●1:シュユとゴウガシャ
雲一つない星空だった。
フェンスの向こう、彼方に摩天楼を望む、くたびれた雑草がまだらなる空き地にて。十歳ほどの、ありふれたいでたちの癖毛で痩せっぱちな少年は、木の枝でぐりぐりと草のない砂地に何かを夢中で描いていた。それは幾何学模様にも、天文図のようにも、子供の落書きにも見えた。
「これで……よし!」
少年は顔を上げる。どことなく明るくはない、幸の薄そうな顔立ちだった。そのかんばせは達成感に満ち溢れ、枝を持つ方とは反対側の手にあった書物へと視線を向ける。辞書もかくやな分厚い、古めかしい、仰々しいともとれる厳めしい本だった。
少年は星月明かりを頼りに、乾き黄ばんだ紙面に指を這わせる。そこに記されていたのは魔法の呪文だ。
「譏滉ケ句髄縺薙≧荵矩。斐↑縺咲・槭h……」
声変わりもまだな声が紡ぐのは、言葉のような、意味不明な解読不能の音の羅列――……。
「……、」
しん、と静まり返る。遠くに町の喧騒だけが聞こえる。少年は目をぱちくりとして、それから、星空を仰いだ。祈るように、願うように。
かくしてその時である。
夜の空が、音もなくひび割れた。少年の真上、欠けるように一部だけだ。少年は目を見開く。直後である、そこから暗澹としか形容のできない黒い何かが這い出して、ずるりぼとり――少年の目の前、砂の上に書いた図の上に降り立った。
「隱ー蝣慕ァ√r蠑輔▲蠑オ縺」縺溷・エ縺ッ」
それは先ほど少年が発した奇妙な言葉とよく似た言葉だった。黒い不定形の何かは渦巻くようにどろどろとわだかまり、少年の前にそびえ立つ。そのおぞましい怪物に対し――彼は瞳を輝かせるのだ。
「ぼく、シュユっていいます! あなたは星の向こうの魔物さん……ですか?」
少年、シュユは声を弾ませた。黒い魔物は少年の瞳をじっと見て、動きを静止させる。
「――お――ァえ――ぷ――……この星の言語はこれで合っているか?」
喋った。老若男女に獣の声が合唱するような、複数の口が同時に話すような奇妙な声だった。
「……うん!」
シュユが力いっぱい頷けば、魔物は「発声器官は一つか」と声を男のテノールだけに絞った。
「シュユ、この星の美しい者を教えろ」
質問に答えるより優先度が高いことらしい。ならばとシュユはポケットの中から携帯端末を取り出して、操作する――かっこいい 有名人 検索――ヒットした画像一覧の画面を、魔物の方に向けた。
すると。黒い物体が蠢いたかと思えば、いつの間にかそこには麗しい美丈夫が立っていた。男らしい四肢は伊達でセレブな白いダブルスーツに包み、艶やかな黒い髪は几帳面に後ろへ撫で付け、凛々しい眉の下の瞳は、見る角度によって変わるオパール色だった。
「いかにも! 私は星の向こうの魔物、まあゴウガシャとでも呼べばいい」
ずいと顔を寄せた魔物――ゴウガシャは、やっとシュユの質問に答えた。気取った笑みと尊大な態度が印象的だった。
「ほう、情報を得られる道具か。おもしろい寄越せ」
有無も言わさず、ゴウガシャはシュユの手にあった端末をパッと取ってしまった。教えたはずはないのにぐりぐりと操作して、へぇ、とほどなくして投げ返した。少年はどうにかキャッチする。
「ゴウガシャさん、ケータイの使い方わかるんですか?」
「大まかな常識や知識はお前を介して知ることができる。本当に大まかにだがな」
「だからさっきかっこいい人の画像見せろって、変身する為に」
「お前達の種族の美という概念をざっと把握したのだよ。どうだ美しいだろう? 惚れ惚れするだろう?」
ゴウガシャはスーツの襟を持ってキメてみせる。「おー」とシュユが拍手すれば、伊達男の魔物は得意気にした。
「尤も、契約に縛られている影響でこの星の生き物にしか変身できんがね。真なる私はあらゆる姿を持つのだが……しかし大したものよな。お前のような華のない幼体が時空彼方の存在を現界させるとは」
「けいやく」
「あ?」
「けいやく……ってどういう」
「嘘だろ?」
首を傾げる少年に、ゴウガシャは片眉を上げた。
「お前……その魔導書を使って、異界の門を開く大召喚魔術を行使し、この私を星の向こうから呼び出して……その脳味噌を媒介に私を縛ったのではないのか?」
「あっ、そうなんですか」
「そうなんですが?」
少年はふんにゃり笑って、まるで平和に手を打った。
「これ、母様の魔導書で。難しすぎて部分部分しかわかんなかったんですけど、使い魔が召喚できるみたいなのでやってみたんですよ~。お友達になれたらいいなぁって」
「そんな動機で……? よく成功したものだな……」
「ゴウガシャさんはなんかすごいんですか?」
「なんだか説明するだけ馬鹿馬鹿しい……まあ何にでも変身できる凄い奴だと認識すればそれでいい」
それよりも、と辟易を押し殺してゴウガシャは指先をシュユの額に突き付ける。
「脳味噌を強力な契約の媒介にしているんだ、とてもリスクが高い上に……お前の脳味噌が機能停止するまで契約は打ち切られない。私に命を捧げているようなものだぞ」
「なる……ほど……」
「まるで理解をできた顔に見えん……まさかお前、さてはお前、頭悪いな?」
「いやぁ……よくわかりましたね、こないだもテストが酷い点で……」
「……」
ゴウガシャは立ち尽くし、夜空を仰いだ。
「……何かお前に誇れるようなことはないのか? たとえば金持ちだとか、一芸に秀でているとか」
「でしたらぼく、王子ですよ」
「おお!」
意気消沈しかけていたゴウガシャだが、一気に話題に食いついた。シュユはなんてことない仕草で向こう側の摩天楼――その頭上に浮かぶ円盤上の巨大オブジェクトを指差した。円盤はあちこち明かりが灯っており、人工的な建物であることが窺い知れた。他に浮いているものはなく、件の建物がどれだけ特別かを知らしめる。
「あれが宮殿です」
「ほう、ほう! 私の契約者にしては悪くない。では案内したまえ、お前の家に」
「は~い」
分厚い魔法の本を抱え直したシュユは、「こっちです」と魔物を伴い歩き始めた。
●
かくしてたどり着いたのは、ガチャガチャした町並みに埋もれたワンルームマンションだった。何の変哲もなく――ドアの向こうに電気が灯れば、少々散らかっている光景がそこにあった。
「……お前、王子とか言ってなかったか? なに? 誇大妄想? 空に浮いてる宮殿は?」
ゴウガシャは玄関すぐにほったらかしてあったランドセルを跨いで踏み越え、服やら教科書やらゲームやらゴミやらでごちゃついた部屋を見渡した。人の姿はなく、部屋の様子からもここに住んでいるのはシュユ一人だけなのだとわかる。
「本当に王子です、王様の子供です~。一番末の……妾の子なので……ほとんど肩書きだけですけど……」
机の上に魔導書を置いて、王子を名乗る少年は苦笑した。
「宮殿には飛行魔法かワープ魔法が使えないと行けないんです。でも学校が地上にあるから……」
「魔法が使えないから宮殿から学校に通えない、ので地上に住んでいる、と」
ゴウガシャはしばし迷ってから、脱ぎっぱなしの寝巻きが置いてあるベッドにどっかと腰かけた。ちなみに寝巻きは隅に投げた。長い足を悠々と組む。
「半分、厄介払いもあると思います……ぼく、魔法が下手くそだし頭もよくないし運動も苦手だし」
シュユはごちゃついた台所で手を洗っていた。
「ゴウガシャさんも、お家に帰ったら手洗いうがいですよ」
「私はウイルスや塵などで汚れない。清浄無菌にして美しいのだ」
「そー……ですかぁ」
洗い終えた手をぴっぴっと振るう。そんな少年に、魔物は問う。
「魔法が下手と自嘲したが、そのわりに私を召喚したではないか。なんだ嫌味か? 私の召喚なぞ朝飯前の鼻糞程度ってか?」
「ち……違いますよぉそんなつもりじゃなくって……ゴウガシャさんを呼び出せたのは、ぜんぶ母様の遺品のおかげです」
シュユは慌てて否定しつつ、机の上の魔導書を示した。
「ぼくの母様、ここじゃない世界に関する魔法の研究をしてたんです。この本は『あるまげすと』っていって……そういう魔法のジャンルの凄い本だとかなんとか……死んだ母様の唯一の遺品らしい遺品なんです」
悲愴感はない、なんてことない物言いだった。ゴウガシャもまた、人間の生き死にには情動は動かされぬようで相変わらずの態度である。
「強力な魔導書が術式の補助になったのか……。母親個体は死亡済み、それで一人で暮らしていると」
「この本を使えば異界の門を開くこともできるとか……なんとか……母様はその魔法を使って失敗して、体がバラバラになったそうですよ」
「……そんな危険な魔法なのによく使おうと思ったな」
ゴウガシャの言葉に、少年は苦笑のような、曖昧な笑みを浮かべるだけだった。
「母は死に、父王からは見捨てられ、全く不憫な幼体よな」
組んだ足に頬杖を突き、ゴウガシャはニンマリと笑う。鋭い牙が見えた。
「しかし私が来た! お前にはもったいないほどの魔神だぞ。何がしたい? 母親を甦らせるか? 父王に目にものを見せてくれるか? それともこの国を滅ぼして、お前だけの帝国を作ってやろうか? 復讐、怨恨、暴力策略、血みどろ惨劇グランギニョール大歓迎さ!」
まるで歌うように高らかに。
では、とシュユは怪物の前にぺたんと座った。
「じゃあ一緒にごはん食べましょーよ。あと宿題やってほしいな」
「……それは何かの隠語ではあるまいな? それとも詩的な婉曲のなりそこないか?」
「言葉通りですぅ」
「……」
――そういう訳で、二人はテーブルについた。鍋で沸かしたお湯を容器に入れて三分、それでカップラーメンはできあがる。
三分の待機の間、シュユは目の前に座った魔物に問いかけた。
「ゴウガシャさんはどこから来たんですか? 星の向こうってどこ?」
「遠い遠い遠い遠い宇宙の向こう側だよ」
「じゃあ宇宙人なんですか?」
「広義ではそうなるのかもな」
「今までどんなことをしてたんですか?」
「たとえばとびきりの美女に変身して傾国させまくったり、適当な怪物に変身して『私は神だ』と嘯いて新興宗教を作らせカルトさせたり、変身の力で冤罪を生みまくったりな、楽しかったぞ!」
「わぁ……」
「そういうお前はどうなんだ? どこからきて、何をしていた?」
「うーん……この辺の産婦人科で生まれて……小学生です」
「まさかだが、もしかして宮殿暮らしは経験なしか?」
「一応は……なしではないと言える……ハズ」
「今からでも連れてってやろうか? 私は飛べるし、お前の努力次第では時空も超えられるぞ」
「行ったところで居場所はないし……門前払いされちゃいます」
「なんだつまらん、『だから玉座をもぎ取る』ともどうせ言わんし」
「言わないよ~……王様とか無理無理ゼッタイ無理、学級委員長ですらマトモにできてないのに」
「ほう、地位があるのか」
「ないよ……面倒臭い役職を、『シュユくんがいいと思いまーす』ってクラスの一致団結でおしつけられちゃった」
「ならばそいつらを委員長権限で八つ裂きに」
「しないよ」
ちょうど会話の途切れにタイマーが鳴った。蓋を開ければ温かな湯気。後入れの調味料を入れて、箸でかき混ぜれば完成だ。
「いただきまーす」
シュユは手を合わせ、塩味のカップラーメンを食べ始める。ありふれた、大衆的な、インスタントな味わいだ。
ゴウガシャは少年が食べ始めたのを確認してから、同じ手順を踏んだ。箸を使って黄金色の麺を持ち上げ、啜る。咀嚼する。熱さをまるで感じぬ様子だ。
そんな魔物がふと顔を上げれば、少年が丸い瞳でじっと魔物を見ている。
「なんだ契約者」
「……ごはん食べるんだなぁって」
「お前の真似事にすぎんよ。本来は食事など不要だ。それと供物はもらってやる主義だ」
「おいしい?」
「いかにもお前達のような生き物が喜びそうな味だな」
「……おいしいってこと?」
「不可ではない」
もぐもぐしながら、口が開いていないのにゴウガシャは発声している。魔物の外面上の器官は見た目の飾りにすぎないのだろう。
不思議な生き物だ。生き物……という表現で合っているのだろうか。シュユは凝視しすぎないように相手を見ている。美しい者に化けただけあって刹那刹那が完璧に美しい。所作も品よく優雅で、見ているだけでも飽きないものだ。
そうやってシュユが食べ終わると同時、ゴウガシャも食べ終わった。「ごちそうさま」と少年は空き容器を魔物の分まで処分する。
「で」
男は顎を上げた。
「宿題をやれと言っていたが?」
「そう! 算数のドリルをね……やらなくちゃいけなくて」
ちょっと待ってて、とシュユは放置されていたランドセルへ。ほどなく、算数ドリルと筆箱とを持った彼がテーブルに戻ってくる。「ここのページです」と開いて見せて、先の丸い鉛筆を手渡した。
「ふむ」
ゴウガシャはそれを一瞥し。
「待て。こんな単純な数式を私にやらせるつもりか? 新手のハラスメントか?」
「えっ……難しくない? 分数……難しくない?」
「呆れてモノが言えんぞ!」
「ううっ……だってぇ……」
「シュユお前……美しき私の契約者たるもの、分数ぐらいできんでどうする!」
ゴウガシャは牙を剥いた。蛇のようなシューッという威嚇音を立てている。人間の本能的な恐怖を刺激する音に、少年は「ひええ」と顔を青くした。そして体が椅子から動かないことに気付く。見れば、ゴウガシャの指先から繰り出ている細い細い――蜘蛛の糸のようなものが、シュユを椅子に拘束していたのだ。
「な、なんですかこれぇ!?」
「私は変身ができるのだ。指先を蜘蛛の器官に変成させることなど造作もない。利き手は右だな、右手だけは自由にしてやる」
ゴウガシャが手を動かせば、糸が千切れてシュユの右手だけが自由になった。そこに鉛筆が握らされる。ドリルを眼前に突き付けられる。
「今夜は寝かせないぞ、分数の計算を契約者が理解するまでな」
「えええええ」
「この私が手ずから教えてやるのだ。光栄に思いたまえ!」
「そんなー!」
残念ながら逃げ道はなかった。物理的にも精神的にも。
●
そこからのことをシュユはよく覚えていない。なんやかやとゴウガシャから分数の計算のやり方をスパルタに教わったはずだが、酷使の果てにオーバーヒートした脳は全ての記憶を飛ばしていた。
だがしかし、喜ぶべきことに、ドリルの解答欄は無事に埋まっているではないか。シュユの字で書かれているが、少年には自分がどうやって記入していったのか思い出せなかった。それぐらい魔物の授業は苛烈だった……。
とはいえ、宿題ができたのは喜ぼう。これで教師に残念な顔をされない。一安心だ……「身を清めてこい」と言われたので、シャワーと歯磨きとを済ませ、シュユはベッドに倒れ込んだ。目覚まし時計は見たくなかった。手元のリモコンで消灯する。そうすれば部屋は暗闇だ。カーテンのわずかな隙間、町明かりが射し込んでいる。車の通りすぎていく音。
顔を横向ければ、テーブルにて、シュユの携帯機を使って人間社会の情報を閲覧しているゴウガシャの姿が見えた。暗がりに、ディスプレイの明かりだけが、この上なく美しいかんばせを照らしだしている。顔を横向ければ、テーブルにて、シュユの携帯機を使って人間社会の情報を閲覧しているゴウガシャの姿が見えた。暗がりに、ディスプレイの明かりだけが、この上なく美しいかんばせを照らしだしている。
「寝ないの?」
「睡眠などと無防備を晒す下位行為は私には備わっていない」
「いいなぁ……。スマホで何見てるんですか?」
「この世界のことだ。契約の際にある程度は知ることができるが、浅いのでね」
「ふぅん……」
シュユは欠伸した。
「ねえ、折角だし一緒に見ようよ」
ぽんぽんとベッドの空いているスペースを手で叩く。魔物は鼻で笑った。
「なんだ添い寝して欲しいのか? それとも褥の相手をしろと? 性感帯という性感帯がぐずぐずのどろどろのビンビンになって二度と元に戻れんほどの極上の快楽を見せてやれるぞ!」
「ゴウガシャさんの言葉はときどき難しすぎてよくわかんないけど、なんか怖そうなので結構です~」
小さく笑う少年の声はかなり眠そうだった。
「契約者、眠いなら眠ればどうだ? わずかな明かりでも眠れんタイプか?」
「いや……寝る時に誰かがいるのなんて、すごく久しぶりで……」
「煩わしいなら小さな蝶にでもなろうか」
「嬉しいんです」
煩わしいのではない、とシュユははにかんで言う。素直な感情表現に、横目に見るゴウガシャは男らしい造詣の片眉をもたげた。少年は宿題で脳を使いすぎてもう眠たくて限界なのか、目を閉じてしまっていた。
魔物は端末を切る。ディスプレイの明かりが消え、部屋は真っ暗になり魔物の輪郭も消えて――ひらりと、蝶のように飛ぶのは黒い羽根の華奢なトンボ。それはベッドの縁に止まり、じっと羽を畳んでいた。
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シュユが感じたのはカーテンから差し込む朝日と、目覚まし時計のアラーム音と、直後に「ええいやかましいわ!」とゴウガシャの声と、「バギッ」と何かが壊れる音と、それきり止んだアラームの音。
「な、なに……」
少年が目をこすりながら身を起こせば、白いスーツの美しい男がベッドの上に立っていて――彼の片手はヤシガニの鋏へと変身しており、その鋏の間には目覚まし時計だったモノが挟まっていた。
「あっ目覚まし時計……」
「起きたか契約者」
「靴でベッドの上に立たないで……」
「私の靴は宇宙一綺麗だ」
「そういう意味じゃなくて……」
フンとゴウガシャは鼻を鳴らし、圧砕された目覚まし時計をベッドの上にポイと放りながら、手を人間の形に戻し優雅な動作でベッドから下りた。
「目覚まし時計……」
「あんなさえずるしか能のない無機物などどうでもよいではないか。美しい私がいる。もっと美しく鳴いてやろうか」
得意気なゴウガシャが腕を広げて振り返る。そうすればその身からコマドリやウグイスやスズムシやコオロギやらの涼やかで風流な鳴き声が響き渡った。
「わあ……ひとり自然オーケストラ……」
おかげさまでシュユの眠気はすっかり消えた。目覚まし時計については……まあ、携帯のアラーム機能があるので、と思ったがそれまで破壊されるのは困るな、と考える。まあ後ほど考えよう。少年もベッドから下りることにした。
冷凍庫に保存していた食パンの一切れをトースターに。焼いている間に顔を洗って着替えをする。今日の授業分の教科書をランドセルに入れる。パンが焼けたら牛乳と一緒にテーブルへ。
そんな風にシュユが朝の支度をしている間、ゴウガシャはベランダで朝の世界を眺めていた。朝食については「ゴウガシャも食べる?」と少年の問いに「要らん」と一言だった。
「おい契約者」
食事の後、歯を磨いていた少年にベランダの魔物が呼びかける。
「お前は今から小学校に行くのだろうが、私は留守をすればいいのか?」
「うーん……」
口をゆすいで水を吐いて、タオルで拭って、シュユは言う。
「じゃあついてきて欲しいな。使い魔はOKだったと思いますし……ええと……」
ランドセルの傍へ。ごそごそやって生徒手帳を取り出して、ぱらぱら――「うんOKって書いてあるもん」とシュユは表情を花咲かせた。
「よし! 行きましょうゴウガシャ! 出発です!」
なんとも楽しそうにしながら少年は魔物の手を引いた。成人男性に化けている彼の手と比べれば小さなものだ。ゴウガシャは奇妙なものを見る目でそれを見下ろしながらも、契約は契約なので好きにさせることにした。
外は朝の眩さに溢れていた。出会ったのが夜なのでなおさら光を感じる。シュユにとっては見慣れた、ゴウガシャにとっては初めての、朝日に照らされた登校道。車が道路を行き交い、眠気と疲れと煩わしさが浮かんだ顔の人々が足早に歩いていく。上空には箒で飛ぶ魔法使いがチラホラといた。
ひとときの忙しなさがある。しかし通り過ぎる人間は皆、ハッとした顔でゴウガシャを見た。視線を奪われる、とはまさに。これまで映画でぐらいしか見たことのないような絶世の美丈夫がいるのだ。この朝の忙しい時間には全く似つかわしくない、ある種の異質さを持った存在だった。男も女も大人も子供も老人も魅了してしまうほどだ。
「しかし契約者は私の姿に全くなびかんな」
「え……だってゴウガシャさんってあの、黒くてどろどろした姿じゃないですか」
シュユは隣の魔物を見上げて、丸い目をもっと丸くしている。ゴウガシャは微かに目を細めた。
「ふん。まあ、上っ面でしか判断できん愚物ではないことは褒めてやろう」
「ありがとうございますー……あれ? ゴウガシャさんって見た目を褒めて欲しいんですか? それとも褒めない方が嬉しいんですか?」
「私のことは基本的に諸手を上げて喝采せよ。私には喝采こそが相応しい」
「ええと……ゴウガシャさんかっこいいですね!」
「当然のことだ」
ゴウガシャは呼吸のようにそう答えた。見た目に関して褒められたことがないシュユはふと、前を向きながら考える。見た目を持て囃される日々ってどんな感じなのだろう? 少年の顔はお世辞にも美少年とは呼べない造詣だ。少々野暮ったく垢抜けない、どんぐり眼に控えめな鼻筋。隣の魔物から「花がなくて印象に残らん」とでも言われてしまいそうだな、と少年は心の中で苦笑した。
小学校まではそう遠くもない、ほどなく敷地が見えてきた。ありふれた公立の小学校だ。魔法の適正でも高ければ、高名なところにでも通わせてもらえたのだろうが。
魔法使いとは極めて実力主義社会だ。たとえ王族であろうとも、魔法の適性が低ければ敬われないのは当然で。魔法が下手なのであれば、魔法を使わぬ一般市民として生きるのが普通だった。ある種、魔法使いとして白い目で見られるよりも、そういった競争のない一般市民となる方が安全で健全ですらあった。
だから無理矢理にでも魔法使いとして生きることを強いられるより、この生活の方がいい――そういう訳でシュユは校門をくぐる。公立のこの学校には魔法を使えない子供も魔法を使える子供もいるが、基本的に魔法を学ぶ場ではなく、広く子供を教育する場所だった。
そんな学校にて。周りの子供達は真ん丸な目でゴウガシャの方を見ている。
「見ろ契約者、あらゆる人間が私に見惚れているぞ」
「すごいですねぇ」
「私が甘く囁けばどいつもこいつも股を開きそうだ、ハハハ」
「またをひらく……?」
「無知め」
そんなこんなで、下駄箱と廊下を越えて「5-1」と書かれた教室。
「私の席がないではないか」「生徒じゃないから当然ですよ」「なんだと」というやりとりの後、ゴウガシャは教室後ろのスクールロッカーに座ることに決めたようだ。
教室は「今日って授業参観だっけ」「さあ」「アレ誰?」「かっこいい……」とざわついている。遂に勇気を出した男子生徒がシュユにそろそろと尋ねてきた。
「なあシュユ、あのひとって……」
「ぼくの使い魔だよ」
「使い魔ぁ……?」
「使い魔は学校に連れてきてもいいんでしょ?」
シュユは首を傾け、教室の奥を見た。女子グループの中には光の球のような妖精を連れている子がいた。他にも人形型とか小動物型とかが散見される。
「……お前、魔法使えないとか言ってなかったっけ」
「魔導書があったから、それを使って」
「へー……」
男子生徒がゴウガシャの方をチラと見た。
「私の話か? 聴こえているぞ」
尊大な態度の魔物が言えば、男子生徒は身を引っ込めた。
チャイムが鳴ったのはその直後。三十代前後ぐらいの女教師が教室に入ってきて、「皆さんおはようございます」と微笑んだ後――後ろのゴウガシャに凍り付いた。
「どっ……どちら様ですか?」
その質問に教室はシンと静まり返る。生徒達は皆、教師と同じ思いだった。魔物はまるで怖気る様子もなく、しおらしさとは真逆の態度で顎をもたげた。
「シュユに召喚された星の向こうの魔物、黒きケイオスの体現者、形と貌のない魔神、この星では便宜上的にゴウガシャとでも名乗ろうか。そういうお前はどちら様だ?」
「……しゅ、シュユくんの先生の、センチです」
「そうか契約者の教師とな。まあよきにはからえ」
魔物は手をひらりと振った。教師センチはポカンとしたままだった。ややあって、慌てた様子でシュユの傍へ駆け寄る。
「シュユくん、あの……本当なの?」
「本当ですぅ」
「え……でも、」
「母様の魔導書を使ったらうまくいったんですよ~!」
少年は嬉しそうに微笑んだ。「そ、そう……」と教師は笑顔を強張らせる。
「生徒手帳には使い魔は連れてきてもよいって書いてたんですけど……」
「うん……うん、そうね、そうですね、違反行為、ではありません、けど、ええと……」
教師は冷や汗を流して笑みながら、教室を一度見渡して。
「……規則として、授業中は使い魔はしまってもらえる?」
使い魔は『しまう』ことができる。たとえば影の中に、契約者のアクセサリーの中になど。あるいは透明になることも可能だった。
シュユはゴウガシャの方へ振り返った。
「……ですって、ゴウガシャさん」
「しょうがないな」
この美貌に失せろとな、と言わんばかりの物言いだった。フッと男の姿が消える――いや、消えたのではない。小さな生き物に変身して、こっそりシュユの髪の中へと隠れたのだ。その姿は黒いトカゲだった。
「これなら文句はなかろう」
「いいんじゃないかな」
耳元のゴウガシャの囁きに、シュユも小さな声で返した。
かくして授業が始まる。シュユはお世辞にも成績優秀という部類ではなく、授業を熱心に受けるタイプでもなかった。特に使い魔と一緒に授業を受けているというワクワク感が心を占めている。授業どころではない。
「ねえゴウガシャさん、触ってもいいですか……?」
「触る? 私に?」
ふわりとした癖毛の中、トカゲが小声の主に問う。少年は頷いた。手の中に来て、と机の上の掌を上に向けた。そうすればするりと、黒トカゲが掌の中に。こちらを見上げる小動物に、シュユはへらりと嬉しそうに笑った。
なるほどこういう小さな生き物がいいのか。そう判断したゴウガシャは、次いで小鳥に化けた。ふわふわの感触に少年は感動する。思わず鉛筆を置いて、両手でふわふわと羽の柔らかさを堪能した。掌の中、小鳥は小さなネズミや、掌に収まるサイズのネコ、イヌ、ウサギ、あるいは七色に煌めくタマムシや、美しい翅模様の蝶、宙を漂う鮮やかな熱帯魚へと。
まるで小さな動物園だ。名前の知らない美しい生き物が掌の中に現れては、次の生き物へと変身する。心臓がどきどきとした。かつてない感動だった。
「すごい……」
思わず口をついて出た言葉。その直後だった、「じゃあこの問題を――シュユくん」と当てられる。
「はい!」
ビックリして勢いよく立ち上がる。この問題を、と言われたがどの問題だろうか。「ええと」とまごつきあわててページもわからない教科書を手にする少年だが――耳元で「答え」が聞こえた。ゴウガシャが言っているのだ。なのでシュユはそれをそのまま口にする。「お見事、正解です」とセンチ先生は眼鏡の奥で微笑んだ。
「よかった……ゴウガシャさん、ありがとう」
着席しながら小声で言う。すると魔物は訝しむ物言いで、
「お前、ひょっとしなくても勉学が足りないんじゃないのか」
「あ~……」
返す言葉もない。実は通知簿には5がなくて……なんて言えない。「お前なぁ……」とゴウガシャの溜息。
「ほとほと、お前が私を召喚できた理屈がわからん。こう言ってはなんだがなぁ、私はここらにいる使い魔連中とは文字通り『次元』が違う……お前らが神格と呼び畏れる魔物なんだぞ。普通は生き物の命の力を大量に消費して『門』をこじ開けて呼び出す代物なんだぞ。それを単身で……私がお前に手出ししたり逆らったりできんほどの強力な契約を結ぶほど……」
「母様の遺した魔導書がよっぽどすごかったんですねぇ」
あるまげすと。シュユの母である魔女が遺した、驚異の書。帰ったらアレをちょっと読んでみよう……とゴウガシャは思った。
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