●5:いつものようで、いつもじゃない


 そうしてまた日々が始まる。
 穏やかで、だけど少し前と比べれば大きく変わった、そんな時間。

「……シュユ。おいシュユ」
 耳元で声がする。しまいにはついばむように耳先をカッと挟まれたので飛び起きた――飛び起きて、シュユは自分が今まで眠っていたことに気付いた。ありふれた国語の授業中で、クラスメイトの一人が起立して朗読をしているところだった。幸いにして居眠りは先生に気付かれていない……はず。
 さて耳の挟まれた感触はというと、小さな小さな蛇に変身してシュユの髪に潜んでいたゴウガシャの仕業だった。眠っていたから起こしてくれたようだ。
「お前、授業を眠ってサボれるほど成績よくないだろ」
「うう……」
 叱られながら眠い目をこする。最近、シュユは寝過ぎてしまうし以前よりも空腹を強く感じるようになっていた。それはゴウガシャとの繋がりがより太く直接的になったことで、シュユは常に星向こうの力に微弱ながらも晒され続けており、そのせいで心身が消耗しているのだという。「ずっとこんな感じなんですか」という問いに、魔物は「成長したらマシになるかもな」とだけ答えた。

「――今日も反吐が出そうなほど何もない日だな」

 放課後の誰もいない教室。ゴウガシャは教壇に座って、シュユのスマホを勝手にいじってネットのニュースを流し見していた。読むスピードは恐ろしく速い。指の動きで上から下へ流されていくのは、芸能人が不倫したとか離婚したとか熱愛とか結婚とか、野球の結果だとか、政治叩きとか、外国の不穏な動きだとか、交通事故だとか、SNSでバズったネコの動画だとか。
「ええ……今日は算数のテストがありましたよ?」
 教室は机が隅に寄せられていて空間が作られている。その真ん中にはシュユがいて、箒を剣のように構えていた。
「それはお前のイベントだろう、私にとってのイベントがないと言っているのだ。あーこの領空侵犯してきた国とドンパチにならないかなー」
 そんなことを言っている彼の小指は黒くおぞましい触腕と化して長く伸び、その先端で別の箒を持っていた。シュユの方へ箒を振るえば、少年はどうにかそれを箒で防御する。
「もー。チャンバラごっこに集中してくださいよぉ」
「私が集中して攻撃なんぞしたらお前、木っ端微塵だぞ」
「そうじゃなくて~……」
「ほら防御防御」
 ちゃんと人間が視認できる速度、かつ箒が折れない力加減で遊んでくれている。教室で箒をブン回すなんて先生に見られたらヤバいが、そのイタズラなスリルがちょうどよかった。なお他の生徒に見られて密告されても困るので、カーテンも締めているし、もしも教室に誰か近付いてきたらゴウガシャがすぐ知らせて何もなかった顔をする。
「帰りにスーパーに足を運べ、鶏卵が残りわずかだったぞ」
「あー……今日はごはんどうしよっかなぁ。何か食べたいものはありますか?」
「なんでもいい」
「そういうのが一番困りますー……」
 箒で遊ぶ音が続く。楽しいけれど大人からは怒られる行為にドキドキしつつ、他愛もない会話。最近のゴウガシャは毎回食事を共にしてくれる。相変わらず「何か作って」と言っても「自分の食事は自分でどうにかしろ」と言われるが。一度契約を使って強力に料理を作りなさいと命令をしたら、魔物は自分の小指を切り落としてポイッと放ってきたことがあったので、それ以来二度と命令をしていない。
 ……その割には冷蔵庫の中身をチェックしているようで、食材やらが足りなくなってくるとこうして報告してくれるし、賞味期限が近いものや傷みそうなものがあれば同じく教えてくれるし、面倒臭さから朝食を抜かそうとすると「食え」と迫る。ところでシュユはゴウガシャが自分で冷蔵庫を開けているところを見たことがないので、もしかしたら彼は主人が寝てから夜な夜なこっそり冷蔵庫を開けて中身を見ているのかもしれない。
「……ごはんのお話してたら、なんだかお腹が空いてきました」
「ではそろそろ帰るか」
 スマホから顔を上げて魔物が言う。箒をずっと振り回していたシュユは汗をかいて、すっかり息が上がっていた。触腕が止まったので、「はぁ」と少年は息を吐いて床に座り込む。その間に空間中をあちこちをうごめく黒い触腕が、机と椅子を元に戻し箒をロッカーにしまい、瞬く間に教室を元の状態に戻してしまった。
 シュユが息を整えた頃には、目の前にどさりとランドセルが置かれた。その向こう側のすぐそこに、白スーツの男が立っている。声は発しておらず目を見てもいないけど、「早く立て」という空気を感じた。

 ランドセルを背負って、教室から出て、ひとけのない薄暗い廊下を行く。窓の外は夕暮れ時だった。玄関で靴を履き替え、ガラスの扉からを外に出ると、赤い斜陽が目を刺した。
「……綺麗な夕焼けですね」
 手を顔の前に、日陰を作って目を細めながらシュユは言う。彼方の宮殿も夕日を浴びて、きらきら橙色に輝いていた。
「ぼく、夕暮れ好きです。一日の間でちょっとしかない時間だから」
「そうか。なら、ずっと夕暮れが続けばいいのにと願ってみたらどうだ?」
 冗談のつもりでゴウガシャは笑った。シュユもくすっと笑って、校門へと歩きながら空を見上げた。
「……あれ?」
 そうして、違和感に気付く。脚を止めて空を見上げたまま、少年は一点に目を凝らした。
「ゴウガシャさん、あれ……」
 夕日色の空を指さす。魔物も同じ方向を見上げ――「ほう」、と口角をつった。

 ――空に、一文字の亀裂が走っている。
 それは中点を横切るほどではないが、雲一つ分の長さはあった。
 真っ黒なそれは精神的な不安を本当的に煽るような色をしていた。

 同時にシュユはもう一つの違和感に気付く。
 音がしない。
 静かすぎるのだ。いつもであれば遊ぶ子供の声や、車の音、電車の音なんかが聞こえてくるのに。
 音がしない理由は、すぐに分かった。
 世界の時が止まっているのだ――風で舞う落ち葉は空中で動きを止め、信号は青のまま変わらず、車も動かず、道行く人も微動だにしない。電光掲示板の文字も、空飛ぶ鳥も、風すらも……。

「なに、これ……どうなってるの」
 止まった街の真ん中で、シュユは茫然としていた。それからハッと、ポケットにある携帯端末を取り出した。だがそれも止まってしまっているのか、電源ボタンを押してもディスプレイに明かりが灯らない。
「ねえゴウガシャさんっ、これって」
「あの空のヒビのせいだろうな」
 ゴウガシャは夕焼けの中天を示して言う。
「星向こうの力を感じる……これは、星向こうから何かが無理矢理ここへ降臨しようとしているな。『無理矢理』なものだから、この通り時空が歪んで空が割れたり時が止まったり」
「どうしてそんなことが……」
「んー……分からん。星向こうのどんな存在が来ようとしているのかも」
「その星向こうの何かが来たらどうなるの?」
「それも分からん。だが世界が平和になるとか、皆が幸せな気持ちになれましたとか、そんな都合のいいことは絶対に起こらないと思え。むしろその逆のことが起きるだろうな」
「……どうしたら……」
「ああ、どうすればいいのかを探すことは今すぐできるぞ」
 魔物はスーツの懐より、魔導書あるまげすとを取り出した。
「我々だけ動けているということは、星向こうの存在に対する適性の高さゆえだろう。そして星向こうのことについての対処法は、おそらくここに記されているのではないかね」
「時空跳躍で過去に戻ってどうこうできないんですか?」
「過去時空に干渉できるレベルにまで私に力を与えたいのなら、もはや制限を全て解除するぐらいじゃないと無理だぞ。そんなことしたらお前、死ぬぞ」
 ハートレーの生前に跳躍したのだって、違う時空から見ることしかできない上、生前のハートレーまで精確に跳ぶ為の媒介が必要だったのだ。今回はそういう繋がりや楔もない。
「何かを変えたいなら、自分で探してみたらどうだ」
 そう言って、ゴウガシャはシュユへとあるまげすとを差し出した。少年は――それを両手で受け取る。そうすると魔物の大きな手が頭の上にポンと置かれた。
「安心したまえ、共に読んでやろうとも。制限を少し解除された今、たとえ断片でもちょっとは読み取れるようになっているはずだ」
「ありがとうございます。……この本には母様の魔法がかけられているんですよね」
「ああ、私が見てきた限りではそうだ。本から魔力も感じるしな。お前を害する行為に当たるのか、私がハートレーの魔法を解除するのは無理だがね」
 シュユの母、ハートレーがあるまげすとに施したのは、シュユがこの凄まじい本を読んで精神汚染されることを防ぐ為の制限だった。ゴウガシャのような魔物が読めないようにして悪用されないようにもしてあり、いわゆる安全装置であった。同時に術式が行使しやすくなるような補助機能も備わっている。
「あるまげすとにハートレーが施した魔法は、彼女がお前に遺した唯一のものだ。それでも、もしもの時はそれを解く覚悟があるか? 母の愛をかき消すことができるのか?」
「できる」
 即答だった。シュユは真っ直ぐにゴウガシャを見る。
「あのヒビをほったらかしにしたら、危ないことになるんでしょ。それを知ってるのにできることをしなかったら、それこそ母様を裏切るようなことになる」
 魔物は目を細めた。
「誰かの為と言うか。この通り時が止まってる。誰も知らない、誰にも認知されない、誰にも覚えてもらえない振り返ってもらえない、感謝など絶対にされない、それでも?」
「それでも。ぼくの住むところを護る為にも。……誰かだけの為じゃないよ」
「ハハハハハ」
 ゴウガシャは喉を反らせて大きく笑った。
「いい覚悟だ。いいだろう、付き合ってやろうとも。ほら、本を開け。まだあのヒビが完全な穴になるには時間がある。お前にはあるまげすとの理解が必要だ」
「……わかりました!」
 シュユは表情をひきしめると、魔導書を開いた。
 内容は相変わらず難解で、文字を文字と認識できないほどだ。それにしたって辞書のように分厚い。ここから必要な情報だけを抜き取るのは骨が折れそうだ。ただの本だとしても読破にどれだけ時間がかかるか……。
「どうすればいいと思う?」
 見透かすようにゴウガシャが言う。時が止まっているのをいいことに、オープンテラスから机と椅子を触腕で引っ張ってきて椅子に座っている。シュユにも座るよう促した。
「どうすればいいか……」
 着席しながら、シュユは眉根を寄せて考える。
「今の内にヒビを塞ぐか……もしくは……」
「ヒント、召喚」
「召喚? 召喚……しょうかん……あっそうか! 召喚の逆をしたらいいんだ!」
 つまり星向こうにアレを追い返してしまうのだ。だったら、とシュユはあるまげすとのページを捲る。ゴウガシャを召喚した時に読んだページを開いた。
「ここに召喚のことが書いてあったから……その逆のこともこの近くに書いてあるはず……」
「ウーム……前に読んだ時は全く読めなかったが、前より体の調子がいいおかげで、ちょっとはハートレーの魔法を透かすことができるな……」
 ゴウガシャは紙面に目を凝らしている。
「……」
 シュユは黙り込んだ。薄く、唇を噛む。
「ゴウガシャさん、力を貸して。この辺のページにかけられた母様の魔法を解きたい。全部を解くのは難しくても、虫食いにするぐらいならちょっとは簡単になる?」
「ほう、いいアイデアではないか。……そうだな。ではお前に魔力を送ってやろう。前にドラゴンを鎮めた時の要領だ、理屈よりも想って願え」
 そう言って、魔物はシュユの手を握った――途端にまた、あの時のような、自分が自分でなくなるような浮遊感に包まれる。ここで自己を失ってはならないのだ。自分の輪郭を見定め、定義し、崩さないように見つめ続け、そうして心の中で告げる。「母様、ありがとう」と。「ぼくは大丈夫だから」と。

 ――刹那に、ハートレーの笑みが脳裏をよぎった――

「……シュユ。おいシュユ」
 耳元で声がする。しまいにはペシと頬をはたかれて飛び起きた――飛び起きて、シュユは自分が今まで意識を失っていたことに気付いた。
「はっ……ど、どうなりました!?」
「成功している。……なかなかやるじゃあないか、一時間ぐらいの昏倒で済んだのだから」
「一時間も!?」
 シュユはテーブル上に開きっぱなしのあるまげすとと、正面で頬杖を突いているゴウガシャとを見比べた。それから空を見上げる。ヒビはまだ広がってないように思う。そのことに一先ずホッとする。
「がんばって読んでいかないと……」
 気を引き締めてシュユはページへ視線を下ろした。すぐに気付く。前は文字と認識できなかったモノを、文字として認識できるようになっている。
 だが認識できたところで、本の内容はやはりとても難解だった。それでも「読めない」が「読みにくい」になったことは大きな進歩だ。それにシュユにはゴウガシャがいる。シュユを護る為と施されたプロテクトが解けた今、あるまげすとはゴウガシャも読むことができるのだ。共に解読し、シュユが分からない部分をゴウガシャが伝えてくれる。
 そこに記されているのは人智を超えた星の向こう側の世界のこと、そこに住まう神とも悪魔とも魔物とも形容のできぬ驚異の存在共のこと、それらを崇めるおぞましい賛美の言葉。凡そ何もかもが人間の既存の常識を冒涜するように嘲笑うものばかりだった。
 最初こそシュユはその驚異に感心していたが――次第に車酔いのように気持ちが悪くなってきた。目の奥が痛くなって、頭が重くなって、心臓がドクドクして、視界が回るような心地に冒されていく。これが異界魔法の、正気を蝕むことなのだとシュユは理解した。身も心も圧倒されて、頭が本能的に理解を拒む感覚だ。
「……う」
「どうしたシュユ、限界か?」
 額を押さえて視線をそらした主人に、試すような物言いで魔物は問いかけた。少年は青い顔で、それでも、前を向く。
「まだ読める」
「私だけが読んで必要な情報をお前に渡すという方法もあるのに、あえてお前は目を通すのだな」
「……これはぼくの魔導書だから、自分の目でも確かめたいんだ」
「気概は分かるが――」
 魔物は首を傾ける。
「どうせ文字を読んでも何も頭に入ってこない状態だろう。少し休憩すべきだな」
「でも……」
 ちらと空を見る。日の沈まない空、不穏な亀裂。一方で心身が白旗を上げていることは自覚していて、文字を読むどころではなくなっていた。
 ゴウガシャは何も言わずに視線だけをなげかけている。その無言に、シュユはようやっと頷いた。
「うん……ちょっとだけ休みます」
「家の布団まで運んでやろう。そのまま寝落ちるがいい」
 その声に「ありがとう」と答え、少年はゆっくりと目を閉じた――するりと体を持ち上げられる心地を覚えながら。

 それから、シュユは自室にこもってあるまげすとの解読に努めた。正気を蝕まれては倒れ、吐いて、頭痛に襲われ、具合が悪くなって――「母様もこんな感じだったのかな」と、やつれた顔で物思う。母親よりも『症状』がマシなのは、ハートレーの言っていたことは本当なのだろう。
「常人ならとうに発狂して精神崩壊していてもおかしくはないのに、大したものだなぁ」
 開け放った窓の桟に腰かけているゴウガシャは、時が止まった茜空を見上げている。その姿勢のまま、黒い触腕を伸ばして机の上にインスタントのお茶漬けを置いてくれた。続けてスプーンをぞんざいにテーブルの上に置いたので、ちゃりんと金属の音がした。
「……」
 座っている体勢のシュユは、目の前で湯気が止まっているお茶漬けを見る。ややあって、
「……作ってくれたの?」
「見たら分かるだろう」
「すごい……ゴウガシャさんが初めてごはん作ってくれた……うう……なんか泣きそう」
「感謝しろ、心の底から感謝しろ」
「ありがとう……ありがとうございます……ありがとう……」
 いただきます、と手を合わせる。お茶漬けは温かかった。
「あれ? そういえば時間が止まってるから水が出てこないのにどうやって」
「水なんて元素魔法の模倣みたいな感じでいくらでも。それを熱湯にするのも同じく」
 ゴウガシャがかざす掌の上に水の球ができる。ぐっと握り込めばそれは消えた。
「すごい……便利だ……」
「こうして魔法を能動的に使えるようになったのも契約制限が緩和されたからだな」
「あっじゃあぼくちょっとお風呂入りたいです……」
 時が止まってからどれだけ時間が経ったのか(こんな表現はトンチンカンだけれども)、分からないが結構な時間が経過している気がする。その証拠に空のヒビ割れは確実に大きくなっていた。時が止まって水が出ないのでシャワーを浴びていないシュユの申し出を、魔物は「任せたまえ」と快諾してくれた。
「ゴウガシャさんもお風呂入りませんか」
「私はいかなる時も清浄なのだ」
「……じゃあ湯舟の中でお魚に」
「変なことを思いつくなぁ……」
 なんだかんだで言うことを聴いてくれる魔物である。
 温かなバスタブの中、青くて翼のように見える器官を三対ほど携えた海洋生物、アオミノウミウシが優雅に泳いでいる。本来は猛毒らしいが、無毒で無害な存在としてゴウガシャは変身してくれている。大きさも本来の該当生物のサイズと比べればかなり大きい。
「この世ならざるモノに化けてやってもいいが、化けるものによればお前の正気が消し飛びかねんからな。感謝したまえよ」
「ぷにぷにだーふふふ」
「さては聴いてないなコイツ」
「はぁ……癒されるぅ……」
「頬ずりまでするか……もういい、好きにしろ……」

 ――そうやって、時が止まった中で休憩と解読を繰り返し。
 ようやっとシュユは結論に辿り着く。

「最初にゴウガシャさんを呼んだ時。あの時、成功したように見えたけど、その実は完全にはうまくいってなかったんだ」
 テーブルに向かい合って座って、シュユは言う。
「いわゆる……招待状を適当にたくさんバラまいちゃったみたいな感じで……来てくれたのはゴウガシャさんだったけど、ゴウガシャさん以外にも『招待状』を受け取っちゃったひとがいたみたいで」
 ゴウガシャが『先着』として使い魔の契約を結んでしまったので『星向こうの何か』は降臨できなかったが――ここでシュユが星向こうの魔法に関して類を見ない適性があったことが災いする。シュユという強力な呼び声に惹かれた星向こうの何かは、門が閉ざされた後も現れることを諦めず、空間の壁をずっと引っ掻き続けていたのだ。
 抽象的な表現になるが、そもそも『招待状』を大量にばらまける時点で人智を超えた能力であると魔物は主人の力量を評価した。
「まさかお前の力がヤバすぎたせいとはな」
「うう……ぼくのせいでこんな……」
「まあなってしまったものはどうしようもない。それで?」
 ゴウガシャが続きを促せば、少年は真剣に頷いた。
「召喚の逆、魔物を星向こうへ戻す魔法の方法があるまげすとに載ってたんだ。それを使えばいいと思う……けど、その為には魔物が50%以上はこっちの世界に顕現してないとダメなんだって」
 だから、とシュユは魔物を見つめた。
「魔法はぼくががんばるから、こっちの世界に現れた星向こうの魔物は、ゴウガシャさんが足止めしてくれる? 町に被害が出ないように、逃げられないように、ぼくが死なないように」
 術の行使はシュユを激しく蝕むだろう。そのリスクは承知の上で、時間を要するその術を使用している間は無防備になることも把握済みだった。
 主人の言葉を待っていたかのように、魔物は目を細めて笑う。
「いいぞ、いいだろう。だが今のままではいかんせん力不足だ。相手は何にも縛られていない全力の状態で来るが、私には枷がある」
「……どれぐらい外せばいい?」
「ほう、迷いがないな。面白い。そうだな……前回の比ではないぞ」
 手を伸ばす魔物が、シュユの頭を掴んで寄せた。
「今度こそ心も体も耐えきれなくなって死ぬかも。それでもいいんだな?」
「――……」
「怖いか? なら、私と星の向こうのどこかへ逃げようか? 夢のような場所へ連れて行ってやろうか?」
 その声は甘くて優しい。だけど思いやりではなく、挑発の類なのだと少年は知っている。そしてその挑発が、嘲笑から生じたのではなく信頼から生じたものであることも。
 だからシュユは、きっぱりとこう言った。
「やっとここで、明日が楽しみだなぁって思えるようになってきたんだ。もうちょっとがんばったら、もしかしたら、もっといいことが待ってるかもしれない。この、ぼくが生まれて生きてきた世界で」
「そうか」
 魔物は笑った。楽しそうに美貌を華やがせた。ぽん、と頭を撫でてから手を離す。
「ではあのヒビから魔物が来るまでのんびりしようか。まだ時間はある。こんな風に時間が止まっているなんてお前らにとっては滅多にないことだろうから――散歩でもしてみるか?」
 差し出されるのは掌だ。
「うん! 行こう!」
 少年はその手をしっかりと握る。

 ●

 時が止まった世界を歩いた。
 永遠の夕紅。建物の窓を輝かせる斜陽。橙、赤、紫と色が移り変わる雲。東の空は既に暗い。
 そして、そんな空は今や全てが砕け散りそうなほどに亀裂が広がっていた。今にも空が崩れて世界が壊れてしまいそうな、そんな恐怖をもよおすような。
 幻想的だ、と思うのは不謹慎だろうか――シュユは坂道から見える街を見下ろしている。風すらも止まった世界はぞっとするほど静かだった。
 自分はこれからどうなるのだろう。ふっと、耳が潰れそうなほどの無音の中でそう思う。
 今ここであの亀裂から現れるだろう星向こうの魔物に対抗できるのは、自分だけとはいえ――緊張と不安が確かにある。うまくいくだろうか。うまくいかなかったらどうなるのだろう。そんな弱気がふっと脳を過ぎる度、そもそもこの事態は星向こうの魔法を上手く扱いきれなかった自分に責任があるのだ、と少年は自らを叱咤する。しかしそんな理屈で容易く納得できるほど、その心は大人になれてはいなかった。
 そうしてまた空が割れる。少年はそれを見上げていた。改めて、星向こうの魔法が危険なものであるのだと知る。
「シュユ、お前は私を呼んだのだ。この広い広い宇宙の中、遠い遠い距離を超えて、数多の中から話の通じる稀有も稀有な怪物をひとつ――出来過ぎた奇跡じゃあないか。だからきっと必然のことだったのだ。誇るがいい、自らを」
 数歩先を歩く魔物が振り返る。目と目が合う。星雲色の煌めき。艶やかな黒髪も白いスーツも夕日の色に染まっている。少年が不安そうにしているのは尋ねなくとも分かっていた。励ますというよりも、ゴウガシャは自分の主という『自分の上に立つ存在』が弱腰になっていることを許さぬのだ。気位が高く自己愛が深いがゆえに。
 シュユは変に同情されたり憐れまれるよりも、そういった付き合いをされる方が居心地がよかった。チヤホヤされるのは慣れていないのだ。それにゴウガシャの振る舞いは裏表がない。嫌なものは嫌と言い、快いものは快いと要求する。そして上から目線ではあるが、少年を見下して軽んじることはしなかった。
 少年は魔物の言葉を受け取って、止まっていた脚をまた動かし始めて、隣に並んだ。
「……そういえばゴウガシャさん、いつのまにか『契約者』じゃなくて、ぼくのこと名前で呼んでくれるようになりましたね」
「そうだな。名前で呼んでやりたくなったからだよ」
 二人分だけの足音。どうせ誰も見ていないので、少年は魔物と手を繋いだ。そっと握れば、大きな手が握り返してくれる。

 かくして二人が足を止めたのは、二人が最初に出会った場所だった。長い年月が経った訳ではないのに、シュユの胸を打ったのは懐かしさだ。
 フェンスの向こう、彼方に摩天楼を望む、くたびれた雑草がまだらなる空き地。少年のお気に入りの場所だが、そういえばここに足を運んだのは久しぶりだった。前はよく、ここで一人でいたものだが――そうか、独りではなくなったからか、と納得する。
「ここで、こんな感じの夕暮れの時に、ジョーさんと会って……」
「てっきり王子であるお前を狙う暗殺者か何かと思ったぞ、あの時は」
「うん、ゴウガシャさんがイキイキと戦ったから……ちょっと面倒なことに」
「結果的には円満に済んだのだからよかったじゃあないか」
「そうかも……アイちゃんとも仲良くなれたし。結果的には、アマラ兄様達とも仲良くなれて」
「このまま他のきょうだい共とも和平を結ぶか?」
「いやぁ難しいんじゃないかな……ほとんどの姉様兄様達は、基本的に自分が勝ちたいって人達だし。あんな風に優しいのはアマラ兄様とサウザン姉様ぐらいです」
「ふ。シュユが星向こうの魔法使いとして成長していけば、いずれそういった者らがお前の前に立ちはだかるかもな」
「どうかな……どうだろう……もしそうなったら、その時はその時で」
「楽観的よなぁ。まあ、命を狙われても奪われんようにしてやるさ」
「加減はしてくださいね」
「分かってる分かってる」
 さて、と二人は一息を吐いた。並んで見上げる先の空――蜘蛛の巣のように空を覆い尽くした亀裂は、遂に、音もないままに割れてこぼれて崩れ始めた。それは世界の終末のような、何も知らない者が見れば恐怖に凍りつきかねない光景だった。
「いいか、シュユ。今から出てくるモノは決して直視するなよ」
「うん」
「それから私の姿も、できるだけ視界に入れん方がいい」
「わかった」
「では手筈通りに」
 そう言って、ゴウガシャは片膝を突いてしゃがみこみ、シュユと目を合わせた。頭に手を置き、そのまま抱き寄せ、額同士を重ね合わせる。
「――信じるぞ」
「うん、信じて」
 言葉終わりに二人は離れた。ゴウガシャは一跳びでフェンスの上に立ち、そして街へと跳び下りていった。
 シュユはその背を見送って、背負っていたリュックからあるまげすとを広げる。それから木の枝で乾いた砂の上にぐりぐりと、幾何学模様にも、天文図のようにも、子供の落書きにも見える図形を描いていくのだ。
「これで……よし!」
 少年は顔を上げる。かつては自己主張も幸も薄そうだったそのかんばせは、今は凛と覚悟を持った色をしていた。
 そして彼は自分の脳に意識を集中させる。契約の媒介である、人間の最も大切な器官。シュユは願う。超一時的に、ゴウガシャという怪物の制限のほとんどを解除することを。
 かくしてその瞬間だった。空の全てが砕け散り、天は夕焼けではなく雲一つない星空となる。宇宙と直結している黒だった。暗い世界――その彼方から『下りてくる』巨大な何かと、それを阻まんと立ち向かう黒くおぞましい大きな闇。ピントが合う前にシュユは目を閉じた。根のように火のように身を起こしたあの黒い何かが、ゴウガシャの変身ではない真の姿なのだと気付きながら。
 同時に体を襲うのは、すさまじい虚脱感と頭痛だった。鼻の奥から鉄臭いものがどろりと垂れてくる。大気が唸るような音、泡が爆ぜる音、この世ならざる音が聞こえてくるのは幻聴か否か。この世ならざる星向こうの力に晒され、人間という脆い心身は著しく軋んだ。
(倒れちゃいけないんだ、ぼくは)
 やり遂げなければならない。「信じる」と言われて、「信じて」と返したのだ。
 母に望まれ、希望を託され、愛されていた。彼女が果たせなかったことを受け継いで。
 これは誰にも知られない顛末でいい。いや、『誰にも』ではない。シュユがやったことはゴウガシャがずっとずっと覚えていてくれるのだ。たとえこの星が太陽に飲み込まれた久遠の彼方でも。そうすれば不安や恐怖は不思議と薄らいでいった。
「何かお前に誇れるようなことはないのか?」――最初に会った時、ゴウガシャはシュユにそう言った。
 今なら自信を持ってこう言える。
「あなたと友達になれたことです」

 ●

 風の音が聞こえる。
 車の音が聞こえる。
 町の音が聞こえる。

「……シュユ。おいシュユ」
 耳元で声がする。こんなことが前にもあった――少年はゆっくりと目を開けた。そして自分が気を失っていたことに気付いた。少年を覗き込んでいるのはゴウガシャだった。白スーツの、美しい男の姿をした。彼はシュユを横抱きにしていた。
「ゴウガシャさん……」
 声が酷く出にくい。そしてとても寒い。体が濡れているような感触がした。間近の魔物は、名を呼ぶ一言だけで主人の言いたいことを全て察知し、頷いて見せる。
「音が聞こえるだろう。時が動き出した音が。お前の魔法はうまくいったのだよ、誇るがいい。……私にも、町の人間にも怪我はない。建物は幾らか損傷してしまったがね」
「そう……ですかぁ……」
「見ろ。お前が護った景色だ」
 顔を上げて示す。シュユも同じくと彼が見た方を見た――夜の町。星空のように文明の明かりを散りばめた、シュユが生きていく場所。
 なんだかとても眩しくて、とても綺麗で、少年は目を細めた。
「お前はよくやったよ。褒めてやる。……全く驚嘆に値するよ、お前のようなやつは初めてだ」
 再び、魔物は主人を覗き込んだ。理性をとろかすような甘い囁き声。惚れ惚れするような涼やかな笑み。ぞっとするほど完璧な美貌。シュユはそれに笑みを返せた……と思う。
「さて、もう気付いているだろう。お前の、自分自身の状態に」
「……ぼく、体が……」
「そうだ。ズタズタになって、あちらこちらが内側も外側も千切れかけて、血がたくさん出ている。かつてお前の母が砕けてしまったように。痛くないのは私が痛覚を麻痺させてやっているからだ。――星向こうの力に晒された傷は、お前達が扱う魔法ではどうにもならないだろうな。概念規模の裂傷なのだから」
「……」
「お前には選択肢がある。このまま美しい私に看取られて死ぬか、それとも素晴らしい私のとっておきの策で生きるか」
「……」
「前者はヒロイックな終わり。呆気ない幕引き。ただそれだけだ。後者は――厳密には人間とは呼べない体になってしまうが、シュユがそれでもいいならば」
「ぼくは――」
 少年は、赤い掌で魔物の頬に触れた。
「生きたい。やりたいこと、まだ、たくさんあるから――」
 その言葉に。
 魔物はニコリと微笑んだのだ。
 そうして主人へ顔を寄せて……――覚えているのはそこまでだ。シュユの意識は、暗転する。
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