●5:薔薇の似合う君と
これは昔のお話。
ラジエラが『生まれて初めて』目覚めたは水槽の中だった。すなわち彼女は生後0日なワケだが、既に十歳ぐらいの少女の姿をしていた。
水槽――円柱状で薄緑の液体がつまっており、たくさんの管が少女に繋がった、いかにもSFといった趣――その前に立っているのは、車椅子の老人だ。いや、ミイラと呼んだ方がいいかもしれない。それぐらい老いさらばえていた。性別も年齢の推測もできないほどだ。その頭部には、なにかコードがたくさん付いたヘルメットが被せられていた。
それが誰なのか、自分が誰なのか、何もかもラジエラには分からなかった。自我らしい自我というものが、まだその時の彼女には存在していなかった。
が、次の瞬間。老人が何か機材を起動して――凄まじい電流が、少女の身体を貫いた。
ラジエラは目を見開く。水槽の中で叫ぶ。凄まじい電流に水槽に亀裂が走る。辛うじて視界に入る老人もまた、同じ電流に打たれているようで、ヘルメットから電気が奔り、痙攣し、車椅子からパタリと倒れて――ほどなく、電流が止まった。その時にはもう、ラジエラは気絶していた……。
……そうして目が覚めた頃。
ラジエラは冷たく濡れた床に倒れていることに気が付いた。例の水槽が例の電流で割れて、中身の液体ごと床に放り出されたのだと少女は知った。
直後に。ラジエラは『全てを理解している』ことに気付く。ここはどこなのか。何が起きたのか。あの老人は誰なのか。自分は誰なのか。
――あの老人こそ『博士』。
この世界を滅亡寸前まで追い込んだ、世界最悪の人間。彼の名前はロキ。あらゆる叡智を極めた男。
老いた彼は死を恐れ、永遠を求め、転生を試みた。若く、美しく、廊下が緩やかな肉体を作り上げ、その脳に自らの脳の内容を送信したのだ。
だが、失敗した。
『新たな肉体』の中に、ロキ博士の自我はない。記憶と知識だけが、美しい肉人形に残された。
少女に自我はなかったけれど、突如として脳に発生した膨大すぎる記憶と経験が、新しい自我を形成してしまった。博士であって博士ではない、全く新しい人間がここに誕生してしまった。
そしてラジエラは知る。『前世』が成したあまりにも膨大な罪、積み上げた屍と数え切れぬ悲劇を。
何も知らなかった無垢な白紙は突如として罪悪感のインクを垂らされ、真っ黒に染まった。
不快感。自分は罪人で、世界中から死を願われる悪人で、生きていることは罪で、生きていてはいけなくて、居なくなった方がよくて、どこにも居場所はなくて、誰かから許されることは決してない。絶望感。自己否定。自己嫌悪。少女は泣き叫び、顔や喉を血が出るまで掻き毟り、不快感に吐き戻し、泣いて泣いて、泣き続けた。
「違う! 私がやったんじゃない!」――本当はわかっている、『自分』がやった数多の災禍を一つ残らず覚えている。
「私はロキ博士じゃない!」――本当はわかっている、自分の脳に存在しているのは、確かにロキ博士の記憶と経験。
「違う、違うの! 私は何もやってない! 私は悪くない! 私はただ生まれただけなの!」――本当はわかっている、記憶と経験を完全に受け継いだ自分は、ロキ博士なのだ。
耐えきれなかった。
自分は誰かから愛されることは決してないだろう。世界中から、否定という剣で刺され続ける運命にある。どれだけ殺した? どれだけ壊した? どれだけ奪った? 最早「ごめんなさい」では許されない罪だけがそこにある。
「許して……許して……お願い……私じゃないの……私は……誰か助けて……誰か……ゆるして……」
罪悪感のままに自傷をして、白い肌のあちこちから血を流して、少女は無人のラボを這いずった。
耐えきれない。この罪の苦しさに耐えられない。ぼろぼろ泣いて、爪の剥げた手を伸ばして、ありもしない救いを求めた。
結論から言うと、どれだけ泣いても助けは来なかった。泣いたら助けてもらえるのは、正しく清く、そして愛され許された人間だけなのだ。存在していい人間だけなのだ。泣くだけ無駄なのだ、いてはいけない人間は。泣いてはならないのだ。いてはいけない人間だから。
――死のう。
それが唯一の救いだ。解放されたい、この苦しみから。
だけどそれと同時に存在しているのは。
――死にたくない。許されたい。生きていたい。どうして何もしていないのに死なねばならないのか。
死とは何か。世界一の叡智が刻み込まれた脳を使い、少女は考える。
死とは救済だろうか。いいや、死とは終焉だ。魂だの天国地獄だの生まれ変わりだのは存在しない。ただ、そこで全てが終わるのだ。
少女は恐怖した。他人の経験しかないまま、自分で築いた何かがないまま、何もないまま体験しないまま、ただただ消滅することを。――そして、そんなことを考える自分に対して「なんて身勝手で愚かしいのだろう」と嫌悪感を抱いた。しかし一方で、自分の為に死ぬことは無責任な独り善がりだと感じた。
――自分のような人間が、簡単に死んで、許されるものか。
報いを受けるべきだ。できるかぎり苦しむべきだ。ではどうやって?
――生きよう。生きていることがこんなに苦しく、絶望的ならば。
自分の苦しみを一秒でも長引かせることこそ、相応しい罰だ。
――「ただ生きたいだけの口実なんだろう」。そんな心の声に、耳を塞いだ。
死ぬことを諦めた少女は、ロキ博士が用意していた真っ赤なドレスを身に纏う。博士の性自認は男だったが、「今回は男だったから、次は女として生きてみよう」と考えていたようだ。少女には、老人の酔狂が理解できなかった。
――ラジエラは全てを知っていた。
この無人島の数多の機能は、世間からロキ博士を護る為の防衛装置。時折、世界平和の為に博士を討ち取ろうと人々が挑んでくるから。
その防衛装置は『ステゴロ条約』を無視していた。――滅んだ世界から立ち上がる為に、人々が大きな勇気と覚悟を持って踏み出した軍縮ルールだ。戦後の疑心暗鬼の中で、武器を手放すことにどれだけ人々は恐怖に駆られたことだろう。だがそれを乗り越え、未来を信じて、結ばれた条約。――そんな尊いルールを、博士は蔑ろにしている。
なのでラジエラは、ステゴロ条約に則って島の武装を解除した。残したのは、人々が用いるのと同じ巨大ロボット、またの名を弩級人型クレーン。それに名前はなかった。ロキ博士は名前を考えるのを面倒臭がったから、ありとあらゆる兵器や道具に名前はなかった。なのでラジエラは、博士との決別の意も込めてその白いロボットに名前をつけてやることにした。
「――ウドン。最強無敵『ウ』ルトラスーパーハイパー超超超ゴッ『ド』神マ『ン』、でウドン」
次に少女は、自分の名前をつけることにした。膨大な知識の中に一つ、ピンとひっかかったのは天使ラジエルの項目。全ての叡智を収めた書物を持つというその天使に、博士の叡智が収められた脳を持つ己を、重ねた。ゆえに――『ラジエラ』。別にウドンのように凝ったかっこいい名前じゃなくていい。その日から、少女はロキ博士と己は別人格であることを主張するように、そう名乗り始めた。
そうして。
ラジエラは世界で一番悪い女として、今日まで『生きて/自分を罰し続けて』きた。
●
――幾度目かの朝陽がまた昇る。
時間は巻き戻り、今。ラジエラはベッドから身を起こし、目を擦り、窓を見た。ここはコテージの二階だ。カーテンを少しどければ……波打ち際、膝を抱えたまま横になっているカンダの大きな姿。
彼は未だ立ち直れていないようだ……。全てを捧げた相手から裏切られた傷は、かなり深いらしい。
心配だ。どうにか元気づけてあげられないだろうか。――それと同時に、ラジエラは不思議な感情を覚えた。「いいなあ」、という気持ちだ。それは嫉妬。愛されるサロナに対して。熱狂的な愛や恋を『することができる』カンダに対して。
――誰かに愛や恋をしたり、されたり、そんなのは、ラジエラの世界には存在しない。してはならない。そんな視覚はない。ましてや恋愛の果てに子を成して、自分と博士の業を子に継がせるものか。
(こんなこと考えるなんて……昔の夢を見たからかな)
ナーバスになりかけたメンタルを、頬を両手でピタンと挟み叩いてリセットする。
身支度や食事などを済ませて――砂浜へ。その頃にはカンダも起きたようで、横たわる姿勢から体育座り状態になっていた。
「おはよう、カンダ」
「んあ……おう……」
ちらりと機械の顔がラジエラを見下ろす。乙女は脳波操作で、砂浜よりビーチチェアとパラソルをせり上がらせた。
「気分はどう?」
ビーチチェアに座り、乙女は問いかけた。曖昧な苦笑が返事だった。
……そのまま、二人、波打ち際に並んだまま。
幾らかの時間が流れた。
「あのさ……」
潮騒に紛れてしまいそうな声量で、カンダが呟く。ラジエラは眼差しを向けて、その言葉を促した。彼はぽつぽつと語り始めた。
「俺は……俺はな……永遠を信じてたんだ……ずっとずっと変わらないものがあって、それはとっても幸せなことなんだって……」
「どうして変わらないもの――永遠は幸せだと思うの?」
「え? それは……」
カンダは隣のラジエラを見下ろす。
「あ……安心できるから、かな……だって変わらないものって不安じゃないだろ」
水平線に視線を戻し、体育座り状態の男は続ける。
「俺はさ……別に、出世しまくって大物になりたいとか、大成功して大富豪になりたいとか、なんかすげえ大望を果たしたいとか、そういうのはいいんだ。変に大物になったら責任とか大変だろうし……だから、別に普通の幸せでいいんだよ。普通に仕事して、普通に暮らして、普通に結婚して、普通に……真っ当に……だってずっとクソみたいな人生だったから……」
そして、サロナと普通の幸せが手に入ると信じていた。それが男にとっての永遠だった。
「でももう薄々気付いてる。俺はきっと、そういう『普通の幸せ』はもらえないんだ。普通の人が普通に手に入れてる幸せってのは、俺にとって、手を伸ばして伸ばして伸ばしても手に入らない、だけど遠く遠くであんなにも綺麗に光ってる、星みたいなもんだ……」
「そっか……、うん、気持ち、ちょっと分かるかも」
ラジエラも同じ方を向いている。水平線――空と海の青い境界線。遠い世界。
「……なんかごめんな! 暗い話して。ちょっと落ち込んでたけど、もう大丈夫だからさ……気にしなくっていいよ」
カンダは努めて明るい声でそう言った。空元気の嘘であることが丸わかりだった。ラジエラは逡巡する。『博士』の天才的頭脳を持つ彼女の脳に、凹んでいる友達を一瞬で元気づけられる数式は存在しない。
「気にしないで。どうしたらカンダが幸せになれるか、最近ずっと考えてるの」
「……ラジエラは優しいなぁ。俺は自分の幸せのことしか考えてなくて手一杯だってのに……」
「自分自身を幸せにしようとするのは大事なことだと思う、卑下することないよ」
「うん……ありがとよ」
そして、しばしの沈黙。波の音。
「あのね……」
言葉を切り出したのはラジエラだ。
「あなたがサロナさんに求めたモノとは違うと思うんだけど……私はあなたのこと、大事にしたいって思ってる。こんな私だから、『普通』の尺度はちょっと分からないし、きっと私のもたらすことは『普通』じゃないんだろうけど……」
「いや、ラジエラのおかげで俺の人生は変わったんだ。本当に……感謝してるよ」
「そう。……どういたしまして。……ねえカンダ、人間に戻りたい? そうしたら、あなたの求める『普通の幸せ』に、少しだけでも近付けるかもしれないなって思って」
かつて『博士』が行った手法だ。カンダのクローン人体を造って、脳の中身を転写移植。かつてラジエラが「推奨しない」と言った技術だ。
ラジエラは思い返す――初めてカンダと出会った時のことを。
血だらけで、ボロボロで、波打ち際に漂着していた男。意識はなく、死につつあり……慌てて救命措置を行った。しかしそれでも間に合わないほど彼の身体は損傷していて……最終手段として、ラジエラは彼の脳味噌を摘出し、生体金属ウドンの中に組み込んだ。彼が悪人だった時のリスクはもちろん考えたが、人命救助ができる手段があるのに敢えてそれをしない選択肢はラジエラにはなかった。結果的にそれが功を奏した。彼は一命を取り留めたのだ――脳へのダメージのせいか、記憶を失ってたけれど。
そうして、ラジエラとカンダの日々は始まった。あの時は未だ、カンダはマタイオスだったっけ。
罪悪感は、あった。今もある。カンダを『自分/博士』の共犯者にしてしまったことへ。
記憶が戻ったら解放してあげようと思っていた。
だけど。
いつからだろう。カンダの愚直さに、優しさに、甘え始めていたのは。
期待が募っていく。生まれて初めての、対人関係に。
いつかは解放してあげなくちゃいけないのに。
いつかは、いつかは……そう思い続けて結局今日まできてしまった。
こんな日々がずっと続けばいいのにな、と思ってしまった。
「……、」
――静寂。カンダは俯いて、ラジエラの言葉を反芻する。
カンダは――「うん」と言うことができる部分が自分の中にあることに、言葉を失った。一瞬でも想像してしまった。人間に戻って、今度こそ真っ当な仕事をして真っ当に生きて、普通の暮らしと普通の幸せを得る自分の『If』を。
だけど――
『護っても何もここまで肩入れして今更ほっとけねえよ……いいよ、しょうがねえさ、もう俺達ゃ一蓮托生ってことで、そうしよっか』
カンダは自分からラジエラへ放った言葉を覚えている。これは約束だ。命の恩人に対しての。
「俺だけのうのうと『普通の幸せ』を手に入れるなんてズリィよ。そんなことはできない。一蓮托生で、おまえを護るんだって約束した」
「……私の言葉が、私の存在が、あなたを縛る呪いになってはいない?」
「呪いだなんて!」
カンダは思わず振り返り、ラジエラへ体を向ける。
「そんなこと思ってない! むしろ救いだとすら思ってるのに!」
「そう」
ロボットを見上げる乙女は――ふっと微笑んだ。
「なら、よかった。その言葉が、私にとっての救い」
そうしてまた海を見つめる彼女は、マゼンタの瞳をそっと細める。
「ごめんなさいね」
「どうして謝るんだよ?」
「……嬉しいって思っちゃったから」
「どうして嬉しいとごめんなさいなんだよ?」
「どうしてかしらね」
乙女はずるいから、そういって煙に巻いて。考えさせる暇を与えないように、違う話題を突き刺すのだ。
「博士が失敗した『脳の中身を転写する技術』、完成させようと思う。そうしたらあなたを人間に戻すね」
「え!? いやっ……俺の話、聞いてた!?」
「聞いてたよ。聞いた上でそう思った。あなたは普通に、人間として生きるべきだと思う。あなたはずっと頑張ってきたんだもの。それぐらいのご褒美があったっていいじゃない。……あなたのことが大事だから」
「でも……」
「あなたが邪魔になった、とかじゃないからそこは安心して。あなたに幸せに普通に生きて欲しいの、私は。それが私の夢だから」
「俺がいなくなったら……おまえは……」
「これまでだって一人で生きてこれた。だから大丈夫。それに、あなたが人間に戻れても、ずっと友達でいてくれるでしょ。縁が切れるわけじゃないんだから」
「……でも……だけど……素直に喜べねえよ……俺だけそんな……」
「いいの。大丈夫。だから素直に喜んで。そろそろあなたの笑顔が見たいな。あなたが悲しそうだと、私も悲しい気持ちになる」
「……」
ぐ、とカンダは拳を握り込んだ。そして、颯爽と立ち上がる。青い空と太陽を、睨むように見上げている。
「分かった! 今日で落ち込むの一旦やめる! 落ち込まないのを頑張ってみる!」
ラジエラを悲しませまいと、カンダは精いっぱいの元気をかき集めた。伸びをする。深呼吸の真似事をする。
「いいね」
ラジエラも続いて立ち上がる。今日もいい天気だ。
そのまま少し、二人は午前の太陽を浴びていた。
「……なあ、ラジエラ」
カンダが乙女の名を呼んだ。
「ラジエラにはさ……なんか、やってみたいこととかある?」
「やってみたいこと……」
海の風に黒髪をかきあげ、考える。
――なんでもないただの人間として、普通に町で暮らしたい。
――生きることを許されたい。
――『博士』の罪を、なかったことにしてしまいたい。
――自由を知りたい。
だけど本音を言うことは、できないから。
悪戯っ子のような笑みで隠して、乙女は言った。
「うーん、そうだなあ――男の人から花束を貰ってみたい。バラの花束を。だってなんだかロマンティックじゃない?」
「そんなんでいいのか?」
カンダに肉の顔があったなら、目を丸くしていたことだろう。ラジエラは「うん」と頷く。
「よし! じゃあ今からやろうぜ!」
なにせカンダという男、サロナにバラどころじゃないモノを貢いできた男。ブランドバッグとか、ブランド香水とか、ブランドアクセサリーとか……。だから、もう二度と誰かになにか買ってやるもんかと思っていたけれど――今回は、それとこれとは別。
「……いいの?」
「いいじゃんいいじゃん! 人間姿の機体出してくれ! あと車借りるぞ!」
「うん、じゃあ……用意するね」
ラジエラは少しはにかみながらも、楽しそうに踵を返した。
ちなみにカンダの『軍資金』だが――
「イワシタル、金貸してくれ」
コテージ側の、ハーブや花々の家庭菜園コーナーの傍。頭部のない首にそのまま麦わら帽子を被っているスーツの男に、カンダは手を差し出した。
「え? なんでですか?」
イワシタルは現在、『お花係』としてこの家庭菜園コーナーの管理を任せられている。技術を盗む気満々なので、地下ラボへの侵入を禁じがてら、「ここをずっと見てなさい」とラジエラに言い渡されたのである。なお島内は監視システムがすげえので、勝手に抜け出したり変な行動をすればすぐにバレる。ので、一日中、ただ花とハーブを見つめたりジョウロで水をやったり雑草を抜いたり害虫を駆除するだけの時間を遅らされている……。
「話聞いてただろ。貸してくれよ」
「ええ~……ちゃんと返してくれるんですか?」
「倍にして返すから」
「クズ人間の100点満点返答……え? パチとかウマで倍にするとかやめてくださいよ?」
「しねえよ! いつか真っ当に働いて返すから」
「その『いつか』ってマジでいつですか!?」
そんなこんな言いつつも、イワシタルは「今! わたくしはあなたに貸しを作った!」と言いながら札を一枚渡してくれた。これならきっとバラの花束が買えるだろう。
「ありがとよ! よっし――『子機モード、ゴー』!」
――かくしてカンダは、空飛ぶリムジンに乗り、都市を目指して飛び始めた。
誰かに何かをプレゼントするのは、なんだか随分と久し振りな気がする。そういえば忘れていた。誰かの為に――誰かに喜んでほしくて、何かを探しに行く時のワクワク感を。
嗚呼、こういうのが普通の人が持ち得る普通の幸せなのかもしれない――自動運転に全てを委ね、座席にゆったり座っているカンダは、窓越しの青い景色に目を細めた。
その時である。
きらり、空に光が灯って――「なんだあれは?」と思った瞬間、カンダの意識は子機から強制切断された。
「っ――な、なんだ!?」
VRゴーグルを外して現実世界に戻るように、視点がウドンのものに切り替わる。カンダの目に映っていたのは、空から降る光の柱だった。パラパラと、爆砕したリムジンの欠片が海に落ちていくのも見える。もう一度繰り返す。「なんだ!?」
「衛星砲……」
傍らのラジエラが眉根を微かに寄せた。カンダはそちらへ向くと、
「って何?」
「衛星からレーザーが発射されたの。それで車と子機が撃墜された」
「なぁ!? ステゴロ条約は!? バリバリのヤバ兵器じゃねーか!」
その言葉に答えたのは、麦わら帽子を投げ捨てたイワシタルだった。
「あれは焼き畑農業システムです! 空からピンポイントで焼き畑を作ることができるのです! 武器ではありませ~ん!」
「……ってことは『商会』の商品か!?」
「その通り! わたくしが敗北をしても、『商会』はまだあなた方に敗北してはいませんとも。さあ! 世界平和の礎になって頂きますよ!」
イワシタルが高笑いした直後、力二が窓からフライパンを投げつけて気絶させ、それを黙らせた。
「商会の連中が攻めてきたってのか? ヤバくねえか!?」
窓から身を乗り出した力二は顔を蒼くしている。せめて防御の為なのか、鍋を頭にかぶっていた。
「……皆、急いで地下ラボに避難して。私はバリア装置を復元させる。カンダは迎撃お願いしていい?」
砂浜から地下へのエレベーターがせり出す。カンダは「おう」と頷きつつ、首を傾げた。
「待てよ、バリア装置って『ステゴロ条約違反だから分解して破棄した』って前に言ってなかった?」
ラジエラは変なところで律儀で公平だった。ステゴロ条約を順守して『挑んで』くる者らに対してフェアである為、彼女自身もその条約に則っていた。
カンダの問いに、ラジエラは溜息を吐く。
「言った。だけど流石にアレを焼き畑農業用とは認められない。現代で焼き畑農業なんて、森を焼くより効率的な方法がたくさんあるからもう行われてない。……それに……あなた達を護りたいから」
人命を前に、ポリシーなど些事だ。ラジエラ一人だったなら、地表を吹っ飛ばされてラボまで攻撃が及んでも別によかったけれど……。
「……おまえホントにすげえなぁ」
カンダは呟いた。いついかなる時も、ラジエラの第一は「誰も死なせない」だ。ポリシーを一貫できる決意の強さに、カンダは感心と敬意を改めて覚える。分かっているのだ、きっと彼女はこう答える――「私は『前世』でたくさん殺してしまったから」。
そうして同時に、カンダは学校でもっと勉強しておけばよかったと後悔する。博士のことを歴史の授業でやっていたはずなのに。ラジエラのバックボーンについて何も知らない自分の無知さが、子供時代の不真面目さに価値を見出していた愚かさが嫌になった。
――いつものように、鋼の掌に乙女を乗せる。顔と顔を寄せて、口付けを交わす。それが開戦の合図。
鋼鉄の巨人は水平線へと向く。数多の敵影――先日イワシタルが乗っていた、ウドンと類似した黒いロボットの兵団が迫りくるのが見える。イワシタルとの時と違って、パイロットのいない無人自動操縦のようだ。
空がまた光る。衛星砲――しかし二発目は、島全体を覆った光のドームが防御する。ラジエラがバリア装置を復旧させたのだ。
ならば自分の役目は、あの贋作共をぶっ飛ばすこと。拳と拳をかち合わせ、カンダは駆け始めた。「究極アルティメットスカイフォーム」、そう叫べば科学の翼がせり出し、ジェットが噴き出し、流星のごとくとなる。
「なあオイ、大丈夫なのか?」
地下ラボ。伸びているイワシタルをロープでぐるぐる巻きにしながら、力二はラジエラへ問いかけた。ラジエラは巨大なコンソールを凄まじい速度で操作している。彼女の手だけでなく、脳波コントロールによる多数のマニピュレーターが島中で動かされていた。
「ステゴロ条約のこと?」
「……商会の連中、『博士の娘がステゴロ条約に違反した!』って鬼の首取ったみてえに騒ぐかも」
「かもね。でもいいの。私はこの先、島から出るつもりはないし。安全を確保したらあなた達も解放するし」
「おまえ……」
「今の内に言っておくね。カニくんの料理おいしかった。賑やかで楽しかったよ、ここのところは。でも、もう犯罪しちゃ駄目だよ。私が言っても説得力ないけど」
一瞥をよこす暇もないほどの作業をしながら、ラジエラはそう言った。バリア機能を応急措置的に緊急復旧できたが、現段階ではその場しのぎにすぎない。ここから安定化や維持の為に様々なプロセスが必要だった。
一方――
カンダは量産型ウドン達と激戦を繰り広げていた。イワシタル戦と違い、『肉入り』ではないからかタクティカルな行動を取ることはない。だがシステマチックで統率されている。行動に一切の無駄がなければ、情けも容赦も躊躇もない。
……だが逆にやりやすい。ぶっ壊しても死者は出ず、遺恨も何も生まれない。
「おらあああああああああ!」
殴打用変形をした拳を振り回す。コイツらを破壊するには、再生できなくなるまでぶっ壊し続けるしかない。群がられるのを殴り飛ばし、後ろから組み付いてくるのを溶けて脱出し、倒れた機体の足を掴んでブン回し、投げつける。どこまでも泥臭いインファイトだ。
そんな激戦の中、カンダは考える――さっきからずっと、ラジエラのことを考えている。
――「博士が失敗した『脳の中身を転写する技術』、完成させようと思う。そうしたらあなたを人間に戻すね」
――「あなたは普通に、人間として生きるべきだと思う。あなたはずっと頑張ってきたんだもの。それぐらいのご褒美があったっていいじゃない。……あなたのことが大事だから」
――「あなたに幸せに普通に生きて欲しいの、私は。それが私の夢だから」
――「あなたが人間に戻れても、ずっと友達でいてくれるでしょ。縁が切れるわけじゃないんだから」
――「あなたが悲しそうだと、私も悲しい気持ちになる」
あの時。
もっと気の利いたことを返せたように思う。もっと正解に近い行動があったように感じる。後悔ばかりが生じてくる。
どうしてだろう。「そんなこと言うな、俺はずっとおまえの傍にいる」も、「わかった、ありがとう、人間に戻ってもずっと友達だぜ」も、不正解に感じるのは。そして「正解の言葉を教えてくれよ」と問い詰めるのは、もっともっと不正解なんだろう。
「縁が切れるわけじゃないんだから」と彼女は言ったけれど、カンダが人間に戻って島から出たら、もう二度とラジエラとは会えない気がする。
「これまでだって一人で生きてこれた。だから大丈夫」と彼女は言ったけれど、カンダ達がいなくなれば、この先ずっとラジエラは独りで生きていく気がする。
(ずっと……こんな風に戦い続けるのか? ずっと……ずっと……死ぬまで?)
通信はずっと繋がっている。なので、カンダにはラジエラ達のやりとりが聞こえてくる。
「――なあ、連中が狙ってるのはおまえの脳内にある技術なんだろ? だったらくれてやればいいんじゃないか? 交渉だってできるだろ、欲しいものが手に入ったら連中だって無駄に手出ししなくなると思うんだが」
簀巻きにしたイワシタルに腰かけて、力二はラジエラの背中に問いかけていた。
「そのせいで『博士』が起こしたような災禍が起きたら? 博士は膨大な叡智を持て余して破壊に走った。商会や他の人間がそうならない保障はない」
「それはたられば論だしよ、破滅したらしたでおまえには関係ないことじゃないか、この島に居れば終末戦争が起きようが安全だろうし、勝手に破滅した人類のせいだからおまえのせいでもないし」
力二がそう言えば、気絶していたイワシタルがようやっと目を覚ましたようで――「そうですよそうですよ」とウゴウゴした。
「商会の目当てはズバリ! 記憶転写技術です。事実上の転生、不老不死……人類は死という原罪を克服できる。『死』が市場価値を失えばどうなるか分かりますか? 破壊や殺戮の需要が消滅する! 殺し合うことが無意味になる、つまり恒久的世界平和が実現されるのですよ! 戦争も傷害事件も殺人事件ももはや地球上から淘汰される。その素晴らしさが分からないと言うのですか?」
「そうなるのが理想なんだろうけど。技術格差や利権問題で揉めるだろうね。結局、恩恵に賜われるのはお金持ちや権力者からだろうし」
「現状をよりよくできる術を持ちながら何もしないのは、技術を持つ者として怠慢では?」
「かもね。……だけど、私には『あの戦争』をリアルタイムで知っている記憶があるの。あの悲惨さを覚えている。瓦礫だらけの焼け野原、死体だらけの世界――腐臭と蝿で埋め尽くされた空気、淀んだ空、汚れた雨、飢饉、病、それでも殺し合って奪い合うことをやめない人類、絶望と厭世が未来を閉ざして、誰も彼もが世界を呪った……」
ラジエラは淡々と言う。強いて淡々とせねば、惨劇の記憶に押し潰されてしまいそうだから。
「……博士は自前の技術で馬鹿みたいに長生きしたけれど、もう戦争を『体験』した人は生きていないものね。私がここまで争いの勃発を恐れるのを、あなた達はよくわからないだろうけれど」
そうして、乙女は皮肉気に嗤った。
「『そこまで世界を憂いるなら自殺してしまえば手っ取り早いのに』ね、本当に。……理解しているのに死ぬのが怖くて今日まで生きているこの臆病こそ、私の最大の罪なのかもね」
突き詰めれば突き詰めるほど、「己はこの世界に居ない方がいい」結論に行き当たる。この出口のない思考迷路をどれだけ彷徨ったことだろう。
だけどどうしようもない。泣いても喚いても助けはこない、救われない。だからラジエラは表情を引き締める。
「レスバは以上でいいかしら? 私、答えなんて要らないの。……ただ、少し、あと少しだけ、それでも生きてみたいだけなのよ」
その言葉に、イワシタルは尚と反論せんとした。それを力二が小突いて黙らせる。
「結論が出てる人間を論破するなんて無理さ。暴力以外の手段ではな」
そして現時点の人類の暴力ですら、『博士/ラジエラ』の技術という暴力には勝てないのだ。
男共が静かになったところで、ラジエラはふと手を止め、モニターを見上げる。戦い続けるカンダを見つめ、マゼンタの瞳をかすかに細めた。それは遥かな星を見上げる人の、憧憬に似ていた。
――商会の狙いは明確にラジエラの主義に反していた。そして商会は、こうして島に大規模攻勢を仕掛けられるほどの力を既に持っている。
(できれば、ステゴロ条約をずっと守っていたかったけれど)
ステゴロ条約を守っていると、自分が少しだけ善人になれた気がした。だけど商会に諦めてもらうには、綺麗事だけでは少々つらくなってきた。
(……生まれた時から悪人だもの。今更罪が一つ二つ増えようが――)
美しい指先がボタンを押した。
その瞬間、島より特殊な力場が発生する。
量産型ウドン達の機体が唐突に硬直した。そして痙攣しながら、どろどろの液体金属に溶けていく。
影響が発生したのはそれらだけではない。海上や空中で待機していた商会の航空隊や艦隊の機能を狂わせ不全にする。次々と乗員らが脱出を図る。
「なっ……なんだ!?」
カンダは周囲で起きた出来事に狼狽した。自分の身には何も起きていないので、ラジエラの仕業だろうことを察し取る。
『この島を、私が死ぬまで閉鎖しようと思う』
ラジエラからの通信。「閉鎖って」とカンダは状況が飲み込めないでいる。
『今までは……人類の“挑戦”を受けてきたけれど、もうそれを受けないってこと。誰もこの島に近付けないようにする。……ステゴロ条約違反にはなっちゃうけれど、私から能動的に何かをすることはないから、このことで世界が滅亡するような事態は起きないだろうし』
「……それでいいのか?」
『これでいい。というか、……最初からこうすべきだったのかもね、変な正義感とか出さないでさ』
「ラジエラ……」
『“ご苦労様”、戻ってきて』
その言葉で、カンダの戦闘モードが解除される。敵を殴り飛ばす為の形をしていた拳が、元のマニピュレーターに戻った。
「なあラジエラ、……記憶転写ができるなら、その逆というか、自分の記憶を脳から追い出すっつーか……消すことはできないのか? それで『博士』の記憶を消しちまえば……」
『頑張ればできるかも。だけど、博士の記憶を土台に私という自我は形成されている。土台を消してしまった私の自我がどうなるか――まっさらにリセットされたとして、それは元の私なのか、ちょっと疑問は残るところだね』
「うう……」
『気にしないで、あなたが気を病むことじゃないもの。これでいいの、これで大丈夫――もうあなたを戦わせる必要もなくなったんだから。あなたを安全に人間に戻す為の研究に専念できるんだし』
「あの……あのさ、あのさ」
『うん?』
カンダは俯き、拳を握り込む。肩が震えた。その足元を、波がさらっていく。背後には量産機との戦闘で倒壊してしまったコテージが見えた。男は深呼吸の真似事をして、ようやっとこう言った。
「うまく言葉にできねえんだ……もっと気の利いたことを言いたいのに……俺は頭悪いから……バカだから……もっともっといい選択肢があったはずなのに、いつも俺は何も言えない、言いくるめられちまう、論破されちまうんだ……もっと、どうにかしたいのに。おまえに笑顔でいて欲しいのに」
『……本当に、あなたは優しいね』
「そうかなあ……」
『そうだよ』
カンダはなんだか泣きそうになった。巨大なロボットの姿なのに、自分を酷くちっぽけに感じた。
「そうだ……約束、約束守らなきゃ、バラの花束を買いに行くって言ったんだ、買いに行かないと嘘になっちまう」
『――……、』
もういいのに、と言いかけて、ラジエラはその言葉を飲み込んだ。
『うん、……ありがとう。ついでにカニくんとイワシタルを町に帰すから、送ってあげて。私はその間に島を綺麗にしておくから』
砂浜の一部がせり上がり、空飛ぶリムジン2号が現れた。憮然とした力二と、まだ簀巻き状態のイワシタルと、『肉入り』になっていない子機が乗っていた。
●
――空を飛んでいる。車はステルス機能がつけられているので、現代の人間の科学力では捕捉できない。3人を安全に都市へ送ってくれる。車内は全員無言だった。車内BGMとしてかけられたクラシックの優雅さが異様に場違いだ。
「あの女は勝手すぎます」
最初に静寂を破ったのはイワシタルだった。
「まあ、マトモな感性してる女だったら、精神壊れるなり首吊るなり逃げるなりしてるだろうさ」
それか博士の二の舞とか、と力二が呟く。
「ラジエラ……あんなにいいやつなのに、なんであんな目に遭わなきゃならねえんだ」
これがカンダの、車内に入ってからの最初の発言だった。
「なあイワシタル、おまえの方から商会に、もうラジエラに手ぇ出すなってうまいことできないのか?」
「わたくしにそんな権限ありませんよ……そもそも、あんなヤベエ技術を見せられて大損害が出て、ちょっと向こうしばらくは島に近付くことすらできないかと」
イワシタルは溜息を吐き、器用に膝の上で4本の手の指を組んでいる。
「はぁ……ショックです。今回は割とガチでいけるとふんでたんですよ我々は。こうもあっさり蹴散らかされるなんて……」
「あの技術が『全盛期』だった過去の終末戦争ってどんだけヤバかったんだろうな」
力二が言う。
「死者がヤバすぎて大陸の一つの人口がゼロになったとかなんとか」
「ヤベ~……よくもまあこっから復興したよな、人類」
「過去の黄金期と比較すると人口は超減ってますけどね。……まあそのおかげで資源の奪い合いだの飢饉だのの小競り合いが抑制されてるんですが。それに、博士の技術のおかげで医療や技術が飛躍的に進んで今も活用されてますし」
「そう思うと一概に悪とは言えねえもんだなあ」
「とはいえ終末戦争の元凶である罪は揺るぎないんですけどね、罪の規模がデカすぎて」
「罪の規模かあ……実際のところ、ラジエラが逮捕されたらどうなるんだろうな?」
「死刑ということにしておいて、裏で彼女を囲って技術を得る……ってところじゃないですかね? まあ、問題は誰が彼女を獲得するのかってとこですが」
だからこそ各国・各企業・各団体が躍起になってラジエラの島へ『挑んで』いたワケだが。
「あ? てめえラジエラに死ねとか言ってたじゃねえか。殺すつもりなんじゃねえのか?」
ここで噛みついたのはカンダだ。イワシタルはやれやれといった様子で肩を竦めた。
「一言も言ってませんよ? 捕縛するとは言いましたが」
「……そうだっけ?」
「そうですよ」
カンダは「そうだったっけ……」と窓の外を睨んでしまった。
「で――ラジエラが仮にどっかに囲われたとして。あの女が散々言ってる戦争はまた起きると思うか?」
力二が話を続けた。答えるのはイワシタルだ。
「可能性はゼロとは断言できませんが、……今更、戦争をしたってねえ。メリットがないというか。先の大戦による人口激減のせいで、現状の人類には国土も資源も余裕がありまくるわけですし。奪うより開拓する方が金になるというか……」
何より、先の大戦の結果、全人類の反戦意志は未だ根強い。子供の頃から「戦争は世界を滅ぼす恐ろしいもの、タブー」として教わっており、戦争を題材にしたゲームや映画は不謹慎とされ規制対象なほどである。戦争を起こすにしても世論を味方につけねばならず、その政治的ハードルは高そうだ。つまるところ全人類は平和ボケしている。
「彼女は人間を信じてなさすぎです。博士の時代で価値観が止まってるというか……もっと人間を信じて欲しいものですね」
「ラジエラは本当に殺されないのか?」
カンダがイワシタルにたずねる。
「少なくとも商会は、彼女を殺すつもりはありませんよ。世間の『正義の拳』から守る為に書類上は亡き者にするとは思いますが」
「……」
しばし、カンダは黙り込んだ。そして――
「なあ力二、イワシタル、ちょっと話があるんだが……――」
●
都市に到着したのは夕方だった。力二とイワシタルと別れ、カンダは都市を走る。街頭のモニターには、商会が博士の島の攻略に失敗したニュースがセンセーショナルに流れていた。
もうこんな時間だ。そろそろ花屋も閉まってしまうかも。急がねば。キョロキョロと大通りを見渡す。そうすれば――あった。駆けこむ。「すいませんこれでこれをあるだけ包んでください」、力二に泣きついてもらった札を一枚。
――花束を抱えて花屋を出る。美しい夕焼けが見える。街頭モニターは専門家を呼んで、商会の失敗についてあーだこーだ言っている。夜にはバラエティが始まることだろう。
ぼうっと、色が変わっていく空をビルの隙間から見上げて、カンダはあれこれ考える。ラジエラのこと。自分のこと。世界のこと。過去のこと。将来のこと。夕日はどうして心をセンチメンタルに染めてしまうのだろう。
豪奢なフリルのような花びらの、マゼンタピンクの花束。ラジエラの瞳と同じ色の花。それを抱え直して、カンダは自分にこう言い聞かせる。「きっとうまくいくさ」。
そうして、カンダは空飛ぶリムジンに一人で乗って、件の島に戻って来た。普通に上陸できたが、『関係者』でなければ妨害の力場にたちまち乗り物が静止してしまうのだろう。
水平線の向こう、夕日が半分ほど沈んでいる。凄まじい赤さで輝いている。コテージも砂浜の穴も元通りで、数時間前に襲撃されたのか嘘のように、景色は何もかもが元通りだった。
「おかえり」
ラジエラが綺麗になったコテージから現れる。赤い靴で足跡を残し、歩いてくる。だからカンダも歩き始めた。「ただいま」と言いながら。
「ラジエラ、これ――」
そうして差し出す花束。乙女が足を止め、鮮紅色の花を見つめ……ふっと笑って目を細くした。
「カンダ、これ、バラじゃなくてトルコキキョウ」
「……え?」
「ほら、葉っぱの形が違うし、香りも違うでしょう。花は確かに、よく似てるけど」
「ウソ……」
「ふふふ。でも、ありがとう」
「ごめん! すぐ買い直してくる!」
「いいよ、これでいい。これがいい。なんだかあなたらしいミスでかわいらしいもの」
ラジエラは花束を受け取る。大切そうに抱え、柔らかく微笑み、伏目に鮮やかな色を見つめた。
「……ありがとう。嬉しい。忘れない」
「俺ってばカッコ悪い……」
「いいよ。そういうところがきっとあなたの魅力だから」
ニッと笑った。いつもはかすかな笑みしか浮かべないラジエラが、天真爛漫な少女のように、笑った。夕日に照らされて、トルコキキョウを抱える彼女は、信じられないほど愛らしかった。
「ごめんね、私、恋愛とか性愛とか分からない。だけどね、友愛は確かに感じてる」
「うん、……サロナのことがあってさ、愛の恋だのってなんだろうって思っててさ、……でもさ、俺思ったんだ、恋は冷めるけど友情って冷めないんじゃないかって。だから……ラジエラ、これからもよろしくな。ずっと友達でいてくれよな」
「もちろん」
二人は手を差し出した。橙色に煌めく海を背景に、逆光の手が、握手を交わす。