サヨナラ夢のプリンセス
屋敷が汚れていくのも、この辺りに毒の雨が降るのも、全て呪いのせいだった。
ノワに世界の不幸を押し付けることで、この世界が幸せになるという、理不尽で残酷な法則――。
だからこそ、私は屋敷を何度でも綺麗にする。そんな呪いに負けてたまるかと。
まだささやかな魔法は使える。再び綺麗になった屋敷の、ノワの書斎。古い本の香りの中、テーブルには紅茶とスコーン。私とノワは本を片手に緩やかなティータイムを過ごしていた。
「いつもありがとうディアナ」
「こっちこそ、いつもばたばたしてごめんなさい、お手伝いもしてもらって」
私は詩集を読んでいた。ノワの声に顔を上げ、彼に微笑みかける。テーブルの上には造花のカスミソウが活けてあった。……私が好きと言った花。
顔を上げたついでにスコーンをひときれ頬張った。さくさくして、香ばしくて、懐かしいような味わい。詩集に目を戻す。単語の羅列が並んだページ――意味を成さない文字列。私の夢の世界の本は、私が知っている本か、こういった意味のない単語の羅列の本しかない。
「……ディアナ」
ノワが再び呼びかけてきた。顔を上げれば、彼は少し首を傾げ、骨の尾を揺らして。
「隣に行っても?」
「うん、どうぞ」
言葉を弾ませれば、ノワはいそいそ立ち上がった。椅子を私の隣に置き、そこに座し直す。彼が隣に来るだけで、私もなんだか心があったかい。このひとは私の恋人なんだ……そんなじわじわした心地が、私の心をくすぐった。
視線を下ろせば、凶器のような手で本を傷つけずに読書しているノワの手が見えた。武骨で、刺々しくて、触るのを躊躇してしまいそうな、誰もが怪物と恐れて石を投げる造詣。
……この手を本気で振るえば、人間なんて簡単に真っ二つだろうに。彼はそんなことをしなかった。どれだけ罵られ、石を投げられ、棒で打たれても、ノワはやり返すことをしなかった。報復や復讐を彼が口にしたことも一度とてない。
だからだ。私があの町の連中を、憎くは思っても何かをやり返してやろうと思わないのは。ほかならぬノワが復讐を望んでいないから、私は憎悪の火を抑え込む。同じ理由で、王宮の人達に酷いことをしてやろうという気もどうにか表出しないようにしていた。
「ノワ、手を繋いでもいい?」
「……うん、いいよ」
彼は膝の上、掌を上に向けてくれた。私はその大きな掌に、自分の掌を重ねる。いつだったか、電車の中で見た、寄り添い合う高校生のカップルを思い出して、私はノワの肩にそっと頭を預けてみた。
「ディアナの手は綺麗だね」
ノワの親指が、私の手の甲を包み撫でる。ざらついた硬い、冷たい肌。
「……君は優しいね」
「優しくなんかない」
私は言葉を遮るように言った。
「あんな町、燃えてしまえと思ったもの。皆、ノワの100倍苦しめばいいって。……でも、ノワはあのひと達に何もしないでしょ。ノワの方がずっと優しいよ……」
「俺は臆病なだけだよ。やり返したとして、もっと酷くやり返されるのが怖いんだ」
「……ノワ」
「踊ろう、つらいことは今は忘れて。二人でいる時は楽しくいよう」
彼が立ち上がる。私の手を引いた。顔のない人形の楽団がするすると現れる。彼らは古びた楽器で、どこか物悲しくも美しい旋律を奏で始めた。
私達は埃臭い書斎で踊る。私のドレスが、ノワの黒い襤褸布が、ふわりふわりと翻る。
「私、王宮なんかに戻らない。私、ずっとここにいる。あなたの傍は安心するもの。あなたは私を傷つけない。あなたは世界一優しいもの」
「ありがとう。……俺を呪わないでいてくれて。俺の傍にいてくれて」
ノワが私を抱き寄せた。大きな腕で、ぎゅっと抱き締める。
「君が来てから、毎日が鮮烈なんだ。ずっと、雨音しか聞こえない場所だったから」
「……ずっと独りでいたんだね」
思えば、私もずっと独りだった。夢の世界は……、私の一人芝居だもの。そう思うとノワも『そう』ではあるんだけど、でも、ノワはなんだか……そういうのとは違うような感じがあった。
私の居場所は、ノワの居場所。
ノワの居場所は、私の居場所。
(目覚めたくないな)
ミチルはやることがいっぱいだ。起きたら、いろんなことをしなくちゃいけない。
私はノワを抱き締め返した。その、墓場のような香りを、肺いっぱいに吸い込んで。
「また会いに来るね、ノワ」
「うん、待ってる。――大好きだよ、ディアナ」
「ありがとう。私も……」
●
太陽が眩しい、これでもかと晴れている。
私(ミチル)の前には、こないだ受けた模試の結果が広がっていた。
結果から言うと散々だ。模試だけじゃなくて小テストもダメダメだ。
……そりゃそうだ、ここのところずっと寝てばかりだもの。
このままだと志望校も受からないと先生に脅され――お説教をリフレインしつつ、帰り道を歩く。独り。
どうすれば成績が上がるのかは分かっている。睡眠時間を削ればいい。「睡眠時間を削る」だなんて表現するとすごく不健康そうだけど、実際は寝過ぎているだけだから、むしろ過眠を適宜にする方が健康的だ。
とりあえず……授業中に寝るのはやめよう。ほんと、そろそろマズイから。日中に寝るのは昼休みと帰りの電車だけにして、帰宅したら昼寝しないで勉強して……。いや、電車の中でも単語帳を見るとか、そういう、他の学生がやってることをしよう。昼休み……も、予習とか復習とか、した方がいい……よね……。はぁ。
(でも、寝るのをやめたらノワに会える時間がなくなるんだよな……やだなあ……)
溜息。のろのろ歩く爪先を見下ろしている。肩から提げた学生鞄の中には、途中で寄った薬局で買った、かわいくて凝ったパッケージのシャンプーとトリートメントが入っていた。
ノワの恋人になってから、私は最近、見た目に気を遣うようになっていた。どれだけミチルで着飾っても、夢でノワに会うのはディアナだから、意味がない行為ではあるんだけれど。
だけどこれはおまじないだ。ムダ毛をちゃんと処理して、洗顔は水でテキトーに洗うんじゃなくて洗顔剤を使って、髪もドライヤーとヘアオイルを使って、全身の保湿とケアをちゃんとして、パックとかもして、ネットで調べた筋トレやストレッチとかもして……。まあ整形でもしない限り元の顔とか輪郭とかはどうしようもないんだけどね。
でも、好きなひとのことを考えて、好きなひとに褒めてもらいたくて、少しでも綺麗になろうとあれこれするのは、なかなか楽しいことに気が付いた。
今までは、「どうせ誰も見てないし」と何もしてこなかった。……まあ今も、誰かから何か言われたことはないけれど。それでも、自分を磨くっていうのは気分が上がるんだなぁと発見した。
……それよりも勉強しなくちゃいけないことは、わかってるんだけどね。
いつもの駅、電車に乗る。いつも放課後は昼寝しているから、こんな早くの時間に乗るのはほぼ初めても同然だった。空いている席に小さく座る。買ったくせにほとんど使ってこなかった英単語帳を、他の受験生にならうように開いた。
(昼間に眠らなかったら、一日ってこんなに長いんだな……)
漫然と、赤いシートを手遊びのように、英語の単語を目で追っている。シートの赤。紙の白。
退屈だ……これまでずっと、夢の世界で遊んでばかりだったから。
私の高校はそんなにレベルの高くない、受験者数も少ない高校だったから、中学3年生の時はこれといって自分を追い込んだりはしなかったっけ。なんか、夢で楽しく遊びつつ、それなりに勉強して、それなりにヌルッと合格して、ダラダラと今に至ってる感じ……。
……このまま勉強しないと大学に受からないことは分かってるけど。
私は漫然と、まあ頑張ればなんとかなるだろう、と車窓から遠くの景色を眺めていた。
志望校はありきたりな、名門でも難関でもない大学。
多分、大学生になったら、私は「ありきたりな大手でも有名でもない企業」に就職活動するんだろうな。
その頃にはどんな夢を見ているんだろう。
……早く夜にならないかな。
そして今夜も私は、「眠ったらノワが幸せな世界になっていますように」と祈りながらベッドに横になるんだ。
退屈な日々。私の人生の主人公は私じゃない。
パッとしない日々を積み重ねて、きっと、誰にも記憶されず、ありふれた終わりを迎えるんだろう。
昔からそうだ――私が主人公でいられるのは、夢の中だけだった。
「ディアナ」
優しい声で、私は目を覚ます。
あの造花の、カスミソウの花畑、私は座り込んだノワの腕の中。
――静かで、優しい時間。
ここにはミチルとしての現実も、ノワを怪物と呼ぶ者も入れない。
「起きた? ……これが君の夢ならば、君は眠っているだろうから、『起きた』はちょっと違うかもしれないけど」
「ふふ。うん、今『寝た』ところ」
私は手を伸ばした。ノワの顔を隠す襤褸布の中に手を入れて、彼の顔を撫でる。湿った泥のようなぶよぶよの、捏ねられきっていない挽肉のような、快いとはいえない感触ではあるが、私が手を引っ込めることはしなかった。
「ディアナ、いい香りがする」
ノワが少し顔を寄せた。布の隙間から見えるのは、どこまでも黒い色。
「いいシャンプーとコンディショナー使ったんだ」
家にあるのは家族用の安いシャンプーとリンスだった。今日は『いいやつ』を買ってきたので、早速使ってみたのである。やっぱり『いいやつ』ってすごい。髪がサラサラのツヤツヤになったし、とってもいいにおい――クラスメイトや他の女子高生から漂うようないい香り――がしたから。
「最近、ますます綺麗になってるね。素敵だ」
私の変化に気付いてくれるのはノワだけだった。恋愛モノのヒロインみたいに、かわいくなろうと努力したら「へえ、かわいいじゃん」なんてモテることなんて一切ない現実世界で、こうやって私を女の子として認めてくれるのはノワだけだ。
努力に気付いて、認めて、褒めてもらえるのは嬉しい。たとえ見た目が完璧な美女のディアナでも、ディアナの中身はミチルなんだから。
――「愛したい」と言ってくれた通り、ノワは私をとても大切にしてくれた。
屋敷の外はノワを厭う連中ばかりだから、おでかけこそできないけれど。でも、有り余るほど屋敷は広く、いろいろなものがあった。
一緒にお菓子を作ったり、魔法の模擬剣で剣術ごっこのような模擬戦闘をしたり、のんびりとただ寄り添っていたり――ミチルとしての悩みを話したり。
「あのね、ノワ。私しばらく、あんまり夢を見られないと思う」
寝そべったノワの腕を枕に、私はプラスチックのカスミソウの中で呟く。
「……勉強しないといけないの。大学に合格しないといけないから。それで、寝る時間を減らさないとだめなの。ごめんね、ノワ。本当はずっとこうしてたいのに」
「構わないさ。勉強をがんばるなんて、えらいじゃないか。すごいことだよ。努力は尊いものだ、報われる報われないはさておいて、行動したことは評価されるべきだと俺は思うよ」
謝らないで、と彼は私の額にキスをした。……本当に優しい。私というお姫様を甘やかしてくれる、怪物の見た目をした王子様。
……私、甘えてばかりだな。
「はあ……私、甘ったれてると思う。私は恵まれてると思う。大学にいけること、その学費はお父さんお母さんが頑張って働いて貯めてくれたお金だってこと。だけど、だけどね、面倒臭いの。退屈なの。『ありふれた』、で主人公になれないまま生きていくことが漠然と不安なの。……だけど『しなくちゃいけない』に歯向かってロックに生きる度胸も行動力も才能もないの。甘ったれてる、ほとほと」
目の上に手の甲を置く。光を遮るように。
「小さな頃はね――自由自在だった夢の中みたいに、大人になれば何もかもが素敵なんだって根拠もなく信じてた。なんか、こんなに、未来のことをシリアスに考えなくってよかったもん。しなくちゃいけないこともほとんどなくて……私、もう高校3年生だ。17歳。もうすぐ誕生日で18歳。あと2年とちょっとで、大人にならなきゃいけなくて。大人になるって何だろう? お酒が飲めること? タバコが吸えること? エロいコンテンツを見れるようになること? 結婚すること? 働くこと? 『おとな』になれる気が全然しない。周りはなんてことない顔で大人になっていくのに」
こんなこと言葉にしたって意味がない――そう思ってるのに、ディアナの唇を止めることはできなかった。
「――ほんとはわかってるの。最近わかってきたの。夢ばっか見てちゃダメなんだって。大人にならなきゃダメだって。でもね、あなたの傍は落ち着くの……愛してくれて、恋人にしてくれて、嬉しいの……」
わかってる。私はノワから優しい言葉が欲しくって、こんなくだらないことを言ってるの。
「そう」
やっぱり、ノワの声は優しくて。彼の手が、そっと、顔を隠す私の手をどけた。抱き寄せてくれる。胎児のように丸くなって収まれば、彼の胸から、心臓の音が聞こえてきた。とん、とん、とん……。
「君は心の成長痛の真っ只中なんだね」
「……そうなのかな」
「ディアナは大人になりたい?」
「――、なりたくない。大人になんかなりたくない。ずっとこのまま、夢見るお姫様のままでいたい……!」
私はノワにしがみついた。
ノワは私を抱き締めて、背中を優しく撫でてくれる。
彼は――何も言わなかった。ただ、ただ、優しく、私を受け入れてくれていた。
●
悔しいことに、規則正しい睡眠時間を取るようになって、私は身体の調子やお肌の具合がよくなったことに露骨に気付いた。親から「ニキビ減ったね」と言われた。ニキビは洗顔と保湿のおかげもあるんだろうけど。
勉強もそれなりにやっている。もともと勉強自体は嫌いじゃなかった。やらなきゃいけないことを淡々とやることは得意だった。部活はしてないし、勉強から気が反れてしまうような趣味もなかったし、休日に一緒に遊ぶほど深い仲の友達も誰もいないし。正直に言うと、現実世界の私は暇だったのだ。
あれから私はディアナとして――睡眠時間を削ったせいで、ディアナでいられる短い時間の間に――ノワがあの世界で少しでも幸せになれないか願ったり、魔法を使おうとしたりしたけど、全ては失敗に終わった。相変わらず、私は私の夢の台本に干渉ができないままだった。
そうしている間に、時には屋敷の壁中に「死ね」を始めとした酷い言葉が落書きされていたり、窓ガラスを石を投げられ割られたり、外で誰かが怒鳴っていたり――ノワを不幸にしようとする人々は、絶えなかった。この呪いの毒雨も止まない。呪いに閉ざされ、屋敷も汚れていくばかり。
そんな中で、私の中にある計画が浮かび始めていた。
「ノワ、旅に出ましょう」
待ちに待った夜。私はミチルからディアナになる。
私は、ディアナは、ノワの正面で堂々とそう言った。
「……旅に?」
ノワは不思議そうに首を傾げた。
私は続ける。
「ずっと考えてた。なんにも悪いことしてないノワが、誰かから悪人扱いされる要なんてないって。……こんな隅っこで、厭われて疎まれて、寂しく過ごすことが当たり前だなんて、そんなの納得できない。だから逃げちゃおう! こんな場所から、世界から。どこか遠くに行こうよ! 幸せバランスの法則なんてない、遠くの世界に!」
その言葉に、ノワはポカーンとしているようだった。
「……もし嫌だったら強制はしない。ノワ、どう……?」
もし嫌がられたら、と急に不安になって、おずおずと尋ねる。するとノワは、顔を隠す布の下でくつりと笑って。
「ディアナはすごいなあ、そんなことを思いつくなんて。……うん、いいよ、一緒に行こうか。どこまでも行ってみよう」
「……いいの?」
「君からの提案なんだろう?」
ノワは私に手を差し出した。
「ついていくよ」
「うん……ついてきて、ノワ」
私は彼の手を取った。
二人、玄関へと歩いていく。
私は自分自身にうまくいくよう祈りながら、魔法を使った――汽笛の音――ドアを開ければ、目の前に汽車が、煙をもくもくと上げて私達の前に停まった。
「ノワ様、ディアナ様」
私達の後ろから、抑揚のない声。振り返ればコッペリアが、そして人形の使用人達が、ズラリと並んでいた。
「いってらっしゃいませ。良い旅を」
「いってきます、コッペリア。さようなら――お屋敷のこと、よろしくね」
「心得ましてございます」
コッペリアはスカートをつまんで一礼してくれた。使用人らも、それにならう。
さようなら、と言ったのは、きっとここには戻らないから。
――荷物は何も必要ない。全てをここに置いていこう。
呪われなくちゃいけない法則から、逃げてやるんだ。
新しい世界を創れないなら――少しでも平和な場所へ。
私とノワは汽車に乗る。レトロで瀟洒な趣の、小洒落た内装だった。そこかしこに本物のカスミソウが飾られている。
私達はボックス席で向かい合う。乗客は、私達だけ。
ぽっぽー、と汽車が発車の合図を告げる。ゆっくり、窓の外の景色が流れ始めた。
この暗い暗い森を抜けていこう。私達は自由になるんだ。幸せになるんだ。
全てが思い通りになることを、私は強く祈っていた。
「ねえ、ディアナ」
がたんごとん、汽車の進む音の中、私の正面のノワが言う。
「この汽車が到着したら、結婚式を挙げようか。俺と、君の、二人きりで」
私は目を丸くして彼の方を見た。そして――彼からの言葉に、喜んでいる自分を自覚した。
「この世界は君が見ている夢なんだろう? ……君と俺は、君が寝ている間しか会えないから……せめて君に会えている間は、君とずっと一緒にいたいんだ」
「……最初は、私を縛りたくないってあれだけ言ってたのに」
私は小さく笑った。「ご尤も」とノワは苦笑で肩を竦めた。
――私達は見つめ合う。
「私達、不思議だね。」
アーベルが呪いの怪物を討ちに来た
呪いの怪物がいなくなれば、この世界に不幸が満ちてしまう
それを薙ぎはらうノワ
ノワに世界の不幸を押し付けることで、この世界が幸せになるという、理不尽で残酷な法則――。
だからこそ、私は屋敷を何度でも綺麗にする。そんな呪いに負けてたまるかと。
まだささやかな魔法は使える。再び綺麗になった屋敷の、ノワの書斎。古い本の香りの中、テーブルには紅茶とスコーン。私とノワは本を片手に緩やかなティータイムを過ごしていた。
「いつもありがとうディアナ」
「こっちこそ、いつもばたばたしてごめんなさい、お手伝いもしてもらって」
私は詩集を読んでいた。ノワの声に顔を上げ、彼に微笑みかける。テーブルの上には造花のカスミソウが活けてあった。……私が好きと言った花。
顔を上げたついでにスコーンをひときれ頬張った。さくさくして、香ばしくて、懐かしいような味わい。詩集に目を戻す。単語の羅列が並んだページ――意味を成さない文字列。私の夢の世界の本は、私が知っている本か、こういった意味のない単語の羅列の本しかない。
「……ディアナ」
ノワが再び呼びかけてきた。顔を上げれば、彼は少し首を傾げ、骨の尾を揺らして。
「隣に行っても?」
「うん、どうぞ」
言葉を弾ませれば、ノワはいそいそ立ち上がった。椅子を私の隣に置き、そこに座し直す。彼が隣に来るだけで、私もなんだか心があったかい。このひとは私の恋人なんだ……そんなじわじわした心地が、私の心をくすぐった。
視線を下ろせば、凶器のような手で本を傷つけずに読書しているノワの手が見えた。武骨で、刺々しくて、触るのを躊躇してしまいそうな、誰もが怪物と恐れて石を投げる造詣。
……この手を本気で振るえば、人間なんて簡単に真っ二つだろうに。彼はそんなことをしなかった。どれだけ罵られ、石を投げられ、棒で打たれても、ノワはやり返すことをしなかった。報復や復讐を彼が口にしたことも一度とてない。
だからだ。私があの町の連中を、憎くは思っても何かをやり返してやろうと思わないのは。ほかならぬノワが復讐を望んでいないから、私は憎悪の火を抑え込む。同じ理由で、王宮の人達に酷いことをしてやろうという気もどうにか表出しないようにしていた。
「ノワ、手を繋いでもいい?」
「……うん、いいよ」
彼は膝の上、掌を上に向けてくれた。私はその大きな掌に、自分の掌を重ねる。いつだったか、電車の中で見た、寄り添い合う高校生のカップルを思い出して、私はノワの肩にそっと頭を預けてみた。
「ディアナの手は綺麗だね」
ノワの親指が、私の手の甲を包み撫でる。ざらついた硬い、冷たい肌。
「……君は優しいね」
「優しくなんかない」
私は言葉を遮るように言った。
「あんな町、燃えてしまえと思ったもの。皆、ノワの100倍苦しめばいいって。……でも、ノワはあのひと達に何もしないでしょ。ノワの方がずっと優しいよ……」
「俺は臆病なだけだよ。やり返したとして、もっと酷くやり返されるのが怖いんだ」
「……ノワ」
「踊ろう、つらいことは今は忘れて。二人でいる時は楽しくいよう」
彼が立ち上がる。私の手を引いた。顔のない人形の楽団がするすると現れる。彼らは古びた楽器で、どこか物悲しくも美しい旋律を奏で始めた。
私達は埃臭い書斎で踊る。私のドレスが、ノワの黒い襤褸布が、ふわりふわりと翻る。
「私、王宮なんかに戻らない。私、ずっとここにいる。あなたの傍は安心するもの。あなたは私を傷つけない。あなたは世界一優しいもの」
「ありがとう。……俺を呪わないでいてくれて。俺の傍にいてくれて」
ノワが私を抱き寄せた。大きな腕で、ぎゅっと抱き締める。
「君が来てから、毎日が鮮烈なんだ。ずっと、雨音しか聞こえない場所だったから」
「……ずっと独りでいたんだね」
思えば、私もずっと独りだった。夢の世界は……、私の一人芝居だもの。そう思うとノワも『そう』ではあるんだけど、でも、ノワはなんだか……そういうのとは違うような感じがあった。
私の居場所は、ノワの居場所。
ノワの居場所は、私の居場所。
(目覚めたくないな)
ミチルはやることがいっぱいだ。起きたら、いろんなことをしなくちゃいけない。
私はノワを抱き締め返した。その、墓場のような香りを、肺いっぱいに吸い込んで。
「また会いに来るね、ノワ」
「うん、待ってる。――大好きだよ、ディアナ」
「ありがとう。私も……」
●
太陽が眩しい、これでもかと晴れている。
私(ミチル)の前には、こないだ受けた模試の結果が広がっていた。
結果から言うと散々だ。模試だけじゃなくて小テストもダメダメだ。
……そりゃそうだ、ここのところずっと寝てばかりだもの。
このままだと志望校も受からないと先生に脅され――お説教をリフレインしつつ、帰り道を歩く。独り。
どうすれば成績が上がるのかは分かっている。睡眠時間を削ればいい。「睡眠時間を削る」だなんて表現するとすごく不健康そうだけど、実際は寝過ぎているだけだから、むしろ過眠を適宜にする方が健康的だ。
とりあえず……授業中に寝るのはやめよう。ほんと、そろそろマズイから。日中に寝るのは昼休みと帰りの電車だけにして、帰宅したら昼寝しないで勉強して……。いや、電車の中でも単語帳を見るとか、そういう、他の学生がやってることをしよう。昼休み……も、予習とか復習とか、した方がいい……よね……。はぁ。
(でも、寝るのをやめたらノワに会える時間がなくなるんだよな……やだなあ……)
溜息。のろのろ歩く爪先を見下ろしている。肩から提げた学生鞄の中には、途中で寄った薬局で買った、かわいくて凝ったパッケージのシャンプーとトリートメントが入っていた。
ノワの恋人になってから、私は最近、見た目に気を遣うようになっていた。どれだけミチルで着飾っても、夢でノワに会うのはディアナだから、意味がない行為ではあるんだけれど。
だけどこれはおまじないだ。ムダ毛をちゃんと処理して、洗顔は水でテキトーに洗うんじゃなくて洗顔剤を使って、髪もドライヤーとヘアオイルを使って、全身の保湿とケアをちゃんとして、パックとかもして、ネットで調べた筋トレやストレッチとかもして……。まあ整形でもしない限り元の顔とか輪郭とかはどうしようもないんだけどね。
でも、好きなひとのことを考えて、好きなひとに褒めてもらいたくて、少しでも綺麗になろうとあれこれするのは、なかなか楽しいことに気が付いた。
今までは、「どうせ誰も見てないし」と何もしてこなかった。……まあ今も、誰かから何か言われたことはないけれど。それでも、自分を磨くっていうのは気分が上がるんだなぁと発見した。
……それよりも勉強しなくちゃいけないことは、わかってるんだけどね。
いつもの駅、電車に乗る。いつも放課後は昼寝しているから、こんな早くの時間に乗るのはほぼ初めても同然だった。空いている席に小さく座る。買ったくせにほとんど使ってこなかった英単語帳を、他の受験生にならうように開いた。
(昼間に眠らなかったら、一日ってこんなに長いんだな……)
漫然と、赤いシートを手遊びのように、英語の単語を目で追っている。シートの赤。紙の白。
退屈だ……これまでずっと、夢の世界で遊んでばかりだったから。
私の高校はそんなにレベルの高くない、受験者数も少ない高校だったから、中学3年生の時はこれといって自分を追い込んだりはしなかったっけ。なんか、夢で楽しく遊びつつ、それなりに勉強して、それなりにヌルッと合格して、ダラダラと今に至ってる感じ……。
……このまま勉強しないと大学に受からないことは分かってるけど。
私は漫然と、まあ頑張ればなんとかなるだろう、と車窓から遠くの景色を眺めていた。
志望校はありきたりな、名門でも難関でもない大学。
多分、大学生になったら、私は「ありきたりな大手でも有名でもない企業」に就職活動するんだろうな。
その頃にはどんな夢を見ているんだろう。
……早く夜にならないかな。
そして今夜も私は、「眠ったらノワが幸せな世界になっていますように」と祈りながらベッドに横になるんだ。
退屈な日々。私の人生の主人公は私じゃない。
パッとしない日々を積み重ねて、きっと、誰にも記憶されず、ありふれた終わりを迎えるんだろう。
昔からそうだ――私が主人公でいられるのは、夢の中だけだった。
「ディアナ」
優しい声で、私は目を覚ます。
あの造花の、カスミソウの花畑、私は座り込んだノワの腕の中。
――静かで、優しい時間。
ここにはミチルとしての現実も、ノワを怪物と呼ぶ者も入れない。
「起きた? ……これが君の夢ならば、君は眠っているだろうから、『起きた』はちょっと違うかもしれないけど」
「ふふ。うん、今『寝た』ところ」
私は手を伸ばした。ノワの顔を隠す襤褸布の中に手を入れて、彼の顔を撫でる。湿った泥のようなぶよぶよの、捏ねられきっていない挽肉のような、快いとはいえない感触ではあるが、私が手を引っ込めることはしなかった。
「ディアナ、いい香りがする」
ノワが少し顔を寄せた。布の隙間から見えるのは、どこまでも黒い色。
「いいシャンプーとコンディショナー使ったんだ」
家にあるのは家族用の安いシャンプーとリンスだった。今日は『いいやつ』を買ってきたので、早速使ってみたのである。やっぱり『いいやつ』ってすごい。髪がサラサラのツヤツヤになったし、とってもいいにおい――クラスメイトや他の女子高生から漂うようないい香り――がしたから。
「最近、ますます綺麗になってるね。素敵だ」
私の変化に気付いてくれるのはノワだけだった。恋愛モノのヒロインみたいに、かわいくなろうと努力したら「へえ、かわいいじゃん」なんてモテることなんて一切ない現実世界で、こうやって私を女の子として認めてくれるのはノワだけだ。
努力に気付いて、認めて、褒めてもらえるのは嬉しい。たとえ見た目が完璧な美女のディアナでも、ディアナの中身はミチルなんだから。
――「愛したい」と言ってくれた通り、ノワは私をとても大切にしてくれた。
屋敷の外はノワを厭う連中ばかりだから、おでかけこそできないけれど。でも、有り余るほど屋敷は広く、いろいろなものがあった。
一緒にお菓子を作ったり、魔法の模擬剣で剣術ごっこのような模擬戦闘をしたり、のんびりとただ寄り添っていたり――ミチルとしての悩みを話したり。
「あのね、ノワ。私しばらく、あんまり夢を見られないと思う」
寝そべったノワの腕を枕に、私はプラスチックのカスミソウの中で呟く。
「……勉強しないといけないの。大学に合格しないといけないから。それで、寝る時間を減らさないとだめなの。ごめんね、ノワ。本当はずっとこうしてたいのに」
「構わないさ。勉強をがんばるなんて、えらいじゃないか。すごいことだよ。努力は尊いものだ、報われる報われないはさておいて、行動したことは評価されるべきだと俺は思うよ」
謝らないで、と彼は私の額にキスをした。……本当に優しい。私というお姫様を甘やかしてくれる、怪物の見た目をした王子様。
……私、甘えてばかりだな。
「はあ……私、甘ったれてると思う。私は恵まれてると思う。大学にいけること、その学費はお父さんお母さんが頑張って働いて貯めてくれたお金だってこと。だけど、だけどね、面倒臭いの。退屈なの。『ありふれた』、で主人公になれないまま生きていくことが漠然と不安なの。……だけど『しなくちゃいけない』に歯向かってロックに生きる度胸も行動力も才能もないの。甘ったれてる、ほとほと」
目の上に手の甲を置く。光を遮るように。
「小さな頃はね――自由自在だった夢の中みたいに、大人になれば何もかもが素敵なんだって根拠もなく信じてた。なんか、こんなに、未来のことをシリアスに考えなくってよかったもん。しなくちゃいけないこともほとんどなくて……私、もう高校3年生だ。17歳。もうすぐ誕生日で18歳。あと2年とちょっとで、大人にならなきゃいけなくて。大人になるって何だろう? お酒が飲めること? タバコが吸えること? エロいコンテンツを見れるようになること? 結婚すること? 働くこと? 『おとな』になれる気が全然しない。周りはなんてことない顔で大人になっていくのに」
こんなこと言葉にしたって意味がない――そう思ってるのに、ディアナの唇を止めることはできなかった。
「――ほんとはわかってるの。最近わかってきたの。夢ばっか見てちゃダメなんだって。大人にならなきゃダメだって。でもね、あなたの傍は落ち着くの……愛してくれて、恋人にしてくれて、嬉しいの……」
わかってる。私はノワから優しい言葉が欲しくって、こんなくだらないことを言ってるの。
「そう」
やっぱり、ノワの声は優しくて。彼の手が、そっと、顔を隠す私の手をどけた。抱き寄せてくれる。胎児のように丸くなって収まれば、彼の胸から、心臓の音が聞こえてきた。とん、とん、とん……。
「君は心の成長痛の真っ只中なんだね」
「……そうなのかな」
「ディアナは大人になりたい?」
「――、なりたくない。大人になんかなりたくない。ずっとこのまま、夢見るお姫様のままでいたい……!」
私はノワにしがみついた。
ノワは私を抱き締めて、背中を優しく撫でてくれる。
彼は――何も言わなかった。ただ、ただ、優しく、私を受け入れてくれていた。
●
悔しいことに、規則正しい睡眠時間を取るようになって、私は身体の調子やお肌の具合がよくなったことに露骨に気付いた。親から「ニキビ減ったね」と言われた。ニキビは洗顔と保湿のおかげもあるんだろうけど。
勉強もそれなりにやっている。もともと勉強自体は嫌いじゃなかった。やらなきゃいけないことを淡々とやることは得意だった。部活はしてないし、勉強から気が反れてしまうような趣味もなかったし、休日に一緒に遊ぶほど深い仲の友達も誰もいないし。正直に言うと、現実世界の私は暇だったのだ。
あれから私はディアナとして――睡眠時間を削ったせいで、ディアナでいられる短い時間の間に――ノワがあの世界で少しでも幸せになれないか願ったり、魔法を使おうとしたりしたけど、全ては失敗に終わった。相変わらず、私は私の夢の台本に干渉ができないままだった。
そうしている間に、時には屋敷の壁中に「死ね」を始めとした酷い言葉が落書きされていたり、窓ガラスを石を投げられ割られたり、外で誰かが怒鳴っていたり――ノワを不幸にしようとする人々は、絶えなかった。この呪いの毒雨も止まない。呪いに閉ざされ、屋敷も汚れていくばかり。
そんな中で、私の中にある計画が浮かび始めていた。
「ノワ、旅に出ましょう」
待ちに待った夜。私はミチルからディアナになる。
私は、ディアナは、ノワの正面で堂々とそう言った。
「……旅に?」
ノワは不思議そうに首を傾げた。
私は続ける。
「ずっと考えてた。なんにも悪いことしてないノワが、誰かから悪人扱いされる要なんてないって。……こんな隅っこで、厭われて疎まれて、寂しく過ごすことが当たり前だなんて、そんなの納得できない。だから逃げちゃおう! こんな場所から、世界から。どこか遠くに行こうよ! 幸せバランスの法則なんてない、遠くの世界に!」
その言葉に、ノワはポカーンとしているようだった。
「……もし嫌だったら強制はしない。ノワ、どう……?」
もし嫌がられたら、と急に不安になって、おずおずと尋ねる。するとノワは、顔を隠す布の下でくつりと笑って。
「ディアナはすごいなあ、そんなことを思いつくなんて。……うん、いいよ、一緒に行こうか。どこまでも行ってみよう」
「……いいの?」
「君からの提案なんだろう?」
ノワは私に手を差し出した。
「ついていくよ」
「うん……ついてきて、ノワ」
私は彼の手を取った。
二人、玄関へと歩いていく。
私は自分自身にうまくいくよう祈りながら、魔法を使った――汽笛の音――ドアを開ければ、目の前に汽車が、煙をもくもくと上げて私達の前に停まった。
「ノワ様、ディアナ様」
私達の後ろから、抑揚のない声。振り返ればコッペリアが、そして人形の使用人達が、ズラリと並んでいた。
「いってらっしゃいませ。良い旅を」
「いってきます、コッペリア。さようなら――お屋敷のこと、よろしくね」
「心得ましてございます」
コッペリアはスカートをつまんで一礼してくれた。使用人らも、それにならう。
さようなら、と言ったのは、きっとここには戻らないから。
――荷物は何も必要ない。全てをここに置いていこう。
呪われなくちゃいけない法則から、逃げてやるんだ。
新しい世界を創れないなら――少しでも平和な場所へ。
私とノワは汽車に乗る。レトロで瀟洒な趣の、小洒落た内装だった。そこかしこに本物のカスミソウが飾られている。
私達はボックス席で向かい合う。乗客は、私達だけ。
ぽっぽー、と汽車が発車の合図を告げる。ゆっくり、窓の外の景色が流れ始めた。
この暗い暗い森を抜けていこう。私達は自由になるんだ。幸せになるんだ。
全てが思い通りになることを、私は強く祈っていた。
「ねえ、ディアナ」
がたんごとん、汽車の進む音の中、私の正面のノワが言う。
「この汽車が到着したら、結婚式を挙げようか。俺と、君の、二人きりで」
私は目を丸くして彼の方を見た。そして――彼からの言葉に、喜んでいる自分を自覚した。
「この世界は君が見ている夢なんだろう? ……君と俺は、君が寝ている間しか会えないから……せめて君に会えている間は、君とずっと一緒にいたいんだ」
「……最初は、私を縛りたくないってあれだけ言ってたのに」
私は小さく笑った。「ご尤も」とノワは苦笑で肩を竦めた。
――私達は見つめ合う。
「私達、不思議だね。」
アーベルが呪いの怪物を討ちに来た
呪いの怪物がいなくなれば、この世界に不幸が満ちてしまう
それを薙ぎはらうノワ