●6:口付けてくれ、我が悪女

 あれからどれぐらいの日数が経ったか、カンダは数えていない。それなりには経ったと思う。
 あの日から、あの青の境界線の向こうから誰かがやって来ることはない。戦闘がないのと……ラジエラがラボに籠って、カンダを安全に人間に戻す為の技術の研究開発をしているので、カンダはここのところずっと時間が余っていた。
 だからカンダは、『子機』を使って地下ラボにいた。ラジエラがいない区画だ。「自由にしていいよ」と彼女からは言われているし、認証もパスできるようにしてくれているようで、自由にうろつくことができる。
 地下ラボは広大だ。頭のいい人間が見たら「よく地下にこれだけ広い空間を……」と息を飲むことだろう。カンダはその一角、様々なデータを閲覧できるコンソールの前、パソコン初心者のような覚束ない手つきで操作を行っていた。熱心に閲覧しているのは、ウドンの情報だ。
 カンダの脳は生体ユニットとしてウドンに接続しているので、自分の機能については本能のように『理解』しているのだが、原理までは知らない。そして知らない機能が多い。カンダは頭がよくない。活字を読むことは苦手だ。だが借りた電子辞書を使って難しい言葉を噛み砕きつつ、人生で一番頭を使って、ウドンの機能を学び続けた。
 その過程で知ったのは、ウドンがかつてはとても攻撃的な『兵器』であったこと。放電、熱線、果ては毒ガスまで放つことができたという。後者二つは取り外されたが、放電については身体変形の一つとしての摩擦帯電がどうたら……と難しい理由でそのままとのことだ。ただし発動の為のコマンドはオフにされている。こんな感じで他にも「危なっかしいが、取り外せないのでコマンドだけオフにしている」代物がチラホラと存在した。
「はあ……」
 今日もたくさんの知識を脳に詰め込んだ。天井を仰いで眉間を揉む。カンダの生体パーツは脳味噌だけで、肉体的な疲労は感じないものの、脳の疲労はシッカリ感じる。今日の『お勉強』はここまでにしよう。「ウドンモード、ゴー」と呟けば、砂浜で体躯座りをしていたウドンの機体に意識が戻る。
「お……もう夜か」
 星空が綺麗だ。こんなに綺麗な星空は、都市では見られなかった。砂浜に寝そべってみる。脚を波が洗っていく。「はぁ~やれやれ」なんて独り言。
 その時だ。傍らの砂浜がせり上がって、エレベーターからラジエラが現れる。いつもの薄い表情ながら、一日根詰めて集中していた人間の疲労が確かに滲んでいる。
「よ。お疲れさん」
「ありがと」
 そういえばお互い、朝におはようと告げたきりだった。
「どう?」
 顔の傍らに来たラジエラへ問いかける。件の研究のことだ。
「一進一退ってところかな」
 伸びをしながら彼女は言った。「そっか、大変だな」とカンダは言葉で労う。前に詳しい内容を聞いてみたが、難しい言葉の羅列すぎて彼には理解ができなかった。
「もう寝るのか?」
「うん、シャワーとかしてからね」
「おやすみラジエラ」
「おやすみカンダ。ドック空けてるからね」
 カンダはたまに砂浜で寝そべったまま寝ることがある。ロボットの体とはいえ野晒しで眠るのは……とラジエラの気遣いだ。「あいよ」と苦笑まじりに男は答えた。

 そうしてまた日が過ぎて……。
 カンダがウドンの機能を一通り把握した頃のことだった。

「――カンダ!」
 その日、カンダは巨大ロボの姿で砂浜にいた。ぼーっと空を見上げていたら名前を呼ばれて、振り返る――ラジエラがいる、声を張るなんて珍しい、しかも昼間に顔を出すなんてもっと珍しい。
「どうした?」
「完成した!」
 嬉しそうな笑顔。弾んだ息はエレベーターまで走ってきたからだろう。駆け寄ってくる。黒髪を耳に掻き上げる。
「……そっか」
 何が完成したのか、聞かなくても分かった。ラジエラははしゃいだ子供のように、早口で件の研究の理論を説明してくれているが、カンダは頭が良くないので、その一端も理解できなかった。ただ、優しく相槌を打っていた。
 ――そして、彼女の説明が一段落した頃。
「なあラジエラ、キスしていいか?」
 言葉は唐突に。ラジエラのマゼンタピンクの目が丸くなる。
「え? ……いいけれど」
「うん」
 カンダは鋼鉄の掌を差し出した。乙女がそこに乗る。彼女を落とさないように持ち上げる。肉ならざる顔の前へ――ラジエラが顎を上げて上を向く、カンダは少し顔を傾ける――重なって、合わさる。
 それを合図に戦闘機能がオンになった。カンダは込み上げた「ごめんな」を飲み込んだ。唇が離れた次の瞬間、カンダはラジエラを強引に掴むと、電気ショックを掌に流す。ウドンに備わっている放電機能の一端だった。
「がッ……」
 ラジエラの身体がビクリと跳ねて、そして、ぐったりと弛緩する。
「……」
 気を失った乙女を、カンダは黙ったまま砂浜に横たえた。
 そして、洒落たコテージへ、その地下にある研究施設へと振り返る。美しい島の風景を束の間だけ見つめ……彼は拳を振り上げた。

 ●

 ――時を長めに巻き戻す。

「なあ力二、イワシタル、ちょっと話があるんだが」
 それはラジエラへバラと思ったトルコキキョウを渡したあの日。空飛ぶリムジンで、力二とイワシタルを乗せて都市へ向かっていた時のこと。商会の大襲撃を退けた後のこと。
「話?」
 力二とイワシタルがカンダへ注目する。男は真剣な顔でこう言った。
「俺、人類の敵になろうと思う」
「既にそうじゃねーか」
 力二が即答した。「そうだけど……」と出鼻を挫かれたカンダはしょっぱい顔をしつつ。
「いいから聞けよ。俺が巨大ロボの姿で都市とかで大暴れするだろ。人類がえらいことになるだろ。それをラジエラが人類と協力して止めたら、ラジエラは人類に正義の人として受け入れられねーか?」
「おまえの暴走がラジエラのせいにならねえか? そうなったらおまえの罪がそのままラジエラにシフトするだけだぜ」
「ラジエラが善意で助けた男が、恩を仇で返すようなクソ男だったってシナリオはどうだ?」
 ふむ、と力二が手持ち無沙汰にふわふわカニハンドをもふもふする。
 次にイワシタルが四本腕でやれやれと肩を竦めた。
「人類と協力って言ったって、そう簡単にいきますか?」
「だからおまえら商会に頼みたいんだよ、その仕事を。おまえらからすれば、ラジエラと協力することであいつの保護ができる、あいつの技術が手に入る。喉から手が出るほど欲しいモノだろ? それこそ、あの島に攻め込んできたほどにさ」
「……仮にそうなったら打診はしてみますが、わたくしにはそこまで権限がないことはご了承下さいね?」
 イワシタルの言葉に頷いて、カンダは力二の方を見た。
「世間の意見がラジエラに好意的に動くように、力二にも手伝って欲しい。偉い人間とのコネならいっぱいあるだろ? ゴイスーのとことか」
「……組織はもうないぞ? ボスがやられて散り散りだ」
「組織がなくてもいい、おまえらが押さえてる偉い奴らのユスりネタはまだあるだろうが」
「俺にメリットは?」
「一人の女の子が平和に暮らせる。それ以上のメリットがあるか?」
 力二は黙って溜息を吐いた。
「それで、おまえはどうなるんだよ?」
「……それは、……」
 言い淀む。やはり、といった様子で力二は脅すように続けた。
「死ぬつもりか? ラジエラには技術っつー『生かされる理由』があるが、おまえにはそんな価値はないぞ」
「分かってる。もともと死んでた命なんだ。ラジエラの未来の為に使えるなら安いもんだ。それに……他に方法があるのかよ?」
 カンダの言葉に、力二とイワシタルはチラと視線を交わした。
「こっちの準備が整ったら動き始める。そんなすぐにはならんと思う。……頼んだぞ」
 力二達が思うように動いてくれる保証はない。不確定要素しかない。だが、カンダには賭けるしかなかった。それぐらいしか、もう思いつかなかった。

 ――そしてカンダは備えた。
 ただ暴れるだけではラジエラに機能停止させられてしまう。そうならない為の策が必要だった。だからウドンの情報を『勉強』したのだ。ラジエラが自身の研究に没入していて、その勉強を訝しがられることがなかったのは幸いだった。
 そうしてカンダは除去されていない自分の機能について学び、博士が動けない時などの緊急独立行動用コード――ほとんど全ての外部入力を受け付けなくなる機能――を知る。
 奇しくも。
『そこ』に辿り着いた次の日に、ラジエラはカンダを人間に戻す技術を完成させた。「間に合ってよかった」――そう思いつつ、カンダはラジエラを電気ショックで気絶させたのだ。
 緊急コードの起動条件の一つは、『博士』の行動不能状態を確認すること。砂浜に横たえられ、魔女に呪われて眠れる美女のようなラジエラを見つめ、カンダは自分の中に隠されていた暴走の為のスイッチを押した。

 ――もう、「ご苦労様」と言われても止まることはない。

 最初に彼は博士のラボを破壊した。発電機能と戦闘力を合わせ、地面に手を突っ込み、『天井』を引き裂き、ありとあらゆる機材を握り潰し、踏み潰し、殴り壊し、電流を流してぶっ壊し、叩き潰した。
 この島が、ラジエラを縛り付ける鎖なのだ。呪いなのだ。博士が遺した忌まわしい罪なのだ。
 こんなもの、なくなってしまえばいい。こんなもの、壊れてしまえばいい。
 どうしてラジエラが全てを背負わねばならないのか。もうこの世にいない男の因果を。理不尽だ。不公平だ。世の中にはもっと悪辣でクズな人間がゴロゴロ転がっているというのに。
 許せない。
 許さない。
 もしもカンダがロボットではなかったなら、その顔は修羅の如くだったろう。
 ロボットは表情を作らない。無言のまま、ラジエラを閉じ込める『鳥籠』を壊し続けた。
 そして、ラボを壊滅させたカンダは。
「究極アルティメットスカイフォーム」
 場違いなほどの必殺技名を淡々と口にする。背部より科学の翼を生じさせ、カンダはマッハで島から飛び立った。壊れた施設と眠れるラジエラだけを残し、どこまでも深い青空の彼方、瞬く間に見えなくなる。

 ●

 時を戻す。
 世界は大混乱に包まれていた。各地で目撃される、超高速飛行物体――それは『博士』の破壊兵器。そいつは地上に降り立っては、橋や道路、タワーやビル、発電施設や議事堂、とにかく人工物をぶっ壊すと、再び空へ舞い上がり、凄まじい速さでまた別の人工物を破壊しに行った。
 おかげでインフラはメチャクチャ。人々は恐怖する。これは博士による宣戦布告なのか。恐ろしき戦争がまた始まり、世界と人類はとうとう滅亡してしまうのだろうか。
 もちろん怯えるだけではない者もいた。多くの企業や国家が、暴れ回るロボットを討ち取ろうとした。だが片っ端から、大怪獣も巨大ロボットも、その破壊兵器に壊されていく。
 そこで『商会』が彼らを取りまとめ、指揮を執り始めた。前回この破壊兵器が出現した時は自我あると認識されたので、まず商会は件の破壊兵器とのコンタクトを試みる。
「貴様ー! 何が目的だー!」
 商会の装甲ヘリから、拡声器で語りかけたのはイワシタルだ。
「俺の名前は貴様じゃねえ、カンダだ! この力で世界の王様になってやる! 全人類は俺の奴隷だ!」
 破壊兵器カンダはそう言った。立派なビルを蹴り壊しながら。
「貴様ー! なぜそんなことをー! 博士の差し金かー!?」
 イワシタルが続ける。カンダはこう答えた。
「博士ぇ? ああ、あの女か! バカなヤツだぜ、島に漂流した意識のない俺を助ける為とか言って、この機体に接続してくれてよォ! おかげでスッゲエ力が手に入ったぜ!」
「なに! 博士の命令ではないというのかー!?」
「あの女ならブン殴って島に転がしてきたぜ! ヒャッハー! まんまと俺を信用したのが運の尽きだな! 俺は博士を超えた最強の存在だぁ~~~!」
「助けて貰ったと言うのに、その恩人を無下にしたというのか!? なんて野郎だー!」
「おまえもぶっ壊してやるよ!」
 カンダは手を振り回した。ヘリは慌ててそれを回避し、「おのれー! 人類の敵めー!」と捨て台詞を吐きながら退散していった。

「馬鹿が、白々しすぎるだろ……」
 テレビ中継でそれを見ていた力二は溜息を吐いた。事情を知っている彼からすれば、今のはとんだ三文芝居だ。
 ――しかし、本当にカンダが動き出すとは思わなかった。昔のカンダは要領が悪くて、想像力が足りなくて、度胸もなくて、受動的で無気力で薄っぺらくて、使い潰されるだけのポンコツだったのに。
 そいつは今、自らの命を捨てて世界の敵になろうとしている。たった一人の女の為に。
「馬鹿な男だ」
 力二はふわふわのカニハンドを撫でる。
 ――今からするのは、ラジエラに貸しを作って、このふわふわカニハンドを元に戻させる為だ。そして裏稼業から足を洗う為の、抱える恨みを少しでも減らす為の打算だ。
 そう自分に告げて、力二は携帯端末を操作した。
「もしもし? 俺だ。……そう警戒するなよ、今日はおたくらを自由にしてやろうと思って連絡したんだ。例の情報は破棄してやろう。……ああ、本当さ。その代わりなんだが――」

 世論というのは。
 賢い個々人が自ら情報にアクセスして能動的に得る正義の客観などではない。
 巣でずんぐりと肥えた雛鳥が口を開けっぱなしにして、放り込まれる餌をただただ喰らう受動である。
 餌を放り込めるのは、金がある者、コネがある者、権力がある者。彼らによって都合よく、『餌』は味付けされ調理されて、量も配分も決められるのだ。

 テレビで流される、各国各企業の巨大ロボットや大怪獣が、カンダによってぶっ壊されていく映像。
 人類に成す術はなく、カンダの横行は止まらない。情報が嘘や真をないまぜにして交錯する。死者がどれだけなのか、負傷者がどれだけなのか、正確な数字は分からない。それがまた恐怖を煽った。
 暴れまくるカンダというイメージばかりが先行していく。とにもかくにも、絶望的な状況だった。

 そんな中、「博士の娘、罪の女、ラジエラに協力を願えばあの破壊兵器は止められるのではないか」という意見が作られていく。誘導されていく。
 カンダは自らの口で、ラジエラに暴力をふるって島に閉じ込めたと述べている。例の博士の島から、閉じ込められている彼女を救い出せば、あるいは……。人々は、かつて世界を滅ぼした男の記憶を受け継ぐ女に、最後の希望を託すしかなくなっていった。

 数日が過ぎた。
 住民の避難が完了した街で、カンダは奇声を発したり怒鳴ったり唸ったり大笑いしたりしながら、目につく人工物を片っ端からぶっ壊していた。
 今のところうまく『死者数不明』と情報操作されているが、実のところ、カンダはまだ誰も殺していない。人がいないタイミングを狙って暴れていた。カンダが善人だからではない、ただ臆病なだけだ。他者の迷惑を顧みずに暴れることはできても、人命を奪うという最後の一線だけは怖くて超えられなかった。
 分かっている、それでは『ぬるい』と。一線を超えねばならなかった。

 ――覚悟を決める時が来た。

 カンダは今、とある監獄の前に降り立った。かつて所属していた組織のボス、そしてサロナが収容されている場所であることは、博士の島にいる時に調べ済みである。
 今までの人生を顧みて、「本気でぶっ殺したい奴は誰か」、そう自分に問いかけて思い浮かんだのはボスとサロナの顔だった。本当は母親をヤリ捨てたクソ父親もブチ殺してやりたいが、残念ながら顔も名前も知らないし、調べようもないことだった。
 眼下の建物でけたたましく警報が鳴っている。監獄を管理する者らが右往左往しているのが見えた。
 刑務官らは殺さないが――中途半端に監獄を壊して犯罪者を野に放つつもりはない。自分がクズ側の人間だから分かる、クズはどこまでいってもクズなのだ。ここの罪人は全て殺す。
 だが、一番最初に誰を殺すかは決めていた。積木くずしのように監獄を壊し、オモチャでもつまみ上げるように、囚人服のサロナを掴んで持ち上げた。
「カンダ!? え、え、嘘でしょ――」
 本当に人を殺す人間の臭い。裏社会生活が長かっただけにサロナは感じ取った。殺される、助からない、どうしようもならない、そう確信すれば本能的な恐怖が女を襲った。他人が他人へ、その臭いを向けるのを見ているのは面白かったのに、いざ自分に向けられたら――本物の殺意を向けられたのは初めてで――たまらなく怖くなった。体が震え、歯の根が合わず、失禁すらする酷い有り様だった。彼女はそのまま、泡を吹きながら命乞いをし始める。内容は卑猥で愚かだった。要約すれば、「実はずっと前からあなたが好きだった、生かしてくれたら何でも言うことを聞いてあげる、毎日セックスさせてあげるし、どんなプレイもやってあげる」。
 囚人ゆえ化粧をしておらず、髪も短くなり、着飾っておらず、挙げ句みっともないほど怯えているサロナ。彼女を見下ろし、カンダはほとほと、自分が惨めになった。
(こいつ、こんなブスだったっけ)
 自分が何を盲信して全てをなげうってしまったのか、その正体を知ってしまった気がして、無い肺で溜息を吐いた。
(なんで俺はこんなバカで汚い女に……)
 サロナに会うより先にラジエラに出会っていたなら、自分はどうなっていただろう。ふと、そんなifに思いを馳せた。もっと幸せになれていたんだろうか。だけど巡り巡ってウドンの機体を手に入れていなければ、今こうしてラジエラ解放の為に行動できていなかったろうから――これはこれでよかったのだ。そう思うことにする。
 そして、サロナを殺す為に手を力を込め――

 ●

 一方、ラジエラは――
 カンダが島から飛び立ってほどなく、一人きりの砂浜で目を覚ました。
「っ――カンダ!」
 声を張り上げ、見回せど、彼はどこにもいない。急いで端末を取り出して位置情報を調べようとしたが、ウドンからの一切の通信が遮断されていた。
「カンダ……どうして……」
 ラジエラの目の前には、徹底的に破壊されたラボの景色が広がっていた。カンダを人間に戻す為の装置も、瓦礫の下に埋もれてしまっている……。
 分からない。人間に戻されるのがそんなに嫌だった? でも、暴力をふるうような人ではなかった。嫌なら嫌だと言ってくれるような人だった。
 分からない。彼が自分を気絶させ、ラボを壊し、島からいなくなったのはどうして? 何か気を悪くさせた? 自分のことが嫌いになった? だけど喧嘩をした記憶もなければ、彼と気まずい空気になってもいない、失言らしい失言をした覚えもない。今朝だって「おはよう」と何事もなく交わし合った。変なところは感じられなかった。
 どうして?
 どうして――?
 天才的な頭脳を以てしても、何も分からない。
 分からないから……確かめに行かねば。このまま何も分からないまま二度と会えないなんて、あまりにも虚しすぎる。
 しかし問題がある。設備のほとんどが破壊されてしまったのだ。食料や水は備蓄があるので一先ず生きるのには困らないが……島への侵入者を防ぐバリアは失われているし、空飛ぶリムジンも壊れているし、それらを修理する為の様々な設備もまた壊れてしまっている。カンダを追うには修理すべき物と工程が山積みだった。
「……でも。こんな時の為の『天才的頭脳』でしょうが」
 自分に言い聞かせるようにラジエラは呟く。砂浜に横たわっていた時に頬についた砂を手の甲で拭い、乙女は瓦礫の山と向き合った。

 そこから、ほとんど不眠不休で。
 ラジエラは復旧作業を延々と続けた。赤いドレスは機械油や土埃で汚れた。一秒でも惜しかった。

 そのほどなくのことだった。
 空に一機のヘリが現れる。バリアがない島にゆっくりと着陸する。現れたのはイワシタルだった。
「何? 忙しいんだけど。私の脳味噌が欲しいなら後にして」
 彼に目もくれず、ラジエラは瓦礫の山で作業を続けている。
「いいえ、ラジエラさん。本日はあなたをお迎えに参上したのです。……カンダが暴れています。我々の技術では彼を止めることはできません。既に多くの被害が出ています」
「……その責任が私にあるから裁判所に来いって?」
「いいえ、違います! 助けを乞いに来たのです!」
 イワシタル、そして商会の面々が膝を突く。
「無礼を承知で申し上げます! 我々を助けてください! このままでは人類は滅亡してしまいます! 商会並びに同盟企業、国連が全面的に協力します! 今、人類を救えるのはあなただけなのです! ……ラジエラさん!」
 そう呼ばれ、ラジエラはようやっと振り返った。
「白々しい。前に私を捕まえようとしたのに」――冷静な状態ならそう返せただろう。不眠不休の心身、カンダへの不安、焦燥が、彼女の判断を曇らせた。「カンダの為なら手段を選んでいられない」、とラジエラは思ったのだ。
「……不穏な動きをしたら、私は脳内のナノ爆弾を起爆する。私の脳は速やかに破壊されて、『中身』は二度と手に入らない。あなたたちの医療技術では除去不可能な場所に埋没してあるし、ちょっとの衝撃で起爆するから、取ろうとするだけ無駄だからね。それだけ理解しておいて頂戴」
 ハッタリだ。だが連中に対しイニシアチブを取る為にそう言った。イワシタルは一瞬たじろぐも、立ち上がって恭しくお辞儀する。そのまま四本の腕を翻せば――レッドカーペットが、ラジエラの足元からヘリへと敷かれた。
 ラジエラは赤色の上を歩き出す。用が済んだら殺されるかもしれない、脳味噌だけの標本にされるかもしれない、監禁されて二度と空を見られないかもしれない、だが……それでもよかった。自分の罪は自分が一番理解しているから。そんな罰のリスクを冒してでも、ラジエラは今すぐカンダへ合わねばならなかった。
(カンダ……)
 空を見上げる。同じ空の下にいるはずの、彼を想う。

「カンダに会って話がしたい」。ラジエラは商会にそう言った。
 まずは会って、現状を確かめて、話がしたかった。だからヘリをそのままカンダのもとへと急がせた。
 かくして。
 とある監獄の敷地内に、彼はいた。
 彼はその大きな手で、サロナを掴んでいた――握り潰さんとしていた。

 ●

「殺すの?」

 淑やかな乙女の声がした。落ち着いた、物静かな、薔薇というより百合、百合というより椿のような声だった。
 カンダは目を見開き、振り返る――ほとほと、顔がなくてよかった、男はそう思った。ヘリから自分を見下ろす乙女。プロペラの爆音で掻き消されそうな声。泣きそうな顔。汚れた服。
 どうしてそんな見た目なのか。そこに想いを馳せると胸が張り裂けそうになる。……そんな感情を押し殺し、カンダは低い声でこう答えた。
「ああ。殺すさ」
「ぐピュッ!」
 マニピュレーターに力を込めれば、サロナが不格好な悲鳴を上げた。骨が折れた。凄まじい悲鳴が上がる。掴まれたまま死に物狂いで暴れ回り、もがき、サロナは泣き叫ぶ。
「やめて――やめて! どうしてこんなことをするの!」
 ラジエラは声を張り上げる。
「本当はこんなことしたくないさ」――声と気持ちを殺した。カンダは狂った男のフリをする。
「グヘヘ! 絶大な力が手に入ったんだ、人間に戻されて失ってたまるか! 俺はこの力でなぁ、この力で……この力で……好きにするんだ! 俺を馬鹿にしたヤツを皆殺しにするんだ! 社会に復讐するんだ!」
「……嘘でしょう。だってあなたそんな人じゃなかったもの。どうしてそんなお芝居をするの?」
 そうだ、カンダは昔から嘘がヘタクソだった。だから詐欺の一つも上手く行かず、役立たずと殴られたもんだ。
「嘘なもんかよ! 俺は本気だ!」
 カンダはラジエラへ、サロナを突き付ける。死の恐怖と激痛で半ば失神して、ガクガク震えている人間だ。今にもマニピュレーターに圧し潰されてしまいそうである。
「俺はコイツを殺す……殺すんだ! そうしたら次にボスを殺して……こ、ここ、ここにいる人間を皆殺しにしてやるのさ!」
「やめてカンダ! 殺さないで! 私と同じにならないで!」
「なら止めてみせろ!!」
 カンダはいよいよ手に力を込めた。

(なあラジエラ、俺は――)

 おまえの為なら死ねるんだよ、なんだってできるんだよ。
 なんだよ、口を開けば「博士が博士が」って。知らねえよ誰だよ俺頭悪いから。習わなかったよ学校ロクに行かなかったから。
 だから捨てちまえよそんな知らねえ男。知らねえ男がおまえの人生縛り続けてるなんて、俺耐えらんねーよ。ずるいよ羨ましいよ。

(なあラジエラ、俺はさ、俺だってさ、)

 博士みたいにおまえの人生縛っちゃいたいよ。
 口を開けば「カンダがカンダが」って言って欲しいよ。
 なあ俺のこと見てくれよ。
 なあ俺のこと忘れないでいてくれよ。
 なあ俺をおまえの一番にしてくれよ。
 誰かの特別な一番になりたいんだよ。

(俺は、俺は、俺は――)

 空が綺麗だ。逆光で、ラジエラが見える。
 カンダ、とその唇が名を呼んで。
 言葉を、口にするのだ。

「『愛してる』」

 ――それは自壊コード。あらゆる命令系統の中で最も優先される『魔法の言葉(コマンド)』。
 カンダの、ウドンの機体から一切の力が失われた。
 ゆっくりと、白い体が溶けていく。ボタリボタリ、液体金属が大地へと、涙のように滴っていく。
(ああ、俺は死ぬんだな)
 声を出すこともできない、ただ、形を失っていくアイカメラで、崩れていく視界と意識で、カンダはラジエラを見上げ続けていた。
(これでいい。これでよかったんだ。ラジエラ。ごめんな。ありがとう。幸せに生きてくれ。楽しかった。ありがとう。ごめんな。ごめんな。ごめんな――)
 何かを考えられなくなる最期の時まで、カンダは同じ言葉を心の中で繰り返し続けた。だけど最期の最後にひとつだけ、少しだけ、幸せにこう思った。
(誰かから『愛してる』って、生まれて初めて言われたなあ――……)

 ――溶けて崩れていく銀色の中から、やがて男の脳味噌が露出する。
 それは銀の滴りと共にゆっくりと落ちていき、やがて着水する。
 強制的に解放されたサロナもまた液体金属の中に倒れていた。手足はよろしくない方向へ曲がり、完全に気絶している。
 ヘリが近くに着陸すれば、辺りは静寂に包まれた。

 ラジエラの目の前に、この世ならざるような銀の泉が広がっている。
 汚れた赤い靴が歩き出した。弾力のある銀色は、足跡がついてもすぐに消えていく。
 真っ直ぐ、乙女が向かう先は泉の中央、ちっぽけで愚かな脳味噌の元へ。白い手がそっと、柔らかな器官を抱き上げる。

「――ご覧ください! 博士の娘がロボットを止めました! 人類を救ったのです! やはり博士とは別人格であるという噂は本当なのでしょうか!? ――」
 その後ろでは、無粋なほど静寂がすぐに終わっていた。ヘリに搭乗していたテレビクルーがラジエラを映し、あれやこれやをカメラの向こうの民衆にがなりたてていく。
 状況を固唾を飲んで見守っていた刑務官らが一斉に動き出し、瓦礫の隙間に居た囚人らも慌てふためき、一斉に騒々しさが跋扈する。人々が行き交う。大声が飛び交う。

 ラジエラの周囲で、商会の者らがあれこれ言っているが、乙女の耳には届いていない。ただ、彼女は束の間の冷静で考えていた。
(カンダはこんなことをする人じゃない。商会の行動が早すぎるし円滑すぎる。私にとっておかしいぐらい好都合すぎる)
 そう、まるで、ラジエラを救世主に仕立て上げ、この世界に正義として受け入れられるよう工作されているような。
 だとしたら、誰がそんなことを仕組んだ? ――カンダに他ならない。きっと、イワシタルと力二にも協力させたのだろう。
 ではなぜ、カンダはこんなことをした?
(私の為に……)
 どうして。こんな方法しかなかったのか。一体どんな気持ちで。どうして。

「ごめんね、……」

 涙がひとしずく。
 おとぎ話なら奇跡を起こすのだろうその雫は、乙女の頬を伝い、男の臓器へポタリと落ちた。
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