っていたゲシュも降りてきた。ゲシュは丸腰であった。武器もなければ鎧もない。新人は二度見する。
「ゲシュ先輩、武器は……というか防具も」
「え~~? あんなクソデカバケモンの攻撃が当たったら何着てようが即死だって。だったら体軽くしてかわせるようにした方がつえーって」
「そ、そうなんですか」
「気遣ってくれてサンキューな! いいこいいこ!」
 ゲシュのデカい手が(全ての指に刺青がある)、新人のガスマスクの頭をガシガシ撫でた。
「よし! 俺達3人は無敵だ! やってやろうぜ、皆!」
「っ――はい!」
「御光のご加護があらんことを……」
 かくして、3人の狩人が湿った大地を蹴って駆け出した。

 ――遥か昔、この惑星を人類の新たな土地にせんと、数多の開拓者が降り立った。
 この星は地球に似た稀有な星であるのだが、たった一つ、しかして甚大な問題があった――この霧だ。猛毒の霧が常に立ち込めているのである。
 開拓者達は毒霧を浄化せんと悪戦苦闘し、一時的な浄化システムを製造することに成功する。
 燃料になるのは、この死の世界を闊歩する原生生物、人々が『魔物』と形容する生物の死骸だ。『炉』と呼ばれる浄化装置に魔物の死体をくべることで発生する煙が、毒の霧を中和するのである。
 もちろん燃料がなくなれば浄化システムは止まるし、『炉』の効果範囲もそう広くはない。なので人が増えて炉が増えるほど燃料の魔物が必要になってくるが、家畜化や繁殖もできない魔物の安定供給は非常に厳しい。大規模な移住の為には、炉の増設よりも根本的な霧の除去が必要だった。
 人々は努力した。しかし――。
 開拓者達は、とうとう根本的な解決策を見つけることはできなかった。
 そして結局、「割に合わない」と地球へ退去していった。……単純労働用や人体実験用の、貧民や罪人達を残して。
 他に残ったのは文明の残骸、炉という浄化システム、この星で生き延びる為の幾つかのノウハウ。置き去りにされた哀れな民達はそれら縋り、辛うじて……しかししぶとく子孫を繋ぎ、細々とだがそれなりに長く、今もどうにか、世代を重ねて生きている。

 この、死の霧と生の煙の中で。



『キリケムリ』

 第一話:けぶる



「うわーーーーーーッッ! モーブ〜〜〜〜〜〜ッッ!!」
 霧のぼんやりした空に、ゲシュの慟哭が響いた。
 跪いたゲシュの刺青の両腕には――胴体にぽっかり巨大な穴が空いた新人モーブが息絶えて冷たくなっていた。
「おお……勇敢な青年の魂が、御光に抱かれ永遠の平穏を得られますよう……」
 傍らで、テインが胸に手を当て天を仰ぐ。
 彼らの後ろには、ぐしゃぐしゃに撲殺されたタテナガデカサソリが絶命していた。魔物の脚の内、一本が鮮血に染まっている。この鋭い脚こそが、モーブを貫き即死させた凶器であった。
「うう……あんなにこの仕事にワクワクしてたってのに……」
「まあそう気落ちしなさんなゲシュ、彼がやたらと町から出たがっていたのを覚えているかね?」
 ゲシュの肩をぽんぽんと叩き、テインが続ける。
「この毒の霧の中……町から出ていきたがる奴なんて、村八分にされたか、犯罪者か、いなくなってしまえと嫌われている者ぐらいさ。選ばれなかった人間だ。彼もきっとそうだったんだろう」
「でも、人の役に立ちたいって……」
「居場所が欲しかったんだ。そして自由が。それらの口実が」
 見たまえ、とゲシュの正面に回ったテインが腕を広げる。
「今、彼はこの星で一番自由だ。夢に向かって輝いていた。御光と共にそれを祝福しようではないか、友よ」
「……ウン……」
 ゲシュは亡骸を下ろし、そして、手を『空っぽ』の胸の前で組ませてやった。ガスマスクを剥ぎ取る。目を見開いているモーブの、ありふれた小市民的な青年の顔が、永遠に空を見つめている。
「ばいばいモーブ……短い間だったけど、仲間になれて楽しかったよ……」
「ゲシュ、『補給』をして魔物を運ぼう」
「うん」
 一足先に魔物の方へ向かったテインへ、ゲシュも続いた。黒い血を流す亡骸の前にしゃがみこむと、二人はマスクと兜をずらし、口を露出させると――ゲシュの顔は傷痕だらけだった――割れた装甲に口をつけ――血を飲み始める。

 この血こそ、毒の霧の『抗体』。魔物の血を定期的に飲むことで、人間は猛毒である霧の中で活動できるようになるのである。しかも長く飲み続けていれば、人知を超えた身体能力すら手に入る霊薬だった。
 ただし代償がある。魔物の血液の摂取を続けていると、精神に異常をきたすのだ。5年も続ければ確実に何か発症する。認識障害、記憶障害、精神障害――10年もすれば廃人となり、自律的な行動ができなくなって死に至る。
 それでも、人間が生きていく上で――炉に魔物の死体をくべる上で、霧の中で魔物の血を飲んで己を壊しながら魔物の死体を持ち帰って来る存在が必要不可欠だった。
 しかし彼らは英雄扱いをされなかった。壊れた人間が人里で暴れて事件を起こす、己がお前らを助けてやっていると上から目線で威張り散らす、引退した廃人の介護という面倒が発生するなど、厄介なことが付きまとうからだ。
 だから彼らは「ヒーロー」とか「ハンター」とか高潔な名を与えられなかった。ただ、「あの連中」とだけ呼ばれていた。

「ふう」
 体が生理的に受け付けなくなるまで、黒い泥のような血を啜り続けて。ゲシュは口元を手の甲で拭うと、ガスマスクを元に戻す。テインも同様に血の補給を終えて兜を直していた。
「じゃ解体していくか」
「私ノコギリ持って来る」
「うい 俺、脚もいどく」
 テインがトラックへ歩き出し、ゲシュは魔物の死体に手をかける。脚の付け根をつかんで、足を蹴るようにかけて――ぼぐっ、と怪力に物を言わせて脚をねじり毟っていく。
 ほどなく巨大なノコギリを持ったテインが合流し、ゲシュが大まかにバラした魔物を、トラックに積める程度に解体し、ロープでくくってひとまとめにして、荷台に積んでいった。途中、瓶で魔物の血を幾つか集めてストックも作った。
「テイン、モーブはどうする?」
 魔物を積み終わり、返り血まみれのゲシュが問う。
「あのままにしておいてやろう。持って帰ってもテキトーに埋葬されてしまうだけだ」
 息一つ上がっていないゲシュに対し、テインは座り込んでぜえはあ疲労困憊だった。摂取し続けた魔物の血の量の差だ。
「我が友ゲシュよ、ちょっと……休憩してから運転していいか……」
「いいよ。お昼寝してから出発すっか――モーブもいるし」
 ごろん、とゲシュはモーブの隣に寝そべった。す、は、と深呼吸する。毒の霧を肺いっぱいに吸い込んでも、男はケロリとしていた。
「今日はいい天気だな~……」
 ゲシュが呟けば、大の字に寝転んだテインが返事をした。
「太陽の輪郭が見えるな。霧の向こうは晴れているんだろう。聖典によると空は青い色をしているそうだよ」
「ふーん」
「なんだテンション低いな、いつも私が聖典の話をしたらもっと少年のようにハシャいでくれるじゃないか」
「だってモーブ……人の役に立ちたいって言ってたのになぁ……」
「まだ言ってるのか、友よ」
「だって俺もさぁ……人の役に立ちたくて……町で必死に『連れてってくれ』って言ってくるの見てたら、昔の俺を思い出して……俺もう10年もやってるから……きっとうまく先輩ができるって思って……」
「うまくできてるよきみは。私にとっては十分に先輩じゃないか」
「モーブともっと仲良くなりたかった……」
「忘れないよう、また体に刻んだらいいじゃないか。そうしたらズッ友だ」
「それもそうか」
 ゲシュの全身に刻まれている刺青は、文字が読めない彼の為に図形で記された『記憶のメモ』だ。出会った人間のこと、人生で起きたこと、過去のことがごちゃごちゃに記されている。図形は混沌として、抽象的な落書きにしか見えないが。
 刺青男はムクッと体を起こすと、腰のベルトにつけていたサバイバルナイフを取り出し、魔物の血を刀身につけると、自分の体を見渡した――
「もう場所がないよ~」
「背中にしようか?」
「うん」
 よっこらせと起き上がったテインにナイフを渡す。テインは黒く染まった刀身で、ゲシュの背中に横たわるモーブの図を切り彫った。傷口から赤い血が流れ出す。ゲシュは痛みを感じていない様子だった。
「よし! それじゃ~昼寝再開すっかぁ!」
 途端にゲシュは元気になって、勢いをつけて原っぱに転がり、次の瞬間には爆睡していた。友の様子にテインは兜の下でふっと笑い、死体を挟むように原っぱへ寝そべり、休息に専念することにする。

 ●

 近くの川で水浴びをして返り血を落としたら、二人は『一人』を永遠にそこに遺して出発する。
 車を運転するのはいつもテインだ。なお、この車は遺物の一つであり、魔物の肉と血を燃料にして動く。人里に存在する発電装置も同じ原理だ。魔物はこの星では万能にして重要な資源である。ただ、ちょっと確保が大変なだけで……。
 助手席にはゲシュがいる。数時間前まで新人が夢と希望を輝かせていたその席で、彼は頬杖を突き、全開にした窓から霧の景色を眺めていた。
 道路が整備されていたのはもうずっと昔の、開拓者がいた頃なので、道路というモノは概念レベルで失われている。外を出歩く者もほとんどいないので、ガタガタの地道だ。右を見ても左を見ても霧ばかり――たまに、飛行型の小さい魔物が飛び過ぎていくのが見えた。
「ゲシュ、そろそろ着くぞ」
 テインが言うので、ゲシュは正面を見た。前方――うっすらと町のシルエットが見えてくる。その中央には、まるでバースデーケーキのロウソクのように、一本の長い塔が建っていた。厳密には塔ではなく煙突に近しい。実際、天辺からは白い煙が細く棚引いている。

 あの煙突が『炉』、かつての開拓者達が遺した浄化システムだ。
 ちなみに煙には魔物避けの効果もあり、町が魔物に襲われることは滅多にない。逆に言うと炉の燃料たる魔物を取りに行く為には、町から遠く離れなければならないのだが。

 距離が縮まってきたら、徐々に町の全貌が見えてくる。魔物避けの煙があるとはいえ、恐怖心から人々は町の周囲に高い城壁を立てていた。見張りの穴や塔がぽつぽつとある。過去の遺物の一つだ。
 テインは備え付けていたハンドベルを取り出すと、窓から半身を乗り出してそれを鳴らした――カランカラン、大きな音が響き渡る。『あの連中』が炉の燃料を持って帰って来たぞ、の証。
 魔物狩りは、町によっては交代制で専属の者がいる場合もあるが、ゲシュ達は完全にフリーの存在だった。気ままに旅をして、魔物を見つけたら殺して車に積んで、近くの町に提供する。それがゲシュ達の日常だった。
 門番が鉄柵状の門を開けてくれる。ゲシュ達の車がそこを通過する。そうすれば辺りに見えるのは、無毒化された霧で煙る広い農園だった。物流がほぼない町々は基本的に自給自足だ。農作物や家畜、木材は開拓者が品種改良を施した為、食料などの物資に困ることは基本的にない。
「小麦が綺麗な金色だ……見てみろよテイン、ほら」
「本当だ。綺麗なものだな」
 地球の『原種』よりも発育がとても速い小麦が、農園の一角を黄金色に染めていた。吹き抜ける風に、たわわな穂が揺れている。
「地球には『実るほど首を垂れる稲穂かな』という言葉があるんだそうだ」
 テインの言葉に、窓から身を乗り出していたゲシュが振り返る。
「それってどーゆー意味?」
「うーんと……頭を下げた奴の首を刎ねてしまえ、チャンスを逃すな、とかだったかな……」
「へえ~~~~テインは物知りだなあ」
「聖典には様々な叡智が記載されているのでね」
 テインの言う『聖典』とは、主に開拓者達が遺した本のことである。そんなこんなで盛り上がっている二人に対し、農作業中の者らが挨拶したり手を振ったり会釈したり……なんてことはなかった。せいぜい、ちらと見て目を逸らす程度だ。
 外に出る人間、特にフリーランスの連中は狂って壊れた人間ばかりだ。社会に順応できず追い出されるように外へ出た者、町を追われた犯罪者など、真っ当な者は少ない。ちなみにゲシュが前者でテインが後者のパターンである。テインは聖戦と称して自分の信仰を馬鹿にした連中を殺傷しているので、出身の町とその周辺には二度と近付けない。
 そういうワケで、真っ当に生きている者達にとって、外から来る連中にはできるだけ関わりたくないのだ。なのでゲシュ達もわざわざ馴れ馴れしくしない。事務的な行動を求められているので、それに則るまでだ。

 農園地帯の向こう側には建物がひしめく。限られた空間の中で、ガチャガチャと増築と改築を繰り返したそれらは雑多な印象を受ける。
 車は真っ直ぐ、炉の元へ向かっていく。道を阻む者はいない。「今夜は何を食べたい?」「ドーナツ」「それはオヤツではないか」なんて話をしていたらあっという間だ。
 炉は近くで見るととても巨大に感じられた。ゲシュ達の車を確認した炉の管理者達が、コンソールを操作して炉の蓋を開ける。さながら焼却炉のようだ。青白く燃える光が見える。そこへ、管理者達が魔物の死骸を投入していく。
 ゲシュとテインは車から降りた。トラックはそのままに、管理者達へ振り返ることもなく、お互いで会釈などが発生することもなく、町へと歩き出す。あとの作業は管理者達がやるのだ。今回は収穫が大きいから、余った死骸は冷凍庫で保管されたり、発電設備用の燃料になることだろう。
 また、トラックは置き去りにしても別に物を盗まれたり嫌がらせされたりはしない。ゲシュ達に不利益なことをすれば、炉の燃料が手に入らず結局は町の者の命の危機に直結するのを町の人々は理解している。なのでむしろ、洗車してくれたりメンテナンスしてくれたり、食料などの物資を積んでくれる。必要ならば「これが欲しい」と置きメモをしておけば、その物資を積んでくれる。燃料を持ってきてくれた報酬として、それらの施しは無償で行われるのが常だった。
「もう夕暮れかあ」
 伸びをしながらゲシュが言う。霧が少し赤らんでいた。それを見上げながら、刺青男は溜息一つ。
「おなかすいた……」
「ゲシュ、我が友よ。私は先に教会に行くから、空腹なら先に食べていてくれたまえ」
「え~……じゃあ俺、教会の前で待ってる。あ、でもドーナツだけもらってきていい?」
「いいぞ。私も食べよっかな……」
 人の出入りが基本的に発生しない閉鎖的なコミュニティなので、町の人々はよそ者の顔はすぐに分かる。そしてよそ者とは即ち、魔物を狩る連中だと知っている。彼らへの報酬の一つとして食事等のサービスの無償提供があった。金銭や物々交換の品がなくてもいいのだ。それ以上に価値のある行動をとっているから。

 かくして小さな店で、二人はドーナツを貰った。店員の若い乙女はよそ者の来訪に露骨に怯えていたが、テインの「失礼、教会はどちらに?」という言葉に震える手で方向を教えてくれた。
「ありがと! ドーナツもうちょっともらっていい? 明日の朝飯にしたいなって」
 巨躯で筋骨隆々で全身刺青のゲシュが、俯く乙女を覗き込むようにそう言えば、彼女は青い顔で震えながら、紙袋にありったけのドーナツを詰めて渡してくれた。

「気前いいねあの店員さん ラッキ~クッキ~洗濯機~」
 パンパンの紙袋を抱え、ゲシュはご機嫌だ。
「うん結構おいしいじゃないか」
 二人はガスマスクと兜を少しずらして口元だけ晒し、サクサクとしたプレーンドーナツを頬張りながら、御光信仰の教会へ向かう。光をシンボライズした『光十字架』が掲げられているので、教会を見つけるのは容易い。
 ゲシュは「じゃあ俺このへんで待ってる」と立ち止まった。テインは手に着いたドーナツのクズをパタパタ払い落としてから、「すぐ戻る」と言って教会の古めかしいドアを開けて入っていった。
 町の中は縦長の建物が多く、空が狭い。夕暮れ時で仕事終わりの人間があちこちにいるが、明らかにゲシュのことを避けて目に入れないようにして歩いていた。
 ぽつねんと、見るものもないので、ドーナツを延々と齧りながら空を見ている。モーブはこの町の人間だったっけ、とゲシュは思い返していた。いきなり飛び出してきて仲間にしてくれと言ってきたのだ。
 モーブは犯罪者の子であり(親が何をしたのか頑なに言いたがらなかった)、身寄りがなく、居場所もなかった。彼は目を輝かせて、こう言っていた――「町の人々の役に立ちたい」「そうしたら皆から受け入れてもらえる」と。モーブは町から疎まれていた。受け入れて欲しいと善意を振り絞れば、それを搾取されて利用されるだけの人生だった。居場所が欲しくて、人間の輪に入れて欲しくて、そして善意を買い叩かれて、その果てに、『魔物を狩って炉の燃料を持って帰る』という善意しか、もう選択肢に残らなかった人間だった。
 そんなモーブがいないことに対し、「モーブは?」と聞いてくる人間はいない。寧ろモーブがいないことで、モーブが死んだことを悟って清々している連中ばかりだった。
 いや、きっとそうに違いない、あいつらは笑っているのだ、モーブの死を喜んでいる。モーブは受け入れて欲しいだけだったのに。善意と勇気を振り絞ったのに。犯罪者の子というだけで。あの子に何の罪があったと言うのか。可哀想なモーブ。悪いのは誰なんだ? ――ゲシュは魔物の血のせいで妄想が加速するきらいがあった。そうしてストレスを感じたら手首をガリガリと噛む癖があった。痛覚が鈍くなってしまっているので、血が出ても気付いていなかった。周囲の人間はそんな『奇行』にますますゾッとして、ゲシュの周囲から消えていった。
「お! 命の木!」
 奇行は唐突に止まる。建物の合間から見えた向こう側、ゲシュの目には光の柱が見えていた。あそこには皆が暮らせる幸せな場所があるのかもしれない。ゲシュはそんなことを夢見ていた。

 その時である。

「でぇっへっへっへエぶぇフェヘヘヘヘェ!」
 変な笑い声を上げながら、テインが教会のドアを内側から蹴り飛ばして飛び出してきた。
「うおっテインどうした!?」
「ゲシュ走れ走れ! ふへへモーブくんのこと話したらなんかムカつく対応されてフヒ殴っちゃったブふふハッハッハフあっヨダレ出た」
「またかおまえ~! ほんとすぐ手ぇ出るな~!」
 一緒になって走り出す。テインはずっと兜の中で笑っていた。このテインという男、神官めいた見た目のクセに物凄く凶暴で物凄く手が早かった。すぐに肉体言語で訴える悪癖があるのだ。だから故郷で御光信仰に関する自分の考えをバカにされてキレて殺人なんてやらかしたのである。ちなみに自分の行為は御光に全肯定されていると信じ切っているので罪悪感など全くなかった。
 そんなテインは走りながら、隣のゲシュの手首から血が出ていることに気付いた。その傷がストレスによる自傷だと知っているテインはこうたずねる。
「どうした? なんか誰ぞに悪口言われたのかね? ソイツの顔覚えてるか? 今から一緒にこれから一緒に殴りに行こうか?」
「え? あ、ほんとだ血ぃ出てる……まあいいや気にすんな! それよかおなかすいたしどっかでメシ食おうぜ!」
「異論なしだ」

 ●

 ここなら大丈夫だろう、と町のできるだけ隅の食堂に駆け込む。まあ文句を言ってくる奴は多分いないと思われる。それだけ、町の人々にとって外の連中とは天災そのものなのだ。恵みもあるが被害も出す。
 二人の来店に一人だけいた客はそそくさと勘定を済ませて出ていき、店主の顔には明らかに緊張が走った。
「えーと」
 ゲシュは体がデカいので相対的に椅子が小さく見える。さびれたカウンター席、メニューを持って見下ろしているが、どう頑張っても文字を識別できない。
「ゲシュ、我が友よ、きみはもう文字が読めないだろう」
「そうだったわ……」
 テインが大きな手からスッとメニューをとる。ちなみにゲシュの手首の傷は、もう血が止まって治りはじめていた。魔物の血による恩恵だった。
「このA定食を二人分でお願いします」
「は、はい……ただちに」
 かしこまった店主が不安と戦いながら調理を始める。その間、ゲシュとテインは他愛もない会話をしていた。
「テイン、教会で何してたんだよおまえ~?」
「いや……いつも通り、御光に自分の頑張りを報告して、ご降臨の祈りを捧げて……それからえらいやつと話をしたのだよ。モーブは身寄りがなくてね、教会で面倒を見てもらっていたそうで。それで彼のことを話したんだ」
「……それで、教会のひとなんて?」
「強姦魔のガキなんてとっととくたばって当然だって」
「あちゃあ~……」
「前歯ぜんぶ折ってやった。他者の為に救いの光にならんと尽力したモーブくんを愚弄することは、御光への冒涜だからな」
「うんうん」
「そもそも我らは皆、罪を負って生れ落ちるのだ。我々の祖先は開拓者達から捨てられた罪人だった……自らこそが罪人の血筋だというのに、他者の血の由来を責めるなどバカバカしい」
「そうだなぁ~」
 テインは色々考えて生きていてえらいなあ、とゲシュは思った。
 ほどなくA定食が卓上に運ばれてくる。家畜用に品種改良された大きな鶏の腿肉ステーキに野菜と香草のペーストが乗ったもの、豆と芋とキノコのスープ、パン。
「御光よ……この糧という救いに感謝します……」
「ウェ~~~イいただきまーす!」
 ぶつぶつ食膳の祈りを捧げるテインの横で、ゲシュは大喜びでフォークで肉をダーンと突き刺し、そのままガスマスクをずらした顔でガフガフかっ喰らい始める。口の周りに肉汁や野菜ペーストがつくのを全く気にしていない。
「ウッマ! ウッマ!」
 ぷりっとぶ厚い肉に、塩味の効いた草のペーストの青い風味がよく絡む。細かく刻まれたタマネギの食感と甘味がちょうどいい。
「いただきま~す」
 ゲシュが肉を半分ぐらい食べたぐらいにテインが食事を始める。兜を脱いで横の席に置く。色褪せた黄金の髪は短く刈られている。死んだような落ちくぼんだ目に酷いクマ、こけた頬にあごには無精ヒゲ、血の気のない肌をした、死神めいて残忍そうな人相をしていた。魔物の血を摂取し続けていると、だいたい人間はこういった不健康そうな見た目になっていく。
 一方でゲシュは決してガスマスクを外さない。彼は他人に顔を見られることが極めて嫌いだった。ウマイウマイと繰り返しながらあつあつのスープを一気に飲むのんきな姿からは、あまり想像ができないことだが。
 対するテインの食事は作法がよく貴族のように上品だ。数十分前に他人の前歯を折った男の所作とは思えない。ナイフとフォークで一口ずつ肉を切り分け、きちんと咀嚼をする。硬めのパンは皿の上の肉汁やペーストにちぎってつけたり、あるいはスープに浸して食べる。そして食事中は一切喋らない。彼は食事空間の近くにクチャクチャ音を立てて食べる者がいたらすぐ殴りに行く男だった。
 テインの食事が丁寧なのは、食べ物とは救いの光(御光)がその救いの一端として賜った糧という宗教理念に基づいている。ちなみにゲシュのワイルドな食べ方を咎めたりはしない。おいしいおいしい、と食事を大切に食べているマインドがそこにあるからだ。食べ残しを絶対にしないのもある。
 あっという間に食べ終わったゲシュは、出されたお茶をこれまた一息で飲み干しながら、同僚の食事が終わるのをボケーッと頭を虚無にして待っていた。

 そうしてテインが食べ終わり、食後の祈りも終えて、二人の食事時間は終わる。外はすっかり日が暮れて、霧も相まってとても暗い。明るくしていると魔物が寄ってくる危険性があるのと、電気の節約で、夜は文明の明かりであまり照らされることはない。
 町は人間の出入りがないので旅行者などもおらず、宿屋の類は基本的にない。二人はよく教会に泊めてもらうが、今回はテインが教会の人間を殴ってしまったので、それは無理そうだ。今日は車で寝るとしよう、と二人は決めた。

 車に積まれていた魔物は全て下ろされ、洗車もされていた。食料や水などの物資の積まれている。
 テインは座席のシートを倒して寝そべり、ゲシュはルーフに寝そべる。一見して熟睡に向いていなさそうだが、毛布一つあれば二人はそれで眠れる。街中だから対魔物で気を張らなくてもいい。
「なあ、我が友ゲシュよ」
 眠る前の祈りを済ませたテインが、開けっぱなしの窓から声をかける。仰向けに霧の夜空を見上げているゲシュが返事をした。
「なんだー」
「命の木まであとどれぐらいだ?」
「まだクソ遠いなぁ~」
「そうか」
 テインはそう言って目を閉じた。彼は知っている。命の木、なるものはゲシュの幻覚か妄想だ。魔物の血による精神崩壊症状の一つなのだろう。しかしテインはその妄想を真実として扱う。ゲシュの妄想だとは思っているのだが、もしかしたら本当に、何か、魔物の血を啜り続けた特別な人間にしか見えない『何か』が存在しているのかもしれない、そんな可能性を否定しきれないでいた。
 テインという男は御光の降臨を信じていた。いつの日か贖罪は終わり、全ての人は救われて、遥か母星―地球に帰ることができるのだ、そう思っていた。だってそうじゃないと、救われないじゃないか。こんな毒の星で、いつまでも存続できるか分からない浄化システムに頼り、緩やかに人口が減っていく閉鎖的な世界にずっと閉じ込められているなんて。絶望だ。理不尽だ。八方塞がりだ。何か救済が必要だ。それも具体的な救済だ。祈るだけでは駄目なのだ。
 だから命の木とゲシュが呼んでいる『何か』が、もしかしたら、自分達の救いになるかもしれない――そんな藁にも縋る思いが、テインの胸にはあった。

 だから二人は命の木を目指して旅をしている。

 それが妄想という逃げ水を追う愚かな旅路であるとしても。
 この世界は終わっている――色んな意味でだ。
 もう、奈落の底を掘り返してでも、進むしか道はなかった。

「起きたら町を出よう、ゲシュ。命の木を目指して出発だ」
「うい~す。おやすみテイン」
「おやすみ我が友よ。御光がきみの眠りを護りますよう」
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