●4:こんばんは

 遠慮をしたけれど、アマラが「折角だし泊まっていけ」と繰り返すものだからシュユはその通りにした。
 かくして今は、用意された寝間着に着替えて客室のベッドにいる。ベッドサイドの明かりだけつけて、寝そべったまま開くのはあるまげすとだ。読むと狂うとまで言われている禁書であるが、難読過ぎて文字を文字として認識できなかった。
「いい夜だ。星がよく見える」
 声の主であるゴウガシャは窓際、一人掛けソファに脚を組んで優雅に座している。
「……星向こうの魔法は、夜に使った方がいいって母様が前に言ってました」
「昼でも星は輝いているのだが、夜の方がお前達にとって概念的に馴染むのだよ」
「そうなんですかぁ」
 少年は窓辺の使い魔を見た。星向こうの魔物だからか、窓から見える星空がよく映えた。黒い背景に白いスーツだからかもしれない。
「ねえ、星向こうってどんな場所なんですか?」
「お前に理解できる水準の表現がこの次元に存在しない。よって精々『凄い場所』とかいう極めて語彙力のない間抜けな表現しかできん」
「すごいばしょ」
「世界はとても広く深淵だ」
「宇宙を漂って……いろんな人、ヒト? に出会ってきたんですよね」
「そうだな」
「お話、聴きたいです」
「……ダメだな、制限のせいで表現ができん。下手に違う時空のことを話すと――ああ、これも言えないか。まあとにかくよくないことが起きかねんワケだ。それでも聴きたいのならあるまげすとを使って、私を縛る契約を緩めてみたらどうだ?」
 その物言いは冗談なのか、冗談の皮を被った本気なのか。ゴウガシャはいつも人を食ったような尊大な物言いで喋るから、真実はうかがい知れない。

 ――契約による制限が厳しいほど、使い魔は主人に干渉することができない。ゴウガシャがシュユに嘘を吐いたり、間接的でも害意を成そうとすることができないことがそれにあたる。つまり危険な存在を安全に使役することができる。一方で、制限が厳しければそれだけ使い魔の能力も限定されてしまう。枷のようなものなのだ。
 だが、ただの枷ではない。使い魔との契約は、魔法的な見えない糸で繋がるということ。その糸によって、使い魔と主人は相互で魔力を分かち合うことができる。ゴウガシャが契約を介してシュユへ魔力を送ったように。だが制限を解放された使い魔は、命令を無視して主人から一方的に魔力を啜り切ることが可能だった。ちょうど、アイのドラゴンが暴走した時のように。その逆で、強力な使い魔から膨大な魔力が雪崩れ込んで、風船が破裂するように主人の心身が『決壊』することもあった。
「……」
 シュユは魔導書に視線を落とした。ゴウガシャを疑っている訳ではないけれど、彼がとても危険で取り扱い注意な存在であることは知っている。だけど彼のことを信じてもいる。
 制限を緩くしたらどうなるんだろう。スリルに似た好奇心は、否めない。かつ、彼を信じているという感情論の一方で、もしものことを考えると軽率に手出しをすべきではないという理性もあった。

 そんな考え事をしている。部屋には沈黙が流れる。ゴウガシャはそれ以上の言葉を紡がない。
 ぺら、とシュユは手遊びのようにあるまげすとの次のページを捲った。流すように読めないそれを見ている。その間にもゴウガシャのことをずっと考えていた。読もうと思って読んではいなかった。けれど――ある文字列に目が吸い寄せられた。難読で読めないはずなのに、文字が星のように光って見える。まるで言葉がシュユを呼んだかのようで――それは最初にゴウガシャを呼んだ時の満天の星空のようで――
 そうだ。あの時。何かを変えたくて。どうにかなって欲しくって。何もないままが恐ろしくて。もしかしたら母に会えるのではないか? もしかしたら素晴らしい世界に旅立てるのではないか? 期待と不安とが混じりすぎて表現できない胸の痛さを抱えていた。砂に魔導書から読み取った図形を描きながら。この文字の瞬きは、その時のことを想起させる。
「――――、」
 かくして少年は『呪文』を口にした。

 ●

 アマラはかつて感じたことのない気配に飛び起きた。ほとんど無意識の領域だった。
 髪を結うこともしないままに部屋から飛び出す。夜の暗闇が支配する邸宅、傍らには従者の気配がある。
「ジョーか」
「アマラ殿下、お気付きですか」
「ああ」
 一直線に向かう先はシュユの部屋だった。
 先んじて扉を開けたのはジョーだ。アマラの盾としてあるのが彼である。その回復魔法による無尽蔵な回復によって、文字通りの肉壁となる為だ。
 そのことを幼少より承知しているアマラは彼の背後から部屋の中の様子を見る――夜の世界の中、ベッドにはシュユが目を閉じて伏せており、傍らには何かが。何か、としか形容できない夜と闇と混沌の具現が在った。直視した者の正気を脅かすおぞましさにアマラとジョーは目を見開く。だが次の瞬間には、そこにはあの白スーツの美丈夫がいたのだ。
「どうした、そんなに殺気立って。怖いか?」
 まるで人間達の心を見透かしたかのように、ゴウガシャは笑っている。窓から見える星空を背景に、ニタリと笑った赤い口が見えた。
「……何が起きた?」
 ただならぬ雰囲気に、アマラは本能的にその手の中に氷の槍を作り出していた。ジョーも緊張感を最大に身構えている。
「アマラ王子よ、お前ほどの優れた魔法使いなら当ててみたまえ」
「まさか……ゴウガシャ、君の制限緩和したのか!?」
「そうだとも。奴は自らの門を開いたのだ。私がより真の私で在れるように。100%ではないがね、残念ながら。――それにしても大した個体だよ。シュユは実に、星向こうの力に馴染む体をしている」
 首を傾け、魔物はその白い手で少年の頬の丸い輪郭を撫でた。
「星向こうに連れ去ってしまおうかな。こんなところにいるよりも、もっともっとその命が輝ける場所に」
「貴様ッ――」
 一歩前に出るアマラの体からは、魔力による火花が散っていた。それが彼の感情の高ぶりを示していた。
 魔物の流し目が少年を見据える。
「兄貴面を今更か。シュユが星向こうの魔法を極めれば、お前が狙う王位は遠のくぞ? 見捨ててしまえ。お前にとってシュユは邪魔だろう? いなくなった方が都合がよかろう? まさか『かわいそう』だからか? 『かわいそう』なら――」
 瞬きほどの刹那の後、ゴウガシャはシュユの姿に変身していた。
「かわいそうなら、どうしてぼくをずっと独りにしたの」
 悲しい目をして、少年は兄を見上げた。
「兄様も、姉様も、父様も、どうしてぼくを憐れむの。ただ魔法が使えないだけで。魔法が使えない人は他にもたくさんいるのに。王様の子供だから、ただそれだけで、どうしてそんなにガッカリするの?」
「……違う。シュユ、俺は君の生きる未来を護りたくて」
 変身であり、愚弄である、そう分かっているのに、兄の目にはあまりに目の前の子が自分の弟に感じられた。
「見下してるんだ! バカにしてるんだ、ぼくのこと! ぼくが何もできないからって! 何もできないぼくを許してはくれないんだ! だから母様もぼくのことを見てくれないまま死んじゃった!」
 それは本当にシュユが心から嘆いているかのようだった。

「みんなみんな大嫌いだ――こんな世界、大嫌いだッ!」

 その叫びと同時に、世界が震えた。
 落下するような、視界が回るような、不可思議極まりない浮遊感の直後――
 アマラとジョーは、真っ黒でどこでもない場所に立っていた。見渡す限りの暗闇だ。そして、立っている場所がなにか肉のように柔らかいことに気付く。そうして更に気付くのだ。彼らが立っていたのは、あまりに巨大な黒い掌の上なのだと。
「少しかわいがってやろうか。私とシュユの力が見たいのだろう?」
 どこからともなく声が響く。老若男女に獣の声が合唱するような、複数の口が同時に話すような奇妙な声だった。
「見て、感じるがいい。これがお前達が無能と嗤った少年の、願いの帰結だ」
 彼方、日が昇るように赤黒い光が火柱のように揺らめく――それは閉ざされた目蓋なのだと直感し、見てはならぬと本能が叫び、ジョーは咄嗟に主人を庇った。
「殿下、あれを見てはなりません!」
「邪魔」
 巨体をぴんと弾いたのは黒い触腕だった。あまりに巨大な一撃が、青年を完全に跡形もなく叩き潰す。
 残されたのはアマラのみだ。少年は「見てはならぬ」というジョーの言葉を信じ、目を閉ざし――掲げるその手に魔法によって太陽もかくやな巨大な火球を作り出した。それをどこを狙えば良いかも分からぬままに放つ。風で、氷で、雷で、礫で、もしもそこが町ならば建物と言う建物が木っ端微塵になっているだろう嵐そのものの姿となって――しかしそのような激しい力を以てしても、アマラにはこの謎の状況が全く理解できなかった。幻覚なのか夢なのか、それとも現実なのか……。
 魔物が含み笑う声が耳元で聞こえた。思わず目を開けた少年の目の前にはシュユがいて――その子は手にナイフを持っていて――じくり、と腹に熱のような痛みを覚えた。根元まで突き刺された刃。白いシャツがどんどん赤く染まっていく。
 兄王子は顔をしかめた。彼はその魔法によって高熱という鎧を身に纏い戦うが、目の前の弟の姿をした何かは焼ける気配も何もない。弟の無表情を、アマラは見つめる。
「すまん、シュユ。謝って許されることではないとは理解している。今ここで何を言っても惨めな言い訳にしかならないことも理解している。それでも―― うぐッ!」
 刺されたナイフでぐりっと抉られ、アマラは歯列を剥いて呻いた。屈めた体で、そのまま目の前の弟を抱き締める。
「それでも俺は、君を含んだ世界の為に力を使いたいと思っているのだ!」

 ●

 ――夢の中で、兄に酷いことを言った気がする
 心の奥の奥の奥底の、自分でもずっと気付かなかったような、黒い黒いヘドロのような感情をぶちまけて。
「こんなふうに思っていたんだろう」
 肩を抱く掌の感覚。門が開かれ、魔物と深く繋がったことで、魔物はシュユの心全てを見ることができていた。
 少年は目を閉じたまま開けることができない。真っ暗な目蓋の裏を見つめたまま、小さく頷いた。

 思い返すのはいつだって、母の背中。
 星読みの魔女と謳われた、偉大なる魔法使いハートレー。
 いつもいつも、彼女は自分の研究室で、たくさんの本と天体に関連した魔法の道具に囲まれていた。

「ごめんね。お母さん今忙しいの」

 呼びかけても、返ってくる声はいつだってそれ。
 いつも彼女は何かに追われているような、焦燥した様子だった。
 正気を蝕む星向こうの魔法に挑み続け、時にはそのリスクで伏せったり、吐いたり、悪夢にうなされたり、自傷したり、虚脱状態になったり、感情がぐしゃぐしゃになったり――……扉越しに聞いた泣き叫ぶ声を、シュユは忘れることができない。
 使用人らの無機質な世話で、広い宮殿で一人だった。父に会いに行きたくても、「それはできません」が使用人らのお決まりの言葉だった。

 そんな中で、時々こっそりと姉姫サウザンが会いに来てくれた。一緒に遊んでくれた。「シュユは王子様なんだから」とサウザンは励ましてくれた。
 寛大であれ、許すことの尊さを覚えよ、容易く激昂するな。「たとえ魔法が使えなくったって、シュユは王子様なんだ。誇り高くありなさい」。姉の教えが、今のシュユの根幹を成していると言っていい。
 一方で、姉が気軽に会いに行けないのは――星向こうの魔法を扱う連中なんて気狂いばかりだから近付いてはいけない、とサウザンの母方一族が彼女に猛反対していたからだ。会いに行ったことがバレた日など、酷く酷く叱られていたらしい。……そんなことを赤裸々に知ってしまったのも、使用人達が噂をしていたからだ。使用人らは魔法を使えぬシュユに何ら敬意を抱いておらず、狂気と隣り合わせの星向こうの魔法を扱うハートレーにも嫌悪感を覚えていた。
 サウザンはこの国の王族の在り方をいつも疑問視していた。彼女は言った。「いつか私が、私達を変える」。それはとてもいいなぁとシュユは思った。
 そして、サウザンはいなくなった――正しくは、遠い遠いところの大学に行ってしまった。

 魔法を使えないから、シュユは姉や兄が行くような学校に通うことはできなかった。試験を合格できなかったからだ。だから普通の小学校に行くことになった。宮殿からは使用人の魔法で通った。
 王子なのに魔法が使えないんだ、という疑問は数年もすれば日常の中に当たり前として溶けて消えた。流石におおっぴらに迫害するような者は、腐っても王族という立場からか現れなかったが、だからこそ腫物のような、浮いた存在として敬遠されることになった。

 相変わらず魔法が使えないまま、年月が過ぎた。
 アマラを始め、姉姫や兄王子達は目覚ましい功績を上げ続け、それをいつもシュユはぼんやりニュースで眺めていた。
 母の研究はますます上手くいっていないようだった。
 このままでは、今のままではいられないほどにまで追い詰められていた。

 そんな母が死んだのは、あっけないものだった。

 星向こうに関する魔導書、あるまげすと。それがこの世界で作られたものなのか、星向こうの何かが寄越したものなのか、由来は誰にも分からない。ハートレーはその魔導書を使い、星向こうの魔法を行使し、失敗し――その体になだれ込んだ膨大な力で、体が千々に砕け散った。
 シュユは現場を見ていない。ハートレーが事故で亡くなった、という知らせは知らない人が伝えに来た。そこからすっかり記憶がない。意図的に覚えないようにしていたのだろう。
 兎角、シュユは気付けば血肉の後を綺麗に掃除された母の研究室にいて、誰も恐ろしくて触ろうともしなかったあるまげすとを、見つけた。それを抱いて――その場から逃げるように立ち去った。走りながらシュユはようやっと母の死後に初めて泣いた。

 王の妻であるのに立場が弱いのは、子供が魔法を使えないできそこないだから?
 魔法を使えたら、少しは手伝うことができた?
 そうしたら、事故で死ぬことはなかった?
 振り向いてくれた? 会話をしてくれた?
 何か言葉が欲しかった。
 頭を撫でてくれとは言わない。せめて、手を握って欲しかった。

 宮殿に住めなくなったのはそれからだ。
 この国の王が多くの伴侶を持つのは、その魔法の才能を強く継いだ存在を生み出す為。ゆえに、魔法を使えぬシュユなど塵芥も同然で。
 姉サウザンの計らいで、どうにか住む場所を確保してもらえたし、どうにかこうにか生き延びてはいるけれど。

 かくしてあの日――あの夜――あるまげすとを持ち出して夜を駆けたのは――突発的な行動だった。

 ある日、唐突に、糸がふつりと切れるように、心を虚無が占めた。
 なんだかどうなってもよくなって、どうにかなってしまいたかった。
 明確に言う。母に会いたいと思った。あるまげすとによる『事故』で。
 この本で、何か変わるんじゃないか、何かを変えられるんじゃないか。
 変わってしまいたかった。死体に、あるいはよりよい未来に。

 雲一つない星空だった。
 町明かりが見えた。
 空に宮殿が見えた。
 世界に一人だけのような気がした。

「それで私を呼んだのか」
「使い魔が召喚できるらしい部分だけ、読めたんです。失敗するって思ってた……」
「なぜ、その心にがらんどうを抱きながらも、お前を顧みなかった連中に復讐しようと思わなかった?」
「……そんな勇気がなかったんだもん。誰かは誰かの友達で、家族だし……」
「それで結局、私と言う力を得たお前は、その力をお前を祝福しなかった他者の為に使いたいと願った。誰にも悲しい目に遭って欲しくない、と」
「誰かを助けたら、誰かの役に立てたら、その人に覚えていてもらえるでしょ。壊したり、殺したりするやり方じゃ……支配はできても、振り返ってはもらえない」
「ははは! そうだ、それでこそ私の主人に相応しい。この自己愛者め」
「それにね」
「それに?」
「やっぱり、誰かが困ってたら助けたいって思うんだもん。たとえありがとうって言われなくても」
「本当に強欲よなぁ。世界中の至るところで大小様々な悲劇が起き続けている星だというのに」
「――だからついてきてくれるんでしょ?」
「そうさ。私はいつだって、身に余るほどの大それた願いを抱いている存在が好きだ」
「ありがとう」
「お安い御用さ」
「……それでね、最初の話に戻るんだけど」
「お前の中の、お前を顧みなかった連中への怒りと恨みか」
「うん……きっと、八つ当たりしたいとか、どうにでもなっちゃえばいいとか、許せないとか、そういう気持ちはぼくの中にはあるんだと思う。誰かを悲しませたいって心のどこかでは思ってるぼくが……誰にも悲しい目に遭って欲しくないって思うのは、変だけど……変だから……だから、誰にも内緒ね」
「おっと。ではあいつらの記憶をいじっておかねば……いじめるのも中止……」
「なんのこと?」
「まあまあ。それよりもだシュユ、お前の兄がな。たとえお前から恨まれようが、それでもお前を含む世界に尽くしたいだの言っていたぞ」
「……そうなんだ」
「嬉しいのか」
「うん。……あのさ、ところでゴウガシャさん」
「なんだ」
「ここはどこなの? ぼくは夢を見ているの?」
「さあな。ただ、目を開けない方がいい。――大丈夫、じきに目が覚めるよ。本当さ」
「ゴウガシャさんはぼくに嘘を吐けないもんね」
「そうだとも。健気に信じているがいい」
「……目が覚めたら、ぼくは何か変わっているのかな」
 その問いに。
 魔物が笑ったのを、シュユは暗闇の中で感じた気がする。

 ●

 一瞬だった気がするし、ずっと眠っていたような気もする。
「シュユ!」
 少年を覗き込んでいたのは、姉姫サウザンだった。
「……姉様?」
 数度の瞬きの後、シュユはベッドから重い体をどうにか起こした。そして自分のいる場所が、眠る前の記憶のままであるアマラ兄王子の客室であることに気付く。窓の方を見れば青い空が見えた。
「あれ? どうして姉様が」
「あんたブッ倒れたんだよ!」
「え」
「ゴウガシャの制限を緩和したんだろ。そのせいで星向こうの力が体に逆流して昏倒したんだ」
 サウザンは額を押さえて、乗り出していた体を元に戻した。
「ちゃんと会話ができてるし、私が誰かも分かるみたいだし……精神面に異常はなさそうだな」
 てっきりシュユはあのまま眠って、次の日に起きたのだと思っていたが――どうらや3日ほど目覚めなかったらしい。そのことを聴いて少年はぎょっとする。
「普通の人間だったら精神崩壊していてもおかしくないような状況だったんだよ。本当に……心配させて」
 伸ばされる手がシュユを抱き締める。その肌が柔らかくて温かくて、少年は姉がゴーレムではなく本物の姉だと気付いた。わざわざ来てくれた――そんな喜びと安心感と同時に、申し訳なさが込み上げる。
「ごめんなさい」
「謝ることじゃない。いいんだ、無事ならそれで。……体の具合はどう? 痛いところとかない?」
「うん、ちょっと怠いぐらい」
 体を離して微笑み合った。
 と、ドアが勢いよく開く。
「弟よ、目覚めたのか!」
 兄王子アマラである。急いでシュユの元へ駆け寄ろうとして――足がもつれて思い切り転倒しそうになるが、傍に気配なく現れたジョーがそれを支えた。
 サウザンはそれを一瞥して溜息を吐く。
「アマラ、目ぇ覚めてからまだ本調子じゃないんだろ。大人しくしときな」
「姉上! しかし!」
「でっけえ声だすな」
「はい……」
 姉に叱られ、しずしずとアマラは傍に来た。
 サウザンは脚を組み、「経緯はアマラから聴いてる」とシュユに言う。
「シュユがゴウガシャの制限を緩和した日の夜にね、アマラとジョーはゴウガシャと接触したんだと。詳しいことは何も覚えてないそうだが、星向こうの魔物に精神干渉されたことで、シュユみたいに昏倒していた」
「……嘘ッ。ゴウガシャさんが!? あああああの兄様ごめんなさい!」
 シュユは慌てて兄の方を見たが、彼は苦笑を浮かべた。
「かまわない、元より実力が見たいと言っていたのはこの俺だ。……何があったのか覚えていないのが悔やまれるが、とんでもないことが起きたような気がする。それと……シュユ、君に謝らねばならない気もするのだ」
 アマラは弟の手を取った。真っ直ぐにその目を見澄ました。
「俺は必ず、王となって世界を統べる。よりよい楽土に変えてみせる」
「私の前でよく言うねぇ」
 首を傾けサウザンが笑った。細い眼が弧を描き、長い長い髪がさらりと揺れる。
「玉座は私のモンだよ。力の時代に終止符を打つ」
「姉上なれど好敵手、加減は致しませぬぞ」
「おーこわいこわい」
 姉と兄は火花を散らすが、そこに憎悪の類はなかった。なのでシュユはホッとする。相変わらず、姉や兄達の夢への熱意はすごいなぁと敬意を覚えながら。
「シュユ殿下、お加減はいかがですか。何か召し上がりたいものなどは」
 主人らをよそに、ジョーが控えめな声で尋ねた。「遠慮は不要です」と先んじられるので、「じゃあリンゴ……」と小さく答えた。青年は頷き、スッと消える。本当は消えたのではなく、気配なくその場を後にしたのだが、あまりにも視界に入らず自然な動作なので消えたように見えた。従者として影として徹底しているなぁとシュユは感動を覚えた。
 そうだ、従者といえば――
「……ゴウガシャさんはっ!?」
 その問いに、姉と兄は王座に関する討論をピタリとやめて、気まずそうな表情を浮かべた。
「それが――いないんだよ。あるまげすとごと」
 姉の言葉にシュユは一瞬、息を詰まらせた。
「そんな……」
「大丈夫、町は至って平和だから、ゴウガシャが暴れたりってのはないはず……それより、何か心当たりはある?」
「分かんない……でも!」
 シュユはベッドから起き上がる。体が重いのはずっと横になっていたからだろう。
「ゴウガシャさんを探さないと……ぼく、言わなきゃいけないことがあるんです!」
「……そう。でも」
 サウザンがドアの方を示す。そこには一口分にカットされたリンゴ入りの皿を持ってきたジョーがいた。
「支度してからね」

 ●

 学校には連絡を入れている、とサウザンは言っていた。平日の昼間から、学校ではなく町を歩き回るなんて不思議な気持ちだった。
(ゴウガシャさん、どこに行ったんだろ……なんでどこかに行っちゃったんだろ……)
 姉と兄はゴウガシャ探しを手伝うと言ってくれた――姉はそのゴーレムを操る魔法で、砂より無数の蝶々型ゴーレムを作り出して町に放ってくれた。兄は町中に魔力を込めた風を吹かせ、その風をレーダー代わりに広範囲を捜索してくれている。ジョーは「自分は殿下達のような器用なことはできませんが」と言いつつも、その足で捜索に協力している。
 往来でシュユは足を止める。ビルが空を囲んで、車が道路を行き交っている。息を少し整えた。
『……いないね』
 シュユの肩には砂の蝶が留まっている。サウザンのゴーレムだ。アマラもジョーもゴウガシャを発見できていないと付け加える。
『妙だな……こう言っちゃあなんだが、私とアマラの魔法による探知は広範囲かつ精密だ。たとえ魔法で姿を消していても魔力で探知できる。……なのにここまで探していないとなると』
「遠い遠いところに行っちゃったんでしょうか……」
『そう思って……私達も範囲を広げてるんだけどね』
 天才的な姉姫はゴーレムを『超』が付くほど遠隔操作できる。その姉が「広範囲を探している」と言っているので、よほどの距離を探してくれているのだろう。アマラについても同じくだ。
『……ケンカでもした?』
 蝶々が尋ねる。シュユは首を横に振った。ずっと歩いているから暑くて、額には薄ら汗が浮かんでいた。
「夢の中で……夢かどうかも分かんないんですけど、ゴウガシャさんとお話したんです。笑ってくれた――嬉しそうにしてたんです」
『だったら尚更、どうしてあるまげすとごといなくなったのやら』
 愛想を尽かしたとは思えない。シュユと魔物を結ぶ契約はまだ存在しているから、『消えた』訳でもないし誰かの使い魔になったはずもない。ただの散歩だったとして、あるまげすとを持って行った理由は? サウザンもシュユも考えるが、答えは出そうにない。

 分からないまま、少年は街を歩き続ける。
 日は傾き、夕暮れになる。

 町には下校の子供がちらほらと見え始め――「あ」という声でシュユは呼び止められた。振り返ればアイがいた。最初に会った時のように取り巻きの女子らを連れて。
「シュユ? あんたどうしたの。学校休んでるって聞いたけど」
「ええと……その――あのね、」
 少年はゴウガシャがいなくなってしまったことを伝えた。彼を探している最中なのだと。
 すると少女は得意気に胸を張った。
「なんだ、そんなこと。じゃ、あたしも手伝ってあげる! あんた達ももちろん手伝うよね?」
 アイは取り巻きの女子らに言う。シュユ(というかゴウガシャ)に負けた時はとてもふさぎ込んでいた彼女だったが、ジョーに魔法を教えてもらったこと、そして再戦の一件から自分を見つめ直し、今ではすっかり元気になったようである。
 彼女は変わらないけど、変わったのだなぁとシュユは感じた。
「ゴウガシャの写真ある? クラスの子に画像送って手伝ってくれないか頼んでみるし」
「いいの? ちょっと待ってね――」
 シュユは携帯を取り出した。コミュニケーションアプリでの連絡先を交換して、シュユの端末を使ってゴウガシャが勝手に撮っていた自撮りの画像をアイに送る。
「……改めて見ると、ほんっと顔だけはいいねコイツ」
 キメ角度のゴウガシャは、シネマスターがSNSに上げた画像もかくやな美しさだ。アイは目を細めてまじまじと眺めている。シュユは「あはは……」と苦笑した。
「グループチャットに送信っと……それじゃ探してきてあげる。あたしが見つけたら今度なんか奢ってよね!」
 言うなり、アイは自分のドラゴンを呼び出してそれに跨り、飛んで行った。取り巻きの女子らも銘々に走り出す。
 シュユはその姿を見送った。「友達できたんだね」と肩の蝶が優しい声で言う。
「うん……友達って言っていいのかな」
『いいと思うよ?』
 ふ、とサウザンは穏やかに笑った。
『……そろそろ日も暮れてきたな。ぶっ通しで探してるし、家も近いし、ちょっと休憩したら? 脚も痛いだろ』
「ん……じゃあちょっとだけ休憩する」
 姉の言う通りだった。正直、とても疲弊している。シュユは呼吸を整えると、一度家へと向かった――。

 ●

 なんだか久々の帰宅な気がする。
「ただいま……」
 シュユはドアを開け、部屋の電気をつけた。
「おかえり」
 ぱ、と明るくなるワンルーム。シュユのベッドに脚を組んで腰かけていたのは、白スーツの美丈夫だった。
「……」
 シュユは靴を脱ぐのも忘れて茫然としていた。対するゴウガシャは、ぱらぱらと膝の上であるまげすとを捲っている。
「……ゴウガシャさん!?」
「ゴウガシャだが?」
 少年は素っ頓狂な声を上げて、よろめきながらも靴を脱いで、魔物へと駆け寄った。
「どこ行ってたんですか!」
「調べものをしに、ちょっと時空跳躍。今戻ったところだ」
『時空跳躍? ああ……この時空軸にいないなら、そりゃ見つからない訳だな……』
 ゴーレムを介してサウザンが溜息を吐いた。
『それにしても時空跳躍なんてとんでもないことをサラッと……』
「制限がまだまだ残っているので干渉はできない状態だがね。哀しいことに覗き見程度だ」
『で、そんなことをして何を――』
 していた、とサウザンが尋ねるより速く、魔物の体に飛びついたのはシュユだった。ぎゅっとその身を抱き締めている。
「いきなりどこかにいかないでよ……」
「お前がいつまでも寝てるから暇だったのだ」
「ビックリしたし! なんでだろうって不安になったし! もう二度と会えないんじゃないかって、ぼくのこと置いていったんじゃないかって……」
 顔を上げる少年は泣きそうだった。魔物はその表情を見下ろして、片眉を上げる。
「軽んじられたものだな、私がそんなことをするとでも?」
「いろんな人に迷惑かけたっ!」
「なんだとぉ? なぜ?」
「急にいなくなったから、皆がゴウガシャさんのこと探したっ!」
「あ、そーなの」
「もう!」
「怒るな怒るな、こうしてここにいるじゃあないか」
 魔物はニッと笑って顔を寄せた。
『……せめて一言ぐらいこの子にゴメンナサイって言いな』
 ひらひら飛ぶ蝶が言う。と、その瞬間だった。口を開けたゴウガシャの舌が蛇に変じ、空中のゴーレムをぱくんと呑んでしまった。シュユが驚いている間に、蛇は魔物の口の中にゴーレムごと消える。かくして魔物は主人を見つめた。
「愛してる」
「へ」
「次は用意周到にやりますという意味だ」
 事態を理解しているが、素直に人間に謝るのが癪なのだろう。ひねくれている魔物である。意図は伝わったので、シュユもそれ以上の文句を引っ込める。それよりもなぜ姉のゴーレムを潰したのか、そしてなぜ時空跳躍なんぞしていたのかが気になった。
「――さて、シュユよ、お前だけに話したいことがある。その為に私は時空跳躍をしたのだから」
 シュユの疑問に答えるかのように。膝の上に少年を抱いたまま、ゴウガシャは掌で彼の目を覆った。そうすればあの時の夢のような暗闇で、世界と意識は閉ざされる――。

 そも、お前が制限を緩めたことで、私とお前との境界線は薄くなった。つまり私はお前により干渉できるようになった。
 なので私はお前の心を覗いた。そうしてお前の感情を知った。お前が自覚もしていないような裏側までな。同じように記憶も知った。たった10年ぽっちの短いものだが。
 ――ここまでが前置きだ。
 あの時、お前と問答をした後、私は時空を跳んだ。が、制限緩和されたとはいえ、まだまだ不十分でね。精確に跳ぶ為にも媒介としてあるまげすとを拝借した。あるまげすとの元々の所有者の元へ跳ぶ為に。
 そう、魔女ハートレー。シュユを生んだ人間だよ。
 私はハートレーが生きていた時空へ跳んだ。先にもサウザンへ言った通り、メタ的な場所から覗き見しかできないがね。
 私は真実が知りたかったのだ。魔女ハートレーは何を想っていたのか?
 だから私が垣間見た真実を、お前にも見せてやろう。

 ――暗闇が渦巻く。
 シュユの目を覆う掌が退けられて、そこは真っ暗なのに、不思議と見ることができた。
 そこにはゴウガシャが立っていた。しかし次の瞬間、彼は変身する――遠い記憶のままの、シュユの母、ハートレーに。
 くたびれたスーツ。ざんばらに伸びた癖毛。いつも目の下にクマがあり、じっとりと『疲れた/憑かれた』ような三白眼をしていた。背も低く猫背で貧相で、いつだって仏頂面で、とても美人の類ではない。シュユをとびきり不健康にして大人の女性にしたらこうなるのだろう、という外見をしていた。
 母様。シュユは彼女に駆け寄りたかったが、体は動かなかった。ハートレーはじっと息子を見つめたまま、口を開く。神経質そうで覇気のない、記憶に違わぬ声だった。
「シュユ――そもそも魔法適正皆無なお前がゴウガシャを召喚できた理由はね。あなたが異界魔法――星向こうの魔法の適性があまりに高すぎたからなの。ごくごく稀なことなんだけど――ある魔法への適性があまりに高すぎると、他の魔法の適性が極端に低くなってしまうんだ」
 あなたの場合は星向こうの魔法という希少も希少な魔法への適性が高すぎたせいで、結果的にどんな魔法も使えないような状況になったの。
 気付いたキッカケは、幼児期のあなたがとてもあるまげすとに惹かれていたから。あなた、まるで絵本代わりのようにあるまげすとを読んでいたの。私の研究室は危ないから入れないようにしていたのに――まるであるまげすとが呼んだかのように。文字が読めずとも正気に異常をもたらすはずの禁書を、あなたはしばらく平然と読んでいた――途中で酷く泣きだしたけれどもね、それでも精神は健全そのものだった。
 私は確信した。あなたはいずれ、私ですら一日に1ページも直視できないこの恐るべき禁書を、完全に理解できるだろうと。あなたはこの人類史において最も偉大な星向こうの魔術師になるだろうと。私よりもずっとずっと才能に恵まれて――そして星の向こうに愛された寵児なんだと。
 だから私にできることは、未だ異端にして狂人の危険な魔法と忌避される星向こうの魔法を、他の魔法のように地位のあるモノとして土壌を固めておくことだった。この魔法を、あなたの魔法を、世界に認めさせねばならなかった。
 そして、あるまげすとはあなたに託すつもりだった。だから私はこの禁書に魔法をかけた。難解な内容でも理解できるような補助を、それでいて理解のし過ぎで精神が汚染されないように一部の文字をロックして。同時に、呼び出した使い魔に悪用されによう、人間以外は読めないようにして。
 できること、思いつくこと、なんでもやった。
 もしも私の所業が失敗すれば……星向こうの魔術師になるだろうあなたは、おぞましい存在だと石を投げられてしまうだろうから。

 私は、心血を注いだ。
 あなたの未来を護りたかった。

 ……その結果、あなたにほとんど構ってやれず、母親らしいことは何一つできず、成果もあげられないまま気狂いの子と疎まれてしまったね。
 私は何もできなかった――何も変えることはできなかった。
 我ながら愚かしいと思う。呪われても仕方がない。

「ごめんね、シュユ。そしてどうか覚えていて。私はあなたを宇宙で一番――愛してる」

 ――そうして世界は明転した。

 シュユはゴウガシャの腕の中で、その胸に顔を押し付けて、ただただ涙が出るのをそのままにしていた。
 ゴウガシャはシュユに嘘は吐けない。だからこれはどうしようもなく真実なのだろう。 
「ぼくは――」
 ひゅうと喉が鳴りそうになりながら、少年は絞り出した。
「要らない子じゃなかった」
 ハートレーは、シュユの方へを振り返っていた。ずっと見つめていたのだ。
 もう二度と会うことはできないけれど、確かにそこに絆はあった。
「シュユ、お前はお前が思っている以上に、価値のある人間らしいな」
 魔物は小さくなっている子の背中を撫でる。少年は人ならざる者の白い服をギュッと掴んだ。
 大きな安堵のような、許されたような、ここにいてもいいような。そんな心地を少年は覚えていた。その心が解けていくような心地が、どうしようもなく涙をつれてくるのだ。
「ぼく、ゴウガシャさんに言わなくちゃいけないことがあるんです」
 ようやっと、どうにか顔を上げる。手の甲で目を拭って、シュユはゴウガシャの完璧な造詣の顔を見上げた。
「……あの日、ゴウガシャさんを星向こうから呼んだ日から、あなたのおかげでぼくは変われたんです。ずうっとなんにもなかった日から。ゴウガシャさんに会えてよかった。この星に来てくれて――ぼくの声に応えてくれて、ありがとう」
 その言葉に、魔物は涼やかにそして優美に笑った。ふと顔が寄せられる――柔らかくて温かな感触が、少年の唇に触れた。それは一瞬で、気付けば顔は離れている。けれど魔物の高い鼻梁が少年の鼻先に触れていた。
「この星の人間の友愛表現だろう」
 本気なのか、とぼけているのか、からかっているのか、分からない。頭の処理が追い付かなくて茫然としっぱなしのシュユに、魔物はからから悪びれずに笑った。
 そうして彼は指を鳴らす。するとクローゼットから物音がして、直後にサウザンがクローゼットを内側から勢いよく開いて飛び出してきた。例の金属キューブから生じたゴーレムだろう。
「ゴウガシャァ! あんた私のゴーレムをぶっ壊して何のつもりだ! その上この部屋を魔法で干渉できない空間にしたし! シュユに何かしたんじゃねーだろーなーッ!!」
「何も? 少し話をしただけで。なあ、契約者?」
 魔物が流し目で主人を見る。シュユはまだポカーンと魂が抜けている。当たり前だが唇を重ねる行為なんて人生で初めてだった。
「明らかになんかあった顔じゃねーかッ! それに泣いた後の顔だしッ! テメーこのエイリアン!」
 ゴーレムの髪が逆立つ。それはよく見れば束が剃刀のような鋭い刃物になっていた。
「おーいシュユ、お前の姉をいさめたまえ」
「……はっ。姉様!」
 我に返った少年は魔物の膝から降りて、姉のゴーレムの方へ。
「あの! 大丈夫なので! ……母様の話をしてもらっただけです。ゴウガシャさん、母様を見てきたんですって」
「……ハートレーさんを?」
 その名前が出たのは意外だったようだ。シュユはベッドの上のあるまげすとを拾い、抱き締める。それを全ての答えとした。今何もかもを暴き立てずともよいだろう――そう悟った姉姫は、「そっか」と安堵の笑みを浮かべた。
「それじゃあ、ゴーレムを介して皆にゴウガシャが見つかったって伝えるね。――。――アマラが来るって言ってるけど?」
「え……別にいいですけど、」
 うちなんにもありませんよ、と言い終わる前にはドアが開いていた。
「シュユ! 見つかったのかッ――あッ狭ッ痛ッ」
 普段ド広い豪邸でのびのび育っている少年にとって、庶民的なワンルームは狭すぎたようだ。思い切り体をぶつけながら、なかば倒れるように現れる。それから顔を上げてゴウガシャの姿を見ると、ホッと安心した様子を見せた。
「全て弟の為だったのだろう。……ありがとう、感謝する」
 アマラは魔物へキチリと礼をした。
「少々危なっかしいところもあるが……君になら、弟を任せても大丈夫そうだ」
「よきにはからえ」
 ゴウガシャは得意そうに顎をもたげた。
 シュユはその様子を見守っていたが、ふと携帯端末がピロンとメッセージ受信を告げる。見ればアイからで、「ゴウガシャが見つかってよかったね」という内容だった。砂の蝶は彼女へも言葉を届けていたようだ。
 ありがとう、と返信する。かわいらしいスタンプがすぐ届いた。
「お友達は、ジョーにお家まで送るのを任せておいたよ」
 様子に気付いたサウザンが言う。その言葉は本当のようで、スマホの画面にアイとジョーが共に写った画像データが送られた。アイが自撮りの要領で撮ったらしい。
 画面からシュユが顔を上げれば、サウザンと目が合った――姉姫は弟を抱き締める。
「今日を覚えておいて。シュユが困った時は、助けてくれる人がこんなにいることを」
「……うん、姉様」
 柔らかくて温かな気持ちだった。こんな気持ちは初めてだった。
「さて」
 体を離し、腰に手を当てたサウザンは口角をつる。
「お腹空いてるだろ、カレーでも作ろっか?」
「……食べる!」
「よーし。アマラ、あんたも食べていきな」
 シュユの部屋をまじまじ見渡していた上の弟に言うと、彼は目を真ん丸にして振り返った。
「姉上、よろしいので?」
「みんなで食べよーよ。ジョーも呼んでやりな。『私』もすぐ行く」
 たまにはいいだろ。姉姫は楽しそうに笑った。

 ●

 大きい鍋はないから、底が深い大きいフライパンで代用した。冷凍していた野菜と肉と市販のルーとで作って、電子レンジで加熱したインスタントの米にかける。小洒落たことは何もしていない、ありふれた大衆の味のできあがりだ。
 足りない椅子は、サウザン(本人)が金属キューブを操作・形成して新たな椅子を作ってくれた。それでもワンルームに五人は狭い。ぎゅうぎゅうに身を寄せあって、狭いテーブルに所狭しとカレーを並べた。
「あの……狭かったら私は外でも構いませんので」
 ジョーは遠慮がちに言うが、隣のアマラが「それは許さん」と肩を叩くので諦めた目をしている。
 温かくておいしそうな香り。5人で一緒に食べる想定なんかしてなかったので食器がないので、急遽近くのコンビニで紙皿とプラスチックのスプーンと紙コップを買ってきた。ちなみに買い出しに行ったのはシュユとゴウガシャだった。

「いただきまーす」

 皆で手を合わせる。スプーンを持って、食事が始まる。
 レトルトとはまた異なるカレーの味。体にじんわり染み入るような、優しくて満たされる味がする。
「おいしい?」
 サウザンは柔らかな表情で弟達を見守っている――普通に普通の家族の食事を夢見るサウザンにとって、異母なれどきょうだい達と食卓を共にするのはとても嬉しいことだった。「おいしいです」と頬張りながら言う弟らの頭をわしわしと撫でる。
「いっぱい食べてでっかくなれ」
 そう言われながら――シュユはゴーレムではないサウザンと最後に食事をしたのはいつだろう、と思い返す。それからアマラの方を盗み見て、まさか自分の家で兄王子と食事を共にするとは思わなかった、と実感のない心地を抱いた。
「……おいしいですか?」
 くすぐったい心地をはぐらかすように、シュユは隣のゴウガシャを見た。相変わらず人の真似をして人のように食べるのがうまい。それでいて品がいい。もぐもぐしている魔物が主人を見る。
「人間にとって好ましく感じる味の成分をたくさん感じるので、おいしいんじゃあないか」
「そうですか~」
 感想が人からズレているとはいえ、肯定的な意見なようでシュユは笑った。なんだかこの時間がずっと続けばいいのにな、と思った。
「あ、そういえばアマラ兄様」
「どうした」
「あるまげすとですけど……譲ることはできませんが、共有でしたらかまいませんよ」
 そうすれば兄の夢を少しでも応援できるのではないか。思いついたことをなげかければ、アマラは目をぱちくりさせた。
「いいのか?」
「借りパクするんじゃあないぞ」
 ゴウガシャがからかうように言う。「そんなことなせんぞ!」と答えるアマラの横、ジョーは黙々と刑務所の食事もかくやな風貌でカレーを食べている。
「手元にないのはちょっと不安なので……読みに来ていただければいつでも」
「いいアイデアだな! うむ、そうしようそうしよう!」
「……最初っからそう提案しときゃ、面倒事なんて起きなかったものを」
 ボソッとサウザンが呟いた。「あんたは脳筋すぎンだよ」とスプーンに人参を載せたまま姉は付け加えた。
「ぬっ……そ、れはそうかもしれませんが、しかしですね姉上、この先行きも見えぬ世で生き抜いていく為には」
「少なくともそーゆーのは年下のまだ小学生の弟にふりかざすもんじゃない」
「ウウッ」
「で――私、毎週土曜にゴーレムだけどシュユんとこ顔覗かせてるんだ。アマラも来たら? あるまげすと読みに。シュユはどう? いい?」
 サウザンが振り返るので、「もちろんですよ」とシュユは笑った。アマラはパッと嬉しそうにする。
「では俺も土曜に邪魔するとしよう!」
「それと……アマラ、分かってるとは思うけど星向こうの魔法は勝機を蝕む危険な代物だから、くれぐれも気を付けること。ジョー、こいつの見張りと気付けの魔法の用意よろしく頼むよ」
「御意に」
 答えた従者はもう食べ終えていた。仕えるものとしてもてなされていることがとても落ち着かないらしく、少し困ったような顔をしている。「のんびりしてなよ」と姉姫に命じられれば「はい」と簡潔に答えた。
 それを横目に、アマラはシュユへ声をかける。
「シュユよ。父上――国王陛下に陳述しようか。君が宮殿に戻れるように。なんだったら俺の居館に住んでも構わんぞ」
「んー……」
 ぱく、とカレーをまた一口食べてシュユは考える。考えて、考えて――
「嬉しいお話ですけど、ごめんなさい。ぼく、ここでの生活が気に入ってるんで」
 ここにいれば王族というしがらみを感じずに生きることができる。シュユは玉座を得たいとは思わず、同時に王族としての暮らしに魅力も感じなかった。
「えー。なんだぁ、折角ではないかシュユ、贅沢三昧酒池肉林だぞ。税金で遊び放題だぞ」
 そんな主人をゴウガシャが肘で突っつく。言っていることが悪徳すぎて「そういうのはダメです」とシュユに釘を刺された。「なんだつまらん」と魔物は片眉を上げた。

 ●

 そうして夜も更けて、姉も兄も帰っていった。
 風呂や歯磨きも済ませて、一日中歩き回った疲れがどっと出てきて、シュユはベッドにばふんと横になる。
「ゴウガシャさん、電気消して……」
「相も変わらずしょうもないことに私を使うなぁ……」
 するりと伸びる魔物の髪の束に一つが鳥のくちばしのようになって、壁のボタンを押した。そうすれば部屋は真っ暗に。カーテン越しの夜の街明かりだけが、ほんのりと部屋を照らしている。
「なんだか不思議」
 顔を横向けて、少年はカーテンの向こうの世界に想いを馳せる。
「何が不思議だ?」
 ベッドがわずかに揺れたのは、縁にゴウガシャが座したのだろう。
「ゴウガシャさんが来てから、いろんなことがいっぱい変わったような気がして」
「変わりたかったのだろう。その願いが星に届いただけだ」
「うん……ありがとうございます」
「感謝は幾らでもしていいぞ」
 衣擦れの音が聞こえたのは、魔物が脚を組んだ音だ。それから薄闇の中、シーツに手を突いた彼が主人の顔を覗き込む。
「お前は無欲だが強欲でおもしろい。目を見張るほど大成するもよし、無様に破滅していくも見ものだな。特等席で『観賞/干渉』させてもらうよ」
「……じゃあ、友達になってくれますか?」
「仰せのままに。望むのなら情婦でも恋人でも、法律が許すのなら書類上で結婚してやってもいいぞ」
「わあ……なんか大人の世界的なことを言ってます?」
「ハハハ。まあ、友達で了解したよ。友達だ。……疲れただろう。そろそろ寝ろ」
「うん、……あのねゴウガシャさん。今度どっか遠いところに行く時は……ちゃんと教えてからにしてくださいね……」
「……分かった。分かったよ。勝手に時空跳躍してすまんかった。手間をかけさせた」
 ぽん、とシュユの頭に掌が置かれる。少年は目を閉じた。
「おっきいネコになってくれたら許します」
「しょうがないな……」
 ぎし、とベッドが軋んだ。そこには大きな――ベッドを埋め尽くさんばかりの体積を誇る――長毛の黒猫がおり、にゃあと鳴いて寄り添うように身を伏せた。
「ねこちゃん……」
 そのもっふもふに体を埋める。柔らかくてクリーミィで温かい。その温かい中に包まれていると、あっというまに眠気がやってきて――シュユは睡魔に意識を委ねることにした。
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