●6:星の向こうのぼくの魔物
目が覚めて視界いっぱいに映ったのは、よく見慣れた天井だった。
そこが自室のものであることにシュユはすぐに気が付く。いつのまに家に帰っていたんだろう? それとも夢を見ていたんだろうか? だとしたらどこからが夢?
シュユはゆっくりと上体を起こす。柔らかくて温かい自宅のベッドだった。見慣れた布団を見渡して――視界に留まったのは、自分の右腕。
――それはどろどろとした、泡立つ泥と触手の束がずるずるとうごめいている、見るもおぞましい造詣をしていた。
「うわーーーー!?」
ありえざる光景に声がひっくり返る。脈打つように動いたそれは確かに自分の右腕の根元から繋がっていて……事態が呑み込めないでいると、「起きたか」という声がした。半泣きになって見やれば、テーブルに頬杖を突いて座っているゴウガシャが、テレビでワイドショーを眺めていた。
「ごっごッゴウガシャさんゴウガシャさんゴウガシャさん」
「騒ぐな落ち着け、自分の形を意識しろ。お前の右手はどんな形をしていた? 人間の腕はどんな形だ?」
「あ、あ、う、あうううう……腕……腕……」
直視したくない不気味な混沌を見ないように目を固く瞑って、シュユは念じるように頭の中に自分の右手を思い描く。そうしておそるおそる目を開けてみれば、そこには人間の腕があった。
「戻った……」
はぁ、と深く息を吐いて。他にも変な場所はないか、不安にさいなまれるように体を探った――が、他に人の形を失っている場所はなかった。多分。
「端的に言うと、私の肉をお前に移植して傷を修復したのだよ」
何が起きたの、とシュユが尋ねるまえにゴウガシャは答えた。ワイドショーはCM中で、青汁の通販が流れている。
「覚えているか? 星向こうの力のに耐えきれなかったお前の体は酷く裂けた。それの治療だよ。……まあ事前に言った通り、お前は肉体の素材的には百パーセントの人間とは呼べなくなったし、ちゃんと制御しないと今みたいに人の形が崩れるようになってしまったが、命あっての物種と言うだろう?」
「ぼく……人間だけど人間じゃない感じになっちゃったんだ……」
「今更戻せと言われてもどうにもならんぞ。もう馴染んでしまった。いやはや、お前が馴染みやすい身体でよかったよ。おかげで自我も保てているし、拒絶反応も出なかったしな。適合できるのは本当に珍しい」
魔物が主人の方を向いた。心なしか機嫌がいいように見える。
「それに、人間と星向こうの魔物の合の子のような感じでカッコイイじゃないか。なにせこの私の肉と融合したのだ。基礎的な身体能力は上がっているだろうし、魔力の巡りもよりよくなったはず」
ゴウガシャの言葉を聞きながら、シュユは人の形に戻った右手をじっと見ていた。自己愛の深いゴウガシャが、自らの肉を分け与えた――そこには決して容易くはない特別な想いが込められているのだろう。シュユはそれが少し誇らしいような、特別感や優越感のような、ちょっと嬉しい気持ちになった。腕が人ならざる形になっていたのは驚いたけれど、そこに嫌悪感や後悔はなかった。ああしなければ死んでいたから。
「ゴウガシャさん、助けてくれてありがとうございます」
「もっと崇めてもよいぞ。私の肉を与えたということは、お前は私の眷属のようなモノだからな」
「ありがとう~~ありがとう~~。えへ……」
シュユはベッドから降りた――そういえば服は綺麗なものに換えられている、ゴウガシャがその辺もやってくれたのだろう――世話になった魔物へ、シュユはぎゅっと抱き着いた。魔物は拒絶することなく、伸ばす手で小さな背中を撫でる。ぐいと胸板に押し付けられる額の圧力を受け入れる。
「うふふえへへぇ~~」
「なんだ気の抜けた笑い方だな」
「こそばゆくって、嬉しくって」
「そうか」
シュユは身を離した。と、CMが終わったワイドショーが再開する。「街で起きた謎の建築物破損」と見知った街の上空からの景色が映し出された。
折れた信号や標識、ちぎれた電線、割れたアスファルト、陸橋、枝の落ちた街路樹、エトセトラエトセトラ。局地的に同時多発したそれはとてつもない大質量によるもので、かつ魔力が検知されないものであり、極めつけはこれだけ広範囲で起きているのに目撃者が誰一人としていないということだ。
「気が付いたらこんなことになっていて――」
「時を止める魔法が使われたのであれば、魔力の残滓が検出されるはずで――」
「他国からのテロ行為ではないかと――」
「現在調査中で――」
街頭インタビュー、専門家の見解、タレントの「怖いですねぇいったい何なんでしょう」というコメント。
「ほえー……あ、ていうか夢じゃなかったんだ……」
テレビ曰く昨日の夕方から夜にかけてのことらしい。昨日。たった昨日。シュユにはまるで実感がない。時が止まって、世界が割れて、星向こうから何かが来て……。その目で見た光景はどれもこれも現実を逸脱していて、今になって思い返しても「本当は夢だったんじゃないか」と思う。同時に、あんなに体がボロボロだったのに、ゴウガシャの肉を移植されて一晩で全快したのかと感心していた。
「あっ学校!」
「教師センチへ既に電話をしておいた」
「ありがとう……」
時計を見る。昼前だった。
「……午後から学校いきたいな」
心に沸き上がったのは、日常を感じたいという欲求で。きっと現実離れしたことが起きすぎたからだろう。
「分かった、では私が連絡を入れてやろう」
魔物は机の上にあったシュユの携帯電話を手に取る。「もしもし、シュユの姉ですが――」と、放つ声は姉姫サウザンのものだった。おそらく朝もサウザンの声帯を模して学校へ連絡を入れたのだろう。その方が面倒事が少ないから、と思ってのことらしい。
「さて」
電話を終えたゴウガシャは、いつものテノールボイスでスマホを置く。
「顔を洗って着替えてこい。それから食事をとれ」
「はぁい。……ごはん作ってくれるんですか?」
「なぜ私が作らねばならん?」
「ええ……こないだは作ってくれたじゃないですか~っ」
「あれはお前により長くあるまげすとを読ませる為だ」
「そんな~~いいじゃないですか作ってくださいよ~」
「怠惰を感じる。よーし分かった、じゃあ中指でいいか」
ゴウガシャは自分の中指をぐっと握り込んだ。それがちぎられる前に、「わーッ分かりました分かりましたごはん作ります」とシュユは慌てて言葉を割り込ませたのであった。
冷凍庫のパンを焼いて、目玉焼きと、冷蔵庫内の野菜を適当に切って炒めて、インスタントのコーンスープを作って。飲み物は冷たい牛乳だ。
「いただきます」
シュユは手を合わせて食べ始める。ゴウガシャはそういった人間的儀式はせず、主人が食べ始めたのを確認してから食べ始めた。共に食事をしたいという主人の欲求をいい加減に理解しているので、「私は食べなくても死なないぞ」とか「私の分まで作るのは手間じゃないか?」とはもう言わなくなった。
「おいし」
目玉焼きはひっくり返すのを失敗したので、シュユの分もゴウガシャの分も黄身が破けてしまっている。まあ味に遜色はない。ゴウガシャの肉を移植されたことで味覚に変化があったらどうしようかと思ったが大丈夫だった。少年はそのことに安堵している。それから正面の魔物を見た。相変わらず、黙々と食べている。食事をしているというよりは、主人の食事に付き合ってやっている、という印象だった。
テレビはつけっぱなしで――ふと、件の『街で起きた謎の事件』についての政府の見解が。なんでも国王は宮殿直下で起きた怪事件に関して遺憾を示しており、原因究明に努めると発言しているようだ。テレビにわずかだけ国王の顔が映る。頂いた冠より下がる垂れ衣でその顔はうかがい知れない。垂れ衣には荘厳な魔術的文様が施されており、荘厳な冠と合わせてその者がただならぬ者であることを示していた。
「ほう、こいつがシュユの父親か」
「あ……そうです」
「どんな顔をしているのだ」
「ちーっちゃい頃に一回しか見たことないんでうろ覚えなんですけど……怖そうな感じでした」
「父王に言わなくても良いのか、今回のことを。向こうも真相を知りたがっているしウィンウィンだろう?」
「うーん……」
確かに、言わないままにしておくのは人々をいたずらに不安にさせるだけかもしれない。シュユは箸を止めて考える。だけど元はと言えば自分が星向こうの魔法を制御しきれなかったせいで、星向こうの魔物を呼んでしまったのだ。そのことを父王に話しても、怒られる……どころの話じゃなくなる気がする。怒られるだけで済んだらむしろ諸手を上げて泣いて喜ばねばならない。でも隠しているのもそれはそれで居心地が悪いし……いずれ看破されそうな気もする。
「どうしよう……」
「向こうにイニシアチブを握られるのも癪だ。バーンと言ってしまったらどうだ? どうせ未成年だ、罪に問われることもなかろう」
「……ていうか信じてもらえるのかなぁ」
「信じられなかったら信じられなかったで、子供が悪夢と現実をごっちゃにしたのだろうで片付けられるだろうさ」
「とりあえずご飯食べたら姉様に相談してみよう……」
というわけで。
ちょうど向こうも昼休み中だったらしく、電話に出てくれたサウザンはシュユの話を聴いて――
「……うん。にわかに信じがたいけど、星向こうの魔法となると『嘘でしょ』なんて言えなくなるなぁ……。うん、うーん、陛下に言った方がいいとは……思うには思うんけど……」
サウザンは苦い様子だった。
「シュユ、あんたがその歳にしてとんでもない魔法使いだったって分かると、どっと面倒事が増えそうな嫌な予感がするんだよね。それこそ今までシュユに関わってこなかったようなきょうだい共が、あんたを狙い始めるかもしれないし……事が大きく報じられれば、無粋な輩の連中の目を集めることになる。ま、そうならないように私が根回しするけどね」
「うう……ありがとうございます……」
「黙っているのも得かもしれないけど……陛下のことだしな、いずれ真相に辿り着きそうなんだよね」
「そうなんですよ~~~! そうなったら『どうして黙っていた?』って余計に面倒なことになりそうで」
「うんうん……」
ちょっと長めの間が開く。サウザンが心配げに言った。
「……姉さん今からそっち行こっか?」
「いやっ、そんな悪いよ、学校忙しいだろうし」
「でも……」
「大丈夫、なんとかする」
「……そう。困ったことがあったらすぐ言ってね」
「ありがとう姉様。また連絡するね」
通話を終了する。長く溜息を吐く。
と、ゴウガシャが窓の方へ顔を向けていた。空を見ている。
「いるな」
「いるって?」
「お前の父親が宮殿に。ほー、王ともあろう者が普通に庭で一人でサンドイッチ食ってるぞ、噴水眺めながら。不可視化の結界を張っているが、私の目はそんなものでは誤魔化されん。昨夜のことで対応に追われて激務だったか、一人になりたい気分なのだろうなぁ」
「あの……あの……ゴウガシャさん、それってどういう」
言葉終わり、魔物は楽しそうに振り返った。
「今から会いに行くか?」
親指で空の宮殿を示す。シュユは目を真ん丸にした。
「ええ!? でもそんな」
「さくっと話してさくっと帰ればよかろう。まあ交渉は私に任せておけ。憂いなどとっとと取っ払うに限る」
問答無用とゴウガシャは主人の手首を掴んだ。
「待って!? ぼくまだ心の準備も何も」
「跳ぶぞ!」
瞬間である。ゴウガシャはシュユと共にジャンプをして――浮遊感、視界がぐるりと回る――気付けば芝生の上に降り立っていた。シュユはテレビで時々見る、「よ~しXXに移動だ!」でジャンプをして、着地をしたら目的地に着いている演出を思い出していた。まさにアレだった。
「ハドマ王!」
シュユがその場を見渡すよりも早く、隣で女の声がした。見上げればそこに、シュユの母の姿になったゴウガシャがいる。
そこは芝生の小広い草原で、真っ白な素材で作られた噴水が煌めき、東屋があった――が、東屋から唐突に壮年の男が現れる。垂れ衣で顔が見えないそれは、シュユの父でありこの国の王だった。
「……簡易な時空跳躍か。数多の結界を通り抜けていきなり現れるとは」
重く低い声だ。その威圧感に、シュユは後ずさってしまう。王はそれを一瞥することもない。
「シュユとその使い魔だろう」
「ほう、知っているか。まあサウザン辺りが伝えたのだろうが――私のことはゴウガシャと呼びたまえ。……無礼者だのなんだのと、衛兵を呼ばんのだな?」
「私の結界を飛び越えた偉業に免じているのだよ。……星向こうの魔法――か」
ハドマはハートレーの姿をしたゴウガシャを見つめている。魔物はその視線が心地いいと言わんばかりに長い癖毛をかきあげた。私を見ろと言わんばかりに。
「さて、お前も気になっているだろうから要件を伝えようか。昨夜の怪事件のことさ――」
そう言って、ゴウガシャは至極あっさりと真相を伝えた。
ハドマが動じるような様子は見られなかった。ただ、この国で最も偉大な魔法使いは二人を注視している。
「よもやのこのことやって来て、私達がやりました、と懺悔しにきただけではあるまい?」
「そうとも。お前達にとって、このことが公になるのはまずかろう? 末席とはいえ王族の子があんなイタズラをしでかすなんてなぁ。ま、王様にとってはそんなことよりも、無能だったはずの息子の才能が開花したことの方が重要か? お前達の歴史において、星向こうの魔法をこうも使いこなした魔術師はいない」
「……」
「だからこそだ、このことをおおっぴらにして、人々の目が『奇跡の才能』に向くことの方が不都合。……件の事件に関しては、適当な理由をでっちあげろと言いたいのだよ。そうして我々のことは放っておけ。我々はただこれまで通りの生活ができればそれでいい」
「……ほう」
「今の『跳躍』を見ただろう。あらゆる魔的な要素、物理的距離や障壁を無視して渡る力を。星向こうの、お前達の常識を嘲笑する力を。我々はこの国の居心地が悪いと判断すれば、いつだって他国に跳ぶことができることをお忘れなく」
沈黙が流れる。シュユは緊張の中でただ見守っていることしかできない。
が、その時だった。「シュユ」と父王が息子を呼ぶ。王子は肩を跳ねさせた。
「あ、の……なんでしょうか」
「こちらへ」
「え……」
「何もしない」
「……はい」
シュユは東屋の方へと歩き出した。ゴウガシャの方を振り返る。母の顔で魔物は見守っている。ついてきてくれないのがちょっと不安だったが、あの姿勢は「どの距離からでも干渉できるぞ」という意思表示なのだろう。
かくして東屋の中へ。日陰でひんやりしている。座る場所に食べかけのサンドイッチが置いてあって、ハドマ王とて食べ物を食べる人間なのだと不思議に思う。
「あの……ごはん中にいきなりごめんなさい」
「よい。感心でそういう想いは霞んで消えた」
記憶に違わぬ抑揚のない声だ。近くに来ると父王の背の高さに驚かされる。それも相まってどこか人ならざる超越的な雰囲気があった。
「……」
ハドマは何も言わず、じっと子供を見下ろしている。
何か喋らないと……そう思って、シュユは視線を困惑させながらもどうにか口を開いた。
「あの、……怒ってないです、別に何も」
なんとか話せたのはそんな一言だった。王子でありながら魔法が使えないことで追いやられたこと、それを恨んではいないと。それが王族の慣習で常識で当然のことであり、王を恨んでもどうにもならないことは分かっていた。喚いたって「そうか」で終わるだけであることも。
「ぼくは……まだ先のこととか分からないけど、でも、これまでどおり過ごせたらいいなぁって……思ってます。何かして欲しいとか、何かが欲しいとか、そんなのないです。……あ! それから……その……昨日はごめんなさい。もうあんなことが起きないように、たくさん勉強します。反省もしてます……」
「……そうか」
垂れ衣から手が差し出される。大きくて筋張った手だった。それは――シュユの頭の上へ。撫でることはしない、ただ置かれただけだった。
だけどその瞬間、シュユは不思議な感覚を覚えたのだ。なんだか地に足が着いたような……。見上げた時にはもう、手はそこになくなっていた。揺れた垂れ衣の間隙、ハドマはシュユの目を見ていた。王は人の形をしていた。相手はただの人間なのだと分かって、心の底の言葉にしきれないようなぐるぐるとした感情がスッと消えていくのを感じた。
「お前を手放したのはこちらだ。ゆえに今になって戻って来いと厚顔無恥な真似はせぬ。称賛すらも無粋と化そう。……好きに生きよ。宮殿から解き放たれたお前は、自由を謳歌することができる」
「……はい! 父様も……お仕事がんばってください。お忙しくさせてしまってのはぼくなんですけど……」
そのことについては本当に申し訳ないと思っている。「後始末に関しては案ずるな」と王は答えた。
(ま、事故でしたとかなんか適当にやってくれるだろうよ)
あの様子だとこれ以上は何もしなくて良さそうだ。ゆっくり東屋へ歩み寄るゴウガシャは思う。存外にスムーズに事が運んでよかった。実力主義と聞くから横暴な奴かと思ったが、それは杞憂に終わったらしい。これで主人は一先ず何の気兼ねもなく過ごせるだろう。
「シュユ」
東屋の傍まで来た魔物は、いつもの白スーツの美丈夫の姿になっていた。
「そろそろ学校の時間だ」
「あ――はい!」
ゴウガシャは再びシュユの手を握った。少年は最後に父へ振り返る。
「……いってきます」
「ああ」
そして二人は『跳んで消えた』。
ハドマはただ、彼らがさっきまでいた場所を見つめている。東屋の影から向こうには青い空が広がっていた。
思うところがないと言えば嘘になる。だが今は――ひとまず、昼食の続きでもとろう。そう思い、残ったサンドイッチに手を伸ばした。
●
午後から小学校に登校すると、クラスメイト達からあれこれ心配されたものだ。
正直に事情を説明すると大変なことになるし――そもそもゴウガシャがサウザンの声で「少し体調が優れないみたいで」と言っていたので、「もう治ったから大丈夫」と答えておいた。
(……前に風邪で休んだ時は、なんにもなかったけど)
こうして気にかけてもらえるようになった。シュユはクラスに、この町に、生きていくこの世界に、少しずつ馴染めてる気がした。
(話す相手も増えてきたし……友達とか、親友――なんて呼べる相手ができたらいいな)
そんなふうに考えていると、クラスメイトの一人が「ねえねえ」と話しかけてくる。実は……と真剣な様子なので「どうしたの」と顔を寄せれば。
「……今日の給食、プリンだったんだよ」
「え……」
「もったいないことしたね……」
シュユの分のプリンは、クラスメイトの盛大なジャンケン大会の末においしく頂かれたそうだ。
「クッ……」
給食のプリン。おいしいやつだ。食べたかった。もったいないことをした。帰りにコンビニでプリンを買おうと決意した。
午後の授業、国語は作文の時間だった。
シュユ達は十歳、あともう十年で二十歳だけど――「二十歳になったらしたいこと」、が作文のテーマだった。
鉛筆を手にシュユは思う。今まで未来をじっくり考えることなんてなかった。だって何も思い付かなかったから。とりあえず明日を消費している日々だった。
でも今は違う。これから何が起きていくのだろう、その中で自分は何を選び、何を成したいのだろう。……未来は確かに眩しい未知で溢れていたのだ。
視線を感じるのは、肩の上に玉虫となって留まっているゴウガシャが見ているからだ。魔物は主人が何を書くのか気になっているらしい。シュユは小さく笑って、指先で七色の魔物をちょんとつつくと、原稿用紙に文字を書き始める。
――ぼくは星向こうの魔法を極めたいです。
危なくて怖い魔法みたいだけど、うまく使えるようになりたいです。
そして、その魔法で困っている人を助けてあげられたらいいな。
その為に何になりたいとか、そういうのはまだ分からないし……考え中だけど。
あ、でも王様や嫌です。王様には、サウザン姉様かアマラ兄様になって欲しいな。できればサウザン姉様になって欲しいと思います。
どっちかが王様になったら、何かお手伝いできたらいいな……。
「シュユ、私を褒める一文が見当たらないが?」
――ぼくの魔物のゴウガシャさんはすごいです。強いし、かしこいです。
ちょっと気まぐれでおっかないところもあるけれど、いつもぼくのことを大事にしてくれるし、助けてくれるし、一緒にいると楽しいし、ぼくはゴウガシャさんのことが大好きです。
そんなゴウガシャさんと、大人になってもずっと仲良く過ごせたらいいなぁと思います。
「……これでいい?」
「まあよかろう」
書いたものはセンチ先生に提出した。
後日、返却された作文にはハナマルがついており、「シュユくんの夢を応援しています」と赤ペンで文字が添えられていた。
放課後。
シュユは返ってきた作文を日に透かすように掲げて改めて目を通して、それから気恥ずかしくなったのですぐランドセルにしまい込んだ。
「そういえばさ、ゴウガシャさん」
「なんだ」
魔物はシュユの前の席に座って、椅子ごと彼の方へ向いている。
「ぼくの右腕って、まるごとゴウガシャさんだった部分なの?」
「そうだぞ。喜べ」
「わーうーれしーい。それでですね」
「おざなりな反応をしおって」
「ゴウガシャさんの肉体だった場所なら、ゴウガシャさんみたいに変身したりできますか?」
「努力次第だな。だが多用しない方がいい、星向こうの力は人間には毒だからな。お前は私の肉を植えられているので耐性があるとはいえ」
「……練習したら、ふわふわふかふかのねこちゃんの手とかに……」
「使用例が小市民過ぎる……」
それよりもだ、とゴウガシャはシュユのランドセルをひょいと取ると、その中から宿題であるプリントとドリルを取り出した。
「お勉強の時間だ、シュユよ。未来をあれこれ崇高なものとして語るのなら、相応な知力と学力を身に着けねば話にならん」
言葉終わりには、魔物の背中から伸びる触腕が主人を椅子にガッチリとホールドしていた。
「さー頑張ろうな! 私の肉を与えても、頭をよくするのはお前自身にしかできんからな!」
「うわーヤダー気分じゃないー!」
と、そんな時だった。教室の戸がピシャリと開く。
「シュユ! ゴウガシャ! あたしと勝負なさい!」
そこにいたのは一つ上の学年の少女、アイだ。使い魔同士の決闘あそびをご所望らしい。これ幸いと少年は表情を輝かせた。
「アイちゃん! うんっ、遊ぼ!」
しかし、その考えは甘かった。
「はい私の勝ち~~~」
ゴウガシャが少女へ向けた掌――そこから蜘蛛の糸が放たれて、彼女をグルグルの簀巻きにして宙吊りにしてしまったのだ。
「ぎゃー! なにすんのよ離しなさいよーーーッ!」
「契約者は学力がそんなに高くないので勉強をすべきなのだよ。最近ちょっとマシになってきたが、この私の契約者なのだから鼻歌を歌いながらでも学年トップになるぐらいでなければ辛抱ならん」
淀みない言葉にシュユは諦めた。もがもがしているアイの方を見る。
「アイちゃんも一緒に勉強します……? 宿題まだでしょ?」
「……勉強に付き合うって言ったら解いてくれるわけ?」
「解いてあげてくださいゴウガシャさん……」
「しょうがないな」
フッと糸は消えた。着地した少女は「あーきしょくわるかった」と鳥肌をさすりながらも傍に来る。手ごろな椅子を引っ張って、シュユの机を囲むように座った。赤いランドセルも近くの机に置く。
「……言っとくけどあたし! いつもテスト百点だから!」
そして自慢げにする。何か誰かに勝っていないと気に入らない性分なのだ。
「いいかシュユ、いつか知力でもコイツをコテンパンにしてやるのだ」
「なにさその言い草ァ! あたしが負けるわけないでしょ! ていうかあたし6年生だし! 来年は中学生だし! そもそも土俵が違うっていうの?」
そう言うアイは、最近はジョーと時々会って、勉強も魔法も見てもらってるようだ。めざせ彼と同じムゲ高、とのこと。
「やっぱさー、男の人ってインテリジェンスだよねーあとたくましさと優しさ。顔だけじゃダメってこと、分かる? やっぱり思いやり、相手へのリスペクトってワケ、紳士でなくちゃね。ドSとか腹黒とか俺様とかないわー。ああいうのにキャピキャピしてる女の子たちってほーんとおこちゃまよねー。あとは将来性とかも大事にしたいし~~~」
語り始めると止まらない女子トーク。シュユは感心している。
「アイちゃんはジョーさんのことが好きなんですねぇ」
「バッ そんなんじゃねーし!」
顔を真っ赤にしてムキになる少女。「ほほう」とゴウガシャが悪い顔で食いついた。
「そんなにコイツが好きなのか」
ぐいっと前のめりに寄せた顔はジョーになっていた。間近のその顔に、少女は「はぎゃー!」と仰け反って……そのまま椅子ごと後ろへビターンと倒れる。
「なにすんのよ! なにすんのよ!」
ぷりぷりしながら起き上がるアイに、魔物に代わってシュユが「ごめんね……」と詫びた。それから机の下で魔物の爪先を蹴りつついて、元に戻るように命令する。ゴウガシャはケラケラしながらそれに従った。
「……そういうシュユは好きな子とかいないワケ?」
「女子ってなんでそういう話が好きなの……」
いないよ、と苦笑でそう言うも。
「なんだお前、作文に私のことが大好きと書いたではないか」
「あれはアイちゃんの言う好きとはまた違いますよぉ」
「百も承知だ。恋慕なんて感情で私が満足するとでも?」
ゴウガシャはするりとしどけなく頬杖を突く。美しく涼やかな美貌で、真正面の主人を見つめた。見る者によっれは、その圧倒的な美しさにくらくらしてしまうことだろう。
「私に恋したなんてつまらんことをぬかしたら殺してやる」
「ゴウガシャさんの価値観ってすごくこう……独特ですねぇ」
「だからお前達は星向こうに触れると気が狂うのではないかね?」
「なるほど……」
感心しているシュユと、ニコリと微笑む魔物。
「あんたたち仲良いのね……」
溜息を吐くアイは、黙って宿題を広げた。
●
そうして時間が流れていく。
件の事件については、自然現象としての偶然的な魔力事故としてあっさりと片付けられ、誰も彼も関心を失っていた。
シュユの生活にこれといって変わったことはなく――土曜日になった。
掃除と片付けをしっかりした部屋でソワソワ時計をチラチラしていると、クローゼットの金属キューブが『起動』し、同時にインターホンも鳴った。
そして現れた者達を、シュユは笑顔で出迎える。
「サウザン姉様、アマラ兄様、ジョーさん、おはようございます!」
勉強して、遊んで、お話をして、ごはんを食べて――
楽しい時間はあっという間で。
先に『帰った』のはサウザンだった。それから、あるまげすとを読んですぐ昏倒してしまったアマラを担いで、ジョーが「それでは失礼いたします」と立ち去った。アマラはげっそりした顔をしながらも「また来るぞー……」と手を振ってくれた。
空はもう夜だ。
雲一つない星空だ。
「ねえ、お散歩に行きませんか?」
シンと静かになった部屋の中、シュユはゴウガシャに言った。
「お前が望むのなら、月面だって歩いてやろう」
夜の喧騒の町。向こうの大通りで忙しなく車が行き交っている。
電柱の疎らな明かりに照らされて、二人分の足音。
どこに行こうとは話さずに、しかし、どこに行くのかは分かっていた。最初に出会ったあの場所だ。
そこからは町の景色が見下ろせる。黒の中、転々と散りばめられた、星空のような。
夜風が吹いた。目玉を乾かすそれに少年は一度目を閉じ、開きながら魔物へと向かい合う。
「ゴウガシャさん、これからもよろしくね」
笑って、差し出したのは左の手。人のものである場所で。
「――繧上°縺」縺ヲ繧九h」
魔物は微笑んで何かを言った。その言葉はこの世ならざる不思議な音列で、シュユには何を言っているのか分からなかった。だけど握り返してくれた手で、意味は分からずとも意図を理解することができた。
いつか、「あの時にこう言ったんでしょ」と言えるようになりたい。少年は繋いだ手を、自分を見下ろすゴウガシャを、その後ろにどこまでも広がる宇宙を見つめて、そう願う。
そしていつか「これからもよろしく」と言われたのならば、その言葉で返したい。
この、星の向こうのぼくの魔物に。
『了』
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