●7:ハローサイコー

 あれからどれぐらいの日数が経ったか、ラジエラは数えていない。それなりには経ったと思う。
 あの日から、あの青の境界線の向こうから誰かがやって来ることが随分と増えた。

 ――拍子抜けするほど、ラジエラは世界に受け入れられた。商会を中心とした勢力は、彼女をアイドルのように仕立て上げた。
 だが流行とは移ろうもの。少し経てばもう民衆の注目は移り変わる。あるいは商会らがそのように仕組んだか。世間の『ラジエラブーム』が終わった頃、カンダが壊した街並みも元通りになっていた。

 ラジエラはというと、博士の島に戻っていた。こちらの風景も元通りだ。だが過去と違うのは、多くの人々がこの島に出入りするようになったこと。ラジエラが商会所属になったこと。食事が商会の社食によってエネルギーバーから普通の人間らしいものになったこと。赤いドレスからパンツスーツへと服装が変わったこと。
 地下ラボに眠る博士の技術、及びラジエラの叡智は人類に提供されることになった。まあ商会がちゃっかり独占してガッポリ儲けているのだが。ので、島には商会の支社ビルが建てられた。
 世界は医療や工学、科学をはじめ、様々な技術が飛躍的に発展しつつある。ラジエラが危惧したような争いにはまだ発展していない。とはいえ、これからどうなっていくかは分からない。現状では、新しすぎる発展に人々がてんやわんやして、その扱いと受容に手こずっているといったところか。新技術による過渡期を人類がどのように超えていくのかは、これから判明していくことだろう。
 ラジエラは商会の社員として、技術指導やら監督やらを行っている。拘束されたり監禁されることはなく、普通の人間らしい生活をここで送っている。GPS携帯とボディガードを連れることが必須になっているが外出も自由だ。今のところ、不便さや不自由さを感じてはいない。人権は守られている。

 思うに――もう少し人類を信用しても良かったのかもしれない、とラジエラは波打ち際のビーチチェアで物思う。端末を操作する指を止め、パラソルの日陰から水平線を見やる。商会や他の企業の船が往来し、辺りは作業員や技術者で賑わい
 とはいえ。こんな風にラジエラが高待遇で平和に過ごせているのも、カンダのあの行動があったからこそなのだろう。
 ……全く運命とは皮肉的だ。

「お紅茶が入りました。商会製菓部門の新作マカロンもご一緒にどうぞ」
 ラジエラの物思いを中断させたのは、傍らに現れたイワシタルの声だった。
 イワシタルはラジエラと縁深いことから、専属のボディーガード兼秘書になった。別名、商会からの監視役だ。意外と気が利くし、業務上はなかなか有能なので悪くはない。
「ありがとう」
 サイドテーブルに置かれたそれらを一瞥し、ラジエラは端末を指でつついた。
「メールの返信書いたから、そっちでチェックしといて」
「承知いたしました。それと……小耳に挟んだことですが」
 イワシタルはない顔を少し寄せて、声を潜めた。
「力二さん、昔に騙した人に刺されて入院したんですって。それを発端にいろいろ犯罪がバレて逮捕されちゃったとか」
「あらら……まあ、これで完全に懲りたでしょ。罪には罰が下されるってことで――あ。そういえば手を元に戻してあげるの忘れてた」
「一生ふわふわでいいんじゃないですか? その方が安全ですし」
「かもしれないね。まあ、いつか戻してあげようと思う。それから……」
 ラジエラは用意されたお菓子と紅茶を見やった。
「これ、もう一人分用意してくれる? 彼を呼んできて頂戴」
「……業務時間中はあんまり贔屓しちゃいけませんよ?」
「別にいいじゃない、ちょっとぐらい」
「とかいって毎日……はあ、分かりましたよ」
 イワシタルはやれやれといった様子で、通信機を用いて『業務連絡』を行った。

 そして――

「えーと、ども、あはは……」
 現れたのは商会のしがない清掃員である若い男。かつてのようないかにもヤカラな風貌ではなくなっているが――彼は間違いなくカンダであった。

 カンダが命を懸けたあの日。
 自壊コードによってウドンの身体は崩壊し、カンダは脳だけとなった。
 その脳はラジエラによって回収され、『真相究明の為、事故再発予防の為』というテイで商会を説き伏せて、治療が行われた。そしてかねてからラジエラが完成させていた記憶転送技術により、その脳の中身は彼のクローンボディへと転送されたのである。
 結論から言うと転送は成功した。ラジエラは博士を超えたのだ。
 だがしかし。
 自壊コードによる衝撃で脳にダメージを受けていたカンダは、記憶喪失状態になっていたのである。初めてカンダとラジエラが出会ったあの時のように。

 本来なら、人命こそギリギリ奪っていなかったものの、カンダは重罪人である。
 しかし罪を犯した記憶がないのなら、罰しようにも意味がない。何も知らない男を一方的に断罪して、いったい何が得られよう?
 かくして彼が法で裁かれるのは、記憶が戻ってからということになった。それまでは商会勤めの清掃員として監視下に置かれることになる。

「――記憶の具合はどう、『マタイオス』?」

 ミルクを入れた紅茶を混ぜながら、隣のビーチチェアに座っている男へ、ラジエラは問いかける。
 マタイオス。――カンダが『カンダ』という名前を思い出すまで、ラジエラがそう呼び始めたのだ。
「あ~……う~ん……全然ダメっすねえ……」
 仕事用の手袋を脱いで、カンダ――否、マタイオスは、ティーカップの中身の紅茶をふうふう冷ましていた。
「しっかし『マタイオス』って呼び方しっくりこねえ~……」
「しげみちの方がいい?」
「なんでだよマタイオスでお願いします」
「うふふ」
「今の笑うとこかあ~~?」
「笑うとこなの」
「変なの……」
 マタイオスにとっては、不思議なことばかりだ。
 目が覚めたら記憶を失っていて。自分の名前すら分からなくなっていて。綺麗な乙女がいきなり抱き着いてきて「よかった、よかった」と泣き出したのには狼狽えた。「どちら様で?」とたずねたら、今度はあっちが狼狽える番だったが。
 なんでも、『知らない間に』マタイオスはこの美女、ラジエラの無二の恩人になっていたという。だが事故が起きて脳にダメージを負い、記憶が飛んでしまったらしい。その記憶は自力で思い出さねばならない、とラジエラは言う。かくして記憶が戻るまで、こうして下っ端清掃員として働くことにいなったのである。なおこの島に住み込みだ。給料は悪くない。
 それにしても、このラジエラという女は商会にとってとてもとてもとても重要人物らしい。そんなすごいVIPに自分が贔屓にされていることに、マタイオスは奇妙に感じつつも「ラッキー」と思っていた。だがそれ以上に――説明しがたい感情が、ラジエラを見ていると心の奥にモヤモヤするのだ。この不思議な感覚は、失った記憶に由来するものなのだろうか?
「あの~……俺達ってひょっとして、恋人だったりします?」
「いいえ?」
「え~……? でも……う~ん……そうなのか……」
「何か気になることでも?」
「いや~……なんか……『愛してる』ってアンタから言われたような気がして」
「――そっか」
 ラジエラは小さく微笑んだ。
「博士はね。絶対に言わない言葉だから、『愛してる』をコードにしたの」
「へえ……」
 不思議と、「何の話だ?」とたずねる気がマタイオスには起きなかった。「そうだったんだ」、という妙な納得が胸を支配した。
「じゃあ、もう言ってくれないのか? 『愛してる』って」
 ゆっくり味わって飲む、という教養は男にはない。早くもカラッポになったカップを置いて、マタイオスは飄々と笑った。
「どうかな。ていうか口説いてるの?」
 ラジエラもクスクスと含み笑う。「かもね」と男は肩を竦めた。
「じゃあさ、次の休み、街に遊びに行くか? 映画でも見たりさ。どう?」
「いいよ。服、どういうの着て欲しい?」
「ええ? う~ん……赤いワンピースとか?」
「わかった。約束ね」
「うん、約束」
「ありがとう。……そろそろ会議の時間。また夕飯、一緒に食べようね」
「ああ。俺も仕事に戻るよ」
 マタイオスが立ち上がる。マカロンをポイと口に放り込んでから、「ごちそうさん」とモコモコ言った。
 そして彼は歩き出す――その背中へ、「あのね」とラジエラは最後に呼びかけた。
「もしかしたら、いつか大きな戦争が起きて、この世界はメチャクチャになるかもしれない」
 その言葉に、マタイオスは足を止めて振り返った。「宗教の話?」とか茶化すことはなく――真剣な話題だとなぜか感じるのだ――じっとラジエラを見つめる。
 乙女は続けた。笑いながら。
「だからもし、戦争が起きたら、私達で止めようね」
「おー、いいね。じゃあその時は、巨大ロボにでも乗せてくれ」
「いいよ。じゃあロボットの名前は『最強無敵ウルトラスーパーハイパー超超超ゴッド神マン』ね」
「ネーミングセンス男子小学生?」
「かっこいいでしょう」
「そうかなあ? そうかもね」
 視線が合う。笑みを交わし合う。そうして、片手を上げた。
「それじゃ、また」
「うん――またね」
 そうして歩き出していく。
 不思議だ。「きっと大丈夫」という希望が二人の胸にある。
 晴れ渡る空。寄せて返す波。
 今日も平和だ。最高の日常だ。


『了』
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