サヨナラ夢のプリンセス


 魔法の力で、ひとりでに箒が動き、ハタキが踊り、モップが回る。
 人形達が掃除用具を手に、せっせと隅々まで掃いたり拭いたり大忙し。
 薄暗い屋敷の至る所に魔法のランプを取り付けた。陰鬱としていた屋敷が物理的に明るくなる。
 屋敷の外では人形が剪定鋏を手に、あっちこっちで好き放題に伸びてしまった草を刈り、庭の外観を整えていく。
 魔法が使える私達は肉体労働をするというよりも、一緒に屋敷を歩きつつ、様々な掃除の魔法を見せ合うような感じになった。
 ディアナは魔法が上手という設定だ。清らかな水が生き物のように動いて、壁や床の汚れを洗い流していく。私が濡らした場所を、ノワが魔法で操るモップが綺麗に吹き上げていく。
 私の箒が塵を集め、ノワの魔法の火が一瞬で焼き尽くす。洗い終わった場所を、「こんなデザインどう?」なんて話し合いながら、魔法でランプや燭台を取り付ける。あるいはまっさらな絨毯を敷く。
 ……現実世界でも、魔法で掃除ができたらいいのになぁ。

「なんだか、こんなふうに掃除をするのは初めてです」
 ノワは楽しそうに魔法を使っていた。私も楽しかった。掃除は嫌いじゃない。屋敷は汚れているだけに、綺麗にしがいがあって達成感が心地いい。それに一緒に魔法を使うのはなんだか遊びみたいな感じで、わくわくした。
「それにしても、こんなに汚れてるなんて」
「あはは……すいません。呪いのせいで、すぐ汚くなってしまうんですよ」
「……なんだか、ひどい呪いですね」
「そうですかね、……そうかもしれませんね」
「そういえば……呪いって、うつったりします……?」
「分かりません。もしうつってしまったら……ごめんなさい」
 一間、彼はこう続けた。
「恐ろしくはないんですか? ここが、俺が」
「どうでしょう。最初は……ごめんなさい、最初は怖いなと思いました。でも話してみるとノワ様は恐ろしい人でも意地悪な人でもなくて……。私、王宮の皆から要らないって思われてたのかなってずっと思ってて、不安で、だけど今はそんな不安も少しだけマシになってて、もしかしたら大丈夫なのかもしれないって思い始めてて」
 私、何を言っているんだろう。あまりにとりとめもなく、私は私の内側を打ち明けていた。
「私は大丈夫なんでしょうか」
「大丈夫ですよ」
 ノワはキッパリとそう言ってくれた。
「……呪いがうつるか分からないと言った直後ではありますが。それにいろいろとワケアリな場所と俺でもありますが。……それでも、ディアナさん、あなたはきっと大丈夫です。少なくとも、俺はあなたをここから追い出したり、あなたを要らないと言ったりはしません。あなたがここにいたいならば、ここにいてもいいですよ。……本音を言うと、ここにいてくれると嬉しいです」
「え」
「あなたがここに来ると知って。本当のことを言うと、俺は……嬉しかったんです。ここには誰もいませんでしたから。誰かと仲良くなれるかもしれない、素敵な関係になれるかもしれない、そうなったら……とても嬉しいな、と」
 このひとは――
 その上で、呪いや自分の異形の身体を考慮して、私を束縛したり閉じ込めることはしないと最初から……。
 自分のことよりも、見ず知らずの女の心を優先したんだ。
「……ありがとう」
 思わず、敬語も忘れて呟いていた。
 私の心は、じんと切ないほどあたたかくなっていた。

 大掃除は長いこと続いた。
 具体的に言うと、午後の授業、放課後、帰路の電車と隙あらばうたた寝して、ようやっと終わったぐらいだった。
 現実世界でも、夢の世界でも、夜になっていた。

「終わった終わった~、お疲れ様です」
「ディアナさんも、ありがとうございました。おかげさまで綺麗になりました」
 シャンデリアはピカピカに磨かれ、クモの巣も取り払われ、屋敷の中がワントーン……いやスリートーンぐらい明るくなった気がする。食堂の長いテーブルで向かい合うのはあんまりにも遠いから、二人用の円卓に。私達はワイングラスで乾杯する。もちろんワインなんて未成年の『ミチル』は飲んだことがないから、夢で再現されるその味は完全に甘いブドウジュースだった。
「おいしい」
「お口に合いまして幸いです」
 そんなやりとりをしつつ……私は掃除の中でこの屋敷で遂に人間の使用人を見ることがなかったことを思い出す。全て全て、魔法で動く人形だけだった。
 この最果ての地は呪われている。だからきっと、人間でここで働きたがる人がいないんだろう……私はそう思った。
 でも、ノワはとてもいいひとだ(見た目は『ひと』じゃないけど、本人が人間と言っていたし)。穏やかで紳士的で、いつも私のことを気遣ってくれている。優しいひと、だと思う。
 私はチクリと、罪悪感を覚えていた。思い通りの夢じゃないから、とノワと出会った展開を否定し、あまつさえこの世界そのものをリセットして、なかったことにしようとしていたんだから。
 それはつまりノワの何もかもを私は否定していたということで……彼はこんなにも優しいのに……。
 ふと、私はノワを見た。顔を布で隠しているのに、指先から鋭い爪が映えているのに、器用にグラスで真っ赤なワインを飲んでいる彼を。
「……ねえ、ノワ様。この世界が全て、現実ではなく夢だとしたらどうしますか? しかも、その辺の取るに足らない女の子のちっぽけな妄想だとしたら」
「ふむ」
 ノワはグラスを優雅に置くと、黒い布の奥から私を見た。
「もしかしたら、世界というのはそんなものなのかもしれませんね。……お芝居の舞台裏が観客からは見えないように。奥行き深く描かれた絵画が、しょせんは一枚のキャンバスであるように」
 彼の言葉はとても落ち着いていた。ディアナの言葉が「ねえ、明日世界が終わるとしたら?」と戯れついているだけに感じているんだ、きっと。だから私は少しムキになって言葉を続けた。
「どうしてそんなふうに落ち着いていられるの? 次の一瞬にはなにもかもが消えてしまうかもしれないのに? 嫌じゃないんですか?」
「まあ確かに、嬉しいかそうじゃないかで言うと後者ではありますよ、もし本当にそうだったとしたら。しかし、それがさだめなら受け入れる他にあるでしょうか。どんな人間も死をコントロールできず、それを受け入れるしかないことと、きっと同じです」
「……、そう……ですか」
 私は、「この世界もあなたも、私の夢にすぎないんだよ」と言うことができなかった。言っても「そうですか」としか言われない気がしたし、信じてもらえる気がしなかった。
「……何か不安なことが?」
 言葉をうちやめた私に、ノワが少し首を傾げた。やっぱりナーバスな乙女の、不安に由来する戯れ言だと思っていたんだろうか。
 だから私は笑ってみせた。ディアナの、完璧なお姫様の、誰もが愛さずにはいられない美しい微笑で。「いいえ、ちっとも」と、私の長い睫毛がシャンデリアの輝きを引っ掻けて、星のように瞬いた。
 ノワはそれに「そうですか、そうですか」といつものように笑った。そのまま言葉を続ける。
「そうそう――ディアナさん、君専用のメイドを贈ろうと思いまして」
 彼が手を叩くと、一人のメイド人形がするすると現れた。今朝と同じこだ、と私は直感した。
 ノワは彼女の額を、鋭い爪の指先でトンと叩いた。そうすると天井のどこからか彼女の体と繋がっていた操り糸がぷちぷち切れて、私にスカートをつまんでおじぎをした。彼はこのこに、何か特別な魔法を吹き込んだのだ。
「どんな些細なことでも、なんでも彼女に申し付けるといい」
 私は「ありがとうございます、ノワ様」と彼に礼を述べてから、私のメイドに向き直った。
「あなた、お名前がないって言っていたよね」
 彼女は顔をあげた。彼女は私が今朝のメイドだと見抜いたことに驚いているようだった。
「コッペリアなんていかが?」
 ミチルとして生活している時、どこぞで耳に挟んだことがある。確かバレエか何かの演目。美しい人形の名前。
 私の言葉に、メイド――コッペリアは今一度深々とおじぎをした。
「ディアナ様、本日より御身専属のメイドの名誉を賜りました、コッペリアと申します。どうぞ末永く、お側に置いてくださいませ」
「うん、よろしくねコッペリア」
 私達の様子を、ノワは微笑ましげに見守っていた。
「それからもうひとつ……」
 どこからともなく、ノワが二つのものを取り出した。黒い傘と、黒いブーツだった。
「魔法を吹き込んでおります。これなら穢れた雨と泥に満ちた外も歩けるでしょう。よろしければ」
「……いいんですか? ありがとうございます」
 ワインも飲み終えていた。早速、私は二つの贈り物を受け取った。ブーツはつやつやとしたミドル丈。シンプルだがシックで上品な佇まいだった。コッペリアが履かせてくれる。とっても足によく馴染む、軽やかなブーツだった。
 次に傘を開いてみる。黒いクモの巣を思わせるような、レースの優美な、一見して日傘のような見た目だが、魔法のおかげで雨もしっかり防げるのだろう。
「……どう、ですか?」
「うん、うん、とてもよく似合っています。お美しい」
 ノワの声は優しい。それらの贈り物は、彼の心からの気づかいだと感じた。私は胸の奥がじんわりとした。私はノワの前、彼の目があるのだろう位置をじっと見つめる。
「……あのね、ノワ様。どうか今から言う言葉に『どうして?』とはお聞きにならないで」
「うん、……なんでしょうか」
「――ごめんなさい」
 私は彼に頭を下げた。謝罪の理由は、彼のことを知らないまま、彼をなかったことにしようとしたことだ。
「そうですか」
 ノワは私のお願い通り、「どうして?」と聞くことはしなかった。ただ優しくそう言って、指先をおずおずと伸ばして――爪でディアナの肌を切り裂かないよう慎重に、指の背で私の頬を掠めるように撫でてくれた。とても冷たい指だった。でも、嫌悪感を催すような温度ではなかった。
「いきなり俺と婚約しろ、と王様から言われて困惑されているかと存じます。まずは友達から始めてみませんか?」
「ノワ様……」
「『さん』だとちょっと嬉しいです」
 はにかみながらの言葉に、私もつられるように笑った。
「じゃあ、ノワさんも敬語なしで」
「わかりまし――わかった、ディアナさん」

 思い通りにならない悪夢だと思っていたけれど。
 私はこの時、確かに幸せと喜びを感じていた。
 これから悪いことばかり起きるんじゃないかって身構えていたけれど、もしかしたら、思ったよりも事態は安心してもいいのかもしれない。

 こうして、ディアナの最果ての地での日々が始まった――。
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