サヨナラ夢のプリンセス


 思い通りにならなくても、思ったよりなんとかなるものだ。
 今日も『私/ミチル』は『私/ディアナ』として目を覚ます。

「ノワさんは近くの町に出かけることはあるの?」
 寝室に現れたコッペリアにそう尋ねれば、答えは「いいえ」と簡潔だった。
「じゃあ……一緒に町へ遊びに行こうって言ったらどう思うかなぁ」
「不明です。しかしディアナ様からのおさそいならば、喜ばれるかと」
「ほんと?」
「いわゆる、デートですね。親しい男女がより親睦を深める為の行為」
「……そう、なるかなあ、なるよねえ」
 分析のように言われてしまうとなんだか恥ずかしい。「ではデートコーデを致しましょう」と、着付けてくれるのは動きやすくてかわらしいワンピースドレス。深い臙脂色が上品な味わいで、かわいいけど甘すぎない淑やかさが魅力的だった。メイクや髪型も活発な乙女らしいものにしてもらった。
 折角、ノワからブーツと傘をもらったんだもの。使ってみたくなるし、屋敷の外がどうなっているのかも知りたかった。それと同時にノワと少し話したりできれば、もっといいなあと思ったのだ。……断られるかもしれないけど。その時は一人でちょっとその辺の散策してみよう。コッペリアがお供なら安心だし、ディアナは武芸も魔法も達者な『設定』だ。

 朝食はいつもの食堂で。
 昨日のディアナは全体的に『大人っぽい』だったけど、今日の私は『かわいい』ことに自信がある。ノワ、なんて言ってくれるかな。「綺麗」「お美しい」とは言ってくれるけど、まだ「かわいい」は聞いていないもの。
 かくしてコッペリアが扉を開けてくれた。
「ノワさん、おはよう」
 その声に、既に円卓で待っていたノワが顔を上げて――感嘆の声を漏らした。
「おはよう――愛らしいいでたちだね。よく似合ってる」
「ふふ、ありがとう」
 彼の近くでくるりと回れば、ふわふわのスカートが翻った。ノワは私の姿を眺めてから、「今日はお出かけ?」とにこやかに問う。
「うん! 町を見てみたいなぁって。ノワさんもどう?」
「……俺も?」
 私のお誘いは、彼にとっては意外だったようだ。
「もしかしてデートのお誘い」
 ハッと気付いたような様子で彼は顎があるだろう位置に器用に手を添える。私ははにかんだ。さっきもコッペリアに言われたけど、つまりはそういうことになるんだろう。確かに、私はもっとノワのことを知りたいと思っていた。
「ノワさん、いいの?」
「こちらこそ、……私と一緒でよければ」
「喜んで!」
 ノワは思わずといった様子の食い気味で、席を立ってすらいた。
「でも俺は……領主の癖に恥ずかしい話なんだが、町には行ったことがないんだ。スマートにエスコートできないかもしれないけど……それでもいいかい」
「もちろん、お互い新発見を楽しもう?」
 最初に見た時は、もっと超然としたひとかなぁと思っていたけれど。この数日で、彼が等身大な人間であることはよく分かった。そこが私にはなんだか親しみを感じさせた。
 ほら、とテーブルを示す。朝食の時間だ。一緒に食べましょう、と立ち上がったノワを見上げた。

 そして、私達は共に朝ごはんを食べる。
 ミチルの朝食――マーガリンを塗ったトーストひと切れ+冷たい牛乳一杯とは大違いな豪勢さ。もちろん食べる時間だって大違い。現実世界の朝の時間は光よりも早いから。
 ミチルは朝食を掻き込むように食べたけど、ディアナは談笑しながらの優雅なひとときだ。会話の話題は、この屋敷から一番近くの町について。ちょっと距離はあるけれど、ノワが贈った魔法のブーツがあればすぐに着くそうだ。
「……まさか、町に行くことになるとは思わなかったよ」
 ナイフで丁寧にベーコンを切りながら、ノワの言葉はしみじみとしていた。
「ディアナさんは王宮で、よくお出かけはしていた?」
「まあね。アーベル――ああ、お友達とよく冒険ごっこしてたかな。花畑を見に行ったり、ドラゴンやペガサスに乗ったり」
「なんと、アーベル殿下とご友人で」
「アーベルのこと知ってるの?」
「三国一の王子様ですからね。知らぬ人はおりますまい」
「……そう」
 自分で出した名前だけれど、私は心がどこかセンチメンタルになるのを感じていた。
「ディアナ、幸せにね」――そう言って手を振っていた彼と、彼が肩を抱いていた見知らぬ美しいご令嬢。幸せそうな二人。お似合いのカップル。私が入り込む隙も余地も皆無だった。
 ……そういえばあのご令嬢、どこかで見たような顔なんだよなぁ。誰だっけ。
「ディアナさん?」
 カトラリーを持つ手が止まっていた私に、ノワが気遣うように呼びかける。私は微笑で、「なんでもない」と言おうかと思ったけれど。
「いつも一緒で、いつも遊んでて、いつもかわいいね綺麗だねって褒めてくれて。……私、ね。アーベルと恋人になって、結婚できると思ってたんだ」
 それが私の頭/夢の中のシナリオだったから。思い通りが常だったから。
 そして発言してから、これではまるで私が「そういう訳だからノワに嫁ぐことになったのは不快だ」と言っているも同然であることに気付き、私は私の浅慮さを恥じた。
「ごめんなさ――」
「謝らなくていいよ」
 遮るノワの声は、とても優しかった。
「アーベル殿下との思い出は、確かに楽しかったんだろう? なら、ディアナさんが感じたその『楽しかった』って感情を否定できる権利なんて誰にもないよ」
 このひとはどうして、こうも……割りきれるというか、達観できるんだろう。私のまばたきに、彼はそれを感じ取ったみたいで、こう言葉を続けた。
「この世界は……ままならなかったり、思い通りにならないことが往々にして存在しているからね。こう言うと悲観してるみたいだけども……でも……抱いた希望や夢がひとつひとつ丁寧にすり潰されて心が傷だらけになるよりも、ひとつまみの悲観をまとっていた方が、心の鎧として機能してくれるんじゃないかなと思うよ。身にまといすぎたら、重たくて動けなくなってしまうけれどもね」
 彼の言葉は柔らかくも、どこか切ない。
「……なんだか分かるな」
 私はフォークでフリルレタスをつついた。
「本当は……思い通りにならないことが当たり前だもの。仕方がないんだ、って諦めて受け入れて、何も考えないようにすることが『大人になる』ってことなんでしょう。皆がそう言ってる。それもこれも社会勉強なんだって。しんどいのは皆おなじなんだって」
 見下ろす先の私の手が、ディアナのほっそりとした白くて美しい手ではなく、ずんぐり節くれて未成年なのにシワだらけのミチルの手に見えた。まばたきを深く一度、幻影を振り払う。
 と、私はテーブルの下の足に何かが触れるのを感じた。ノワの骨のような尻尾だった。靴や私の足を傷つけないよう、優しくちょんとだけ触れてくれた。
「そうだね。そうかもしれないね。……だからこそ、今日のデートを楽しもうか、ディアナさん。楽しいって感情は、誰にも邪魔はされないモノだ」
 ふふ、とノワは微笑む。
 そうだ、今日はおでかけをする、楽しいひとときをすごすんだ。顔をあげて笑ってみせる。せっかくの夢のひとときなんだもん。楽しまないともったいない。

 ●

 朝食が済んで、それから、私達は玄関の扉――大掃除のおかげでピカピカになった――を開けた。
「それじゃあ行こうか」
 ノワは自分の腕を示した。ここに掴まって、ということらしい。私はちょっとはにかみながらも、彼の腕に腕を絡めた。太い腕だ。そして、体温が染み入るようにヒンヤリとしていた。彼からは古い書庫のようなにおいがした。件の傘は彼が尻尾で器用に絡め持って広げてくれた。

 最初こそおどろおどろしく感じたこの暗い森だけれど、今はそんなに怖くはない。ノワと一緒だからだろうか。
 ――出会ってまだ間もないのに。我ながらチョロいとは思う。ちょっと優しくされて口説かれて、もう「ここでの暮らしも悪くないかな」と思い始めてる。王宮から、まるで厄介払いのように追放めいたことをされて、あんなに「これは悪夢だ」と思ったのに。

 そんな思考の中、魔法のブーツは私を風にする。ノワの足にも同じ魔法が施されているようだ。一歩一歩、ぽーんぽーんと跳んでいるだけなのに、まるで電車に乗っている時のように、景色が後ろへ流れていく。これだけ速かったら、傘を真正面に構えないと全身ずぶ濡れになるだろうに、不思議とそんなことも起こらない。これも傘に施された魔法のおかげなのかな。
「すごい――速い!」
 小さな頃に、自転車で坂道をすごい速さで駆け下りた時のことを思い出した。あの時は怖くてすぐブレーキをかけてしまったけれど、今はノワと共にいる安心感から減速はしない。
 はしゃぐ私を隣に、ノワもどこか楽しそうだった。

 村に着いたのは、思ったよりもあっという間だった。暗い森をトンネルのように抜けた先、花の咲き誇る牧歌的な町がそこにあった。
 綺麗な場所――あちらこちらに花が咲いている。道はもちろん、メルヘンな建物の屋根にもだ。風が吹けばふわりと花の香りもする。鮮やかな色彩。それに思ったよりも人で賑わって、楽しげで華やかな雰囲気だった。
「わあ……綺麗」
 私は感動を覚えて、町の景色を見渡した。好きなところを見ていいよ、と言わんばかりにノワがするりと腕を解いてくれたので、私は早速、近くの道に溢れる花畑にしゃがみこむ。
「こんなに綺麗な場所だったんだね」
 行ったことがない、と言っていた通り、ノワは新鮮な様子で辺りを見ていた。
「花が……こんなにたくさん」
「ね! とっても素敵」
 ノワは花が好きだと言っていた。顔は見えないけど、きっと嬉しそうにしていることだろう。私は花畑からそっと花を摘み始める。鮮やかな色彩を、魔法で束ねて大きな花冠に仕上げた。
「ノワさん、これ」
 ちょっとしゃがんで、と手招いて。意図を察した彼は恭しく頭を下げてくれたので、私はその布で覆われた黒い頭に華やかな花冠をそっと、大きな角に引っかからないよう気を付けつつ被せてあげた。
「これはこれは」
 ノワが少し顔を上げた。私のすぐ目の前に彼の顔――不意に私はどきりとしてしまった。顔なんて隠されて見えないのに。それとも隠されて見えないから? どきどきしている間に、彼は背筋を伸ばしてしまった。そうすればもう、見上げないと彼の顔を視界に納めることもできない。
「ありがとう。……こんなに素敵な贈り物なんて初めてだよ」
 嬉しそうだ。……私も嬉しい。
「ねえノワさん、町の方を歩いてみようよ」
「そうだね、……少し待って」
 ノワは自分に何か魔法を施した。
「これで他の人から、俺は普通の人間に見えるはず」
 そう言われ、私は彼の姿についての考慮が足りていなかったことに気付いた。私にとってこの異形の姿がノワだけど、町の人々からすれば恐ろしく見えてしまうだろう。謝ろうとした私に、ノワは「いいんだよ」といつも優しい。
「あれ? でも、ノワさん。私から見てあなた、いつもと同じ姿」
「君にはいつもの俺の姿に見えるようにしてるんだよ。いきなり変な姿を見せるのも気まずいしね」
「……、私と初対面の時、魔法で普通の人間の姿に見せることだってできたのに、どうしてそうしなかったの?」
 少なくとも、第一印象は多少はマシになるはずだ。もしかして私を怯えさせたかったんだろうか?
「隠した方が、バレた時にショックを与えてしまうだろう。それに絶世の美男に化けたとして……それで愛されたとなると、『ああ、外見を愛されたのだな』と虚しくなるだけだしね。もちろん、外見から始まる恋があってもいいとは思うけども」
「……お伽話のお姫様は、揃いも揃って美女だものね」
 美しいから王子様に見初められました。そんなのばっかりだ。私はお伽話が嫌いだった。美人じゃないと、かわいくないと、女の子って生き物には価値がないんだと言われているような気がして。
(もし……ディアナが不細工な女だったら、ノワはどんな反応をしていたんだろう)
 ふっと、そんな意地の悪いことを思った。ああ、よくないよくない。不細工はせめて心ぐらいは綺麗でいろよ、と見えない皆にバカにされる。
 ……うん、今はノワと楽しく遊びに来たんだ。楽しいことだけを考えよう。
 私はノワの手を握った。その爪で手を怪我しないように――彼の驚きが伝わってくる――私は彼の手を引いて、大通りの方へ早足で。

「ノワさん、私、あなたのことまだ恋として好きかは分からないけど、でも、あなたのこと確かに好きよ」

 花咲く道を、まっすぐ前を向いて。手を握りしめると、そうっと、壊れ物を扱うかのように、彼は私の手を握ってくれた。
 曲がりくねった路地を行く煉瓦の隙間から咲いた花々の花びらが舞い散って、色とりどりの雪のよう。黒いノワの頭にも、白いディアナの髪の上にも、等しく降り注ぐ。
 そうして、ざあっと開けた場所に出た。
 賑わう大通り。道端では数人の楽団が陽気な音楽をかなで、花で飾った乙女達が音楽に合わせて舞い踊る。行き交う人々は溌剌として楽しげだ。そこかしこからいいにおい。お菓子があっちこっちの屋台で売られている。
 誰もが、幸せそうだった。
「……お祭りでもやってるのかな? すごい賑わい。楽しそう!」
 私はノワの方へと振り返る。彼は感心しきった様子で、言葉を失っていた。
「屋敷の外には、こんな世界が広がっていたのか……」
「ね! 城下も賑やかだったけど、華やかさならここも負けないぐらいだよ」
 歩いてみようよ、と私はノワの手を引いた。私達は手を繋いだまま、花々が歌うような道を行く。
 他人から見たら、手を繋ぐ男女は恋人に見えるようだ。恋する二人を祝福するつもりなんだろうか、花で飾った乙女達が、籠に入れた花びらを紙吹雪のように散らし注いでくれる。
 ノワは角や爪や尻尾を通行人にひっかけないよう一生懸命で、ノワには悪いけれどそのマメさがなんだか心にじんわり響いた。たいへんそうだけど、ノワもとっても楽しそうにしていたから。
 あ、なんか、幸せかも……。
 私ははにかみつつ、あたたかい気持ちの中、「あれ食べてみようよ」と屋台のキャンディを指差してノワへ振り返った。

 ――かくして、私は凍りつく。

「え、……」
 ノワの頭に被せてあげた、私の花冠。それが私の目の前で、じくじくと萎れ、どろどろ腐って異臭を放ち朽ちていく。
 花冠だけではなかった。降り注がれて服に積もった花びらも、乙女達の身を飾っている花も、……町のそこかしこに咲いている花もそうだ。
 なに、これ。何が起こってるの? 異常を感じているのは私だけではなく、町の人々も驚き、怯え、あちこちでどよめきと悲鳴が。
「ノワさん、ねえ、これって」
「ディアナさん、……すまないね。折角、素敵なところに連れてきてくれたのに。君がこんなに楽しそうにしていたのに」
 ノワの眼差しも、ノワの声も、優しいのにとてもとても悲しくて。……花が腐っていくのは、ノワを中心に起こっていた。もしやこれが『呪い』なのか、と私はぞっとした。
 次の瞬間。

「呪われた怪物だ!」

 誰かが叫び、ノワに人差し指を突きつけた。
 人々の目が、目が、目が、目が、一斉に彼に集まって。

「呪われた怪物だ!」
「呪われた怪物だ!」
「呪われた怪物だ!」

 声は次々と重なり、連なり、地鳴りのような轟きになる。
 さっきまであんなに幸せそうな笑顔を浮かべていた人々は、顔を歪め、しかめ、親の仇でも見るような目でノワを見た。
 私は生々しいほどの敵意にぞっと怖じ気付く。でもノワは泰然としていて――私の手を、離して。
「ちょっと、待って、どういうこと!? ノワさんは呪われた怪物なんかじゃ――」
「危ないわ! あなた、こっちに!」
 私の声は、中年の女の人の声で掻き消される。彼女は私の手をぐいっと引いて、ノワから引き剥がしてしまった。
「やめて――ノワさん!」
 私は彼へ手を伸ばした。だけど。
 私が離れたことをきっかけとするかのように、人々がどっとノワへ押し寄せて、塗り潰して、見えなくなって。人々の手には棒が。石が。

 ……耳を塞ぎたくなるような、暴力的な音が聞こえる。

「待って! どうして! やめてっ――やめて、やめろ! やめろ! やめろッ!!」
 私は力の限り叫んでいた。人々の波を掻き分け、ノワの方へ向かおうとしていた。でも立ち塞がる人々が、引き留める人々が、私の体を許してくれない。
 だったら魔法で薙ぎ払ってやる。私は『いつものように』、手に炎の力を集めようとして……何もできないことに気がついた。どれだけやっても。どれだけ足掻いても、だ。
「どうして、――」
 何もできない掌を見つめる。ここは私の夢なんでしょう? いつも思い通りにできたじゃない。じゃあこんなのやめてよ。こんな展開、もうやめてよ!
「お嬢さん、あれは呪われた怪物です」
 もがく私を羽交い締めにしている男が言う。
「この世界の幸福のバランスは決まっているんです。誰かが10幸福になったなら、誰かが10不幸にならないといけない。つまり誰かが100不幸になれば、100の幸せが皆に振り撒かれるんですよ」
「……何を、言ってるの」
「分かりませんか? あの呪われた怪物が『そう』なんです。あれが幾千幾万の不幸を抱えることで、この世界は永遠に幸福でいられる。だから人々はあれを不幸にしなくてはならないんです。あれを不幸にすれば、世界が、皆が幸せになれるんですから」
「あ――頭おかしいんじゃないの!?」
 淡々と、しかし自分に絶対的正義があると確信している物言いに、私は気持ちの悪さを覚えるほど嫌悪感を抱いた。
「あれのどこが幸せになるための行為なの!? 寄って集って、なんにも悪くないひとをリンチしてるだけじゃんか! きもちわるい、正義面して意味わかんない! 離して! 離せよ!」
 私はディアナ。完璧無欠のお姫様。魔法も武芸も最強で、美しくて賢くて、非の打ち所がない女の子。
 だけど今、私は、ディアナは、なんにもできなかった。なんにも、できなかった。
「私はディアナよ! 王女ディアナ! 控えなさい無礼者! 王族の命令よ!」
 そんな声も、怒号に全て掻き消されていく。
 私にはもう、何もなかった。
 どうしてこんな目に遭わなくちゃいけないのか――悔しくて苦しくて、涙が次々溢れてきた。

 ……気がつけば、私はうずくまり、両手で顔を覆って、泣き咽んでいた。
 あっちこっちに、腐り落ちた花が汚い汁をにじませて転がっている。

「ディアナさん」
 ノワの声が、した。
 顔を上げればそこに、ボロボロの姿になったノワがいた。
「魔法で姿を誤魔化していたけれど。呪いの前ではダメだったみたいだ……花も、朽ちさせてしまって」
「あ、あ、あ」
 私は声が出なかった。もう感情が心の中でぐちゃぐちゃになって、何を言えばいいのか分からなくなっていた。
 そんな私を、ノワは傷だらけの腕で抱き寄せてくれる。湿っているのは、血だ。どろどろの、ヘドロのような、黒くて冷たくてべたついた液体だった。
「帰りましょうか」
 優しいその声の、直後だった。

「……あの、大丈夫ですか?」

 その声で、私は――ミチルは、ビクッと飛び起きた。
 私は電車の中にいた。一番隅の席、学生鞄を抱き締めて項垂れるように眠っていた。そうだ、今は学校帰りの電車に乗っていたんだ。
 顔を上げた真正面には、知らないおばさんがいる。気遣うような様子で私の顔を見ていた。
 そして私は気付いた。私の頬に涙が流れていたことに。目の前のこのひとは、きっと俯いて目を閉じたまま泣いている女子高生を不審がったんだろう。無理もない。私だって、電車の中で泣きながら寝ている人がいたら「なんだ?」と思うもん。
「あ――大丈夫です、すいません」
 ひとまずどこか痛いとかそういうのではない、私は慌てて会釈をして、そういえば電車が止まっていることに気がついて、反射的に立ち上がって電車から出ていた――まるでその場から逃げ去るように――そしてホームに出て、駅名の看板を見て、自宅最寄り駅から乗り過ごしてしまっていることを理解した。
「はあ、最悪」
 思わず毒づいていた。目立たない動作で目元を手で拭う。この悪態は、乗り過ごしてしまったことと、知らない人の前で知らない内に泣き顔を晒して無用な心配をかけてしまったことと、これでもかと嫌な夢を見たことに対してだ。
 泣いた直後の赤い目を見られないよう、俯き気味で反対のホームへ向かう。
 その途中、小売店の雑誌コーナーが目に留まった――かわいい若手女優が、国民的イケメン俳優と電撃結婚――ああ、アーベルの彼女であろうあのご令嬢、この女優とおんなじ顔……。そういえばここ最近はテレビもネットも教室も、この話題で持ちきりだっけ。そうか、だから雑に夢に反映されてたのか。
 いいよなあ。デビューしてほどなくにこんなにイケメンでお金持ちの男のひとと結婚できるなんて。ていうかデビューからして大きな映画の主演女優。あっちこっちのバラエティにも愛されキャラでひっぱりだこ。そもそもあんなにかわいいからデビューができて、事務所からも大プッシュされたんだろうな……。
(お伽話のお姫様は、揃いも揃って美女だものね)
 ディアナとして夢で呟いた言葉を、ミチルとして脳内で繰り返していた。王子様が見初めてくれるのはいつだって、かわいいひと。美人なひと。
 ……私の思考はネガティブになっていた。
 ボロボロの、今にも倒れてしまいそうなノワの姿が脳裏に甦る。ノワが心配だった。どうしたらノワを助けられるんだろう。なんであんなことになってしまったんだろう。私が「町に行こう」なんて言わなければ。私に、夢を思い通りにできる力がちゃんとあれば。
 本当に……どうして、私は夢を思い通りにできなくなったんだろう。
 でも実のところ、ノワが人々に襲われるまでは、夢は思い通りになっていた。ノワとデートしたかったし、ガーリーでかわいい服を着たかったし、花いっぱいの綺麗な町を見たいと思っていたし。それに夢の中の私も、私の理想の外見である美しいディアナのままだった。
(夢を思い通りにする力が完全になくなってるわけじゃなくて……徐々になくなってきてるってこと?)
 原因があるなら突き止めたい。私はここ数日を振り返って、何か妙なことがなかったか考えたけれど、残念なほど何も思い当たらなかった。……だからこそ八方塞がりでほとほと困る。
 とにかく、早くノワに会いたい。不安だ。落ち着かない。傷だらけの彼を思うとまた涙が込み上げそうになってくる。でもノワに会う為には眠らないといけない。今から電車に乗って駅まで数分では短すぎる。一秒でも早く帰宅しなくちゃ。お風呂で寝たらまたお母さんにめちゃくちゃ怒られるから、ご飯とお風呂をさっさと済ませてすぐにベッドに行こう。

 ●

 息を切らせて帰宅して、やるべきことを超特急で済ませて。
 自室へ戻ろうとする私を、お母さんが呼び止めた。
「ミチル、あなたずっと寝てばっかりだけど、ちゃんと勉強してるの? こないだの模試はちゃんとできたの?」
 私が夢を思い通りにできるってことは、親も知らないことだ。
 小さな頃は「わたし、ゆめをおもいどおりにできるのよ」なんて豪語していた記憶があるけど、次第に『夢遊び』が私しかやっていないことに気付いてからは、イタイ子扱いされないように誰にも夢のことを言わなくなった。だから、周りから見れば私は、いつも寝ている存在なんだろう。
「あ――うん、ちゃんとやってるよ、大丈夫大丈夫」
「あなた今年受験生なんだから、わかってるの?」
「わかってるってば、大丈夫」
 ……受験勉強なんかよりも、今はノワの方が大切だ。
 どうせ死に物狂いで勉強したって、私のアタマでは名門大学に入れるハズもないし。ほどほどの大学、ほどほどの会社、それでいいんだ。ていうか、それ以外とかそれ以上なんてできる気がしない。
 私はお母さんのお小言をどうにか掻い潜り、自室へと逃げ込んだ。もう遮二無二、ベッドへと飛び込む――ノワ、待っててね。

 ●

 私(ディアナ)はベッドで目を覚ました。ノワの屋敷の、私の部屋だ。
 急いで飛び起きる。シックで真っ白なネグリジェで裸足のまま、私は寝室から飛び出していた。
「ノワ! ノワ、どこ!?」
 焦りのままに「さん」付けも忘れて。見渡す屋敷は私が初めて訪れた時のように、もう廃墟然と荒れ果てていて――きっとこれが呪いなんだと、私は漠然と感じていた。

 ――世界はとても不平等だ。人は皆平等だと道徳は謳うけれど。
 この世界の幸福と不幸は一定のバランスで保たれている。誰かが10の幸福を得れば、誰かが10の不幸を得なければならない。
 キラキラして明るくて誰からも愛される美人がいれば、暗くて不細工で誰からも必要とされない者がいる。皆同じなら、美人・かわいいなんて概念も生まれないもの。悲しいけれど、凡庸とか不細工がいるからこそ、相対的に美人が存在できるんだ。
 学校だってそう。名門校に入学できる人数は決まっていて、受かった人は華々しい学歴をその人生に刻めるけれど、その裏で多くの不合格者が失敗の烙印を捺されるんだ。そして不合格者という屍が積み上がっているほど、合格者は「こんな倍率を勝ち残ったなんて!」「あなたの成功にはとても価値がある!」と持て囃されるんだ。
 ……この世界には、誰かの分の幸福の為、不幸を担わなければならない呪われた存在が必要なんだ。そして呪われた存在が多ければ多いほど、幸せの純度は高まっていく。

(でも……だからといって……どうしてノワがあんな目に遭わなきゃならないの!)
 理不尽さを諦めながらも、私はままならない気持ちでいっぱいだった。
 ノワは優しくて、紳士的で、慎ましやかで、なんにも悪いことなんてしていない。寄って集って殴られたり蹴られたりしていいようなことなんて、これっぽっちもしていない。
(こんな展開、許せない)
 でも夢を書き換えることができなくて。こんなにも、もっとノワが幸せでいられるように願っているのに。
 同時に激しい自己嫌悪。何もできない自分に対して。これまで私が夢で散々幸福を謳歌してきたその裏で、ノワが呪われていたかもしれないことに対して。
「ノワ……ごめん、ごめんね、ごめんなさい……」
 迷路のような暗い屋敷をさまよって、ノワがいなくて、私は膝をついた。
「……ディアナ様、こちらにいらしたのですね」
 そこへ現れたのはコッペリアだった。モップとバケツを持っていた。
「ここは冷えます、お部屋へ戻りましょう」
「……そんなのいや」
「ですが、裸足で……そんな格好のままでは」
「私は大丈夫、それよりもノワはどこ?」
 私の問いにコッペリアは沈黙した。けれどその背後、転々と黒い泥が廊下に落ちて続いているのを私は見つけた。ノワの血だと直感する。コッペリアはこれを掃除していたんだ――まるでノワが、自分が傷ついていることを隠蔽するかのように。
 考えるより先に体が動いた。私は冷たい廊下を、足の指をかじかませながら、走っていた。黒い泥の跡を追って。

 ――廊下はどんどん暗くなる。
 こんな場所あっただろうか。歪んで、ぐにゃぐにゃ、曲がりくねって――いつのまにか目の前には、下へ下へと続く暗い螺旋階段。
 私は息を切らしながら駆け降りていく。遠い道は、「こっちへ来るな」と拒絶を暗喩しているかのようだった。

 そして――
 私は螺旋階段の一番下、ボロボロのドアを、半ば体当たりするように体で押してこじ開けた。
 そこは真昼のように明るく、春のように暖かい場所だった。階段を降りていったはずなのに、上を見たら青い空が広がっていた。でもよく見たら、それは青空に見える絵であった。
 視線を下にやれば、一面、真っ白くて小さな花――カスミソウが咲き誇っていた。霞というその名前の通り、本当に地面に霞が棚引いているようで、幻想的で……その向こう側、花畑の真ん中に、うずくまる黒い巨体が見えた。
「ノワ!」
 私は走り出していた。白い花々を掻き分けて――私は咲き誇るカスミソウが全て造花であることに気付いた、作り物だから枯れたり腐ったりすることはない――ノワとおぼしき黒へと駆け寄っていく。
 彼は……体のあちらこちらから黒い泥を流して、ぐったりしていた。きっと全身が痛いんだろう、苦しそうな呼吸が聞こえた。
「触らないで……汚いですよ」
 手を伸ばしかけた私に、ノワが細い声でそう言った。
「汚くなんかない」
 私はノワを抱き締める。体に黒い泥が染み込んで、呪われた血が針を刺すような痛みを与えてきたけれど、構わなかった。
「ノワ……ノワ、ここにいたのね」
 謝っても意味がなくて、彼が謝罪を求めていないことは分かっていた。それでも私は、言わずにはいられない。
「ごめんね、ノワ。私、なんにもできなくて」
 黒い背中を何度も撫でる。私/ディアナの頬を、涙が伝う。
「ごめんね。ごめんね。この世界は私が創りだしたものなのに。こんなに酷い世界にしてしまってごめんなさい。私のせいで、あなたを苦しめてしまってごめんなさい。……この世界は私が見てる夢なの。あんな『法則』を作り出してしまったのも、きっと私がそう思ってるから。だから、全部、全部、私が悪いの……」
 私は目を伏せて祈る。思い通りにならない夢の世界だけど、せめて、せめて、傷を癒す魔法ぐらいは。
 そうすれば掌に暖かな光が宿った。私は急いで、その手でノワの傷を撫でていく。魔法で彼の痛みを拭っていく。こんなことしか、私は彼にしてあげられなかった。
「……ディアナ」
 私の呼び方にならったのか、彼も敬称は付けずに私を呼んだ。まるで言葉だけでも私と対等にいようとしてくれているかのようだった。
「俺が嫌じゃないのか」
「今更、あなたを嫌いになんてなれないよ」
「俺の傍にいてくれるのか」
「あなたしかいないの。あなたがいなくなったら、私、ひとりぼっちになっちゃうもの」
「……そうか。……君と俺は、似た者同士なのかもしれないね」
 ゆっくり、体を起こす彼は、私の髪を尻尾の先でそっとかきあげてくれた。
「じゃあ、君が不平等さを感じる余地がないぐらい幸せになれば、この世界の『幸福バランス』の法則はなくなるのかな。そうなったら、俺達は幸せになれるんだろうか」
 優しい声が――眼差しが、私を包み込む。
「……ねえ、ディアナ。優しいディアナ。俺は呪われているから、最初は君がいつかここを去ることばかりを考えていた。君が俺のもとへ嫁ぐことを知った時、何か世界がバグを起こしたのかと思ったよ。だからすぐになかったことになるだろうと思っていた。……ディアナ、君を呪われた俺に縛りたくはなかった。君には幸福でいて欲しかったから。だけど……どうやら俺には、世界から呪われること以外のやるべきことがあったようだね」
 起き上がったノワが、私の目の前にかしずいた。私の白い手を、異形の手で傷つけないよう包み込む。真っ直ぐに彼は私を見ていた。
「俺の恋人になってくれませんか。俺は今、俺の目の前にいる女の子を、似た者同士の君を、力の限り幸せにしたいんだ。誰かを呪わなくても幸せになれるように。今、それをとても感じている。ねえ、ディアナ――そして、ディアナを通してこの夢を見ている君。俺は『君の全て』を愛したい」
「――え、」
 ディアナではなくその奥の、ミチルのことを言及され、私はどきっとした。
「待って、それって、どういう」
 ディアナごと『私』の恋人になるってこと? ……ディアナは愛されることには慣れているけど、『私』はそんなの知らない。慣れてない。だからどう返したらいいのかもわからない。ていうか、ディアナはともかく、どうやって『私』を幸せにするの? どうやって愛するっていうの? ……え? 私、好きって言われてる、?

 考えがまとまらない私の視界に、めいっぱい、ノワが映ったのはその時で。
 布を隔ててはいた。けれど――『私』は生まれて初めて、誰かとキスをした。

 ●

「――っ!」
 私は、ミチルは飛び起きていた。自宅の自室のベッドの中。カーテンの外はまだ明るくなりきってなくて、充電を忘れていたバッテリーギリギリのスマホを見たら、今が5時であることを私に知らせてくれた。
(う……わ……)
 ぼふん、とベッドに仰向けになる。唇に触れていた。我ながらキモい行動だとドン引きしながら。
 心臓がすごくドキドキしている。こんなの初めてだった。時間も中途半端だし、あともうちょっとしたら起床時間だし、今寝てノワと向かい合うのは心の準備ができていなくて、そのまま起きていることにした。

 ……第三者から見れば、自分の夢の世界の登場人物と恋をするなんて、きっとイタくてヤバくてバカみたいなことなんだろう。
 でも私は、そのとき確かに、かつてないほどドキドキが止まらなかった。

(……いいのかな、私。ノワと恋をしても)
 優しい声。冷たい体温。……ひんやりとした、柔らかな唇の感触。
 うわあああ。私は枕を抱き締めて、もうどうしようもない情緒だった。

 ……本当に、笑っちゃうぐらいチョロくて浅慮でバカだと思う。
 さっきまであんなに、自分のネガティブさが招いたことを泣くほど悔いていたっていうのにね。

 でも、いいのかな。ノワの言うように、幸せになっても。
 だけど幸せになるってことの具体的なイメージがよくわかんない。「貧困国では五秒に一人、子供の命が……」なんていうけれど、そういう基準でいうと、衣食住が保証され、戦争もなければ医療も発達していて学校にも行ける、そんな私はとんでもなく幸せなんだとは思うけれど。「生きてるだけでラッキー」とか、「お前が生きた今日は、昨日死んだ人間が死ぬほど生きたかった一日だ」とか、そういうのもあるけれど。
 じゃあ「今、幸せですか!」と聞かれたら、私は漠然と首を捻るしかない。かといって、「毎日不幸だ! 鬱だ! 死にたい!」って訳でもない。いじめられてるとか家庭内暴力とかもないし。ニュースは暗い話題ばかりだけれど。

 ……何が私にとっての幸せなことなんだろう?

 枕を抱き締めて、薄暗い天井を見つめて、考えて、考えて――脳裏をよぎったのは、昨日の帰り道に見た、あの雑誌。イケメン俳優と結婚した若手美人女優の表紙。
 それから連鎖のように、クラスメイト達のやりとりを思い出す。彼女達が口にするのは、いつだって恋の話題で。私はいつも、それが別世界の話題だと遠巻きに見ているばかりで――そこに「羨ましいな」という気持ちがゼロではないと言えば、嘘になる。
(そうか、私、恋をしてみたかったのかも。恋をしてみたら、幸せになれるのかも)
 私が幸せになれば、あんな『幸福バランス法則』が間違いなんだって理解と納得と実感ができれば、私の夢の世界は……ノワは救われる?
(いいのかな……私、夢の中のひとと恋をしても……)
 スマホのアラームが鳴るまであとしばらく。まだ家の中は誰も起きていない。
 ……ホットミルクでも飲もうかな。
3/4ページ
スキ