ニーロの勇者見聞録
この世界には勇者がいる。
集落の規模にもよるが、凡そ一つの集落に最低一人。
彼らは恐ろしい怪物や、恐ろしい心に身をやつした人間といったあらゆる危険に立ち向かい人々を護る、正に『勇気ある者』。
勇者はそれぞれ超常的な道具を持っており、その驚異と神秘の力こそが勇者を勇者足らしめているという。
我々の生活になくてはならない勇者ではあるが、いまだそれは謎多き存在だ。
「本書に……おいては……勇者の謎を……解き明かすべく……」
携帯用のインク壺に浸したペンで、私は記念すべき1ページ目に文字を綴っていく。
「足元ちゃんと見てないと危ないよ」、と言ってくれたのは同行させて頂いている行商隊の方々の中の一人。装甲で全身を固め、物々しい銃を持って、私を一瞥した後に周囲へを警戒の視線を巡らせました。
私もつられるように周囲を見渡します――鬱蒼とした緑。隙間なく茂る木々やツタのせいで、地上に届く光はほんのわずかです。草と土と木の根に隠れていますが、足元は旧い旧い時代に整備された痕跡があって、そのおかげでこんな山道ですが馬車を歩かせることができています。
馬車に積まれているのはもちろん彼ら行商隊の商品です。それから旅の生活用品も。ごとごと、車輪の回る音がします。行商隊は5人、皆一様に武装をして、緊張感のある顔をして、会話はひとつとてありません。山や森特有の湿った土と緑のにおいの中、どんよりとした重い空気が流れていました。
『――行商隊は沈黙と緊張と共にあった。旧文明の遺跡から発掘された武器をテンプレートに造られた『銃』を5人分も揃えるのは、さぞ財布の中身が飛んでいったことだろう。それでも彼らがこんなにも重々しい顔をしているのは、無理もない。
前述したが、この世界には我々の常識を凌駕する怪物がうようよと生息しているのだ。それは旧時代の戦争で用いられた生物兵器の成れの果てとか、旧時代の戦争で汚染された土壌による突然変異だとか、様々に指摘する学者もいるが、詳細はいまだ不明である。
我々の真理は一つ。その怪物は、どれだけ武装をしても恐ろしくて堪らないほど、恐ろしいのだ』
(あ、恐ろしいって二回書いちゃった……)
プラスチックのボードに挟んでいるのは、町でかき集めた雑紙。私はその裏に本を書いています。なぜか? お金をそんなに持っていないからです……。
恐ろしいの二重表現にしてはまた今度推敲するとして。今日中には目的地に到着できることに、私は胸を膨らませていました。私の目的はひとつ。それは――
「出た! 怪物だッ!!」
行商隊の声が私の意識をつんざきました。皆が指さし見やる方へ私も顔を向ければ――怪物。「怪物だ」とその言葉の通りに、木々の合間から、それはこっちを窺っていたのです。
黒くて毛むくじゃらで、クモのように手足が多いけれど、クモのような頭部も腹部もなく、脚の先は猿の手のように指があります。大きさは凡そ5メートルはあるでしょうか。注視していないと森の闇に紛れて見えなくなってしまいそうです。
怪物――初めて見た。無機質な、それでいて直視してはならぬような殺気を感じて、ゾッと心が凍り付く心地を覚えました。あれはなんだったか、逃避行動も含めて私は提げていた鞄を手荒く漁ってボロボロの本を取り出します。それは怪物の図録でした。
「あれは――ワタススリ……!」
肉食性。主に森や山など緑が深い場所に生息。身体から鋭い口吻を放ち、得物に突き刺すと、血や内臓を啜る。口吻射出の速度と勢いはすさまじく――
「ぐあッ!」
ガンッという硬いものがぶつかる音がして、立て続けに人が倒れる音がしました。ぎょっとして見やれば、盾を持っていた行商隊の一人が倒れ込んで呻いています。ワタススリの口吻の勢いに突き飛ばされたのでしょう。幸いにして口吻が刺さることはなく、しかしすさまじい勢いで押されて転倒した際に頭を打ってしまったようです。
「撃て! 撃てッ!」
1人が馬車の影へ、ワタススリの死角になるよう倒れた者を隠します。残った3人が一斉に、片手に着けた盾を構えながら銃を撃ちました。この世界の銃は、旧文明の遺跡から発掘される『炉』のエネルギーを銃身にあらかじめ充填しておき、それを弾丸状に放ちます。だから銃とはとても高価なアイテムなのです。
青白い光が森に幾重も迸りました――しかしワタススリは音もなく樹上へ、枝を伝って反対側へと回り込みました。馬車を引く馬がパニックに陥る嘶きが聞こえます。私は状況を目で追うのが精いっぱいでした。震える手で、どうにかこうにか手元も見ないままに文字を書いていました。
『ワタススリが出た
しかし
射出された口吻を受け止めた者が
夕暮れ色に錆びた鎧の
それはまさしく勇者だった』
私は目を見開きました。割り入った錆色の鎧は、装甲でワタススリの口吻を受け止めていたのです。さきほど大の大人が吹き飛ばされて気絶した勢いのものを……一歩も押されることなく。
彼こそ私の目的である存在、この先の集落の勇者ソホ。彼は片手で怪物の口吻を掴むと、もう片方の手に持った重たそうな長剣で切り落としてしまいました。キーーッと甲高い悲鳴がして、ワタススリが飛び下がります。勇者は千切れた口吻を投げ捨てました。それはまだ意思を持っているかのように、地面で血を撒き散らしながらのたうちました。「ひっ」と行商隊の一人はのたうつそれに悲鳴を上げます。
一方で、私の目は勇者に釘付けでした。
『緑の中に沈んでしまいそうな赤茶色の錆。そんな錆に覆われている、見た目も古風な鎧だというのに、勇者ソホの纏う鎧は恐ろしい硬度を誇っていた。
凄まじい速度で木々の中を縫いまわるワタススリ。しかし勇者ソホは、その動きを完全に見切っているようだった。先ほど口吻を防御してみせた時もそうだが、彼は人を超えた身体能力があると見える。
ワタススリの腕が叩き下ろされた。並の人間であれば頭蓋が粉砕しているだろう一撃を、勇者ソホは片腕で受け止める。そしてもう片腕の剣で斬り飛ばす。
怪物が再び悲鳴を上げた。だがその時にはもう、胴体へと踏み込んだ勇者が、剣を振り上げていたのだ。
全て、一瞬の出来事だった――』
「――被害状況は」
夢中になってペンを走らせていた私は、低い声を聞いて顔を上げました。すぐ傍に錆鎧の勇者がいます。近くで見るとその背丈に驚かされました。2メートルはゆうにあるでしょう。とても大きな人です。
「ああ、勇者さん……助かりました。おかげさまで、一人が転んだぐらいです」
ほら、とその人が示す先、突き飛ばされていた人が「うーん」と後頭部をさすって起き上がりました。
「頭を打ったのか……念の為、村に着いたら医者に診てもらった方がいい」
「そうさせて頂きます。いやはや本当に……ありがとうございました。貴方がいなかったらどうなっていたか」
「仕事をしただけだ。こちらとしても貴方達の物資を心待ちにしていた。村まで護衛しよう」
「重ね重ね……助かります」
頭を打った人は馬車の後ろに座らされました。他の人が馬を落ち着かせて、私達は出発します。
私は胸のドキドキがずっと止まりませんでした。初めて見た怪物、勇者、その戦い。
――これが私、著者ニーロと、勇者ソホとの邂逅でした。
「それで、彼女は」
剣を鞘に納め、勇者ソホが行商のリーダーに尋ねました。私の方を一瞥します。
「武装も何もない。貴方達の隊の者には見えないが」
「あの! 私は」
思わず声が上ずってしまったので、咳払いしてから、私は大きな勇者の隣に駆け足で並びました。
「初めまして、ニーロと申します。こちらの行商隊の方々に、無理を言って同行させて頂いて」
「勇者さん、どうしてもあんたに会いたいみたいでしてな。武装も何もなしで死にに行くのかって最初は断ってたんだが……熱意に折れましたよ」
「私がどうなっても見捨てて構わないという条件で。足を引っ張ったらすぐ切り捨てていいので、と」
私の言葉に、リーダーは「この通りでね」と苦笑を浮かべました。勇者の頭部はすっかり兜に覆われて顔は見えず、表情も分かりません。しかし彼は確かに私の方を一瞥したのです。
「本を書きたいんです」
「本?」
「はい。貴方に関する本を」
そう言うと、勇者の眼差しが、確かに私の方を向きました。私は言葉を続けます。
「勇者とは何か。それを私は知りたいのです。そして知ったことを本にしたい。だから私は、ソホさんに密着取材を申し込みたいのです! ご迷惑であることは重々承知しています。ですが、邪魔であれば遠慮なく見捨ててもかまいませんので……どうか! お願いします!」
「……」
返ってきたのは――沈黙でした。理由はいくらでも想像できます。いきなりおしかけてきて取材をさせろそのことを本にさせろ、しかも弱っちい一般人が、です。
勇者は無言のまま、じっと私を見つめています――くるくるの黒髪を押し込んだヘルメットの頭の天辺から、路上販売の中古でどうにか揃えた野外活動用の軽装甲付きスーツの体、背負ったリュックと下げた鞄、装甲入りブーツ――品定めのようでした。
「武装は」
「え?」
「武装は何か持っていないのか?」
「本当は小型でも銃を持ちたかったんですけど……お金が足りなくて」
ベルトに取り付けたナイフ一本。これが私の精一杯の武装です。
「……野外活動の経験や知識は?」
「本で……」
「戦闘経験」
「子供の頃に取っ組み合いの喧嘩なら……」
「体力に自信は?」
「あります!」
食い気味に答えると、勇者ソホはまたしばし沈黙しました。行商隊の皆さんが不思議そうに見守る中、ややあってから彼はこう言いました。
「好きにしたらいい。別に拒絶はしない。ただ、せめて装備はもっとマシなものにした方がいい」
「いいんですか! あの、あの――ありがとうございます!」
『存外に容易く許可を取ることができ、私は胸を撫で下ろした。正直、彼に会うまでの旅路で、断られたらどうしよう、こう言われたらこう返そう、と実に多くのシミュレーションをしていたものだ。
勇者とは幽遠で、些か偏屈で気難しい存在ではないかと思い込んでいた節はある。それは偏見であったと認めねばなるまい。勇者ソホの喋り方は抑揚が少なく冷淡な印象ではあるが、その心は血の通った人間のそれに思えた。
これからもっと彼のことを、勇者のことを知れるのかと思うと、湧き上がる期待と好奇心とを禁じ得なかった』
そう書き留める私に、行商隊の方々は「よかったなぁ」「死ぬなよ」と背を叩いてくれました。それから、「俺達のことも本に書いてくれよな」と言われたので――
『私と勇者ソホとをめぐり合わせてくれた、勇敢で頼もしき行商隊の方々に心からの敬意を感謝を。
隊長のブランさん、コラーユさん、アブリコさん、セラドンさん、ラヴァンドさん。
彼らの旅路が、これからも無事でありますように』
顔を上げれば、どこまでも深い緑と、射し込む日の明かり。
彼方に出口が見えてきました。私はこれから始まることを想い、胸いっぱいに空気を吸い込んだのです。
●
山間の谷にその村はありました。
私達人間は、旧文明の廃墟を主に使用して生活しています。その村も同様で、大小さまざまな灰色の四角い建物が寄り集まっているのが見えました。旧文明ではここは町か何かだったのでしょう。干されている洗濯物が鮮やかに見えます。
そんな建物群の周りには畑が広がっています――青々と茂ったそれらは、風が吹くとそよそよと揺らいでいました。
ここで行商隊の皆さんとはお別れです。しばらく村にいるので幾度か顔を合わせることもあるでしょうが、この瞬間から私は彼らの同行者ではなくなりました。
けれど私は幸運でした。
「これも何かの縁だ、がんばるって言ってたところを見届けたのに死なれちゃあ目覚めが悪い」
「がんばれよ! うまくやれよ!」
そう言って、彼らは積み荷からいくらか道具を私に譲ってくれたのです。スーツ、ヘルメット、ブーツに手袋。新しくて高性能なものです。それから小型の銃も!
「こんなに……いいんですか? あのっ、せめてお金――」
「出世払いでいいよ」
気さくに笑った彼らは、「それじゃあな」と手を振って町の中心部へと歩いていきました。私は渡された道具を両手に抱えて、感無量で立ち尽くす他にありませんでした。その背中に何度も何度も、感謝の言葉を投げかけました。
「――それで」
遠巻きに見守っていた勇者ソホの声が、私を振り返らせました。
「寝る場所や飯の当ては?」
「そ~……れが……まあ……どこかに住みこみで下働きでもさせてもらえないかな、とか……まあ最悪、食べ物さえあれば路上で寝れば生きてはいけます」
「……」
沈黙のまま、勇者は踵を返しました。「あ、待ってください」――私がそう言う前に、彼はこう言ったのです。
「来い」
『勇者は集落を護っている存在である。ゆえに町の中央の一番いい場所に住んでいるのではないか、と思っていた。
だが実際は集落の外れ、ぽつんと建つこじんまりとしたその建造物が勇者ソホの住処だった。
庭……というか周りは何も整えられておらず、雑草が生え放題で、洗濯物も見られない。木製の倉庫らしき建物と、そして玄関への扉には、獣道同然の通り道ができていた。生活感のないその建物の見た目は廃墟然としていた』
軋むドアを開けて――驚くべきことに施錠も何もしていなかった――彼は「入れ」と言います。私は「おじゃまします」とそこに足を踏み込みました。
『勇者が色褪せたカーテンを開くと、薄暗い部屋が照らされた。
掃除は行き届いている。だがそこは極端に物が少なかった。特に台所など使われた形跡がなければ、食器の類も冷蔵庫の類もない。簡易な机と資料が詰め込まれた本棚、道具や武器の手入れをするのだろう作業台とツール、そして白いベッド。それだけだ。階段梯子があって、ロフトスペースがあったけれど、そこはカラッポだった。
まるで生活感がない、という印象である。本当に彼はここで生活をしているのだろうか?』
「上が開いている、そこを使え。必要なものは自分で好きに調達して揃えろ。風呂とトイレはあっち、自由に使っていいが掃除してから使った方がいい。食事は自分でどうにかしろ、台所は好きに使え。俺の分の食事は不要だ」
「あっ……はい。あの……え? ここに住んでもいい……ということでしょうか?」
「俺のせいで浮浪者が増えただの村の連中に言われたくないだけだ」
「ありがとうございますっ! お世話になります!」
勢いよくお辞儀をしたら――背負っていたリュックが緩んでいて、中身がどばばーと床に散らばってしまいました。主に本を書く為の雑紙、資料の本、それから携帯食料……。
「ああああああすいませんすいません」
「……とりあえず荷物を置いて、服も着替えてこい」
「はいぃ」
言われた通り、私は荷物をロフトスペースにひとまず押し込んできました。行商隊の皆さんのおかげで装備も一新です。ぶかぶかだったスーツはフィットした真新しいものに。他も中古感丸出しだったお粗末なものから見事なものに。もらったばかりの拳銃は、腰のホルスターに。
そっと覗けば、勇者ソホは届いていた手紙やらを眺めているようでした。私が下りてくる気配に、それらは机の上に置かれました。
「ソホさん、あの! 掃除に炊事にお洗濯は大得意なので、雑用でもなんでも遠慮なくお申し付けくださいね! 料理も……食べたいものがあれば何でも作りますよ!」
「掃除は任せる。洗濯と炊事は自分の分だけでいい。俺は着替えられないし食事もとれない」
「……え?」
着替え『られない』、食事も『とれない』。しない、ではなく、できない、という物言いに私は首を傾げます。
勇者は自分の錆色の鎧の胸に掌を置きました。その掌も、指先まで装甲で覆われています。
「勇者が誰しも超常的な道具を持っていることは知っているな」
「はい! 宝物や驚遺物などと形容されていて――」
「この鎧が俺の驚遺物だ。『終わらぬ夕暮の蛹』という」
『――沈まない夕日の色を湛えた鎧。
その錆びて朽ちそうな外見に反し、それは恐ろしい強度を持つ。少なくともワタススリの口吻の一撃では微動だにしなかった。
それだけでなく、鎧には生き物のような再生力があるという。傷をつけられても、それはたちまち修復されるとのことだ。
だが。
それは一度身に着けると、脱ぐことができなくなるという。鎧の中の体が、まるで蛹の中身のようにどろどろに溶けて、鎧の中を満たしているのだと勇者ソホは語った。
その代わり、ほとんど不死に近くなり、食事も睡眠も排泄も不要になり、痛覚も温感も消え、代謝がないので汚れることもなくなるという、まさに超常としか形容できぬ神秘をもたらすのだ』
「触ってもいいですか?」
私の言葉に、勇者ソホは沈黙で承諾してくれました。私は鎧へ間近に顔を寄せてしげしげと観察します。名前の通り夕焼け色の赤茶色の錆ですっかり覆われて、触るとざらざらしました。鎧の構造は随分と古風に見えます。
それから私は背伸びをして、勇者ソホの頭部――兜を覗き込みます。本来の鎧であれば視界を確保する為の隙間に目を凝らします。そこはどこまでも真っ暗でした。
「灯りを向けてもいいですか?」
「ああ」
次いで私はペンライトを取り出すと、「失礼します」と言って明かりを兜の隙間に向けた――そこに見えたのは赤黒い泥のようなものだった。
「わ」
「もういいか」
「あの! しゃがんでもらっても?」
「……」
どうやら私が悲鳴を上げて恐れると思っていたらしい。勇者は溜息を吐くと、片膝を突いてしゃがんでくれました。
「すごい……目も口もないということなんですよね。でも視界も聴覚も嗅覚も機能しているんですよね? 人間と同じように?」
「……そうだな。ただの人間だった頃と比べてかなり補強されているが」
「未知の……知覚器官が……発生したのか……我々の……科学では……解明できない何かが……」
片手間にメモをしつつ、私は続けます。
「隙間から体がこぼれることは?」
「ない。だが腕が千切れるなど大ダメージを負うとこぼれる。滅多にないことだがな」
「腕が千切れても治るんですか……すごい……あの、ちょっと隙間に指を挿し込んでも」
「正気か?」
「危ないですかね」
「指が溶けるといったことは起きないとは思うが」
「では失礼します!」
勇者ソホはちょっと引いている様子ですが、これも勇者の謎の解明の為です。私は手袋をいそいそ脱ぎ捨てると、彼の兜の隙間に素肌の人指し指をえいやっと挿し込みました。
『この感触によく似た感触を著者は知っている。
――焼く前のハンバーグだ。
(なお、温度は人肌程度であった)』
「すごい、焼く前のハンバーグです! あったかいです!」
「……」
勇者はゆっくりと顔を背けて私の指を引っぺがすと、そのまま立ち上がってしまいました。私は人差し指に視線を移します。魚や肉をさばいた時のような、てらてらとした脂が付着していました。私はそれを間近で凝視します。
『外見は動物性の脂に見える。においは特に感じられない。舐めてみたが無味無臭だった』
「……」
勇者は額を押さえています。それから「二度とやるな」と警告を受けました。私は丁重に謝りました……。
「……そういう訳だから、俺の分の食事は不要だ」
「わ、分かりました。何かお手伝いできることがあればどんどん仰って下さいね」
「ああ。……今のでお前がどれだけ本気の奇人か分かったしな」
「本気の奇人」
「で」
勇者ソホは話題を変えました。
「炉はここにある。好きに使え」
部屋の隅にあるのは、青白い光のラインが走った1メートル四方の立方体――炉でした。炉、それは旧文明の遺跡から見付かる、今ではもう構造不明の箱。そこからはほぼ無尽蔵にエネルギーが供給されており、私達はそのエネルギーで電気や熱を得ています。大体は集落に大型の炉が一つあって、私達はそのエネルギーを分け合って暮らしています。なのでこうして炉を個人所有しているのはとても珍しいことです。
「では早速……」
グリップの底のつまみを引っ張ればコードが伸びるので、それを炉に接続して充填を行います。優れた銃であれば無線で充填が可能ですこれは他の道具も同じで、無線で炉のエネルギーを受容できるモノはグレードが高いものです。
充填はあっという間です。白くて無機質な銃身に青白い光のラインか入りました。
「今から俺は町と周辺の警邏に出る」
銃をしまう私に、彼はそう言います。言外に「好きに同行していい」と仰っている気がしたので、私はその確信に従うことにしました。かくしてその確信は当たっていたようで、私は長旅の疲れも忘れたまま彼の背を追うことを許されたのです。
『怪物と戦うことが役割である勇者が集落を見回るのは、抑止力としての意味合いである。勇者という人間が敵わない存在が“いる”と、“見ている”と知らしめれば、人間は犯罪に躊躇いが出るというものだ。同時に“護ってくれる存在がいる”という安心感を人々に与えることもできる。
こういった見回りは集落の秩序を護る為に必要なことなのだと、畑の間の道を歩きながら勇者は語った』
『通りにいる人間はまばらな印象だ。そう人口の多い集落ではないのだろう。朽ちかけの旧時代のビルには年代もバラバラな継ぎ接ぎ修理に増築が施されており、そこは店になったり住居になったり空き家になったりしていた。
道を行く勇者が人々から“英雄”扱いされることはない、かといって蛇蠍のような扱いでもなかった。一瞥して目をそらされるか、軽い会釈があるかで、そこから深入りはしてこない。温かくはないが冷たくもない――敬遠、という表現がおそらく一番近いような気がする。
どうしてだろう? 勇者ソホの人格に問題があるようには思えない。彼は話し方が少々ぶっきらぼうではあるが、決して傲慢や下劣は感じない。私を”若くて弱そうな女だから“で軽んじたり、性的な目で見ることもない。彼はむしろそういったものとは対極の、気遣いや誠実を湛えた人物であるように思う。
何かあったのだろうか――しかしそこに踏み込むにはまだ、時期尚早であるように感じる。デリケートな部分である可能性がある。もう少し彼のことを深く知ってから質問すべきだろう』
『結局、私の道案内もかねた警邏は実に静かに何事もなく終わった。
狭い集落なので私のことはじきに知れ渡るだろう、近い内に簡単な挨拶回りに行っておこう……。人々と親交を深めれば、勇者ソホについての話も聞けるはずだ』
「お次はどちらへ?」
井戸の水を入れさせてもらった水筒、その冷たい中身で喉を潤わせながら、私は勇者に質問しました。
「山へ。集落に些か近いエリアに怪物が出た。他にもいないか調べたい」
ついてくるか? とか、ついてくるな、とかを彼は口にしませんでした。私が危険を承知でついてくることを分かってくれているのか、諦めているのか……いずれにせよ拒絶されないのはありがたいことです。
「荷物持ちでも、なんでも。お手伝いしますからね!」
「特に荷物はない」
「……はい!」
『我々は集落から離れ、街道を通り、再び山道へ。著者が行商隊と通った整備された道ではなく、道なき道を進む。
高い木が空へうんと伸びている。時折、旧時代の建物の残骸が緑に沈んでいるのが見えた。
鳥のさえずり、木々のざわめき……私は勇者の後ろについて、藪を踏み分け斜面に苦戦しながら歩いていく。ここはもう人間の生活圏ではない。襲ってはこないものの、襲われたら確実に命を落とすであろう大きな虫や生き物が、緑の中に垣間見える』
「見かけた怪物を全て討つ訳ではないんですね」
「キリがない、労力と時間の無駄遣いだ。それに――連中も存外に賢い。勇者がいる、と分かれば逃げていくような怪物もいる。人に手出しすると勇者が来て殺されると理解している連中だ」
「そうなんですか! へえ~~……怪物って人間を見境なく襲うものとばかり」
「そういった怪物が悪目立ちするからだろう」
「あ! この周囲の怪物に『勇者がいるぞ危ないぞ』って理解させる為にも、日々の見回りが大事なんですね」
「そうだ」
なるほどなるほど。私は熱心にメモをします。足元を植物に取られないよう気をつけつつ……。
「勇者は一日にしてならず、と…… あ!」
手元のメモから顔を上げると、ふと視界に留まったのは赤い実でした。ちょうど私の顔の位置当たり、ツタ状の植物からたわわに成っています。
「これ、確か食べられる実……」
鞄に手を突っ込んで、付箋だらけの図録を引っ張り出して、確認。ビンゴでした。合成樹脂の折り畳みができる柔らかな瓶を取り出すと、勇者ソホを見失わないように確認しつつ、急いでそれを収穫します。既に「私が寄り道していても待っていなくて大丈夫です」とお伝えしています。それでも私のことを一応気にしておられ、歩調はそのまま少しこちらを振り返られたので、「今行きます」とその後を追いました。
赤い実の甘酸っぱい味と果汁は、起きてからずっと活動している体に心地よく染み渡ります――彼が食事のできる方なら、「ご一緒にいかがですか」と言えたのですが。
(何も食べない飲まないって、どんな感じなんだろう……)
私達人間は食べないと死にます。飲まないと死にます。だから食べたり飲んだりすることは当たり前のことで。
「飲食不要と仰っておられましたが、空腹も渇きもないんですか?」
「そうだ」
「兜の隙間から水を差し込んだら飲むことはできますか?」
「できない。飲食という行為そのものが、俺にはもうない」
「なるほど……」
「お前は食べたり飲んだりしないと死ぬだろうから、俺に変な気遣いを起こして食事を躊躇するなよ」
勇者はキッパリと言いました。
「ありがとうございます、この通り最初からそのつもりでした」
この通り、と私は摘んだばかりの実を示しました。勇者は変な同情を疎ましく思う気質なのでしょう。それは私も同感です。私も変に憐れまれるのは不本意ですから。それが自分の選択の結果ならばなおさらです。
私達はエスパーではないので全てを察することなんてできません。気遣いの先回りは疲れます。そうして疲弊するよりも、こうして先に伝えあった方が私としては気楽でした。人生全てがそれでうまくはいかないことは、分かってはいますけれども。
かくして私はまた一粒の甘酸っぱい実を頬張り、勇者は変わらぬ様子で歩き続けるのです。
『その剣も驚遺物かという私の問いに、彼は首を横に振った。彼の持つ超常の道具は鎧だけだと勇者ソホは言った。
では剣術は誰から学んだのか、と問うた。我流だと彼は答えた。死なない体ゆえ、何度でも何度でも怪物へと挑戦できる彼は、その積み重ねによって戦いの技を鍛えたそうだ。ついでに武器は剣だけでなく、槍や斧や銃と幅広く扱うこともできると言った。彼の家の側にあった倉庫には、そういった武器が置いてある。なお、素振りなどの筋力トレーニングは行っていない。鎧の身ゆえ、身体能力を向上させる運動が無意味であるのだと彼は語った』
「先代の勇者から何か教わる、といったことは?」
「ない。……少々事情が複雑でな、今ここで片手間に話せるような内容ではない」
淡々とした物言いは、それ以上の追及を阻んでいました。ならば私は待つのみです。これから時間はたくさんあります。ひとつずつ、知っていけばよいのです。
「分かりました」――その言葉は、いきなり勇者ソホが足を止めたせいで彼の背中に私が激突し、発せられることはありませんでした。
「う……おごぉ……」
想像以上に鎧は硬くて重くて、壁かと思いました。幸い鼻血は出ませんでした。
一方で、勇者はしゃがみこんで地面を見ています。私が後ろから顔を覗かせれば、そこには足跡のようなものが。
「ゴーレムだな」
「ゴーレム……土くれと肉とが混ざり合った怪物、でしたっけ」
図録を思い出します。最低でも三メートル近くはある、岩石や土くれや金属でできた人型の怪物。よくよくみればそれら無機質の中には肉が繋ぎのように混じっている。本体は粘菌状で、それが岩石などと合体して人型になっている。なお、なぜ人型をとるのかは判明していない。気質は凶暴。動物の新鮮な肉を好み、補食して巨大化していく。
「……まだ近くにいるな」
勇者が辺りを見渡せば、踏み砕かれた枝や藪、削れた木々が見受けられました。
痕跡を静かに追い始める彼から少し離れ、私は抜いた銃の安全装置を外し、身を低くして追従します。
息を潜めて、緊迫感に神経をひりつかせながら、また一歩――……。
『かくして木々が開けた場所に、ゴーレムはいた。
それは食事中だった――横たわっていたのは、人を襲い車両を突進と角で破壊することもある凶暴な大鹿だ。そいつの腹は削り取られたかのように空っぽで、覆い被さったゴーレムは大鹿の肉と血を熱心に溶かして啜っていた。
苔むした岩石でできた巨人の体は、大鹿の血でどす黒く染まっていた。午後の麗らかな日差しに、あまりにも不釣り合いな光景だった――』
「手出しはするな、隠れていろ」
言い終わる頃には、抜刀する勇者は藪を突っ切り走り出していました。気配に気付いたゴーレムが振り返ると同時に片腕の裏拳で薙ぎ払います。
岩石と鎧がぶつかる硬い音。
勇者は殴り飛ばされていませんでした。薙がれた拳の石の隙間、ゴーレムの本体である肉の部分に剣を突き刺ししがみついたのです。あの一瞬で石の隙間を見極めて剣を刺した勇者の動体視力とはいかほどなものなのでしょうか。
拳についた『異物』を取ろうと、ゴーレムは地面に勇者がしがみついた拳を叩き下ろしました。しかし彼はたった片手で握った剣をピック代わりに動じません。空いている方の手には銃がありました。銃身を切り詰めた小型の散弾銃です。それをゴーレムの腕へ、青白い光の凄まじい爆発を立て続けに浴びせました。
ゴーレムの石が砕け散ります。そうして脆く細くなった腕を、勇者は引き抜いた剣の一撃で切断するのです。
人でいう片肘から先を失ったゴーレムは、残った方の腕を叩き下ろします。しかし勇者は一気に踏み込んでかわしながら――怪物の足の間を通り抜けました。剣で片足の石の隙間を切り、散弾銃で反対の足の石を吹っ飛ばしながら。
人型の致命的な弱点は、たった二本の脚が損傷するだけで立てなくなることです。そこからは勇者の一方的な戦いでした。片腕しか使えなくなったゴーレムの攻撃は単調で――とはいえ一般人には死あるのみなのですが――勇者は軽々回避しながら、時間をかけて怪物の足を崩していったのです。
全身を覆う鎧という姿で、勇者ソホはまるで風のように動いていました。掛け声も息遣いもなく――黙々と、人も怪物も超越して、彼は敵を狩るのです。
――足が破壊されたゴーレムが、全身を解体されて動かなくなったのは、ほどなくでした。
「……勝ったんですか?」
彼が剣を鞘に収めたので、私は藪からそっと顔を出しました。手元には興奮のままに書き殴ったメモがありました。
「ああ」
答えた勇者はまだ手に持っていた銃を散弾から火炎放射にモードを切り替え、砕けたゴーレムの残骸へと放射し始めました。青白い炎が苔むした岩肌を舐め、肉や草の焼けるにおいが立ち昇っていきます……。
「火葬……ではありませんよね」
「ゴーレムの本体である肉は、細切れにされても時間をかけて再生したり――または捕食を重ねて巨大化していく。完全に殺すには燃やしてしまうのがいい。……ただ、火山地方に出るゴーレムは耐熱性が高いそうだ。火山地方の勇者は酸を使ってトドメを刺すか、海に捨てて魚に食わせて殺すと聞いた」
「へえ~~! なるほどなるほどなるほど……」
図録のゴーレムのページに書き加えます。そうしてふと、他の地方の話を噛み砕くと疑問が生まれました。
「勇者って勇者同士で交流があるんですね?」
この辺りに火山はありません。遠く火山地方の勇者から聞いた話なのでしょうか? 私の問いに、勇者は頷きました。
「俺の場合はな。そう広くはないが」
「そういえばさっき、お家でお手紙を見ておられましたね」
「……目敏いな。アレは近隣の集落の勇者からだ。近隣の勇者同士で情報を共有しあっている」
「あの! あの! よろしければお知り合いの勇者についてもお教えいただけますか?」
言葉終わり、火炎放射を終えた勇者は銃をベルトに戻しました。逡巡しているようです。ちちち、と鳴く鳥が空を過ぎっていきました。
「……近日中に……」
ぽつり、と彼は観念したように続けます。
「陸クラゲが近くの遺跡に大量発生するようでな。知り合いの勇者と討伐に出る」
振り返るその眼差しは、「来るか」と問いかけていました。私はもちろんこう答えます。
「同行させてください! 是非とも!」
「そうか。……陸クラゲのことは知っているか」
「えー……と……海じゃないのに、まるで海の中みたいに空中をぷかぷか漂流している大型のクラゲ状の怪物ですよね。……触手に毒を持ち、毒自体に致死性はないとされるが、刺された際の激痛は想像を絶するものであり、全身を刺された者が痛みからショック死した事例もある。知能はないと思われ、能動的に襲ってくることはなく、風に流されるままなので単体だとそう危険度も高くはないが、大量発生した際に風に乗って集落に流れ込むとたいへん危険である。主に鳥や小~中型の動物を捕食する。塩蔵すれば食用可能」
後半は図録の読み上げでした。
「エ! 食べられるんですか!」
「かなり手間がかかる上に、物凄く縮むし、海沿いでなければ塩が貴重だから、割に合わんと思うぞ」
「……食べたことあるんですか?」
「ない。だが海辺の集落で普通の水棲クラゲを加工したものがあった」
「へ~……」
私は感心しながら、ふと石の上の焼けたゴーレムの本体をチラと見ました。「やめておけ」と言われました。
「どうして『どんな味がするんだろう』って分かったんですか」
「見れば分かる。それで、陸クラゲ討伐に同行するなら装備は肌の露出が一切ないものに整えておけ」
今の私のヘルメットは顔が出ています。フルフェイス型のヘルメットが必要そうです。村に戻ったらあの行商隊の商品にないか確認せねば……その他にも全身を覆える外套もあった方が良さそうです。陸クラゲに刺された患部は酢で流すとよいと図録にあったので、酢も確保しておきましょう。お金足りるかな……どこかでバイトとして雇ってもらえるといいのですが……。
「ニーロ」
財布の中身を確認していた私を勇者が呼びました。そういえば初めて名前を呼ばれた気がします。なんですか、と顔を上げると彼はこう言いました。
「俺は引き続き警邏を行う。夜行性の怪物もいるからな。だがお前はもう戻れ。今から引き返せば日暮れまでに村に着く。……俺と違ってお前には食事も睡眠もいるだろう」
その通りです。流石に一睡もせず彼についていくのは無理そうです。無茶をしても彼を困らせるだけなので、私は「分かりました」と頷きました。
「帰ってきたら、たくさんお土産話してくださいね!」
「……ああ」
『親切な彼は、村の近くまで私を送ってくれた。そしてそのまますっかり暗い山の中へと踵を返していった。
もう黄昏時だ。建物には点々と文明の明かりが灯っている。その明るさの数で人々の営みの数が見える。路上に並べられた机で、一日の仕事を終えた労働者達が酒と共に食事をしているのが見えた。野良犬の吼え声。賑わいのにおい。昼間はガランとしている印象だったが、ちゃんと人がいて栄えているようだ。
そこに交じって人々の話を聞きたかったが、疲労が勝った。また次の機会にしよう。今日のところの食事は持ち物の中の携帯食で。かくして私は勇者の家へと戻った』
「ただいまー……」
そうは言ってみましたが、当然ながら返事はありません。壁のスイッチで部屋の明かりをつけます。とりあえず荷物を置いて……一日歩き通しだったのでくたくたです。まずはシャワーです。
……お風呂場は長い長い間使われていなかったようです。「掃除してから使った方がいい」と勇者ソホが言っていたのを思い出しました。なるほどです。でも疲れていたのでお掃除はまた今度……もうこの際、綺麗な水さえ出ればいいのです。かくしてその願いは届き、カランをひねればなんとお湯が出てきました。ありがたいことです。
そうして汗と土を流した私はラフな姿に着替えて、ロフトスペースで携帯食である粘土の塊のようなちょっとしょっぱいブロックを食べ、収穫してきた残りの赤い実を食べ、食事しながら今日の分のメモを見返して……ふと、視界に留まるのは部屋の隅の白いベッドです。
(あれ? ソホさんは睡眠は要らないって言ってたのに……そういえばなんでベッドがあるんだろう)
眠らないけど横になって休んだりするんだろうか。そう思いながら、私は梯子を下りてベッドに近付いてみました。長い間使われた様子はないものの、埃が積もったりはしていません。真っ白で清潔なシーツでした。柔らかくてふかふかしていて……そういえば最後にベッドで寝たのはいつだったでしょうか。
私はベッド脇に座り込んで、机に突っ伏す要領でベッドの柔らかさを堪能します。他人のベッドなので申し訳ないことをしているとは分かっています、なのでちょっとだけ……顔を埋めても、男性のにおいはしませんでした。鉄のにおいも。やはり彼はこのベッドは使っていないようです――……。
●
かくして、私は『目を覚ました』という行為で、自分が眠っていたことにようやっと気づいたのです。
いつから寝ていたのでしょうか。飛び起きたら、そこはあの白いベッドの上でした。おかしい、ベッドの中に潜り込んだ記憶はありません。半開きのカーテンからは未だ昇っていない朝日が見えて、部屋を薄暗く照らしていました――そうして見渡した部屋の中には、勇者ソホが椅子に座り、作業台の前で武器の手入れをしていました。
「っあの、」
思わず呼びかければ、鎧の彼がこちらを向きます。
「ごめんなさい、勝手にお布団を使ってしまって」
「床で寝られるよりマシだ」
どうやら勇者ソホが私をベッドに横たわらせてくれたようです。
「部屋の明かりも……」
眠っている私に遠慮してでしょうか。細かい作業をするのにこの暗がりだなんて。
「この体は夜目が利く。真っ暗闇でも問題ない。謝罪は求めていない。……ベッドは使いたいなら使っていい。もともと使っていないからな。その代わり、シーツの洗濯や布団干しはお前の仕事だ」
「……ありがとうございます、お世話になります」
「それと」
勇者は机の上の麻袋を顎で示しました。
「金が入っている。俺には使い道がないからお前が使え。足りなくなったらまた渡すから言え」
「いッ――いいんですか、そんなに、そこまで、私、詐欺師かもしれないのに」
「犯罪者なら斬り捨てるだけだ」
勇者は手入れを終えた剣を鞘に納めました。
「お前は……自分の夢に本気に見える。今時珍しいもんだ。お前は命懸けで俺のところに来た……そうだろう」
「――はい」
私は勇者へ姿勢を正しました。言葉通りです。行商隊に「邪魔なら見捨てていい」と言ったのは本気でした。正直、生きてここへたどり着くのは難しいだろうと腹を括っていました。
「中古の持ち物でどうにかこうにか旅支度を整えて、まるで……何かから慌ただしく逃げてきたようにも見える。もう一つ不思議なのは、自分がいた集落の勇者を調べずに、わざわざ俺のところへ来たことだ」
勇者もまた、体を私の方へ向けました。じっと、目玉によらぬ視界で私を見つめています。
沈黙が流れました。私は俯き、膝の上の拳をきゅっと握りしめます。
「……、」
喋ろうと、口を開いた喉に乾いた空気がひゅっと流れていきました。
「私」
深呼吸の後、私は言います。
「逃げてきたんです。私の家族から。……地下シェルターの集落、ご存知ですか。地下という防御の高い立地ゆえに、勇者のいない町です。そこから来ました」
元はそれなりに裕福な家の娘でした。いずれ政略的な結婚に使われるはずでした。
たくさんのお勉強、お稽古。女という価値を高める為にたくさんのリソースをつぎ込まれました。蝶よ花よと育てられました。
しかし子供を成せない体であると分かり――『使えない』ことが分かると、家族の態度は一変しました。以来、掌を返すように下女のような扱いへと落ちぶれたのです。
幸せはそこで途絶えてしまいまた。まるで鬱憤を晴らす砂袋のように休む間もなくこき使われ。面汚し、穀潰し、恥晒しと罵られ。年下の妹らの輝かしい生活を罰のように見せつけられ。
――唯一の娯楽は、家族が読み終えた新聞から外の世界をしること。とりわけ、この町にはいない勇者という存在の活動の記事は、どんなに小さな記事でも私の心を魅了しました。
広い世界で、危険に立ち向かっていく者。誰かを護り救う為に命を懸けられる、勇気ある者。私は数百文字から夢想したものです。その夢想が心を慰めてくれました。
人生は山あり谷ありとか。いつかは努力が報われるとか。
そういうことを信じて、「いつか私を勇者が助け出してくれるんだ」、なんて夢に浸って。
そうして、買い出しに出たある日のことです。
太陽の光も差し込まない狭い地下の箱の中、暗い天井を見上げて、ふと私は思ったのです。
一生ここで役立たずとして閉じ込められて過ごすのか?
目を見開いて、私は自分の世界を見渡しました。モノトーンばかり、色鮮やかさのない、薄暗い場所。道行く人々の肌は生白く、その漫然とした表情は、「ここにいれば絶対に安全だ」という受動に染まっていたのです。
稲妻が落ちるように私は悟りました。
「いつか私を勇者が助け出してくれるんだ」――それは愚かな妄想に過ぎないのだと。
待っていても、ここでじっとしていても、何も変わらない。私の人生は。私の世界は。色のないまま。
ここで終わりたくはない。こんなところで、このまま終わってしまうなんて耐えられない。
外に出たい。外の世界を見たい。
本物の勇者を見たい。知りたい。彼らの見る世界を感じたい。
そして――勇者に関する活動を、たった数百文字どころじゃない、数千文字、数万文字、数十万文字、読み切れないほど延々と読みたい。自分の為の勇者の本を作りたい!
「『いつか』なんて永遠に来ない。私から迎えに行かないと。そう思って――こっそり集めた本持って、家のお金を盗んで、逃げ出したんです。町からは、お金を握らせてとある行商隊の積み荷に隠れさせてもらって出ました。……辿り着いた別の集落で、あの行商隊の皆様に同行を申し出ました。私の目的地は、もともといた場所からできるだけ遠く、だけど資金が尽きないギリギリの場所。――それが、ここでした」
心地いい話ではなく、なにより窃盗をしたことを自白する内容でした。後ろめたさは十二分。けれど、全てを隠していることは、彼の信頼を裏切る行為だと思ったのです。
「私……盗みをしています。犯罪者は斬ると仰っていましたが、……そうですね。あなたに斬り殺されるのならば、納得できる死です。少しだけでしたが、自由も謳歌できました」
「……」
勇者は沈黙していました。顔が見えないので表情も感情もうかがいしれません。ただ、長く……長く……そのままじっとしていました。
「そうか」
ようやっと響いた抑揚のない声に、私は身が強張りました。
「分かった。だが、俺は何も聞かなかった。お前も何も話さなかった。だから俺は何も知らないし、お前はただの好奇心旺盛な変な奴だ。これまでも、これからも」
勇者にも立場があります。犯罪者を匿うなど許されないことです。だから――建前上は、何も知らなかった何もなかったということにして。心の根っこでは、事情を知った上でそれを秘密にしよう、と私を受け入れてくれていたのです。
どうして許されたのか――それは今は考えないことにします。同情か、それとも。……ともあれ、私は生きることができそうで、安堵の脂汗がどっと溢れ出しました。
「ありがとうございます……本当に。助かります」
不思議なもので、人はあまりに安堵を感じると体が震えるようです。震える手を隠すように、私は掌を重ねて握り込みました。泣いてしまいそうになったので、ぐっと固く目をつむって堪えました。
でも、きっとバレているでしょうね。
勇者はそれに言及することなく、「何のこととは言わないか」と前置きをしてからこう言いました。
「……追手の心配はしていないのか」
「道中の集落で、破いた服と鶏の血をぶちまけておきました。強盗に遭って殺されて死体はどこぞに遺棄された、というカモフラージュです。髪の毛も、赤毛でとっても長かったんですが、この通りばっさり切って黒く染めました。髪型が違うだけで、案外別人に見えるものですよ」
ちょうどいいタイミングだったので、私はことさら明るくそう言って、安心のせいで決壊しそうになる感情のバランスを保ちました。
「あっ――言いそびれていました。ソホさん、おはようございます。それから……これからどうぞよろしくお願い申し上げます」
「……ああ。好きにしろ」
――そうして、私は決意するのです。
この命は、彼に救われた命です。
だから私の命は、彼の為に使おうと。
そして……本は、自分の満足の為だけに作るつもりだったけれど。
勇者ソホという素晴らしい勇者がこの世界に居たのだと、未来永劫遺したい。
だから素晴らしい本を作ろう。
この本を、世界で一番の見聞録にしようじゃないか。
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