●2:明日の為に今日すること
謎の学生に襲撃されたことは、シュユとゴウガシャだけの秘密となった。
魔物は「アイツを探し出してちょいと痛めつけてやろうか」と提案するも、少年は首を横に振る。荒事……というよりトラブルそのものを避けたい様子だった。
「奴がまた来るのかもしれんのだぞ? お前の周りの人間を人質にとったりしたらどうするんだ」
「その時は……ゴウガシャさんがどうにかしてくれますよね?」
「……わかってるじゃあないか。契約者が迎撃を好むというのなら、それに準じよう」
しかしそれはさておき、と魔物はこう言った。
「契約者、お前は美しい私に見合う存在になるべきだ。知性も教養も肉体も魔法も私に見合う水準になれ」
「……いっぱいお勉強して、体も鍛えて、魔法の練習もしなさいってことですか?」
「そうだ。しょうがないので私が鍛え、教えてやる。強くなれ契約者、私は強く美しい者が好きだ。いいか、お前は私の契約者なのだ!」
「――それで、そんなに疲れた顔してるの?」
机同士を班ごとにくっつけて、小学校の給食時間。正面の席の男子生徒にシュユはそう言われた。
「うん……ゴウガシャさんがね、いっぱい勉強しろーって……」
放課後に宿題、その日の授業の復習、明日の授業の予習。誰もいない教室で延々と。そして生徒が出て行かねばならない時間になれば、「家に着くまで走って帰れ」である。その上、蛇に変身して肩に巻きついて重しになってくるのである。
これがとにかく手厳しいのだ。弱音を許さず、妥協を許さず、徹底的に、スパルタそのもの。ゴウガシャの中に甘やかすという概念はないらしい。
「当然だ。こいつは美しい私に見合う美しくハイグレードな存在になるべきなのだから。いいか、『ありのままの私を愛して』なんて自己研鑽を放棄した怠惰としか言いようがない」
シュユの斜め後ろ、勝手に持ってきた学校の備品であるパイプ椅子に、ゴウガシャはいつもの尊大な様子で座っている。「そういうわけなんだ……」とシュユは欠伸をかみ殺しながら牛乳瓶の紙蓋を爪でかりかりした。上手く開けられない……ので、ゴウガシャの方をちらと見る。
「なんだ契約者」
「これ開けて……」
「はぁ……私も永い間、あらゆる時空で存在してきたが……こんなことを私に命令するのはお前が初めてだぞ」
寄越せ、と手を差し出してくる。シュユはそれに牛乳瓶を預けた。
「そもそも幼体に召喚されるということ自体が初めてだ。大抵は成体が寄って集って大規模な召喚儀式を……ほら開いたぞ」
「ありがとうございます~。えへ……なんか初めて同士で新鮮ですね。ぼくも魔法が成功したのも、何かを召喚したのも、初めてだから……」
牛乳を受け取る少年ははにかんでいる。
「お前、幸福のハードル低いなあ……」
まあ嬉しいならそれでいいんじゃないか、とゴウガシャは瓶牛乳を飲む主人を見守っていた。
そんな魔物を見、生徒はシュユへと向き直る。少しひそひそとした
「魔法の練習もしてるの?」
基本的に専門的な場所以外では、魔法を習うことはない。魔法とはこういうものである、という理論や歴史といった座学は一般的な学校でもあるが。
「うーん……それがね……練習してるんだけど、やっぱり全然ダメ……」
牛乳瓶を置いて、コッペパンを千切って食べて、シュユは溜め息を吐いた。
「何をどれだけやっても、ちっともさっぱりで」
「そうなんだー……」
半ば同情をしつつ頷く生徒。ミネストローネを先割れスプーンで飲む。
ゴウガシャのおかげで、シュユはクラスに馴染みつつあった。確実に前より会話は増えた。それまではクラスメイト達からの敬遠に少年自体も近付きがたいと感じていたが、この特異な魔物の存在が、両者が触れ合うきっかけを作ったのだ。
子供達は他愛なくお喋りをしている。ゴウガシャはそれを視界に収めつつも、周囲に意識を向けていた。
あれから曲者の襲撃はない。尤も外を出歩く時は人通りの多い場所を選び、襲われにくいようにしていることもあるが。なお、あるまげすとはゴウガシャがその身の中に隠していた。
午後の授業は体育、今日は五十メートル走のタイム測定だ。体操服に着替えたシュユの耳元、小さな蝶に変身したゴウガシャが留まる。ちなみに――まだ少年には分からないことだが、魔物の変身は質量保存の法則を完全に無視していた。それは魔物の変身がいかに不可思議であるかを物語る。一般的に人間の魔法による変身は幻術の一種であり、見かけを変えるだけで肉体そのものを組み替える訳ではないのだ。肉体まで変化させるものほど難しくなる。
「いいか契約者、走る時は背中や腰を曲げず、掌は握り込まず、腕を速く振って、膝をしっかり上げろ」
蝶の姿のゴウガシャが囁く。「なるほど……」とシュユは頷いた。
「それから魔法についても話そうか。速く駆ける為には自分の脚に魔力を込めるのだ。魔力というのは自分自身をはじめそこかしこに存在する超自然的魔法要素ということは流石にわかるよな?」
「わかります~。魔力を込めるってどんな感じですか?」
「言葉で説明するより体で直接感じた方が早かろう。手本としてお前の脚に魔力を送ってやるから、感覚を掴め」
「ありがと」
位置について、とセンチ先生の声がする。シュユはスタートラインで構えた。頭の中で魔物からのアドバイスを反復する。
ピッ、と笛の音がした。少年は地を蹴って、言われた通りに走り出す――まるで風になったような感覚だった。脚が軽い。一歩の度にぐんと景色が後ろに流れていく。一瞬だ。気付いた時には五十メートルを走り終えていた。息はほとんど上がっていなかった。
「……こらっ! シュユくん、魔法使ったでしょ!」
ゴール地点でストップウォッチを持っていたセンチ先生が腰に手を当てた。
「あっそのっ……先生ごめんなさい……」
「体育では魔法は使用禁止なんですよ。……でも、魔法が使えるようになったのすごいよシュユくん!」
「いや、今のはゴウガシャさんが脚に魔力を……」
「えっ!? つ、使い魔の魔法でサポートを受けるのはダメです!」
先生がそう言うと、シュユの髪から蝶がひらり。
「いいではないか教師、テストの点数のように数字による結果が全てではないのか」
「ゴウガシャさん、ここでは魔法抜きの結果が必要なんです~!」
「使えるものはなんでも使っていいじゃあないか、ケチンボ」
「先生はケチンボじゃありません! なんでもオーケーにしたら際限がなくなって、逆に不自由になるでしょう?」
「そういうものなのか……」
「そういうものなんです」
蝶が納得したところで、シュユはひとひらの魔物を両手ではっしと包み込んだ。
「ごめんなさい先生、うちの魔物が」
「大丈夫ですよシュユくん、話せばわかってくれる子ですから」
センチは微笑む。確かになんだかんだ話を聞いてくれるひとかも……と思いながら、少年は先生に会釈をしてその場から離れた。次の生徒のタイム測定があるからだ。
「おい、おい契約者」
手の中から声がする。そっと開けば、そこには蘭の花と見紛う美しさのハナカマキリがいた。
「なぜあの個体は私を……なんていうか幼体扱いするのか?」
「さあ……生徒の使い魔だから、生徒と同じっぽく感じるのかなぁ……?」
「まあ別にいいのだがな。さて契約者よ、本題だ。魔力を脚に込めるというのがどんな感覚かはわかったな?」
曰く、慣れてきたら体中に魔力を巡らせて、筋力や臓器の強化ができるという。つまり速く走れるし、高く跳べるし、強いパンチができるし、全然バテないということだ。
「あの感覚をイメージして、自分でやってみろ」
「わかりました。……んんん~~……」
が、ダメ。全然ダメだ。できる気配すらしてこない。ただ一生懸命りきんだだけに終わった。掌上のハナカマキリは溜め息を吐いた。
「お前、本当に魔法のセンスないのな」
「うう……」
「だが先ほど走った時のように、私が契約者へ直接的に魔力を送れば、お前は様々な魔法を扱うことができるぞ」
「ほんと!?」
シュユは真ん丸な目をもっと丸くして手の中の魔物を覗き込んだ。
「尤も、私は契約によってあらゆることに制限をかけられているので、ささやかな魔力しか送れんがね」
「どうすればその制限を緩くできる?」
「さあ? あるまげすとを読めとしか言えん。ちなみに腹立たしいことだが私には読めなかった。召喚した魔物に逆に利用されないようプロテクトがかかっているのだろうな。……お前が制限解除をすれば、プロテクトなど破壊して読んでやるのだが」
「そうなんだー……」
帰ったら改めてあるまげすとを読んでみようかな、とシュユは思った。それから……
(……母様が生きている間に、あるまげすとについて聞いておけばよかったな)
思い出すのはその背中だ。ぼうっとしているとチャイムが鳴る。今日は金曜日、今秋最後の授業が終わった。
「あ」
何か思い出したかのように口走った少年に、授業が終わったから潜まずともよくなったゴウガシャは人の姿を取りながら、
「どうした契約者」
「今日って金曜日だから……急いで帰らないとっ。お片付けしなくちゃ」
「そうだ片付けろ、いい加減にあのごっちゃりした場所を整頓しろ。金曜も何も関係なくだ」
「ゴウガシャさん、手伝ってくれますか?」
「なぜ私が掃除をせねばならんのだ」
「うう……明日は朝から姉様が来るから……散らかってると怒られちゃうんですぅ……」
「ほう、姉がいるのか」
「お母さんは違いますけどね」
魔法の素質は遺伝する。魔法の豊かさは国力に直結する。ゆえに国で一番の魔法使いである王とは、その素質を残す為にも一夫多妻ないし多夫一妻が認められていた。シュユには多くの兄と姉がいる。
「お前の姉とはどんな奴だ?」
「サウザン姉様、いいひとですよ! 母様がいなくなってから、ずっとぼくの面倒を見てくれてるんです。いろいろ、難しいことの手続きとかそういう、やってくれて……」
そういうわけで、とシュユは表情を引き結ぶ。
「部屋が散らかってるとたいへんだから……すぐ着替えて帰るっ」
パッと走り出す。ゴウガシャは人間はいろいろあるのだなと思いつつのんびり歩いてついていった。今日の鍛錬は勘弁してやろう。
●
そして日が沈んで昇って、土曜日の朝。
朝ごはんを食べて支度を終えて、シュユはちょっと緊張したような、しかしどこか嬉しそうな、そわそわした様子だった。部屋は少年の努力のおかげで綺麗になっていた。ちなみにゴウガシャは手伝ってくれなかった。
「……で、お前の姉はいつ来るんだ?」
椅子に腰かけ、暇つぶしに小型テレビの適当な番組を見ている魔物は、部屋を行ったり来たりしている少年に問うた。シュユは時計をちらと見る。九時になる十秒前――
「もうすぐです!」
がら、とクローゼットを開いた。そういえばあそこが開くのは初めて見るな、と魔物はそちらを見る。クローゼットの中には銀色の金属キューブがあった。一人暮らし用の冷蔵庫ぐらいの大きさだ。
なんだこれは、とゴウガシャが問う前にキューブがうごめいた。表面が波打ち、硬い金属のキューブから液体金属のようにしなやかになり――女の姿になった。驚くべきことに色まで纏い、一見して人間と変わりない見た目になる。二十歳前後といったところか、ワンレングスの腰ほどまである長いストレートヘアに、一重の鋭い目、引き結ばれた唇。一見して理知的だが酷薄そうにも見える顔立ちだった。服装は上品でカジュアルなパンツスタイルだ。
「サウザン姉様!」
「よーすシュユ、元気してたか」
ぴゃっと抱き着く少年を、彼女は意外にも情動豊かに顔いっぱい微笑んで抱き留めた。うりうりと仔犬にでもするかのように撫でまわしている。
「なるほど、魔的土人形(ゴーレム)か」
ゴウガシャは独り言つ。主に土くれなどに魔力を込めて人形にし、自分の意のままに動くしもべとする魔法だ。
「……しかしゴーレムを操る術者はどこだ?」
「サウザン姉様、遠く遠くの大学に通ってるから、ご自宅からゴーレムを遠隔操作されてるんですよ。すごいでしょ?」
道理で、と魔物は思った。この人間と見た目が変わらぬ金属ゴーレムはとても高等な魔術によるものだと一目見て分かったが、それを超遠隔操作できるとなると、シュユの姉は王族の血を引いた優れた魔女なのだろう。
ゴウガシャとサウザンの目が合った。互いにじろじろと頭のてっぺんから爪先までを観察する。
「外宇宙の魔物……!? なんでこんな神話級のバケモンがここにいるんだ」
「ゴウガシャとでも呼ぶがいい。そこの小僧に召喚されたのだよ」
「なんだと!? シュユどういうことだ」
サウザンはシュユの方を驚いた顔で見た。
「ええと、実は――……」
かくかくしかじか。少年は経緯を偽りなく説明した。姉は額を押さえて溜息を吐く。
「なんだってそんな危なっかしいことを……術は成功してるみたいだからいいんだけどさ……。シュユ、コイツに変なことされたり言われたりしてないか? 具合が悪いとか寝つきが悪いとかは?」
「ゴウガシャさんいいひとだよ、ひとじゃないけど……。お勉強とか見てくれるし、昨日もふわふわの動物になって一緒に寝てって言ったらおっきなネコちゃんになってくれたし」
「シュユ……外宇宙の魔物になんつーことさせてんだ……」
まあ安全なことは把握した。サウザンは魔物を改めて見る。美丈夫は肩をすくめて笑った。
「どうせなら私も、国を滅ぼすとか生き物を絶滅させるとかコイツを独裁者に仕立て上げるとかやってみたいのだがね。契約者のお望みは友達ごっこのようだ」
「ゴウガシャさん、酷いことしちゃダメですよ」
「わかってますよーだ」
私達は仲良しです、とアピールするかのようにゴウガシャはシュユの肩を抱き寄せて、ニッコリその美貌を微笑ませた。サウザンは首をかすかに傾けてその様子を見る。
「……ま、害意がないならなんだっていーよ。それで――シュユ、部屋もちゃんと片付いてるしさ、どっか遊びに行こっか」
ニッと笑う。弟は嬉しそうに頷いた。
「うん! 行く! ……ゴウガシャさんもいい?」
「あんたの使い魔だろ? シュユが留守を任せたいとかじゃないなら、連れてってあげな」
「うんっ!」
そして、少年は嬉しそうな様子のまま使い魔を見上げた。
「ねえ、一緒に遊びに行きませんか?」
「それは使い魔に対する命令か?」
「命令じゃなくて……お願い? お誘い? 一緒に行けたら嬉しいなぁっていうか……」
考える少年に、魔物はふっと笑った。
「同行してやろう」
「やったぁ」
「支度して戸締まりしてこい」
「はぁい!」
ぱたぱたと少年は支度を始めた。サウザンはそれを手伝いながら、
「シュユ、どこ行きたい?」
「ん~~……」
「動物園とか?」
「! 行くっ」
「おーし決まり決まり。箒に乗せてやろっか?」
「乗るー!」
声を弾ませるシュユにニッコリ笑んで、ゴーレムは自分がしまわれていたクローゼットから白銀の箒を取り出した。細やかな装飾が施された、見るからに上等な代物だ。
「あったかい恰好しなよー」
バイクと同じで、飛行で風にさらされ続ければ体感温度はぐっと下がる。「はーい」と少年の返事が聞こえた。
ほどなく。支度を終えたシュユと共にサウザンは外に出る。さて――ゴーレムは魔物を見た。
「ゴウガシャ、すまんが箒は二人乗りだ。自力で飛ぶか小さくなってくれ」
「はいはい、承った」
魔物はエメラルドグリーンが美しい尾の長い鳥に変身した。「ケツァールか」と鳥の名前を言いながらサウザンは箒に跨がって浮かぶ。弟がその後ろに跨がって、姉の背中にしがみついた。
独特の無重力感。並ぶ建物を眼下にして、魔法の箒が空を飛ぶ。人々交通手段に関しては車の方が多い。魔力をわざわざ使うより、ガソリンを使った車の方が楽だからだ。それに全ての人が魔力を使えるわけでもない。
それでもシュユは箒に乗るのが好きだった。魔法をより感じられるからだ。いつか自分も……とは思うものの、多分無理だろうなぁと察している。
(あれ……でも、ゴウガシャさんに魔力を送ってもらえたら)
今度話してみよう。シュユはそう思った。魔物の方をちょっと見やれば目が合った。鮮やかな鳥がひらりと傍に来る。
「どうした」
風の声に掻き消えない、不思議な声音だった。
「ぼくも箒に乗ってみたいなぁって……」
「箒か……まあお前の努力次第ではないか。飛びたいだけなら私が大きな鳥になって掴んでやるが?」
「ほんと!?」
「お前に嘘は吐けんと言っているだろうが」
「じゃあ……じゃあ……帰りに……」
サウザンの方を窺うように見る。後ろを少し振り返った姉は「いいよ」と微笑んでくれた。
今日は楽しみなことでいっぱいだ。こんな日々がずっと続けばいいのになぁ、と少年は願う。
●
ほどなくの飛行後、町中の動物園にたどり着いた。コインロッカーに箒を預け、サウザンは手際よくチケットを買ってくれる。もともと、あの金属キューブの中に自前の財布を持っていたのだ。ちなみにシュユの通帳など大切なものも金属の体の中に持っており、金庫代わりになって幼い弟の為に管理しているのだ。
「はい、チケット。アンタのことよく分かんないけど『大人一枚』扱いでいいよな?」
シュユの次、ゴウガシャにチケットを渡しながらサウザンが言う。魔物はいつもの美丈夫の姿で、片眉を上げて紙切れを一瞥した。
「人間じゃないのに人間用の金をとるのかね?」
「見た目が人間だから、まあ、金払っといた方がトラブルはないだろ。ゲートのとこでスタッフに渡すンだよ、いいね」
「それぐらいのルールは分かる」
ゴウガシャは肩を竦めつつチケットをピッと指先に挟んで受け取った。
サウザンは弟と笑顔で手を繋ぐ。弟もまた幸せそうだ。魔物は入園ゲートに向かう姉弟の背中を見る。じっと観察しながら、魔物もまた歩き出した。
――獣の臭いがする。
ゴウガシャは契約者からは少し離れたところ、後ろからついて動物園を進んでいた。召喚されるにあたって、この世界の絶滅していない動物の情報は知識として得ている。シュユのスマホで画像や動画や記事も閲覧している。なのでこうして実際の動物を見るのは、そういった記憶の反芻に感覚は近かった。
賑やかだ。多くの人間がいる。檻や柵の向こうには獣がいて――同じ場所を往復するライオンだったり、群れて水面をついばみ続けるフラミンゴだったり、道行く客に吠える猿だったり――たくさんの人間達はそれを指さして何か会話していたり、しきりに携帯カメラを向けていたり、じっと佇んでいたりする。星向こうの魔物からすれば、檻の中の生き物も、檻の外の生き物も、違いなどなかった。
それにしても平和だ……平和すぎる。ゴウガシャはゾウを見て何やらきゃいきゃいしている姉弟の後ろ姿をじっと見ている。いっそ例のスキンヘッド男でも襲ってこないかと一抹の期待を込めて周囲を見渡した。危なそうな奴はどこにもいなかった。
「ところでお前ら、曲がりなりにも王子と姫だろ。民草の中に紛れて騒ぎにならんのか?」
大きな声で言うのはよろしくなさそうなので、少々彼らに近付いてゴウガシャは問うた。「ああ」とサウザンが振り返る。
「シュユはほとんど知られてないし、私については弱いけど認識阻害魔法かぶってるから、そうそう注意して凝視されなきゃパッとわかんないよ。ま、それでもバレ握手を求められたんなら、ニギッと返せばいい。民あっての王族だからね」
シュユの前ゆえに話さなかったが、サウザンは他にも心無いマスコミやらが弟を嗅ぎ回らぬよう、姫としての立場を使って圧力と根回しとを徹底していた。シュユの穏やかでありふれた暮らしは、この姉によるところが非常に大きい。
……ということを、ゴウガシャもそこはかとなく察し取る。この魔女は、この魔法も使えない出来損ないの王子をたいそう大切にしているようだ。
(好き者よな、なんの得があるのやら)
まあ本人がやりたくてやっているのなら、魔物はあえて冷やかしたりもしなかった。同時に考える。
(完全に孤独だったら……まだ付け込みようがあったものを)
つまらん。視線を下に向ければ、姉と手を繋いでいるシュユがゴウガシャの方を見上げた。
「すごいですねぇ」
「何がだ?」
「動物がたくさんいて……」
「私に様々な生き物に変身するよう命じたりと、お前は生き物を見るのが好きなのだな」
「そうかも……。ゴウガシャさんはどの動物が好きですか?」
「クジャクだな」
魔物が片手を差し出した。その手の中にふわり、クジャクの鮮やかな尾羽が花開く。
「……すごい! 綺麗~」
「部位によらず変身できるのか、すごいな」
弟は純粋に見た目の美しさに目を輝かせ、姉は魔法的観点から興味深そうに覗き込んだ。
「すごいだろう、崇めてもかまわんぞ」
ゴウガシャはフンと笑って手を握り込んだ。クジャクの羽根は消える。
「それで、契約者よ。他にはどんな生物がいるのか?」
「えっとですね」
少年はパンフレットを開く。
「……あっ魔獣がいます! あっち!」
そう言って案内していく――魔獣とは、人間でいうところの魔法使いのようなものだ。魔力に適応し、変質した変異体であり、ドラゴンやペガサスなどが魔獣のいい例だ。
向かった先、耐熱魔法がかけられたアクリルパネル越し、火をまとっている大きなトカゲがそこにいた。魔獣、火蜥蜴(サラマンダー)だ。赤黒い皮は一部が赤熱している。渇いた砂地の上、のんびり昼寝をして微動だにしなかった。寝ている間も燃えているが、寝ているからかどことなくとろ火だ。
「わーー。すごーい……燃えてる」
「でっかくなって飛べるようになるのは火竜(ファイアー・ドレイク)っていうんだぞー」
火蜥蜴を覗き込むシュユに、サウザンがそう言った。「そうなんだー」と少年は興味深そうだ。
「ゴウガシャさん、火蜥蜴には変身できないんですか?」
「できる。が、制限緩和が必要だ、魔獣は特殊なのでね」
「そっかー……」
少年はしばし考えて、姉を見上げた。
「姉様、帰ったらあるまげすとを一緒に読んで欲しいです」
「……悪いが断るよ」
サウザンは周囲を見渡した。幸いにして近くにひとけはなく、そのまま控えめな声量で続ける。
「あるまげすと――あれはとても危険なモノなんだ。アレはこの星由来のものではない異界の存在、私らからすれば『異物』でしかないモノを扱う。だから拒絶反応が起きやすく、制御も半端なく難しく、事故が起きやすい。端的に言うとな、星向こうの異物でしかない魔力が流れ込んだことで術者の精神が狂ったり、星向こうから来た魔物が大惨劇を起こしたりする」
総括して星向こうの世界――異界に関する魔法は危ないのだ、とサウザンは真剣に語った。そしてゴウガシャを苦い顔で横目に見る。
「……本来はさ、こんなに危ない魔物を完全に制御できてるなんて、薄氷上の奇跡としか言いようがないんだ。シュユ、ゴウガシャの契約を緩めちゃいけないよ。絶対にね」
「でもゴウガシャさん優しいよ……」
「詐欺師は笑顔で近付いてくるもんだ」
ゴーレムは温かく小さな肩に手を置いた。少年はすぐ傍の魔物をそっと見上げる。彼は人畜無害に美しい顔をニッコリさせていた。
「シュユ、あるまげすとは隠すか破壊した方がいい。アレは危険な禁書だ……国立図書館で間違いなく特級禁書指定されるような、希少も希少な異界に関する書物なんだから。狙う者も多いはず」
姉がそう続ける。そういえば襲撃が既にあったことをシュユは思い出していた。
襲撃のことを話さなくていいのか――少年をじっと見据える魔物の目がそう語っている。シュユはそのことに気付いていたが、姉へ笑顔を向けた。
「ゴウガシャさんがいるから大丈夫。あるまげすとも預かってもらってるし」
「……そう」
サウザンはおもむろに伸ばした手で、弟の頭を優しく撫でた。
「……何かあったらすぐ姉さんを呼びなよ。私にとって、シュユは大事な家族なんだ。アンタは独りじゃないんだからね」
「うん。ありがとう姉様」
微笑みを向ける少年。ゴーレムはその頭を最後にポンとして、快活に笑った。
「じゃあこの話はこれぐらいにして――お昼ご飯にすっか!」
カフェテリアは、ペンギンが泳ぐ水槽を眺めながら飲食ができる場所だった。
ゴーレムが飲食ができない構造なので、サウザンはきつねうどんを食べている弟を隣で穏やかに見守っている。この鉄人形を介し、遥か遠くから本物のサウザンも彼を見守っているのだ。あつあつのうどんをふうふうしながらゆっくり食べている子供の姿は、心が穏やかさで満ちていくものだ。
器を両手で持って汁を飲んで、ぷは、と器を下ろしたシュユは姉を見やった。
「そっちのサウザン姉様は何か食べた?」
「ん? ああ、シュユがおうどん食べたから、私もうどんにした。カップのやつだけど。おいしーよ」
ゴーレムの遠隔操作にはものすごい集中力が要る。なので料理をしながら、とまではまだ修行が足りないサウザンである。カップ麺にお湯を入れる程度はできるので(それでもゴーレム使いの中ではとんでもないスキル)、ゴーレム操作中はもっぱらインスタントでエネルギーを補っていた。
シュユは姉と同じものを食べているということがちょっと嬉しくて、はにかむように笑った。視線を動かせばペンギンとカフェテリアとを隔てるアクリル板の前、白スーツの背中が見える。魔物はじっと、泳ぎ回るペンギンを眺めているようだ。しかし、先程からもそうだが、道行く人のほとんどがゴウガシャを二度見する。ひそひそと「あの人すごいイケメン」「芸能人かな」なんて声も聞こえる。
「ん」
ゴウガシャは主人の視線に気づいて顔を横向け振り返った。背景にはペンギンの泳ぐ青い水があって――高い鼻梁と涼やかな唇と凛とした顎が作り出す、ぞっとするほど完璧な横顔。後ろの青も相まってこの世ならざるほど神秘的だった。
だけど、この美丈夫の正体が黒くてどろどろしたよく分からない生物……いや生物ですらないのかもしれない『何か』、であることを見て知っているのはシュユだけだった。シュユはこの魔物の正体を知っているだけに、白スーツの美しい男の見た目にみだりに惑わされることはない。
(ぼくは……あの黒くてよくわかんない姿も好きだけどな……)
なんて、言ったら「せっかくお前ら好みの美しさに化けてやったのに」と顔をしかめられそうだ。
「どうした、見惚れているか?」
「いや、そうじゃなくて」
「なんだつまらん」
「ゴウガシャさん、アイス食べませんか」
「……命令なら従おう」
冗句っぽく笑って、魔物は主人の方へと足を向けた。
じゃあぼく買ってくる、とうどんを食べ終えたシュユは席を立つ。「これお金」とサウザンが財布からアイス代を渡した。アイスが売っている店へと向かった少年を見送って――魔物はさっきまでシュユが座っていた場所にどっかと座る。隣のゴーレムを見た。
「そう警戒するな、私はあの小僧の味方だよ」
「……だといいんだけどね」
「しかし疑問だ。お前たち魔法使いは実力主義なのだろう。シュユに肩入れすることは、王位継承のライバルを増やすことにはならんかね? 蹴落とせばいいのに、お前はそれをしない」
その言葉に、サウザンは小さく溜息を吐いた。
「……私が王になった暁には、そんなふうな血統と実力主義の魔法使い界隈を変えてやるんだよ。魔法が苦手ってだけで、家族なのに蔑ろにするなんて。強いってだけで誰かを蹴落としていいだなんて。そんな風習がずっと当たり前だなんて。畜生の所業じゃねえか。私は鬼にも獣にもならない」
金属でできたさらさらの髪を掻き上げる。
「夢なんだよ。フッツーの市民の家庭みたいにさ、フッツーに家族でテーブル囲んで、フッツーにごはん食べて、今日はこんなことがあったんだーって他愛もねー話をさ、テレビつけっぱでシケたバラエティ垂れ流しながらよう……。そこにシュユもいて欲しい。あの子には幸せになって欲しいンだよ」
尤も、そのライバルは多いとサウザンは語った。彼女自身の兄弟姉妹、愛しながらも敵対せねばならない血縁者共。
「……しょーみな話、家族で仲良くできてるのはシュユぐらいだよ。親父陛下はより良い魔法使いを作り出すことに御執心で、御袋陛下はお前が絶対に王になれが口癖だし、兄弟姉妹はみーんな王位を狙って虎視眈々さ、誰よりも王位に相応しい偉業を遂げなきゃならないから」
「ゴーレム操作で偉業を?」
どのような、とゴウガシャは眼差しで問う。パッとイメージが湧かなかったからだ。
「ナメんなよ」
サウザンは不敵に笑う。
「私はゴーレム遠隔操作で宇宙を探索ができないか研究してんだ。いずれアンタのいる星向こうの時空の神秘すら暴いてやる、首があるか知らんが首洗って待ってな」
「それはそれは楽しみだ」
――そんな様子を、アイスを持ってきたシュユは少し離れた場所で聞いていた。
(姉様、すごいなぁ……)
シュユはふと自分の爪先に視線を落として考える。
自分は何をしたいんだろう? 何ができるんだろう?
(王様になる……? 正直なりたくないし、王様には姉様になって欲しいし……)
思えば未来のことをほとんど考えたことがなかった。考えないようにしていたのかもしれない。いつだって、今日と明日のことで精一杯だった。だって、できることなんてほとんどないから。
(でも、ぼく、変われるのかな。すごいことできるのかな)
ゴウガシャの背中を見つめる。王様にはなりたくないけど、せめて、誰かの役に立ちたいなぁと思った。
魔物の名を呼ぶ。「ご苦労」と従属側なのに相変わらずの様子で魔物が片手を差し出す。少年は片方のアイスを渡してあげた。真っ白なソフトクリーム。舌先が冷えて、甘い。
「ぼくね、ゴウガシャさんが食べてる姿見るの好きですよ」
「唐突になんだ。美しいからか?」
「なんか……生き物! って感じがするから」
「変な性癖だな」
魔物がそう呟くと、机の下でサウザンが爪先を蹴った。「子供の前でそんな言葉を使うな」と小声で凄まれる。ゴウガシャは全く反省した様子がないままフンと鼻を鳴らした。シュユは不思議そうにしていた。
「ねえねえ」
アイス片手に、シュユはテーブルにパンフレットを開いた。
「食べ終わったら、ドラゴン見に行きたい」
この動物園の目玉、魔獣の一種。中型の大人しい種類だが、竜は竜。ライオンやトラと並んで子供達の憧れの的だ。ちなみに大型だったり獰猛で危険な種類はこんな町中には持ち込めず、主に保護区にて生息している。
いいよ、とサウザンが笑む。シュユは嬉しそうにして、姉を見て、次いでゴウガシャを見た。なんでこっちを見る必要が……と思いつつも、魔物も空気を読んで「よかったな」と言っておいた。
●
動物園からの帰り道。
シュユは大鷲に化けたゴウガシャの鉤爪に掴まれていた。……てっきり背中に乗せてもらえると思ってただけに、なんとも言えない顔になっていた。どこからどう見てもこれは獲物の運び方である。
「なんだその顔は、もっと喜べ」
「……すごいなぁとは思ってますぅ……」
そんな二人の様子に、傍を箒で飛ぶサウザンはくすりと笑って声を張った。
「シュユー。晩ごはん、ハンバーグ作ろっか?」
「! うん! 食べたい!」
「よーしよーし。じゃスーパー寄ろっか、牛乳とかも買っておかないとだし」
――そういうことがあったものだから、帰宅は買い物袋と共にだった。荷物を持ってくれたのはサウザンだ。ゴーレムゆえに非常に力持ちなのだ。
「相当遠くから遠隔操作しているようだが、ほぼ一日中できるとは大した腕だな」
「シュユには内緒だけど、実を言うと結構カッツカツだったりする」
ゴウガシャの言葉に、姉は苦笑交じりの小声で言った。魔力補助の飲み物をガブ飲みしてやっているらしい。ゴーレムの操作は術者から離れれば離れるほど難しくなり、魔力の消費も激しいのだ。
「ああ、それで小僧と会うのは土曜日に……」
「日曜はドカ寝するからな」
会話終わりにシュユがドアを開けてくれた。「ただいまー」「ただーいまー」と姉弟の声が重なる。靴を脱ぐ少年がゴウガシャの方を期待するように見上げるので、魔物は片眉をもたげた。
「言いたいことがあるなら言え、そうでないならお前の脳味噌を覗けるように契約制限を緩めろ」
「えっと……『ただいま』って言わないのかなって」
「それで?」
「……言って欲しいなって」
「ただいま」
部屋に入りながら何気ない物言いでそう言った。後ろ手にドアを閉める。ゴウガシャの衣服は変形の一部とのことらしく、靴を脱ぐ動作もなくそのまま立ち入った。「私は汚れない」と毎度言うので少年はもう受け入れている。だが今はそのことよりも、魔物が「ただいま」と言ったことにどんぐり眼を真ん丸にしていた。
「嬉しいか? 泣いて喜んでいいぞ」
上体を傾け少年に顔を寄せた魔物は口角をつった。シュユは瞬きを一回、二回――
「姉様ー! ゴウガシャさんが初めて『ただいま』って言ってくれたー!」
バッとサウザンの方へ走り出して行く。「そっかよかったなー」と、買ったものを冷蔵庫にしまっていた姉はにこやかに微笑んだ。
「ほら手ぇ洗って、ハンバーグ一緒に作ろ」
「はーい!」
ちなみにサウザンのゴーレムもゴウガシャ同様、靴は見かけなのでその着脱がない。地面に触れていた面を内側に流動させ、後で洗うのだ。
シュユは手を洗ってうがいもした後、エプロンを引っ張り出して身に着けた。家庭科で作ったエプロンだ。黒と青の、よく分からないかっこよさそうな英語で彩られたドラゴン柄だ。
料理を手伝うつもりは毛頭ないらしいゴウガシャはそんなシュユを一瞥し。
「……その裁縫がガッタガタの前掛けは一体なんだ」
「かっこいいでしょー、ドラゴン柄。お裁縫苦手なのでガタついてますけど……」
「そうか……」
何とも言えない顔をしているゴウガシャ。サウザンが彼へ声をかける。
「おいアンタも手伝えよ」
「なぜこの私が召使のようなことをせねばならん?」
「使い魔は召使みたいなモンだろ! シュユ、命令!」
「ええーっと……ハンバーグ作るの手伝ってください、ゴウガシャさん!」
「くッ……しょうがないな」
契約者の命令には逆らえないのだ。命令の度合いが強ければ強いほどそうなる。魔物はやむなく腰を上げた。
さて、料理である。サウザンはまな板の上に複数の野菜を並べた。ゴーレムの腕が液体金属のように溶けたかと思えば、次の瞬間には幾重もの刃になった。それがひゅんひゅんと振るわれれば、野菜は一瞬でカットされる。全ては使わない。使わない分はフリーザーバッグに入れて冷凍庫へ。お湯に入れてコンソメの元を入れればすぐにスープになるし、他にもすぐ料理に使える。一人暮らしの弟が気軽に野菜を摂れるようにとの工夫だった。
ゴーレムの体は液体金属のように腕が分かれ、同時に多くのことをこなしてしまう。冷凍庫にフリーザーバッグ入りの野菜をしまうだとか、屑野菜を捨てるだとか、鍋に切った素材を入れるだとか……。
「シュユ、タマネギ炒めておいて」
「はぁい」
「ゴウガシャ、やっぱこのキッチンで3人は狭いわ、邪魔だし座ってて」
「貴様……」
魔物はやれやれと先程の椅子に座した。料理をする姉弟を眺めることにする。
ゴーレムのおかげで料理はあっという間に進んでいく。ほどなくしてこね終わったハンバーグがフライパンで焼かれ始めた。蓋をしてじっくり中まで火を通して――いい香りが部屋に満ちる。少年がわくわく見守る先で、お皿の上によく焼けたハンバーグと、甘く柔らかく仕上がった温野菜のサラダが載せられた。ハンバーグにはケチャップとソースを混ぜたモノをかける。残ったハンバーグは冷蔵庫や冷凍庫に入れて、また後日のごはんになる。電子レンジでインスタントの白米も加熱が完了した。お茶碗によそってテーブルへ。同じく並ぶ、キノコとワカメのコンソメスープにはショウガが少し入れてサッパリと。
一緒に食べたいから、というシュユの願いでゴウガシャの分もテーブルにあった。サウザンはゴーレムなので食べられない。契約者と使い魔は向かい合って座った。温かな湯気越しに、双方が見えた。
「いただきます」
二人の声が重なる。「召し上がれ」と隣で見守るサウザンは優しい目だ。
少年はできたての温かい料理を口に運ぶ。一人で食べるインスタントとは随分と違った。正面には使い魔が、隣には姉がいる。あったかい――たくさんの意味でだ。
「おいしい!」
「そっかそっか」
家族で穏やかに他愛もなく食事をしたい。そう願うサウザンからすれば、この光景はとても眩く尊いもので。伸ばした手は血の通わぬ冷たい金属なれど、本当の手のつもりで、シュユの頭を優しく撫でた。
「いっぱい食べな、シュユ」
――食事が終わって、皿の片付けをして。
皿洗いを終えた手を拭き、サウザンは「さて」と弟に向き直る。
「じゃあ姉さんはそろそろ切るね」
「姉様、ありがとう」
「いいんさ。また来週ね、なんかあったらすぐ電話なりしてよ」
しゃがむ姉は両手いっぱいに家族を抱き締めた。シュユもめいっぱいの想いを込めて抱き返した。金属のゴーレムはひんやりしていた。
ゴーレムは小さな背中をぽんぽんと叩く。それから体を離し、空きっぱなしだったクローゼットへ。
「ちゃんとお風呂入って、歯磨きして、早寝しなよ。宿題も忘れずに」
「うん。姉様も大学のお勉強がんばってね」
「ありがと。それじゃ」
最後に一つ微笑んで、ゴーレムの体はどろりと溶け崩れ――今朝のようなキューブ状に。手を振っていたシュユは静かに手を振るのをやめると、クローゼットを閉めた。そして振り返ると……そこにサウザンがいるではないか。違う、ゴウガシャだ。ゴウガシャがサウザンに変身している。
「寂しいのなら姉の姿になってやってもいいぞ」
「……ますます寂しくなっちゃうので、いつもの格好でいいです」
「そうか」
瞬きよりも短い刹那で、魔物は白スーツの美丈夫の姿になる。彼は具合を確かめるように首を一度回して、少年に問いかけた。
「本当に襲撃のことを言わなくてよかったのか?」
少年は頷いた。
「うん。姉様のお話を聞いてね……すごいなぁって思ったんです。ぼくも……自分のことぐらいは、自力でどうにかしたい」
(だが手荒な手段はダメだと言う。ほとほと回り道主義だよコイツは)
声にはしない。「そうか」とだけ魔物は答えた。
少年はクローゼットの方を見たままだ。そのままの体勢、おもむろにゴウガシャの手を握る。毎週会えるとはいえ、いつも姉とのお別れは寂しい気持ちでいっぱいになるのだ。
「あのね……ありがとうゴウガシャさん」
きゅ、と少し握る手に力を込めた。
「最近ね、明日が楽しみだなぁって思えるんです。寂しい気持ちもあんまり感じないんです。だから……その……明日もよろしくお願いしますね」
「明日どころか、契約ある限り私はお前が死ぬまで共にいるんだよ」
空いている方の手を少年の頭に置いた。ぐりっと抑えつけるように撫でる。
「手に入れた『宝』の価値をようよう自覚することだ。お前はツイている。誇れ」
「……ゴウガシャさんはいつも自信満々で羨ましいです」
「羨望するならもぎ取るぐらいの気概でいろ」
「僕も自信満々になれますかね」
「なれるかな、じゃない。なるんだ」
見上げてくる少年の鼻先をつっついた。鼻を押されてシュユは目をぎゅっと閉じる。その隙に魔物はひらりと離れてしまった、「さっさと風呂入って歯でも磨いてこい」と笑いながら。
●
「っッ……だは~~~疲れたーーーッ……!」
マンションの一室、ゴーレムの操作を終えた瞬間にサウザンはソファに倒れ込んだ。すぐ傍のローテーブルには魔力補助用の液体薬(ポーション)やらお香の痕跡やらがごろごろ転がっている。
「はぁ……ふう……お腹すいた……眠い……ううっ……シャワーもう明日でいっか……」
目を閉じて、深呼吸をして、開いて、天井を見上げる。照明の直視が眩しくて、手の甲を額に置いた。
ひとまず、弟が元気そうでよかった。動物園も楽しんでくれたみたいだし。ごはんもしっかり食べてるみたいだし。……星向こうの魔物を召喚したことは、とてつもなく驚いたけれど。
(まさかシュユが……あるまげすとを持ってたなんて)
母親が死んでから、本棚から引っ張り出してコッソリ持っていたのだろうか。それを今まで、姉にも明かさず隠していたのか。
(バレたら取られちゃう、とでも思ったのかな……)
サウザンは自分の言動を顧みる。確かにシュユがあるまげすとを持っていると知り、「あるまげすとは隠すか破壊した方がいい。アレは危険な禁書だ」――そう言ってしまった。姉でさえそう言うのだから、大人にバレたら問答無用で没収されるかもしれない、そうあの子が考えるのも自然なことだ。
(……あの子がアレを解読しただなんて、信じられない)
星向こう、異界に関する魔法はとても危険なのだ。未知にしてあり得ざるモノは人間にとっては劇薬なのだ。この国において異界魔法の権威とも呼べる研究家だったシュユの母ですら――実験中に魔法が失敗し、時空の歪みが体に発生し、全身がバラバラになって死亡したのだ。
この国……否、この世界において、異界に関する魔法はその危険度からほとんど禁術に近い。多くの魔法使い達がその神秘に挑み、そして惨たらしく死んでいった。シュユもそうなるのではないか。彼の母のように。……そう思うと、サウザンの心臓が嫌な動き方をする。同時に脳裏を過ぎるのはゴウガシャという恐ろしい怪物のことだ。契約の力によってシュユに手出しできないようだが、星向こうの魔物だ、およそ人間に素直に従うような存在ではない。肝心のシュユは魔物に心を許しているようだが……。
(なんともないといいんだが……)
そればかりを祈る。また来週、どうなっていることやら――そう思いながら、サウザンは眠りに意識を手放した。
魔物は「アイツを探し出してちょいと痛めつけてやろうか」と提案するも、少年は首を横に振る。荒事……というよりトラブルそのものを避けたい様子だった。
「奴がまた来るのかもしれんのだぞ? お前の周りの人間を人質にとったりしたらどうするんだ」
「その時は……ゴウガシャさんがどうにかしてくれますよね?」
「……わかってるじゃあないか。契約者が迎撃を好むというのなら、それに準じよう」
しかしそれはさておき、と魔物はこう言った。
「契約者、お前は美しい私に見合う存在になるべきだ。知性も教養も肉体も魔法も私に見合う水準になれ」
「……いっぱいお勉強して、体も鍛えて、魔法の練習もしなさいってことですか?」
「そうだ。しょうがないので私が鍛え、教えてやる。強くなれ契約者、私は強く美しい者が好きだ。いいか、お前は私の契約者なのだ!」
「――それで、そんなに疲れた顔してるの?」
机同士を班ごとにくっつけて、小学校の給食時間。正面の席の男子生徒にシュユはそう言われた。
「うん……ゴウガシャさんがね、いっぱい勉強しろーって……」
放課後に宿題、その日の授業の復習、明日の授業の予習。誰もいない教室で延々と。そして生徒が出て行かねばならない時間になれば、「家に着くまで走って帰れ」である。その上、蛇に変身して肩に巻きついて重しになってくるのである。
これがとにかく手厳しいのだ。弱音を許さず、妥協を許さず、徹底的に、スパルタそのもの。ゴウガシャの中に甘やかすという概念はないらしい。
「当然だ。こいつは美しい私に見合う美しくハイグレードな存在になるべきなのだから。いいか、『ありのままの私を愛して』なんて自己研鑽を放棄した怠惰としか言いようがない」
シュユの斜め後ろ、勝手に持ってきた学校の備品であるパイプ椅子に、ゴウガシャはいつもの尊大な様子で座っている。「そういうわけなんだ……」とシュユは欠伸をかみ殺しながら牛乳瓶の紙蓋を爪でかりかりした。上手く開けられない……ので、ゴウガシャの方をちらと見る。
「なんだ契約者」
「これ開けて……」
「はぁ……私も永い間、あらゆる時空で存在してきたが……こんなことを私に命令するのはお前が初めてだぞ」
寄越せ、と手を差し出してくる。シュユはそれに牛乳瓶を預けた。
「そもそも幼体に召喚されるということ自体が初めてだ。大抵は成体が寄って集って大規模な召喚儀式を……ほら開いたぞ」
「ありがとうございます~。えへ……なんか初めて同士で新鮮ですね。ぼくも魔法が成功したのも、何かを召喚したのも、初めてだから……」
牛乳を受け取る少年ははにかんでいる。
「お前、幸福のハードル低いなあ……」
まあ嬉しいならそれでいいんじゃないか、とゴウガシャは瓶牛乳を飲む主人を見守っていた。
そんな魔物を見、生徒はシュユへと向き直る。少しひそひそとした
「魔法の練習もしてるの?」
基本的に専門的な場所以外では、魔法を習うことはない。魔法とはこういうものである、という理論や歴史といった座学は一般的な学校でもあるが。
「うーん……それがね……練習してるんだけど、やっぱり全然ダメ……」
牛乳瓶を置いて、コッペパンを千切って食べて、シュユは溜め息を吐いた。
「何をどれだけやっても、ちっともさっぱりで」
「そうなんだー……」
半ば同情をしつつ頷く生徒。ミネストローネを先割れスプーンで飲む。
ゴウガシャのおかげで、シュユはクラスに馴染みつつあった。確実に前より会話は増えた。それまではクラスメイト達からの敬遠に少年自体も近付きがたいと感じていたが、この特異な魔物の存在が、両者が触れ合うきっかけを作ったのだ。
子供達は他愛なくお喋りをしている。ゴウガシャはそれを視界に収めつつも、周囲に意識を向けていた。
あれから曲者の襲撃はない。尤も外を出歩く時は人通りの多い場所を選び、襲われにくいようにしていることもあるが。なお、あるまげすとはゴウガシャがその身の中に隠していた。
午後の授業は体育、今日は五十メートル走のタイム測定だ。体操服に着替えたシュユの耳元、小さな蝶に変身したゴウガシャが留まる。ちなみに――まだ少年には分からないことだが、魔物の変身は質量保存の法則を完全に無視していた。それは魔物の変身がいかに不可思議であるかを物語る。一般的に人間の魔法による変身は幻術の一種であり、見かけを変えるだけで肉体そのものを組み替える訳ではないのだ。肉体まで変化させるものほど難しくなる。
「いいか契約者、走る時は背中や腰を曲げず、掌は握り込まず、腕を速く振って、膝をしっかり上げろ」
蝶の姿のゴウガシャが囁く。「なるほど……」とシュユは頷いた。
「それから魔法についても話そうか。速く駆ける為には自分の脚に魔力を込めるのだ。魔力というのは自分自身をはじめそこかしこに存在する超自然的魔法要素ということは流石にわかるよな?」
「わかります~。魔力を込めるってどんな感じですか?」
「言葉で説明するより体で直接感じた方が早かろう。手本としてお前の脚に魔力を送ってやるから、感覚を掴め」
「ありがと」
位置について、とセンチ先生の声がする。シュユはスタートラインで構えた。頭の中で魔物からのアドバイスを反復する。
ピッ、と笛の音がした。少年は地を蹴って、言われた通りに走り出す――まるで風になったような感覚だった。脚が軽い。一歩の度にぐんと景色が後ろに流れていく。一瞬だ。気付いた時には五十メートルを走り終えていた。息はほとんど上がっていなかった。
「……こらっ! シュユくん、魔法使ったでしょ!」
ゴール地点でストップウォッチを持っていたセンチ先生が腰に手を当てた。
「あっそのっ……先生ごめんなさい……」
「体育では魔法は使用禁止なんですよ。……でも、魔法が使えるようになったのすごいよシュユくん!」
「いや、今のはゴウガシャさんが脚に魔力を……」
「えっ!? つ、使い魔の魔法でサポートを受けるのはダメです!」
先生がそう言うと、シュユの髪から蝶がひらり。
「いいではないか教師、テストの点数のように数字による結果が全てではないのか」
「ゴウガシャさん、ここでは魔法抜きの結果が必要なんです~!」
「使えるものはなんでも使っていいじゃあないか、ケチンボ」
「先生はケチンボじゃありません! なんでもオーケーにしたら際限がなくなって、逆に不自由になるでしょう?」
「そういうものなのか……」
「そういうものなんです」
蝶が納得したところで、シュユはひとひらの魔物を両手ではっしと包み込んだ。
「ごめんなさい先生、うちの魔物が」
「大丈夫ですよシュユくん、話せばわかってくれる子ですから」
センチは微笑む。確かになんだかんだ話を聞いてくれるひとかも……と思いながら、少年は先生に会釈をしてその場から離れた。次の生徒のタイム測定があるからだ。
「おい、おい契約者」
手の中から声がする。そっと開けば、そこには蘭の花と見紛う美しさのハナカマキリがいた。
「なぜあの個体は私を……なんていうか幼体扱いするのか?」
「さあ……生徒の使い魔だから、生徒と同じっぽく感じるのかなぁ……?」
「まあ別にいいのだがな。さて契約者よ、本題だ。魔力を脚に込めるというのがどんな感覚かはわかったな?」
曰く、慣れてきたら体中に魔力を巡らせて、筋力や臓器の強化ができるという。つまり速く走れるし、高く跳べるし、強いパンチができるし、全然バテないということだ。
「あの感覚をイメージして、自分でやってみろ」
「わかりました。……んんん~~……」
が、ダメ。全然ダメだ。できる気配すらしてこない。ただ一生懸命りきんだだけに終わった。掌上のハナカマキリは溜め息を吐いた。
「お前、本当に魔法のセンスないのな」
「うう……」
「だが先ほど走った時のように、私が契約者へ直接的に魔力を送れば、お前は様々な魔法を扱うことができるぞ」
「ほんと!?」
シュユは真ん丸な目をもっと丸くして手の中の魔物を覗き込んだ。
「尤も、私は契約によってあらゆることに制限をかけられているので、ささやかな魔力しか送れんがね」
「どうすればその制限を緩くできる?」
「さあ? あるまげすとを読めとしか言えん。ちなみに腹立たしいことだが私には読めなかった。召喚した魔物に逆に利用されないようプロテクトがかかっているのだろうな。……お前が制限解除をすれば、プロテクトなど破壊して読んでやるのだが」
「そうなんだー……」
帰ったら改めてあるまげすとを読んでみようかな、とシュユは思った。それから……
(……母様が生きている間に、あるまげすとについて聞いておけばよかったな)
思い出すのはその背中だ。ぼうっとしているとチャイムが鳴る。今日は金曜日、今秋最後の授業が終わった。
「あ」
何か思い出したかのように口走った少年に、授業が終わったから潜まずともよくなったゴウガシャは人の姿を取りながら、
「どうした契約者」
「今日って金曜日だから……急いで帰らないとっ。お片付けしなくちゃ」
「そうだ片付けろ、いい加減にあのごっちゃりした場所を整頓しろ。金曜も何も関係なくだ」
「ゴウガシャさん、手伝ってくれますか?」
「なぜ私が掃除をせねばならんのだ」
「うう……明日は朝から姉様が来るから……散らかってると怒られちゃうんですぅ……」
「ほう、姉がいるのか」
「お母さんは違いますけどね」
魔法の素質は遺伝する。魔法の豊かさは国力に直結する。ゆえに国で一番の魔法使いである王とは、その素質を残す為にも一夫多妻ないし多夫一妻が認められていた。シュユには多くの兄と姉がいる。
「お前の姉とはどんな奴だ?」
「サウザン姉様、いいひとですよ! 母様がいなくなってから、ずっとぼくの面倒を見てくれてるんです。いろいろ、難しいことの手続きとかそういう、やってくれて……」
そういうわけで、とシュユは表情を引き結ぶ。
「部屋が散らかってるとたいへんだから……すぐ着替えて帰るっ」
パッと走り出す。ゴウガシャは人間はいろいろあるのだなと思いつつのんびり歩いてついていった。今日の鍛錬は勘弁してやろう。
●
そして日が沈んで昇って、土曜日の朝。
朝ごはんを食べて支度を終えて、シュユはちょっと緊張したような、しかしどこか嬉しそうな、そわそわした様子だった。部屋は少年の努力のおかげで綺麗になっていた。ちなみにゴウガシャは手伝ってくれなかった。
「……で、お前の姉はいつ来るんだ?」
椅子に腰かけ、暇つぶしに小型テレビの適当な番組を見ている魔物は、部屋を行ったり来たりしている少年に問うた。シュユは時計をちらと見る。九時になる十秒前――
「もうすぐです!」
がら、とクローゼットを開いた。そういえばあそこが開くのは初めて見るな、と魔物はそちらを見る。クローゼットの中には銀色の金属キューブがあった。一人暮らし用の冷蔵庫ぐらいの大きさだ。
なんだこれは、とゴウガシャが問う前にキューブがうごめいた。表面が波打ち、硬い金属のキューブから液体金属のようにしなやかになり――女の姿になった。驚くべきことに色まで纏い、一見して人間と変わりない見た目になる。二十歳前後といったところか、ワンレングスの腰ほどまである長いストレートヘアに、一重の鋭い目、引き結ばれた唇。一見して理知的だが酷薄そうにも見える顔立ちだった。服装は上品でカジュアルなパンツスタイルだ。
「サウザン姉様!」
「よーすシュユ、元気してたか」
ぴゃっと抱き着く少年を、彼女は意外にも情動豊かに顔いっぱい微笑んで抱き留めた。うりうりと仔犬にでもするかのように撫でまわしている。
「なるほど、魔的土人形(ゴーレム)か」
ゴウガシャは独り言つ。主に土くれなどに魔力を込めて人形にし、自分の意のままに動くしもべとする魔法だ。
「……しかしゴーレムを操る術者はどこだ?」
「サウザン姉様、遠く遠くの大学に通ってるから、ご自宅からゴーレムを遠隔操作されてるんですよ。すごいでしょ?」
道理で、と魔物は思った。この人間と見た目が変わらぬ金属ゴーレムはとても高等な魔術によるものだと一目見て分かったが、それを超遠隔操作できるとなると、シュユの姉は王族の血を引いた優れた魔女なのだろう。
ゴウガシャとサウザンの目が合った。互いにじろじろと頭のてっぺんから爪先までを観察する。
「外宇宙の魔物……!? なんでこんな神話級のバケモンがここにいるんだ」
「ゴウガシャとでも呼ぶがいい。そこの小僧に召喚されたのだよ」
「なんだと!? シュユどういうことだ」
サウザンはシュユの方を驚いた顔で見た。
「ええと、実は――……」
かくかくしかじか。少年は経緯を偽りなく説明した。姉は額を押さえて溜息を吐く。
「なんだってそんな危なっかしいことを……術は成功してるみたいだからいいんだけどさ……。シュユ、コイツに変なことされたり言われたりしてないか? 具合が悪いとか寝つきが悪いとかは?」
「ゴウガシャさんいいひとだよ、ひとじゃないけど……。お勉強とか見てくれるし、昨日もふわふわの動物になって一緒に寝てって言ったらおっきなネコちゃんになってくれたし」
「シュユ……外宇宙の魔物になんつーことさせてんだ……」
まあ安全なことは把握した。サウザンは魔物を改めて見る。美丈夫は肩をすくめて笑った。
「どうせなら私も、国を滅ぼすとか生き物を絶滅させるとかコイツを独裁者に仕立て上げるとかやってみたいのだがね。契約者のお望みは友達ごっこのようだ」
「ゴウガシャさん、酷いことしちゃダメですよ」
「わかってますよーだ」
私達は仲良しです、とアピールするかのようにゴウガシャはシュユの肩を抱き寄せて、ニッコリその美貌を微笑ませた。サウザンは首をかすかに傾けてその様子を見る。
「……ま、害意がないならなんだっていーよ。それで――シュユ、部屋もちゃんと片付いてるしさ、どっか遊びに行こっか」
ニッと笑う。弟は嬉しそうに頷いた。
「うん! 行く! ……ゴウガシャさんもいい?」
「あんたの使い魔だろ? シュユが留守を任せたいとかじゃないなら、連れてってあげな」
「うんっ!」
そして、少年は嬉しそうな様子のまま使い魔を見上げた。
「ねえ、一緒に遊びに行きませんか?」
「それは使い魔に対する命令か?」
「命令じゃなくて……お願い? お誘い? 一緒に行けたら嬉しいなぁっていうか……」
考える少年に、魔物はふっと笑った。
「同行してやろう」
「やったぁ」
「支度して戸締まりしてこい」
「はぁい!」
ぱたぱたと少年は支度を始めた。サウザンはそれを手伝いながら、
「シュユ、どこ行きたい?」
「ん~~……」
「動物園とか?」
「! 行くっ」
「おーし決まり決まり。箒に乗せてやろっか?」
「乗るー!」
声を弾ませるシュユにニッコリ笑んで、ゴーレムは自分がしまわれていたクローゼットから白銀の箒を取り出した。細やかな装飾が施された、見るからに上等な代物だ。
「あったかい恰好しなよー」
バイクと同じで、飛行で風にさらされ続ければ体感温度はぐっと下がる。「はーい」と少年の返事が聞こえた。
ほどなく。支度を終えたシュユと共にサウザンは外に出る。さて――ゴーレムは魔物を見た。
「ゴウガシャ、すまんが箒は二人乗りだ。自力で飛ぶか小さくなってくれ」
「はいはい、承った」
魔物はエメラルドグリーンが美しい尾の長い鳥に変身した。「ケツァールか」と鳥の名前を言いながらサウザンは箒に跨がって浮かぶ。弟がその後ろに跨がって、姉の背中にしがみついた。
独特の無重力感。並ぶ建物を眼下にして、魔法の箒が空を飛ぶ。人々交通手段に関しては車の方が多い。魔力をわざわざ使うより、ガソリンを使った車の方が楽だからだ。それに全ての人が魔力を使えるわけでもない。
それでもシュユは箒に乗るのが好きだった。魔法をより感じられるからだ。いつか自分も……とは思うものの、多分無理だろうなぁと察している。
(あれ……でも、ゴウガシャさんに魔力を送ってもらえたら)
今度話してみよう。シュユはそう思った。魔物の方をちょっと見やれば目が合った。鮮やかな鳥がひらりと傍に来る。
「どうした」
風の声に掻き消えない、不思議な声音だった。
「ぼくも箒に乗ってみたいなぁって……」
「箒か……まあお前の努力次第ではないか。飛びたいだけなら私が大きな鳥になって掴んでやるが?」
「ほんと!?」
「お前に嘘は吐けんと言っているだろうが」
「じゃあ……じゃあ……帰りに……」
サウザンの方を窺うように見る。後ろを少し振り返った姉は「いいよ」と微笑んでくれた。
今日は楽しみなことでいっぱいだ。こんな日々がずっと続けばいいのになぁ、と少年は願う。
●
ほどなくの飛行後、町中の動物園にたどり着いた。コインロッカーに箒を預け、サウザンは手際よくチケットを買ってくれる。もともと、あの金属キューブの中に自前の財布を持っていたのだ。ちなみにシュユの通帳など大切なものも金属の体の中に持っており、金庫代わりになって幼い弟の為に管理しているのだ。
「はい、チケット。アンタのことよく分かんないけど『大人一枚』扱いでいいよな?」
シュユの次、ゴウガシャにチケットを渡しながらサウザンが言う。魔物はいつもの美丈夫の姿で、片眉を上げて紙切れを一瞥した。
「人間じゃないのに人間用の金をとるのかね?」
「見た目が人間だから、まあ、金払っといた方がトラブルはないだろ。ゲートのとこでスタッフに渡すンだよ、いいね」
「それぐらいのルールは分かる」
ゴウガシャは肩を竦めつつチケットをピッと指先に挟んで受け取った。
サウザンは弟と笑顔で手を繋ぐ。弟もまた幸せそうだ。魔物は入園ゲートに向かう姉弟の背中を見る。じっと観察しながら、魔物もまた歩き出した。
――獣の臭いがする。
ゴウガシャは契約者からは少し離れたところ、後ろからついて動物園を進んでいた。召喚されるにあたって、この世界の絶滅していない動物の情報は知識として得ている。シュユのスマホで画像や動画や記事も閲覧している。なのでこうして実際の動物を見るのは、そういった記憶の反芻に感覚は近かった。
賑やかだ。多くの人間がいる。檻や柵の向こうには獣がいて――同じ場所を往復するライオンだったり、群れて水面をついばみ続けるフラミンゴだったり、道行く客に吠える猿だったり――たくさんの人間達はそれを指さして何か会話していたり、しきりに携帯カメラを向けていたり、じっと佇んでいたりする。星向こうの魔物からすれば、檻の中の生き物も、檻の外の生き物も、違いなどなかった。
それにしても平和だ……平和すぎる。ゴウガシャはゾウを見て何やらきゃいきゃいしている姉弟の後ろ姿をじっと見ている。いっそ例のスキンヘッド男でも襲ってこないかと一抹の期待を込めて周囲を見渡した。危なそうな奴はどこにもいなかった。
「ところでお前ら、曲がりなりにも王子と姫だろ。民草の中に紛れて騒ぎにならんのか?」
大きな声で言うのはよろしくなさそうなので、少々彼らに近付いてゴウガシャは問うた。「ああ」とサウザンが振り返る。
「シュユはほとんど知られてないし、私については弱いけど認識阻害魔法かぶってるから、そうそう注意して凝視されなきゃパッとわかんないよ。ま、それでもバレ握手を求められたんなら、ニギッと返せばいい。民あっての王族だからね」
シュユの前ゆえに話さなかったが、サウザンは他にも心無いマスコミやらが弟を嗅ぎ回らぬよう、姫としての立場を使って圧力と根回しとを徹底していた。シュユの穏やかでありふれた暮らしは、この姉によるところが非常に大きい。
……ということを、ゴウガシャもそこはかとなく察し取る。この魔女は、この魔法も使えない出来損ないの王子をたいそう大切にしているようだ。
(好き者よな、なんの得があるのやら)
まあ本人がやりたくてやっているのなら、魔物はあえて冷やかしたりもしなかった。同時に考える。
(完全に孤独だったら……まだ付け込みようがあったものを)
つまらん。視線を下に向ければ、姉と手を繋いでいるシュユがゴウガシャの方を見上げた。
「すごいですねぇ」
「何がだ?」
「動物がたくさんいて……」
「私に様々な生き物に変身するよう命じたりと、お前は生き物を見るのが好きなのだな」
「そうかも……。ゴウガシャさんはどの動物が好きですか?」
「クジャクだな」
魔物が片手を差し出した。その手の中にふわり、クジャクの鮮やかな尾羽が花開く。
「……すごい! 綺麗~」
「部位によらず変身できるのか、すごいな」
弟は純粋に見た目の美しさに目を輝かせ、姉は魔法的観点から興味深そうに覗き込んだ。
「すごいだろう、崇めてもかまわんぞ」
ゴウガシャはフンと笑って手を握り込んだ。クジャクの羽根は消える。
「それで、契約者よ。他にはどんな生物がいるのか?」
「えっとですね」
少年はパンフレットを開く。
「……あっ魔獣がいます! あっち!」
そう言って案内していく――魔獣とは、人間でいうところの魔法使いのようなものだ。魔力に適応し、変質した変異体であり、ドラゴンやペガサスなどが魔獣のいい例だ。
向かった先、耐熱魔法がかけられたアクリルパネル越し、火をまとっている大きなトカゲがそこにいた。魔獣、火蜥蜴(サラマンダー)だ。赤黒い皮は一部が赤熱している。渇いた砂地の上、のんびり昼寝をして微動だにしなかった。寝ている間も燃えているが、寝ているからかどことなくとろ火だ。
「わーー。すごーい……燃えてる」
「でっかくなって飛べるようになるのは火竜(ファイアー・ドレイク)っていうんだぞー」
火蜥蜴を覗き込むシュユに、サウザンがそう言った。「そうなんだー」と少年は興味深そうだ。
「ゴウガシャさん、火蜥蜴には変身できないんですか?」
「できる。が、制限緩和が必要だ、魔獣は特殊なのでね」
「そっかー……」
少年はしばし考えて、姉を見上げた。
「姉様、帰ったらあるまげすとを一緒に読んで欲しいです」
「……悪いが断るよ」
サウザンは周囲を見渡した。幸いにして近くにひとけはなく、そのまま控えめな声量で続ける。
「あるまげすと――あれはとても危険なモノなんだ。アレはこの星由来のものではない異界の存在、私らからすれば『異物』でしかないモノを扱う。だから拒絶反応が起きやすく、制御も半端なく難しく、事故が起きやすい。端的に言うとな、星向こうの異物でしかない魔力が流れ込んだことで術者の精神が狂ったり、星向こうから来た魔物が大惨劇を起こしたりする」
総括して星向こうの世界――異界に関する魔法は危ないのだ、とサウザンは真剣に語った。そしてゴウガシャを苦い顔で横目に見る。
「……本来はさ、こんなに危ない魔物を完全に制御できてるなんて、薄氷上の奇跡としか言いようがないんだ。シュユ、ゴウガシャの契約を緩めちゃいけないよ。絶対にね」
「でもゴウガシャさん優しいよ……」
「詐欺師は笑顔で近付いてくるもんだ」
ゴーレムは温かく小さな肩に手を置いた。少年はすぐ傍の魔物をそっと見上げる。彼は人畜無害に美しい顔をニッコリさせていた。
「シュユ、あるまげすとは隠すか破壊した方がいい。アレは危険な禁書だ……国立図書館で間違いなく特級禁書指定されるような、希少も希少な異界に関する書物なんだから。狙う者も多いはず」
姉がそう続ける。そういえば襲撃が既にあったことをシュユは思い出していた。
襲撃のことを話さなくていいのか――少年をじっと見据える魔物の目がそう語っている。シュユはそのことに気付いていたが、姉へ笑顔を向けた。
「ゴウガシャさんがいるから大丈夫。あるまげすとも預かってもらってるし」
「……そう」
サウザンはおもむろに伸ばした手で、弟の頭を優しく撫でた。
「……何かあったらすぐ姉さんを呼びなよ。私にとって、シュユは大事な家族なんだ。アンタは独りじゃないんだからね」
「うん。ありがとう姉様」
微笑みを向ける少年。ゴーレムはその頭を最後にポンとして、快活に笑った。
「じゃあこの話はこれぐらいにして――お昼ご飯にすっか!」
カフェテリアは、ペンギンが泳ぐ水槽を眺めながら飲食ができる場所だった。
ゴーレムが飲食ができない構造なので、サウザンはきつねうどんを食べている弟を隣で穏やかに見守っている。この鉄人形を介し、遥か遠くから本物のサウザンも彼を見守っているのだ。あつあつのうどんをふうふうしながらゆっくり食べている子供の姿は、心が穏やかさで満ちていくものだ。
器を両手で持って汁を飲んで、ぷは、と器を下ろしたシュユは姉を見やった。
「そっちのサウザン姉様は何か食べた?」
「ん? ああ、シュユがおうどん食べたから、私もうどんにした。カップのやつだけど。おいしーよ」
ゴーレムの遠隔操作にはものすごい集中力が要る。なので料理をしながら、とまではまだ修行が足りないサウザンである。カップ麺にお湯を入れる程度はできるので(それでもゴーレム使いの中ではとんでもないスキル)、ゴーレム操作中はもっぱらインスタントでエネルギーを補っていた。
シュユは姉と同じものを食べているということがちょっと嬉しくて、はにかむように笑った。視線を動かせばペンギンとカフェテリアとを隔てるアクリル板の前、白スーツの背中が見える。魔物はじっと、泳ぎ回るペンギンを眺めているようだ。しかし、先程からもそうだが、道行く人のほとんどがゴウガシャを二度見する。ひそひそと「あの人すごいイケメン」「芸能人かな」なんて声も聞こえる。
「ん」
ゴウガシャは主人の視線に気づいて顔を横向け振り返った。背景にはペンギンの泳ぐ青い水があって――高い鼻梁と涼やかな唇と凛とした顎が作り出す、ぞっとするほど完璧な横顔。後ろの青も相まってこの世ならざるほど神秘的だった。
だけど、この美丈夫の正体が黒くてどろどろしたよく分からない生物……いや生物ですらないのかもしれない『何か』、であることを見て知っているのはシュユだけだった。シュユはこの魔物の正体を知っているだけに、白スーツの美しい男の見た目にみだりに惑わされることはない。
(ぼくは……あの黒くてよくわかんない姿も好きだけどな……)
なんて、言ったら「せっかくお前ら好みの美しさに化けてやったのに」と顔をしかめられそうだ。
「どうした、見惚れているか?」
「いや、そうじゃなくて」
「なんだつまらん」
「ゴウガシャさん、アイス食べませんか」
「……命令なら従おう」
冗句っぽく笑って、魔物は主人の方へと足を向けた。
じゃあぼく買ってくる、とうどんを食べ終えたシュユは席を立つ。「これお金」とサウザンが財布からアイス代を渡した。アイスが売っている店へと向かった少年を見送って――魔物はさっきまでシュユが座っていた場所にどっかと座る。隣のゴーレムを見た。
「そう警戒するな、私はあの小僧の味方だよ」
「……だといいんだけどね」
「しかし疑問だ。お前たち魔法使いは実力主義なのだろう。シュユに肩入れすることは、王位継承のライバルを増やすことにはならんかね? 蹴落とせばいいのに、お前はそれをしない」
その言葉に、サウザンは小さく溜息を吐いた。
「……私が王になった暁には、そんなふうな血統と実力主義の魔法使い界隈を変えてやるんだよ。魔法が苦手ってだけで、家族なのに蔑ろにするなんて。強いってだけで誰かを蹴落としていいだなんて。そんな風習がずっと当たり前だなんて。畜生の所業じゃねえか。私は鬼にも獣にもならない」
金属でできたさらさらの髪を掻き上げる。
「夢なんだよ。フッツーの市民の家庭みたいにさ、フッツーに家族でテーブル囲んで、フッツーにごはん食べて、今日はこんなことがあったんだーって他愛もねー話をさ、テレビつけっぱでシケたバラエティ垂れ流しながらよう……。そこにシュユもいて欲しい。あの子には幸せになって欲しいンだよ」
尤も、そのライバルは多いとサウザンは語った。彼女自身の兄弟姉妹、愛しながらも敵対せねばならない血縁者共。
「……しょーみな話、家族で仲良くできてるのはシュユぐらいだよ。親父陛下はより良い魔法使いを作り出すことに御執心で、御袋陛下はお前が絶対に王になれが口癖だし、兄弟姉妹はみーんな王位を狙って虎視眈々さ、誰よりも王位に相応しい偉業を遂げなきゃならないから」
「ゴーレム操作で偉業を?」
どのような、とゴウガシャは眼差しで問う。パッとイメージが湧かなかったからだ。
「ナメんなよ」
サウザンは不敵に笑う。
「私はゴーレム遠隔操作で宇宙を探索ができないか研究してんだ。いずれアンタのいる星向こうの時空の神秘すら暴いてやる、首があるか知らんが首洗って待ってな」
「それはそれは楽しみだ」
――そんな様子を、アイスを持ってきたシュユは少し離れた場所で聞いていた。
(姉様、すごいなぁ……)
シュユはふと自分の爪先に視線を落として考える。
自分は何をしたいんだろう? 何ができるんだろう?
(王様になる……? 正直なりたくないし、王様には姉様になって欲しいし……)
思えば未来のことをほとんど考えたことがなかった。考えないようにしていたのかもしれない。いつだって、今日と明日のことで精一杯だった。だって、できることなんてほとんどないから。
(でも、ぼく、変われるのかな。すごいことできるのかな)
ゴウガシャの背中を見つめる。王様にはなりたくないけど、せめて、誰かの役に立ちたいなぁと思った。
魔物の名を呼ぶ。「ご苦労」と従属側なのに相変わらずの様子で魔物が片手を差し出す。少年は片方のアイスを渡してあげた。真っ白なソフトクリーム。舌先が冷えて、甘い。
「ぼくね、ゴウガシャさんが食べてる姿見るの好きですよ」
「唐突になんだ。美しいからか?」
「なんか……生き物! って感じがするから」
「変な性癖だな」
魔物がそう呟くと、机の下でサウザンが爪先を蹴った。「子供の前でそんな言葉を使うな」と小声で凄まれる。ゴウガシャは全く反省した様子がないままフンと鼻を鳴らした。シュユは不思議そうにしていた。
「ねえねえ」
アイス片手に、シュユはテーブルにパンフレットを開いた。
「食べ終わったら、ドラゴン見に行きたい」
この動物園の目玉、魔獣の一種。中型の大人しい種類だが、竜は竜。ライオンやトラと並んで子供達の憧れの的だ。ちなみに大型だったり獰猛で危険な種類はこんな町中には持ち込めず、主に保護区にて生息している。
いいよ、とサウザンが笑む。シュユは嬉しそうにして、姉を見て、次いでゴウガシャを見た。なんでこっちを見る必要が……と思いつつも、魔物も空気を読んで「よかったな」と言っておいた。
●
動物園からの帰り道。
シュユは大鷲に化けたゴウガシャの鉤爪に掴まれていた。……てっきり背中に乗せてもらえると思ってただけに、なんとも言えない顔になっていた。どこからどう見てもこれは獲物の運び方である。
「なんだその顔は、もっと喜べ」
「……すごいなぁとは思ってますぅ……」
そんな二人の様子に、傍を箒で飛ぶサウザンはくすりと笑って声を張った。
「シュユー。晩ごはん、ハンバーグ作ろっか?」
「! うん! 食べたい!」
「よーしよーし。じゃスーパー寄ろっか、牛乳とかも買っておかないとだし」
――そういうことがあったものだから、帰宅は買い物袋と共にだった。荷物を持ってくれたのはサウザンだ。ゴーレムゆえに非常に力持ちなのだ。
「相当遠くから遠隔操作しているようだが、ほぼ一日中できるとは大した腕だな」
「シュユには内緒だけど、実を言うと結構カッツカツだったりする」
ゴウガシャの言葉に、姉は苦笑交じりの小声で言った。魔力補助の飲み物をガブ飲みしてやっているらしい。ゴーレムの操作は術者から離れれば離れるほど難しくなり、魔力の消費も激しいのだ。
「ああ、それで小僧と会うのは土曜日に……」
「日曜はドカ寝するからな」
会話終わりにシュユがドアを開けてくれた。「ただいまー」「ただーいまー」と姉弟の声が重なる。靴を脱ぐ少年がゴウガシャの方を期待するように見上げるので、魔物は片眉をもたげた。
「言いたいことがあるなら言え、そうでないならお前の脳味噌を覗けるように契約制限を緩めろ」
「えっと……『ただいま』って言わないのかなって」
「それで?」
「……言って欲しいなって」
「ただいま」
部屋に入りながら何気ない物言いでそう言った。後ろ手にドアを閉める。ゴウガシャの衣服は変形の一部とのことらしく、靴を脱ぐ動作もなくそのまま立ち入った。「私は汚れない」と毎度言うので少年はもう受け入れている。だが今はそのことよりも、魔物が「ただいま」と言ったことにどんぐり眼を真ん丸にしていた。
「嬉しいか? 泣いて喜んでいいぞ」
上体を傾け少年に顔を寄せた魔物は口角をつった。シュユは瞬きを一回、二回――
「姉様ー! ゴウガシャさんが初めて『ただいま』って言ってくれたー!」
バッとサウザンの方へ走り出して行く。「そっかよかったなー」と、買ったものを冷蔵庫にしまっていた姉はにこやかに微笑んだ。
「ほら手ぇ洗って、ハンバーグ一緒に作ろ」
「はーい!」
ちなみにサウザンのゴーレムもゴウガシャ同様、靴は見かけなのでその着脱がない。地面に触れていた面を内側に流動させ、後で洗うのだ。
シュユは手を洗ってうがいもした後、エプロンを引っ張り出して身に着けた。家庭科で作ったエプロンだ。黒と青の、よく分からないかっこよさそうな英語で彩られたドラゴン柄だ。
料理を手伝うつもりは毛頭ないらしいゴウガシャはそんなシュユを一瞥し。
「……その裁縫がガッタガタの前掛けは一体なんだ」
「かっこいいでしょー、ドラゴン柄。お裁縫苦手なのでガタついてますけど……」
「そうか……」
何とも言えない顔をしているゴウガシャ。サウザンが彼へ声をかける。
「おいアンタも手伝えよ」
「なぜこの私が召使のようなことをせねばならん?」
「使い魔は召使みたいなモンだろ! シュユ、命令!」
「ええーっと……ハンバーグ作るの手伝ってください、ゴウガシャさん!」
「くッ……しょうがないな」
契約者の命令には逆らえないのだ。命令の度合いが強ければ強いほどそうなる。魔物はやむなく腰を上げた。
さて、料理である。サウザンはまな板の上に複数の野菜を並べた。ゴーレムの腕が液体金属のように溶けたかと思えば、次の瞬間には幾重もの刃になった。それがひゅんひゅんと振るわれれば、野菜は一瞬でカットされる。全ては使わない。使わない分はフリーザーバッグに入れて冷凍庫へ。お湯に入れてコンソメの元を入れればすぐにスープになるし、他にもすぐ料理に使える。一人暮らしの弟が気軽に野菜を摂れるようにとの工夫だった。
ゴーレムの体は液体金属のように腕が分かれ、同時に多くのことをこなしてしまう。冷凍庫にフリーザーバッグ入りの野菜をしまうだとか、屑野菜を捨てるだとか、鍋に切った素材を入れるだとか……。
「シュユ、タマネギ炒めておいて」
「はぁい」
「ゴウガシャ、やっぱこのキッチンで3人は狭いわ、邪魔だし座ってて」
「貴様……」
魔物はやれやれと先程の椅子に座した。料理をする姉弟を眺めることにする。
ゴーレムのおかげで料理はあっという間に進んでいく。ほどなくしてこね終わったハンバーグがフライパンで焼かれ始めた。蓋をしてじっくり中まで火を通して――いい香りが部屋に満ちる。少年がわくわく見守る先で、お皿の上によく焼けたハンバーグと、甘く柔らかく仕上がった温野菜のサラダが載せられた。ハンバーグにはケチャップとソースを混ぜたモノをかける。残ったハンバーグは冷蔵庫や冷凍庫に入れて、また後日のごはんになる。電子レンジでインスタントの白米も加熱が完了した。お茶碗によそってテーブルへ。同じく並ぶ、キノコとワカメのコンソメスープにはショウガが少し入れてサッパリと。
一緒に食べたいから、というシュユの願いでゴウガシャの分もテーブルにあった。サウザンはゴーレムなので食べられない。契約者と使い魔は向かい合って座った。温かな湯気越しに、双方が見えた。
「いただきます」
二人の声が重なる。「召し上がれ」と隣で見守るサウザンは優しい目だ。
少年はできたての温かい料理を口に運ぶ。一人で食べるインスタントとは随分と違った。正面には使い魔が、隣には姉がいる。あったかい――たくさんの意味でだ。
「おいしい!」
「そっかそっか」
家族で穏やかに他愛もなく食事をしたい。そう願うサウザンからすれば、この光景はとても眩く尊いもので。伸ばした手は血の通わぬ冷たい金属なれど、本当の手のつもりで、シュユの頭を優しく撫でた。
「いっぱい食べな、シュユ」
――食事が終わって、皿の片付けをして。
皿洗いを終えた手を拭き、サウザンは「さて」と弟に向き直る。
「じゃあ姉さんはそろそろ切るね」
「姉様、ありがとう」
「いいんさ。また来週ね、なんかあったらすぐ電話なりしてよ」
しゃがむ姉は両手いっぱいに家族を抱き締めた。シュユもめいっぱいの想いを込めて抱き返した。金属のゴーレムはひんやりしていた。
ゴーレムは小さな背中をぽんぽんと叩く。それから体を離し、空きっぱなしだったクローゼットへ。
「ちゃんとお風呂入って、歯磨きして、早寝しなよ。宿題も忘れずに」
「うん。姉様も大学のお勉強がんばってね」
「ありがと。それじゃ」
最後に一つ微笑んで、ゴーレムの体はどろりと溶け崩れ――今朝のようなキューブ状に。手を振っていたシュユは静かに手を振るのをやめると、クローゼットを閉めた。そして振り返ると……そこにサウザンがいるではないか。違う、ゴウガシャだ。ゴウガシャがサウザンに変身している。
「寂しいのなら姉の姿になってやってもいいぞ」
「……ますます寂しくなっちゃうので、いつもの格好でいいです」
「そうか」
瞬きよりも短い刹那で、魔物は白スーツの美丈夫の姿になる。彼は具合を確かめるように首を一度回して、少年に問いかけた。
「本当に襲撃のことを言わなくてよかったのか?」
少年は頷いた。
「うん。姉様のお話を聞いてね……すごいなぁって思ったんです。ぼくも……自分のことぐらいは、自力でどうにかしたい」
(だが手荒な手段はダメだと言う。ほとほと回り道主義だよコイツは)
声にはしない。「そうか」とだけ魔物は答えた。
少年はクローゼットの方を見たままだ。そのままの体勢、おもむろにゴウガシャの手を握る。毎週会えるとはいえ、いつも姉とのお別れは寂しい気持ちでいっぱいになるのだ。
「あのね……ありがとうゴウガシャさん」
きゅ、と少し握る手に力を込めた。
「最近ね、明日が楽しみだなぁって思えるんです。寂しい気持ちもあんまり感じないんです。だから……その……明日もよろしくお願いしますね」
「明日どころか、契約ある限り私はお前が死ぬまで共にいるんだよ」
空いている方の手を少年の頭に置いた。ぐりっと抑えつけるように撫でる。
「手に入れた『宝』の価値をようよう自覚することだ。お前はツイている。誇れ」
「……ゴウガシャさんはいつも自信満々で羨ましいです」
「羨望するならもぎ取るぐらいの気概でいろ」
「僕も自信満々になれますかね」
「なれるかな、じゃない。なるんだ」
見上げてくる少年の鼻先をつっついた。鼻を押されてシュユは目をぎゅっと閉じる。その隙に魔物はひらりと離れてしまった、「さっさと風呂入って歯でも磨いてこい」と笑いながら。
●
「っッ……だは~~~疲れたーーーッ……!」
マンションの一室、ゴーレムの操作を終えた瞬間にサウザンはソファに倒れ込んだ。すぐ傍のローテーブルには魔力補助用の液体薬(ポーション)やらお香の痕跡やらがごろごろ転がっている。
「はぁ……ふう……お腹すいた……眠い……ううっ……シャワーもう明日でいっか……」
目を閉じて、深呼吸をして、開いて、天井を見上げる。照明の直視が眩しくて、手の甲を額に置いた。
ひとまず、弟が元気そうでよかった。動物園も楽しんでくれたみたいだし。ごはんもしっかり食べてるみたいだし。……星向こうの魔物を召喚したことは、とてつもなく驚いたけれど。
(まさかシュユが……あるまげすとを持ってたなんて)
母親が死んでから、本棚から引っ張り出してコッソリ持っていたのだろうか。それを今まで、姉にも明かさず隠していたのか。
(バレたら取られちゃう、とでも思ったのかな……)
サウザンは自分の言動を顧みる。確かにシュユがあるまげすとを持っていると知り、「あるまげすとは隠すか破壊した方がいい。アレは危険な禁書だ」――そう言ってしまった。姉でさえそう言うのだから、大人にバレたら問答無用で没収されるかもしれない、そうあの子が考えるのも自然なことだ。
(……あの子がアレを解読しただなんて、信じられない)
星向こう、異界に関する魔法はとても危険なのだ。未知にしてあり得ざるモノは人間にとっては劇薬なのだ。この国において異界魔法の権威とも呼べる研究家だったシュユの母ですら――実験中に魔法が失敗し、時空の歪みが体に発生し、全身がバラバラになって死亡したのだ。
この国……否、この世界において、異界に関する魔法はその危険度からほとんど禁術に近い。多くの魔法使い達がその神秘に挑み、そして惨たらしく死んでいった。シュユもそうなるのではないか。彼の母のように。……そう思うと、サウザンの心臓が嫌な動き方をする。同時に脳裏を過ぎるのはゴウガシャという恐ろしい怪物のことだ。契約の力によってシュユに手出しできないようだが、星向こうの魔物だ、およそ人間に素直に従うような存在ではない。肝心のシュユは魔物に心を許しているようだが……。
(なんともないといいんだが……)
そればかりを祈る。また来週、どうなっていることやら――そう思いながら、サウザンは眠りに意識を手放した。