●第六話:おわりに、ふたり
栄華を極めた男がいた。
元は貧しかったが、事業に成功し一気に大富豪の仲間入りを果たした彼は、半ばタレントや俳優のような有名人として国民に知られてゆき、誰もが知る存在となると、やがて周りからの推薦もあって政治家になり――ついにはその国のトップにまで登り詰めてしまった。
人々は男を成功のシンボルとして尊敬し、自分も彼のようにいつか夢を掴めるやも――と希望を抱いた。
終末戦争が、起きるまでは。
ずっと平和だった世界で生きてきた男には、戦争なんて経験の欠片もなかった。
周囲がどんどん混沌と化していき、ある国からは援軍を送れと言われ、ある国からはお前の国を侵略するぞと脅され、ある国からは兵器を買わないか擦り寄られ、ある国からは大量の難民が雪崩れ込み、飛び交う兵器で環境は乱れ、混乱する国民は怒りの矛先を政治に向け、暴動が起き、犯罪が多発し、警察も機能せず、軍部がクーデターを企て、経済も生活も安寧も何もかもがメチャクチャになり尽くして……
「もう無理だ、もう私の手には負えん! どうしようもない! どうしたらいい! どうにもならない!」
もう何日、何週間、何か月、自宅に帰れていないだろうか。執務室で男は頭を抱えて嘆いた。男が有名になった理由のひとつにそのスタイルのよさとハンサムな美貌とがあったが、心労に次ぐ心労のせいですっかりやつれきってしまっていた。ダンディ、ジェントルマン、といった言葉が似合いそうな年齢のはずなのに、疲れ切った雰囲気とストレスによる白髪のせいで老人のようだった。
「どうすれば一人でも多くを救えるんだ……今更、金や食べ物をばらまいたところで意味がない……鎖国して中立を貫けるほどの軍事力もないどころか、もう軍は私の命令を聞いてはくれない……考えれば考えるほどに手詰まりだ……どうすれば……!」
がしがしと頭を掻きむしる。
「ああ、こんなはずじゃなかったのに。折角この国で一番偉い存在にまでなったのに、どうしてすぐ終末戦争だなんて起きたんだ!? あの戦争無ければ今頃……今頃私はぁぁぁ……!」
もう妻にも子供にも家族にも愛想を尽かされた。他の政治家もどこぞに亡命してしまった。あるいは首を吊ったり、軍に捕らえられて処刑されたり、国民から襲われて死亡したり。この立派なビルにいるのはもう彼ぐらいだろうか。ちょっと前まで、誰も彼もが男を崇めていたのが、スーパースターとしての日々が嘘のようだった。
もうどうにもならない……男は質のいいネクタイを解くと、充血した涙目でドアノブを見た。
死ぬしかない。もう駄目だ。もう無理だ。もうここでおしまいにしてしまおう……。
「お待ちください、閣下!」
ドアが勢いよく開いた。
現れたのは白衣を着た、博士然とした壮年の女だった。彼女は優れた科学者であり、この国がパトロンとなって様々な技術発明の支援をしている天才である。
「死ぬのにはまだ早いです。まだやるべきことがあるのです」
「しかし……博士。この状況でなにができる?」
「こちらをごらんください」
博士が胸ポケットに挿していたペンを操作すると、空中にホログラムが浮かび上がった。それは資料のようだった。
「閣下には安全な地下シェルターに避難して頂き、戦争が終わるまで『冷凍睡眠(コールドスリープ)』していただきます」
「な、なんだって!? 私一人が逃げ延びて生き延びて、どうなるっていうんだ!」
「いいですか閣下、この世界の混沌は、一人の英雄がヒロイックに解決できるような映画めいたデウス・エクス・マキナはもはや不可能です。そこで世界には一度、このまま滅びてもらいます」
「なっ……なっ……」
「問題は滅んで戦争が終わってからです。そこはきっと荒廃しきった終末風景でしょう。ですがきっと、たとえごくわずかでも、生き延びた人間がいるはずです。では、彼らを導くリーダーは誰? ……あなたですよ、閣下。終わった世界には、貴方のようなリーダーシップを持った存在が必要になるのです」
「しかし……」
「こんなゴミクソみたいな状況で、閣下、あなたは最後まで逃げようとしなかった。家族から愛想を尽かされ、国民中からバッシングされ、それでもリーダーでありつづけた。責任を誰かに擦り付けることもなく。それでもあなたは、誰かの明日が少しでも良くなるようにと足掻き続けた。そんなあなただからこそ、この話をしているのです」
「そ……それは、私以外の人間はどうなる? 見捨てることになるじゃないか。一人だけのうのうと安全圏になんて……そんなリーダーに誰がついてくる?」
「このまま『今』と心中するか、一か八かの『未来』に懸けるか、ご決断を」
男は黙り込んだ。俯いた。冷や汗が伝った。
「そのコールドスリープ……私の分しかないのかね」
「ええ。国民まるっとコールドスリープという方法も考えたのですが……この混乱を見るに、敵対国に情報が流出してシェルターが爆砕されて終わりです。……よその国では『アプカルル号』だなんて潜水艦型シェルターの計画が持ち上がっているそうですが、はたして実行されたとしてどれだけ長持ちするやら」
「……。本当に……それを使えば、我々の可能性は延命できると……?」
どうにもならない今。死ぬしかないとしか思えない今。
だが、未来ではどうにかなるとしたら……?
「できます。できる、と断言する他にないのです。閣下、参りましょう。こんな状況で、それでも我々は人間であるがゆえに生き延びねばならないのです」
かくして。
男は遥か地下の秘密のシェルターにて、棺のような装置に入り――長い長い、しかし永遠ではない眠りに就く。
未来の人間を導く為に眠ったその男の名前は、エンキという。
●
そうして長い時間が経った。
ぷしー、と音がして、部屋に明かりが灯って、棺のような装置が開く。
エンキは飛び起きた。感覚的には一晩まどろんでいたような心地だった。だからコールドスリープが即座に解除されてしまったのかと混乱した。
「おはようございます、閣下。これは自動メッセージです。閣下がコールドスリープに就いてから 年が経過しました」
肝心の年数の部分が、エラーが出たらしく読み上げられなかった。エンキは装置から降り、半信半疑のまま、自動メッセージに従ってコールドスリープ用の部屋から出た。ドアの向こうは、まるで高級ホテルの一室のような場所だった。窓はないが。
コールドスリープから目覚めた彼は一糸まとわぬ姿だった。まずシャワー室へ向かい、身を清めてから服を着る。いつもの着慣れた品の良いスーツが置いてあった。
それから「食糧庫」と書かれた扉を開けると、そこには超大量の食糧が備蓄されていた。四角い缶詰のような容器を一つ取る。それを、生活空間のラウンジコーナーにあった『形成機』にセットした。どのような料理に形成するか、メニューを操作する。あまり凝ったディナーが食べたい気持ちでもなかった。簡易なカロリーブロックにする。水は蛇口をひねればでてきた。水と、プレーンで小麦粉の味がする塊。それを一人掛けの机で、ぼそぼそと食べる……。
無言。ひたすら静かな世界。
エンキは沈黙し続け、それから、長い長い溜息を吐いた。
「夢じゃないのか……」
独り言。食事を水でぐいと長し、立ち上がる。外の様子が気がかりだった。
しかし……独りで大丈夫だろうか。兵器の汚染も気になるし、生物兵器やらロボット兵器やらがうろついていては一巻の終わりだ。
と、エンキは博士の言葉を思い出した。野外活動の為のボディガードを用意しておく、と彼女は言っていた。「それはここの部屋にいるから」、と眠る前に案内してもらったことを思い出す。
男はその部屋に向かった。そこにはエンキが使っていたようなコールドスリープ装置に似た、棺のような装置があった。誰ぞ眠っているのだろうか? ボディガードが何なのか、そういえば詳しく聞きそびれていた。あの時はもう余裕なんてなかった。「このボタンを押す」と博士のメモが張り付けてあるボタンがあった。男はそれを押した。
ぷしー。例の音がして、装置が開く……。
かくして。
そこに横たわっていたのは、子供だった。十歳ぐらい……? だが人間じゃない。大きな両腕には鋭い鉤爪があり、脚もまた獣のような造詣で、黒い鱗でおおわれた長い尾が生えており、その頭部には鬼のような二本の角と、狼のような獣耳があった。顔の一部、両腕、下半身はもこもことした黒い毛に覆われている。狼人間、あるいは人面獣、という印象が当てはまった。
閣下の為の生物兵器です。最初に目にした者を主人として懐くように調整済です。
名前はありません。閣下がつけてあげてください。
「な……な……」
彼の胸の上に置かれていたメモを手に、エンキは目を見開いた。生物兵器。噂には聞いていたし、テレビなんかでは見たことがあったが、実物をこうも間近で見ることになるとは……。
と。『それ』がギョロリと目を開いた。獣のように鋭い瞳孔で、血のように赤い色をしていた。それは「ひっ」と息を呑んだエンキを見ると――「んあーん!!」と獣のように鳴いて、ぴょんと飛びついてきた!「う、うわーっ! うわーっ! 噛まないでくれーっ!」
素っ頓狂な声をあげるエンキ。生物兵器は彼の上半身にガッチリ組み付き、喉をぐるぐるぐるぐる鳴らして顔をすり寄せ、肩口に甘噛みをしている。
「ひい……ひい……うう……敵意はないのか……ないんだよな……よし……重いなお前……降りてくれないか……」
エンキはゆっくりと生物兵器を下ろした……が、離れてくれなかった。そのまま座ることにする。そうするとしがみついたまま、彼(多分、彼だとは思う)はすくすくと鼻を鳴らして『主人』のにおいを嗅ぎ始めた。まるでそのにおいを記憶するかのようだった。
「生物兵器って言ったって……見た目は完全に子供っていうか狼人間の仔犬というか……お前、戦えるのか……?」
「ン」
おそらく言葉は通じていない。しかし「最初に目にした者を主人として懐くように調整済」とメモがあったが、懐くにしたって懐きすぎじゃないか。生物兵器は座り込んだエンキの足の間にすっかり収まっている。大人しくしているがそわそわしているようで、長い尾がゆらゆら揺れて、時折床を打っていた。遊びたいが我慢している、といった様子か。
部屋の中で遊ばせて何かが壊れても困る。……じゃあ外で?
そういえばちょうど外の様子を見てこようかなと思っていたのだ。
「その前に……お前に名前をつけにゃならんな」
生物兵器の頭を撫でながら呟く。撫でてやると獣の耳がぺたんと後ろに伏せられて心地よさそうにしている。
「うーん……しかし私はネーミングというものが人生で最も苦手なのだ……うーん……」
考える。適当なのは可哀想だし。天井を仰いだ。
「……ミライ。うん、ミライでどうだ。これからこの未来を共に生きていこう、ミライ」
そう呼びかけると、生物兵器――ミライは人間のように笑って、高い声で鳴いた。
「外に出る前に腹ごしらえしないとな。何か食べるか? 今食べ物を取ってくるから」
エンキはそう言って、ミライを床に抱き下ろして踵を返す……が、背中にぴょーいと飛び乗ってくる。耳元で甘えた「ルルルルル……」という猫めいた喉の音が聞こえる。狼人間っぽいんだか猫っぽいんだか。
そうかそうか、そうしたいか、ならそうしたらいい。しかし重い。筋肉でずっしりしている。まあこれも体力作りの為の運動だ……エンキはそう思うことにして、背中に生物兵器をひっつけたまま、先程の食糧庫から缶詰を一つ持ってきた。
「何が食べたい……って分かるわけないか。とりあえず、そうだなぁ……チョコレートなんかどうだ」
形成機を使えば、缶詰の中のペーストは板状のチョコレートになって出てきた。
(……ん? 犬や猫にチョコレートはダメだってどっかで聞いたな……)
生物兵器にはどうなんだろう。チョコで死ぬ兵器なんて聞いたことがないぞ。とはいえ懸念は懸念なので、ほんのひと欠片だけを割って、背中にまだ乗っているミライへ差し出してみた。
「食べられそうか?」
ミライは茶色くて甘い香りがするそれをスンスン嗅いだ。ぱく、と欠片を口にした。
――美味しかったらしい。キュイキュイ鳴いて尻尾を揺らして喜んでいる。こうも無邪気な感情を目の当たりにするのは随分久し振りな気がして、エンキは心が温かくほぐれるような心地になった。
結局、ミライはチョコレートを全て食べた。エンキの背中にしがみついたまま。見た目は獣だがチョコレートは大丈夫だったらしい。そもそもこれはチョコレートのような見た目に形成機が作り出した総合栄養食だ。人間用のそれは生物兵器の腹ごしらえとしても機能したようだ。
「それじゃあ……ミライ、少し外に出てみるか?」
問いかける主人を、言葉が分からない生物兵器は真ん丸な目で見上げていた。
●
野外活動用のスーツで全身を包む。兵器の汚染にも耐えうる強靭なものだ。
ミライについては兵器の汚染に耐性を持つ体質であると博士のメモに記されていた。それでもエンキは心配だが、博士を信じてミライと共に、地上へと続く長い長いエレベーターに乗った……。
――扉が開く。
まず目に飛び込んできたのは眩しさで、エンキは思わず顔を腕で防御した。目をしばたかせながら、どうにか世界を見やる。
そして、言葉を失った。
そこにはどこまでも花畑が広がっていたのだ。
あまりにも、色鮮やかな光景で。
数え切れないほどの色彩が、大地をどこまでも埋め尽くしていて。
淀んだ鉛色の空のどんよりとした印象すら吹き飛ばすほどだった。
まるでそこは楽園か、天国かのようで。
夢を見ているのではないか。エンキはただただ、一歩も進めないでいた。
しかしミライが軽やかに走り出してしまったものだから、エンキはそれを追わねばならなかった。
「あ――おい、ミライ! 勝手に行くな!」
走り出すと、背後でエレベーターがマンホールのように地面に戻る音がした。花を踏む音と、男の呼気がヘルメット内で反射する音。風が吹いて、七色の花びらが幻想的に舞い上がった。
ミライはほど近い場所で立ち止まってた。ぜえはあ、エンキは息を切らせてその隣へ。猛ダッシュをしたのは何年振りだ? なんて思っていたらミライが背中に飛び乗っていて、流石に体力の限界なのでもう座り込むことにした。そうすれば生物兵器はあぐらの足の中にくるんと納まる。
「いきなりどこかにいかないでくれ……私はもう若くない人間なんだぞ……」
ミライは相変わらず、赤いガラス玉のような目で人間を見上げている。言葉の意図をくみ取ろうとしているんだろうか。エンキは苦笑してその額を掻いてやりつつ――正面を見る。
現在地は小高い丘の天辺だったようで……遥か彼方、都市だったのだろう残骸が見えた。それは美しい美しい美しい色彩に飲み込まれ沈んで、過去の栄光と成り果てていた。
「終末戦争の後に……こんなに花が咲き乱れているとは」
なんて美しいんだろう。同時に、滅んだ人類文明の無常と寂寥がどっと込み上げて、エンキは目元が潤むのを感じた。
ヘルメットを取れば、花の香りを肺腑いっぱいに吸い込めたのだろうか。だがそれはできないのだ。スーツに取りつけられたコンピュータが、この空気が途方もなく汚染されていることを示しているのだ。そして汚染されているのは花も同じで。どうやらこの花は突然変異種のようで、汚染への耐性どころか同じ汚染を伴っていたのだ。生存戦略としては素晴らしい。汚染の耐性で生存圏を増やし、その汚染を以て他の生物を淘汰する。
……この星は美しい地獄へと成り果てていた。
「こんな環境で……生存者はいるんだろうか」
ミライを撫でながら呟いた。戦争は終わっている、ように思う。どこまでも静かで、果てしなく平和だ。
「もし生存者がいるのなら……どうやって生活しているんだろう」
次いで湧くのは心配だ。エンキのいるシェルターは広く、多くの人間を収容することができる。生存者がいれば、彼らをあの快適な空間を提供することができるだろう。
そして、男は託されたことを再認識するのだ。
「私は生き残った者達の為、たったひとり、安全圏へと逃げて眠った。……報いねば。生き残った者達を探して、助けなければ。それが私の、しなければならないことだから」
その言葉を、手元の生物兵器は何にも理解していないだろうけれど。「手伝ってくれるかな」と耳の後ろを掻いてやれば、心地よさそうに首を傾けて喉を鳴らした。
だが突然、ミライは耳をピンと立て、エンキの膝から飛び降りて、彼方の方を見つめた。何事だと男が同じ方を見やれば――鮮やかな花園に似つかわしくない『異物』があった。
それはロボットだった。ずんぐりとした二足歩行型だが、人間の形と比べれば異形だ。戦闘用の、おそらく戦争で使われていたものだろうと武装から見て取れる。白兵型の武装だ。ロボットは物静かに、まるで置物のように佇んでいるが、何をしてくるのか分からない恐怖を同時に携えていた。
ミライが唸る。牙を剥き、毛が逆立ち、長い尾を威嚇のように地に打ち付けた。花弁が舞う。その尾は先端を中心に黒い棘が飛び出していた。その仕草で、男はあの無機物が『敵』なのだと理解した。
エンキが後ずさったのと、ミライが目にも留まらぬ速度でロボットに襲いかかったのは同時。ミライが発しているのだろう恐ろしい唸り声と、ロボットが花園に引きずり倒された音と、硬いもの同士がぶつかる音と、あとはもう舞い上がる花弁ばかりで、男には何が起きているのか分からない。腰を抜かして震えることしかできなかった。
ばきん、と音がする。ぐしゃり、と音がする。永遠に続くかと思われた戦いの音は、現実的な時間にすればあっという間のことだった。
「ミ……ミライ?」
呼びかければ花の中、ひょこりと生物兵器が上体を起こした。
「勝ったのか?」
「ン」
さっきの獰猛な獣の声が嘘のように、ミライが跳ねるように駆けてくる。尾の棘も畳まれていた。ぴょーんと飛んでくるので腕を広げて抱き留めてやる。
「すごいなぁ、あんな一瞬で勝ってしまうとは……お前、強いんだぁ、よしよし……」
喉を鳴らして額を擦りつけて甘えてくるのが可愛らしい。……なんて思っていたが。和らいだエンキの表情が凍り付く。ミライの肩口にはざっくりと切り傷が作られており、体にもいくつか痣があったり血が滲んでいたり、鱗が割れたり禿げたりしている箇所があった。
「お前っ、怪我してるじゃないか!」
エンキは血の気が引いた。当の生物兵器は痛覚がないのかまるで苦しそうな様子を見せずに、不思議そうにしている。男は慌てて拠点へと引き返した。
スクラップにされたロボットの死骸を見る余裕はなかった――これは後ほど彼が気付くことだが、今ミライが戦ったのは純粋にはロボットではなく、ロボットの残骸に突然変異進化した粘菌が入り込んで、傀儡のように動かしていたモノだった。
●
エレベーターに飛び乗り、除染を済ませ、シェルターの医務室へ駆けこむ。メディカルマシンを起動し、あとは機械に治療を委ねるしかなかった。多くのマニピュレータが生物兵器の傷を消毒し、薬を塗る。ミライはメディカルマシンに怪訝気にしながらも大人しくしていた。消毒された瞬間は、沁みたのか「ピッ」と一瞬だけ鳴いた。
「ミライ……ミライ、大丈夫か?」
簡単な外傷のみだったようで、深刻なものはなかった。しかし目の前で、小さな見た目の目覚めたばかりの存在が血を流したことにエンキはひどく狼狽していた。同時に、こんな幼い存在に戦ってもらわねばならないことに罪悪感を覚えた。
「……せめて外を出歩くのは、お前がもう少し大きくなってからにしよう。その間に私も……銃とか練習するから」
その間に救える命が救えなくなる可能性も……もちろんあるけれど。このシビアな状況でとにもかくにも優先しなければならないのは生き延びることなのだ。自分が生き延びられないで、他人の命を救うことができようか。
手当が終わったミライが抱っこをねだってくる。本当に驚くほど甘えん坊だ……博士がどうしてロボット兵器ではなく生物兵器を用意したのか、なんとなくエンキは理解したような気がした。
抱き上げてやる。背中をぽんぽんと擦ってやれば、喉を鳴らす兵器は長い尾をエンキの胴体に巻き付けた。
「よしよし……いいこいいこ。がんばったな、護ってくれてありがとう」
「ンン」
「しばらくは地下暮らしだが、我慢してくれよ」
「ン」
「それにしてもお前……ズッシリしてるよなぁ、本当に」
黒い毛に頬を寄せて、エンキが思い出すのは外の景色だった。色とりどりの、あまりに美しい、変わり果てた世界。今日からここが自分達の生きていく世界なのだと、受け入れねばならなかった。
●
それから。
エンキは運動用スペースと模擬の銃で射撃の練習を始めた。もちろん身体能力を向上させるためのトレーニングも。もう若くない体には堪えたが、生き延びるためだと自分を言い聞かせた。
遊んでいると思ったか、かまって欲しいだけなのか、ミライがその背によく飛び乗って来る。これもトレーニングだ。ずっしりくる重さに、エンキは「魔法の言葉」を繰り返す。
自分を鍛えるだけでなく、ミライに教育も行った。効果があるかは分からないが、言葉と文字を根気強く教えた。残念ながら知能は人間より低いようだが、それでも単語ならば少しずつ理解するようになっていった。
それから毛があるとはいえ全裸であるので、倉庫から衣類を取り出し、せめて下半身だけはズボンをはかせた。尻尾用の穴はもちろんあけてやった。最初はすぐ脱ぎ捨てたものだが、「ほら! 私も履いてる! おそろいだ!」と頑張って伝えると、意図を察した瞬間から気に入って装着するようになってくれた。
――頭上の花園を夢見たまま、しばらくの時が流れた。
ベッドのエンキはうなされていた。
顔は青ざめ、脂汗が滲み、苦しそうに呻き、そして……
「お……もいッ。重いッ! こら! ミライッ!」
目を開けて藻掻けば、彼の胴の上に載っていた生物兵器が嬉しそうに笑った。その姿は成人男性をゆうに上回るほどで、体つきも隆々と、角と鉤爪も大きく禍々しく、尾も長く太く、顔つきも精悍に。目覚めた時にむくむくころころとした小ささが嘘のように、生物兵器は成長していた。犬が一年で成犬と変わりない見た目に成長するような空気に似ていた。しかし最初は狼人間と思っていたが、今は神話上の悪魔のような印象が強くなったものだ。
「おはようおはよう」
単語なら会話ができるようになっていた。甘えるようにエンキの胸板に頭突きをかましてぐりぐりしてくる。圧が強い。
「おはよう……」
肺を押される声が出る。ミライが目覚めた時から、二人はいつも一緒に寝ていた。でも最近はもうミライが大きくなったのでベッドが狭くてしょうがない。しかも寝相がすこぶる悪く、手足をデンと投げ出すわごろごろ寝返りするわ寝言でぐるぐる唸るわで大変なのだ。違うベッドで寝るように説明しても言うことを聞かない。最近のミライは「本当は言ってることが分かるけど、分からないフリ」をするようになっていた。わざとらしく目を真ん丸にして「エ?」という顔で首を傾げるのである。
「おはよう!」
「うんおはよう……げほっ……」
やっと退いてくれた。ゲッソリした顔で着替える。エンキの体も、ストレスにやられた時と比べてかなり引き締まっていた。この歳でも筋肉つくもんだな、と鏡に映った着替え中の自分を見る。
すっかり日課になったストレッチも済ませたら、朝食の時間だ。シェルター内に太陽はないので時の流れは分かりにくいが、こんな状況だからこそせめて人間的な生活をとエンキはいつも規則正しい時間で日々を送っていた。卓上には形成機によって作られたトーストがある。目玉焼きとチーズとレタスが乗った、オープンサンドスタイルだ。飲み物も形成機によって味が付いているように感じるモノ――すなわちコーヒーになっている。ミライの分は牛乳だ。
ミライは小さかった頃はガツガツと獣めいて喰らっていたものだが、エンキの根気強いしつけの甲斐あってか、今ではちゃんと椅子に座って人のようにものを食べる。指の構造から食器を器用に持つのは苦手ではあるが、それでもエンキから見れば随分と上達していた。それにオープンサンドのような手に持って食べるものであれば普通に食べることができる。
「うまいか」
「ウン」
「そうかそうか」
生き物の首筋ぐらい簡単に噛みちぎれる顎と牙でミライはオープンサンドを食べている。垂れる目玉焼きの黄身をざらついた長い舌で舐めている。
「今日は南側の探索をしようか」
コーヒーの見た目と味と香りがする水を飲みながら、プラシーボなカフェインを堪能する。エンキの言葉は……食事に夢中なミライには聞き流されていたようで、男は肩を竦めてからもう一度言った。
「探索だよ、た・ん・さ・く」
「ン」
探索、というワードでミライがパッと顔を上げた。元気そうだしやる気も十二分、いいことだ。
さて、食事も終われば野外活動用のスーツを着て。銃器を持って。成長した生物兵器を連れて。
今日もまた、男は花々の世界へと出る。太陽は今日も出ていない。いつも空はどんよりと淀んでいた。
「いつか、ミライに綺麗な青空を見せてやりたいよ。よし出発だ」
「ン!」
二人分の足音。どこまでも広がる七色の色彩。
今日は南側――最初に外に出た時、廃墟の都市が見えた方角へ足を伸ばした。探索を本格的に始めたのは最近で、まだあの都市を隅々まで調べ尽くせていない。
「今日こそ生存者が見つかるといいんだが……そんな簡単にいかないよなぁ……まあ、絶望しないよう希望しすぎない程度にね」
「えいえいにゃ」
「せいぞんしゃ、せ・い・ぞ・ん・しゃ」
「ふーん」
変な相槌は妙に流暢に覚えてしまったものだ。軽やかに気ままに生物兵器は駆け出していく。最初は「遠くに行くなよ」と不安だったが、今では索敵も兼ねていると分かってそんなに心配にはならない。
それに、鮮やかな色彩の中で跳ねて遊ぶミライを見ていると、心にじんわり温かいものを感じるのだ。「命が、生きている」。文字にすると馬鹿々々しいほど当然の表現だけれど、エンキはそんな瑞々しさを覚えたのだ。
生物兵器の、少年らしさが抜けきらない笑い声――どんなに見た目が大きくて怖そうになっても、その根本は変わらない。だからエンキも、ミライが怖いとはちっとも思わなかった。……小さい頃の感覚で飛びついてくるのは勘弁して欲しいが。
「エンキ!」
「わかったわかった跳んでくるなうわあああーーーーッ」
花畑でこうして追いかけっこをするのも日常である。ミライときたら、ギリギリでエンキを捕まえない距離と速度でわざと追い立ててくるのである。そうしてもう走れなくなって膝に手を突いてぜえはあしたところで、(加減はしてくれているが)タックルをかまして押し倒してくるのだ。
「はあ゛ッ……はあ゛ッ……もうこの追いかけっこ、明日からやめよう……やめようッ……!」
「いや~~~いや!」
「くそ……最近はNOを覚えよって……昔は何でもかんでも『ン!』てOKしてくれてたのに……おいヘルメットを噛むな!」
のそのそ身動ぎして、押し倒された状態から脱出する。座り込んだ姿勢、隣で座っているミライの頭にポンと手を置いた。
「ほら、私達は生存者を探す為に探索をしてるんだ。遊ぶのは帰ったらいくらでも……いくらでもはちょっとしんどいからそれなりに……まあ帰ったら遊んでやるから、先に進もう」
「ンン~~」
「ミライはいいこだから言うこと聞いてくれるよね」
「ン」
どうしてロボット兵器やAIではなく、博士は生物兵器を……しかも幼体の姿で用意していたのだろう。
最初、エンキは疑問でしかなかった。けれど今なら分かる。
孤独は人を殺すのだ。ひとり、とは途方もない毒なのだ。
生きている子供の面倒を見させる。疑似的な家族関係を作り上げる。そこには打算も見栄もない。生き物の面倒を見る目まぐるしさは、孤独を感じている暇なんて与えてくれない。「自分が死んだらこの子はどうなる」、という使命感が前に進ませてくれる。
たとえミライの脳が、男に従順であるように最初から仕組まれたモノであっても。エンキはこの生物のことを、本当の家族のように感じていた……。
――地獄の底にいるかのような、唸り声が響く。
猛毒の世界の中、鮮やかな花弁が舞い散った。
ミュータントな粘菌が動かす殺人スクラップ(エンキはこれをゴーレムと呼ぶことにした)の残骸を踏みつけ、ミライは勝利の咆哮を上げる。
生物兵器。その名に恥じず、成長したミライはまさに兵器だった。鉤爪で、角で、尾で、脚で、牙で、ありとあらゆる敵対者を粉砕する。成長したことで筋肉も発達し、手足が伸びてリーチも長くなり、本気の動きなどもう人間の目には追えないほどだった。そして発達して分厚くなった鱗は、些細な攻撃で傷一つ付かないのである。
車だったオブジェクトにはツタ性の植物が巻き付き、満開の花を咲かせている。エンキはその物陰に身を隠しながら、一部始終を見守っていた。見たところミライに怪我はない、安堵の息を吐く。
……と、ミライの姿が掻き消えた。違う、跳んだのだ。ひとっとび、ぐしゃりと車だったモノを凹ませながら生物兵器はエンキが隠れていた障害物の上に着地する。さっきまで戦いの昂揚に逆立っていた毛も棘も消え、ぐっと上から身を乗り出してエンキを覗き込んでいる。
「だっこ」
「無理だよ……お前もう何キロあると思ってるんだ、3ケタあるんだぞ」
「ンン~」
影が射すように、するりとミライが下りてくる。お辞儀のように頭を低くしているのは撫でて欲しいからだ。なので撫でる。そうすると生物兵器は目を細めて、るるるるるるる……と嬉しそうに喉を鳴らすのだ。
「ケガは……してないな。よしよし、よくやったぞ」
「ふふ。たんさく」
「そうだな、探索を続けよう」
微笑み合って、二人はまた歩き出す。
彼らが歩いているのは、花に埋もれた都市だった。天高くそびえるビルの天辺、交差する立体道路の隅々まで花が覆われている光景はどこまでも非現実的だ。アスファルトの黒も、ビルの灰色も、この世界にはない。風がそよぐだけで花弁が舞い、ビルだった花が織りなす影と光に煌めいている、本当に美しい光景だった。
「本当に……綺麗な光景だ……」
見上げるエンキはヘルメットの中、目を細める。
こんなに美しいのに、生き物の気配はまるでない。
世界は完全に滅んでしまったのだろうか。この世界にはもう、誰もいないのだろうか。
……いや、いる。きっといるはずだ。もしかしたらエンキのようにコールドスリープとか、安全な地下シェルターとか……。
まだ見ぬ彼らを見つける為にも、今は未だ拠点の周囲しか探索できていないが、いずれ野営をしながら遠いエリアも探索しなければ……とエンキは物思う。一応、防護服を着たまま食事もできるし、寝心地も悪いが横になって眠れるので野営自体は可能だ。しかし遠くへ行くなら乗り物が欲しいところだ……食料にしたって一度に運べる量にも限りがある。
(というかまだ食料に余裕はあるけど、こんなこと何年も何年もしていたらいずれは尽きてしまうし……)
溜息を飲み込む。未来のことを考えれば考えるほど不安の暗雲が立ち込める。
「エンキー!」
明るい声がして、顔を上げた。ミライが電柱だった花の天辺に上り、何度もエンキの名を呼んでいる。何か見つけたのではなく、あれはただただ構って欲しくて何度も名前を呼んでいるだけだと男はすぐに分かった。
「おー。ミライ、落ちるなよー」
呼びかければきゃらきゃら笑って、軽やかに近くの建物の屋根に飛び移る。こんな世界で、その子はどこまでも自由だった。
「いっそこのまま――誰も見つからないまま、お前とふたりきりで、世界を彷徨い続けるのも……案外、悪くないのかもな。こんな世界の終わりには、相応しいのかもしれない」
独り言は生物兵器の眩いほどの笑い声と、男の名前を呼ぶ声で掻き消される。
●
それから、男は歩き続けた。
幾つもの昼が過ぎ、幾つもの夜が過ぎた。
幾つもの町を通り過ぎ、幾つもの廃墟を歩き回った。
「誰かいないか」、と何度繰り返したことだろう。
遂に返事は一度もなかった。
世界は変わらない。美しい花がどこまでもどこまで咲いているだけ。
墓場のようにただ静かだ。
この世界はもう墓場なのかもしれない。
誰も見つからない。
誰もどこにもいない。
もう誰もいないんじゃないだろうか。
それでも。
――『それでも』という希望を胸に、男はただ、ただ、歩き続けた。
どこかに、誰かが、いると信じて。
寒い季節になって、雪が降り始めた。灰色の雪は、人間が生身で触れればたちまち毒で死んでしまう死を秘めている。
降り積もる雪に花が枯れることはなかった。灰色に染まる世界の中、ぬっくと疎らに頭を出した花々は、なおも鮮やかに咲き誇っていた。
「誰もいないのか――誰か、いないのか!」
びょうびょうと雪が吹く。夜なのに、雪のせいで空が白んで見えた。
傍らにいる生物兵器の毛皮や鱗にも雪がついている。叫ぶ男を、じっと赤い目で見つめている。
生物兵器は知らない。かつてこの世界がどれだけの生き物で溢れ、どれだけの文明で輝いていたのかを。男がそれを知るからこそ、悲痛に叫んでいることを。
――雪だけが唸る。
エンキは膝を突いて、空を見上げた。
「エンキ」
正面にミライがしゃがみ込む。雪の寒さなど感じていない様子で、顔を傾けそのヘルメットを覗き込む。事情は分からないが心情は察しているようで、気遣うように耳が伏せられていた。男はふっと笑った。
「お前は優しいな。……世界が終わらなければお前は生まれなかったし、私と出会うこともなかったのか。なあ……ミライ、お前……幸せか? こんな世界で……私なんかとふたりきりで」
「ン」
ミライは目を細めると、額を男のヘルメットにゴツっと押し付けた。角を擦りつけるごりごりとした音がヘルメット内に響いた。
どこまでミライが言葉を理解しているのかは分からない。それでも男は、その感情表現に救われる。泣きそうな顔で笑って、エンキは両腕をミライの首に回して抱き締めてやった。
「お前はいいこだなぁ……。なあ、これは人類への罰なんじゃないかって私は思っていたんだ。人類がこんなことをしたから……私はその罰を一身に背負って、何もない世界をただただ、叶いもしない使命と報われない努力に刺されながら、歩き続けなくちゃいけないんじゃないのか、って。ここは地獄なんじゃないか、って」
防護服越しだけれど、男は目の前の生物から温かさと鼓動を感じている気がした。雪の空を見上げていた。
「でもな……お前がこんなにも毎日楽しそうに生きている姿を見ていると、もしかしたらここは地獄ではないんじゃないかって、最近はそう思えるんだよ。ミライ……私と出会ってくれてありがとう。私とふたりきりになってくれてありがとう。お前のことが大事だよ、世界で一番大事だよ」
どうして涙が流れているのか分からない。この感情が希望なのか絶望なのかも分からない。
ただ男は薄々感じていた。もうどこにもいけないのだと。この先、どれだけ歩いても、きっと誰も見つからない。何もない。ガランドウだ。報われない。叶わない。意味がない。ここはとっくに行き止まりで、どうにかすることなんてできなかったのだと。
「もう……どうしようか。まだ、歩き続けようか。それとも安全な……あのシェルターに、ずっと籠ってようか。なあミライ、お前はどうしたい? お前は……どこへでも行けるし、どこでだって生きていける。お前は、どこへ行きたい?」
鱗と毛に守られた背中を撫でた。無垢で可哀想で羨ましい化け物。図体ばかりでかくなって、中身は仔犬のようだった幼い頃とほとんど変わっていない。
男の問いかけに――ミライはすっくと立ちあがった。耳をピンと立て、目を丸くして、空の一点を見つめていた。
何かを見ている? エンキはつられるように上を見た。そうして雪がやんでいることに気付いた。雲の切れ間から、珍しく星空が見えていた。ミライが空を指で差す。
「ほし」
「ああ……星が見えるな、雲間が晴れるのは珍しい」
「ほしだ! エンキ!」
ミライがしきりに星を指さす。どうも星が見えているからではないようで、エンキはおもむろに立ち上がった。
「星が、何――」
言葉終わりに、男は目を見開いた。
瞬く星の中の一つ、やけに輝きが大きい。
しかもそれは動いていた。流れ星ではない――何かが、この星に落ちてくる。
「いこう!」
ミライは笑った。いつものように眩く笑った。エンキの手を握って、いきなり走り出す。男はそれに引っ張られる。
「あ――おい、待ってくれよ!」
「あはは! あはは! ほしだ!」
雪に足跡をふたつ残しながら。
光が落ちてくる方へ走り続ける。
あれは何なのだろうか。宇宙人だろうか。隕石だろうか。それとも……どこぞで作動したミサイルか何かか?
分からない。分からないからこそ、エンキの胸は期待と不安でどうしようもなくざわめいた。
――やがて空の雲は全て掻き消え、そこには満天の星空。
壊れた柵に絡み付く花の門の隙間を縫って、辿り着いたのは雪が疎らな花畑。海が見える、丘の上。
花で覆われた何かが定間隔に生えている。それは墓標だと、エンキは気付いた。ここは墓地だった。
ミライの言う「ほし」は、海の向こうに落ちた……のだろうか? それとも空中で燃え尽きたのだろうか。二人並んで、夜の黒い水平線を見つめている。
「ほし……」
「大分と遠い場所みたいだな。もう見えない」
「ンン」
「ここは墓地かな……、生存者はいなさそうだ」
エンキは辺りを見渡した。言葉通り、生き物の気配はなかった。
そしてふと、近くの墓標らしき花の中、何かを見つける。
「あれは……」
なんだろうか。近付いて、用心深く、花を掻き分ける。真っ白い墓標には「ミチル」と名前が刻まれていて……小さな箱が置かれていた。丈夫そうな作りだが、開けることができそうだ。
エンキはそれを開いた。指輪の箱みたいだな、と思ったら、本当に中には銀色の指輪があった。それから畳まれがメモが一枚。
――ロボットを侵食する粘菌が現れ始め、私達も襲われています。
少しずつ蝕まれている。パーツを取り換えても駄目。
このままでは、私達は私達を保てない。
私達は自壊による尊厳死を選びます。
私はここで、恋人と共に眠ります。
なのでいつの日か、ここに来る人間にこの指輪を託します。
私の果たせなかった約束。
どうか指輪を、サチコという人間に届けてください。
エンキは再び指輪に目をやった。手に取って透かして見れば、内側には「ネロ、サチコ、永遠に」と彫られていた。
男は小さく笑って、指輪を箱にしまい込むと、それを防護服の胸ポケットに収めた。
「わかったよ」
そうして顔を上げる。ミライの背中が見えた。「ほし」が落ちた方を、ずっとずっと見ていた。
「ミライ、そんなに気になるか?」
呼びかければ振り返る。エンキはその隣に、ゆっくりと歩いて並んだ。
「だったら――探しに行くか? あの海の向こう、落ちてきた『ほし』を。もしかしたら宇宙船かもしれないぞ。人間が乗ってるかも。月だか火星だかに逃げていた誰かが帰ってきたのかも。……もしかしたら、新しく住める星を見つけてきた調査団かもな?」
殺戮の為に造られたミライの手を握った。
もしミライが「ほし」を見つけてくれていなかったら。そう思って――今度はエンキが、相手の手を引くのだ。
「行くぞ、ミライ! 我々にはまだ、やるべきことがあるのだから!」
こんなに終わっていて。
こんなにふたりきりで。
それでも――『それでも』、まだ、前に進めそうだから。
『了』
元は貧しかったが、事業に成功し一気に大富豪の仲間入りを果たした彼は、半ばタレントや俳優のような有名人として国民に知られてゆき、誰もが知る存在となると、やがて周りからの推薦もあって政治家になり――ついにはその国のトップにまで登り詰めてしまった。
人々は男を成功のシンボルとして尊敬し、自分も彼のようにいつか夢を掴めるやも――と希望を抱いた。
終末戦争が、起きるまでは。
ずっと平和だった世界で生きてきた男には、戦争なんて経験の欠片もなかった。
周囲がどんどん混沌と化していき、ある国からは援軍を送れと言われ、ある国からはお前の国を侵略するぞと脅され、ある国からは兵器を買わないか擦り寄られ、ある国からは大量の難民が雪崩れ込み、飛び交う兵器で環境は乱れ、混乱する国民は怒りの矛先を政治に向け、暴動が起き、犯罪が多発し、警察も機能せず、軍部がクーデターを企て、経済も生活も安寧も何もかもがメチャクチャになり尽くして……
「もう無理だ、もう私の手には負えん! どうしようもない! どうしたらいい! どうにもならない!」
もう何日、何週間、何か月、自宅に帰れていないだろうか。執務室で男は頭を抱えて嘆いた。男が有名になった理由のひとつにそのスタイルのよさとハンサムな美貌とがあったが、心労に次ぐ心労のせいですっかりやつれきってしまっていた。ダンディ、ジェントルマン、といった言葉が似合いそうな年齢のはずなのに、疲れ切った雰囲気とストレスによる白髪のせいで老人のようだった。
「どうすれば一人でも多くを救えるんだ……今更、金や食べ物をばらまいたところで意味がない……鎖国して中立を貫けるほどの軍事力もないどころか、もう軍は私の命令を聞いてはくれない……考えれば考えるほどに手詰まりだ……どうすれば……!」
がしがしと頭を掻きむしる。
「ああ、こんなはずじゃなかったのに。折角この国で一番偉い存在にまでなったのに、どうしてすぐ終末戦争だなんて起きたんだ!? あの戦争無ければ今頃……今頃私はぁぁぁ……!」
もう妻にも子供にも家族にも愛想を尽かされた。他の政治家もどこぞに亡命してしまった。あるいは首を吊ったり、軍に捕らえられて処刑されたり、国民から襲われて死亡したり。この立派なビルにいるのはもう彼ぐらいだろうか。ちょっと前まで、誰も彼もが男を崇めていたのが、スーパースターとしての日々が嘘のようだった。
もうどうにもならない……男は質のいいネクタイを解くと、充血した涙目でドアノブを見た。
死ぬしかない。もう駄目だ。もう無理だ。もうここでおしまいにしてしまおう……。
「お待ちください、閣下!」
ドアが勢いよく開いた。
現れたのは白衣を着た、博士然とした壮年の女だった。彼女は優れた科学者であり、この国がパトロンとなって様々な技術発明の支援をしている天才である。
「死ぬのにはまだ早いです。まだやるべきことがあるのです」
「しかし……博士。この状況でなにができる?」
「こちらをごらんください」
博士が胸ポケットに挿していたペンを操作すると、空中にホログラムが浮かび上がった。それは資料のようだった。
「閣下には安全な地下シェルターに避難して頂き、戦争が終わるまで『冷凍睡眠(コールドスリープ)』していただきます」
「な、なんだって!? 私一人が逃げ延びて生き延びて、どうなるっていうんだ!」
「いいですか閣下、この世界の混沌は、一人の英雄がヒロイックに解決できるような映画めいたデウス・エクス・マキナはもはや不可能です。そこで世界には一度、このまま滅びてもらいます」
「なっ……なっ……」
「問題は滅んで戦争が終わってからです。そこはきっと荒廃しきった終末風景でしょう。ですがきっと、たとえごくわずかでも、生き延びた人間がいるはずです。では、彼らを導くリーダーは誰? ……あなたですよ、閣下。終わった世界には、貴方のようなリーダーシップを持った存在が必要になるのです」
「しかし……」
「こんなゴミクソみたいな状況で、閣下、あなたは最後まで逃げようとしなかった。家族から愛想を尽かされ、国民中からバッシングされ、それでもリーダーでありつづけた。責任を誰かに擦り付けることもなく。それでもあなたは、誰かの明日が少しでも良くなるようにと足掻き続けた。そんなあなただからこそ、この話をしているのです」
「そ……それは、私以外の人間はどうなる? 見捨てることになるじゃないか。一人だけのうのうと安全圏になんて……そんなリーダーに誰がついてくる?」
「このまま『今』と心中するか、一か八かの『未来』に懸けるか、ご決断を」
男は黙り込んだ。俯いた。冷や汗が伝った。
「そのコールドスリープ……私の分しかないのかね」
「ええ。国民まるっとコールドスリープという方法も考えたのですが……この混乱を見るに、敵対国に情報が流出してシェルターが爆砕されて終わりです。……よその国では『アプカルル号』だなんて潜水艦型シェルターの計画が持ち上がっているそうですが、はたして実行されたとしてどれだけ長持ちするやら」
「……。本当に……それを使えば、我々の可能性は延命できると……?」
どうにもならない今。死ぬしかないとしか思えない今。
だが、未来ではどうにかなるとしたら……?
「できます。できる、と断言する他にないのです。閣下、参りましょう。こんな状況で、それでも我々は人間であるがゆえに生き延びねばならないのです」
かくして。
男は遥か地下の秘密のシェルターにて、棺のような装置に入り――長い長い、しかし永遠ではない眠りに就く。
未来の人間を導く為に眠ったその男の名前は、エンキという。
●
そうして長い時間が経った。
ぷしー、と音がして、部屋に明かりが灯って、棺のような装置が開く。
エンキは飛び起きた。感覚的には一晩まどろんでいたような心地だった。だからコールドスリープが即座に解除されてしまったのかと混乱した。
「おはようございます、閣下。これは自動メッセージです。閣下がコールドスリープに就いてから 年が経過しました」
肝心の年数の部分が、エラーが出たらしく読み上げられなかった。エンキは装置から降り、半信半疑のまま、自動メッセージに従ってコールドスリープ用の部屋から出た。ドアの向こうは、まるで高級ホテルの一室のような場所だった。窓はないが。
コールドスリープから目覚めた彼は一糸まとわぬ姿だった。まずシャワー室へ向かい、身を清めてから服を着る。いつもの着慣れた品の良いスーツが置いてあった。
それから「食糧庫」と書かれた扉を開けると、そこには超大量の食糧が備蓄されていた。四角い缶詰のような容器を一つ取る。それを、生活空間のラウンジコーナーにあった『形成機』にセットした。どのような料理に形成するか、メニューを操作する。あまり凝ったディナーが食べたい気持ちでもなかった。簡易なカロリーブロックにする。水は蛇口をひねればでてきた。水と、プレーンで小麦粉の味がする塊。それを一人掛けの机で、ぼそぼそと食べる……。
無言。ひたすら静かな世界。
エンキは沈黙し続け、それから、長い長い溜息を吐いた。
「夢じゃないのか……」
独り言。食事を水でぐいと長し、立ち上がる。外の様子が気がかりだった。
しかし……独りで大丈夫だろうか。兵器の汚染も気になるし、生物兵器やらロボット兵器やらがうろついていては一巻の終わりだ。
と、エンキは博士の言葉を思い出した。野外活動の為のボディガードを用意しておく、と彼女は言っていた。「それはここの部屋にいるから」、と眠る前に案内してもらったことを思い出す。
男はその部屋に向かった。そこにはエンキが使っていたようなコールドスリープ装置に似た、棺のような装置があった。誰ぞ眠っているのだろうか? ボディガードが何なのか、そういえば詳しく聞きそびれていた。あの時はもう余裕なんてなかった。「このボタンを押す」と博士のメモが張り付けてあるボタンがあった。男はそれを押した。
ぷしー。例の音がして、装置が開く……。
かくして。
そこに横たわっていたのは、子供だった。十歳ぐらい……? だが人間じゃない。大きな両腕には鋭い鉤爪があり、脚もまた獣のような造詣で、黒い鱗でおおわれた長い尾が生えており、その頭部には鬼のような二本の角と、狼のような獣耳があった。顔の一部、両腕、下半身はもこもことした黒い毛に覆われている。狼人間、あるいは人面獣、という印象が当てはまった。
閣下の為の生物兵器です。最初に目にした者を主人として懐くように調整済です。
名前はありません。閣下がつけてあげてください。
「な……な……」
彼の胸の上に置かれていたメモを手に、エンキは目を見開いた。生物兵器。噂には聞いていたし、テレビなんかでは見たことがあったが、実物をこうも間近で見ることになるとは……。
と。『それ』がギョロリと目を開いた。獣のように鋭い瞳孔で、血のように赤い色をしていた。それは「ひっ」と息を呑んだエンキを見ると――「んあーん!!」と獣のように鳴いて、ぴょんと飛びついてきた!「う、うわーっ! うわーっ! 噛まないでくれーっ!」
素っ頓狂な声をあげるエンキ。生物兵器は彼の上半身にガッチリ組み付き、喉をぐるぐるぐるぐる鳴らして顔をすり寄せ、肩口に甘噛みをしている。
「ひい……ひい……うう……敵意はないのか……ないんだよな……よし……重いなお前……降りてくれないか……」
エンキはゆっくりと生物兵器を下ろした……が、離れてくれなかった。そのまま座ることにする。そうするとしがみついたまま、彼(多分、彼だとは思う)はすくすくと鼻を鳴らして『主人』のにおいを嗅ぎ始めた。まるでそのにおいを記憶するかのようだった。
「生物兵器って言ったって……見た目は完全に子供っていうか狼人間の仔犬というか……お前、戦えるのか……?」
「ン」
おそらく言葉は通じていない。しかし「最初に目にした者を主人として懐くように調整済」とメモがあったが、懐くにしたって懐きすぎじゃないか。生物兵器は座り込んだエンキの足の間にすっかり収まっている。大人しくしているがそわそわしているようで、長い尾がゆらゆら揺れて、時折床を打っていた。遊びたいが我慢している、といった様子か。
部屋の中で遊ばせて何かが壊れても困る。……じゃあ外で?
そういえばちょうど外の様子を見てこようかなと思っていたのだ。
「その前に……お前に名前をつけにゃならんな」
生物兵器の頭を撫でながら呟く。撫でてやると獣の耳がぺたんと後ろに伏せられて心地よさそうにしている。
「うーん……しかし私はネーミングというものが人生で最も苦手なのだ……うーん……」
考える。適当なのは可哀想だし。天井を仰いだ。
「……ミライ。うん、ミライでどうだ。これからこの未来を共に生きていこう、ミライ」
そう呼びかけると、生物兵器――ミライは人間のように笑って、高い声で鳴いた。
「外に出る前に腹ごしらえしないとな。何か食べるか? 今食べ物を取ってくるから」
エンキはそう言って、ミライを床に抱き下ろして踵を返す……が、背中にぴょーいと飛び乗ってくる。耳元で甘えた「ルルルルル……」という猫めいた喉の音が聞こえる。狼人間っぽいんだか猫っぽいんだか。
そうかそうか、そうしたいか、ならそうしたらいい。しかし重い。筋肉でずっしりしている。まあこれも体力作りの為の運動だ……エンキはそう思うことにして、背中に生物兵器をひっつけたまま、先程の食糧庫から缶詰を一つ持ってきた。
「何が食べたい……って分かるわけないか。とりあえず、そうだなぁ……チョコレートなんかどうだ」
形成機を使えば、缶詰の中のペーストは板状のチョコレートになって出てきた。
(……ん? 犬や猫にチョコレートはダメだってどっかで聞いたな……)
生物兵器にはどうなんだろう。チョコで死ぬ兵器なんて聞いたことがないぞ。とはいえ懸念は懸念なので、ほんのひと欠片だけを割って、背中にまだ乗っているミライへ差し出してみた。
「食べられそうか?」
ミライは茶色くて甘い香りがするそれをスンスン嗅いだ。ぱく、と欠片を口にした。
――美味しかったらしい。キュイキュイ鳴いて尻尾を揺らして喜んでいる。こうも無邪気な感情を目の当たりにするのは随分久し振りな気がして、エンキは心が温かくほぐれるような心地になった。
結局、ミライはチョコレートを全て食べた。エンキの背中にしがみついたまま。見た目は獣だがチョコレートは大丈夫だったらしい。そもそもこれはチョコレートのような見た目に形成機が作り出した総合栄養食だ。人間用のそれは生物兵器の腹ごしらえとしても機能したようだ。
「それじゃあ……ミライ、少し外に出てみるか?」
問いかける主人を、言葉が分からない生物兵器は真ん丸な目で見上げていた。
●
野外活動用のスーツで全身を包む。兵器の汚染にも耐えうる強靭なものだ。
ミライについては兵器の汚染に耐性を持つ体質であると博士のメモに記されていた。それでもエンキは心配だが、博士を信じてミライと共に、地上へと続く長い長いエレベーターに乗った……。
――扉が開く。
まず目に飛び込んできたのは眩しさで、エンキは思わず顔を腕で防御した。目をしばたかせながら、どうにか世界を見やる。
そして、言葉を失った。
そこにはどこまでも花畑が広がっていたのだ。
あまりにも、色鮮やかな光景で。
数え切れないほどの色彩が、大地をどこまでも埋め尽くしていて。
淀んだ鉛色の空のどんよりとした印象すら吹き飛ばすほどだった。
まるでそこは楽園か、天国かのようで。
夢を見ているのではないか。エンキはただただ、一歩も進めないでいた。
しかしミライが軽やかに走り出してしまったものだから、エンキはそれを追わねばならなかった。
「あ――おい、ミライ! 勝手に行くな!」
走り出すと、背後でエレベーターがマンホールのように地面に戻る音がした。花を踏む音と、男の呼気がヘルメット内で反射する音。風が吹いて、七色の花びらが幻想的に舞い上がった。
ミライはほど近い場所で立ち止まってた。ぜえはあ、エンキは息を切らせてその隣へ。猛ダッシュをしたのは何年振りだ? なんて思っていたらミライが背中に飛び乗っていて、流石に体力の限界なのでもう座り込むことにした。そうすれば生物兵器はあぐらの足の中にくるんと納まる。
「いきなりどこかにいかないでくれ……私はもう若くない人間なんだぞ……」
ミライは相変わらず、赤いガラス玉のような目で人間を見上げている。言葉の意図をくみ取ろうとしているんだろうか。エンキは苦笑してその額を掻いてやりつつ――正面を見る。
現在地は小高い丘の天辺だったようで……遥か彼方、都市だったのだろう残骸が見えた。それは美しい美しい美しい色彩に飲み込まれ沈んで、過去の栄光と成り果てていた。
「終末戦争の後に……こんなに花が咲き乱れているとは」
なんて美しいんだろう。同時に、滅んだ人類文明の無常と寂寥がどっと込み上げて、エンキは目元が潤むのを感じた。
ヘルメットを取れば、花の香りを肺腑いっぱいに吸い込めたのだろうか。だがそれはできないのだ。スーツに取りつけられたコンピュータが、この空気が途方もなく汚染されていることを示しているのだ。そして汚染されているのは花も同じで。どうやらこの花は突然変異種のようで、汚染への耐性どころか同じ汚染を伴っていたのだ。生存戦略としては素晴らしい。汚染の耐性で生存圏を増やし、その汚染を以て他の生物を淘汰する。
……この星は美しい地獄へと成り果てていた。
「こんな環境で……生存者はいるんだろうか」
ミライを撫でながら呟いた。戦争は終わっている、ように思う。どこまでも静かで、果てしなく平和だ。
「もし生存者がいるのなら……どうやって生活しているんだろう」
次いで湧くのは心配だ。エンキのいるシェルターは広く、多くの人間を収容することができる。生存者がいれば、彼らをあの快適な空間を提供することができるだろう。
そして、男は託されたことを再認識するのだ。
「私は生き残った者達の為、たったひとり、安全圏へと逃げて眠った。……報いねば。生き残った者達を探して、助けなければ。それが私の、しなければならないことだから」
その言葉を、手元の生物兵器は何にも理解していないだろうけれど。「手伝ってくれるかな」と耳の後ろを掻いてやれば、心地よさそうに首を傾けて喉を鳴らした。
だが突然、ミライは耳をピンと立て、エンキの膝から飛び降りて、彼方の方を見つめた。何事だと男が同じ方を見やれば――鮮やかな花園に似つかわしくない『異物』があった。
それはロボットだった。ずんぐりとした二足歩行型だが、人間の形と比べれば異形だ。戦闘用の、おそらく戦争で使われていたものだろうと武装から見て取れる。白兵型の武装だ。ロボットは物静かに、まるで置物のように佇んでいるが、何をしてくるのか分からない恐怖を同時に携えていた。
ミライが唸る。牙を剥き、毛が逆立ち、長い尾を威嚇のように地に打ち付けた。花弁が舞う。その尾は先端を中心に黒い棘が飛び出していた。その仕草で、男はあの無機物が『敵』なのだと理解した。
エンキが後ずさったのと、ミライが目にも留まらぬ速度でロボットに襲いかかったのは同時。ミライが発しているのだろう恐ろしい唸り声と、ロボットが花園に引きずり倒された音と、硬いもの同士がぶつかる音と、あとはもう舞い上がる花弁ばかりで、男には何が起きているのか分からない。腰を抜かして震えることしかできなかった。
ばきん、と音がする。ぐしゃり、と音がする。永遠に続くかと思われた戦いの音は、現実的な時間にすればあっという間のことだった。
「ミ……ミライ?」
呼びかければ花の中、ひょこりと生物兵器が上体を起こした。
「勝ったのか?」
「ン」
さっきの獰猛な獣の声が嘘のように、ミライが跳ねるように駆けてくる。尾の棘も畳まれていた。ぴょーんと飛んでくるので腕を広げて抱き留めてやる。
「すごいなぁ、あんな一瞬で勝ってしまうとは……お前、強いんだぁ、よしよし……」
喉を鳴らして額を擦りつけて甘えてくるのが可愛らしい。……なんて思っていたが。和らいだエンキの表情が凍り付く。ミライの肩口にはざっくりと切り傷が作られており、体にもいくつか痣があったり血が滲んでいたり、鱗が割れたり禿げたりしている箇所があった。
「お前っ、怪我してるじゃないか!」
エンキは血の気が引いた。当の生物兵器は痛覚がないのかまるで苦しそうな様子を見せずに、不思議そうにしている。男は慌てて拠点へと引き返した。
スクラップにされたロボットの死骸を見る余裕はなかった――これは後ほど彼が気付くことだが、今ミライが戦ったのは純粋にはロボットではなく、ロボットの残骸に突然変異進化した粘菌が入り込んで、傀儡のように動かしていたモノだった。
●
エレベーターに飛び乗り、除染を済ませ、シェルターの医務室へ駆けこむ。メディカルマシンを起動し、あとは機械に治療を委ねるしかなかった。多くのマニピュレータが生物兵器の傷を消毒し、薬を塗る。ミライはメディカルマシンに怪訝気にしながらも大人しくしていた。消毒された瞬間は、沁みたのか「ピッ」と一瞬だけ鳴いた。
「ミライ……ミライ、大丈夫か?」
簡単な外傷のみだったようで、深刻なものはなかった。しかし目の前で、小さな見た目の目覚めたばかりの存在が血を流したことにエンキはひどく狼狽していた。同時に、こんな幼い存在に戦ってもらわねばならないことに罪悪感を覚えた。
「……せめて外を出歩くのは、お前がもう少し大きくなってからにしよう。その間に私も……銃とか練習するから」
その間に救える命が救えなくなる可能性も……もちろんあるけれど。このシビアな状況でとにもかくにも優先しなければならないのは生き延びることなのだ。自分が生き延びられないで、他人の命を救うことができようか。
手当が終わったミライが抱っこをねだってくる。本当に驚くほど甘えん坊だ……博士がどうしてロボット兵器ではなく生物兵器を用意したのか、なんとなくエンキは理解したような気がした。
抱き上げてやる。背中をぽんぽんと擦ってやれば、喉を鳴らす兵器は長い尾をエンキの胴体に巻き付けた。
「よしよし……いいこいいこ。がんばったな、護ってくれてありがとう」
「ンン」
「しばらくは地下暮らしだが、我慢してくれよ」
「ン」
「それにしてもお前……ズッシリしてるよなぁ、本当に」
黒い毛に頬を寄せて、エンキが思い出すのは外の景色だった。色とりどりの、あまりに美しい、変わり果てた世界。今日からここが自分達の生きていく世界なのだと、受け入れねばならなかった。
●
それから。
エンキは運動用スペースと模擬の銃で射撃の練習を始めた。もちろん身体能力を向上させるためのトレーニングも。もう若くない体には堪えたが、生き延びるためだと自分を言い聞かせた。
遊んでいると思ったか、かまって欲しいだけなのか、ミライがその背によく飛び乗って来る。これもトレーニングだ。ずっしりくる重さに、エンキは「魔法の言葉」を繰り返す。
自分を鍛えるだけでなく、ミライに教育も行った。効果があるかは分からないが、言葉と文字を根気強く教えた。残念ながら知能は人間より低いようだが、それでも単語ならば少しずつ理解するようになっていった。
それから毛があるとはいえ全裸であるので、倉庫から衣類を取り出し、せめて下半身だけはズボンをはかせた。尻尾用の穴はもちろんあけてやった。最初はすぐ脱ぎ捨てたものだが、「ほら! 私も履いてる! おそろいだ!」と頑張って伝えると、意図を察した瞬間から気に入って装着するようになってくれた。
――頭上の花園を夢見たまま、しばらくの時が流れた。
ベッドのエンキはうなされていた。
顔は青ざめ、脂汗が滲み、苦しそうに呻き、そして……
「お……もいッ。重いッ! こら! ミライッ!」
目を開けて藻掻けば、彼の胴の上に載っていた生物兵器が嬉しそうに笑った。その姿は成人男性をゆうに上回るほどで、体つきも隆々と、角と鉤爪も大きく禍々しく、尾も長く太く、顔つきも精悍に。目覚めた時にむくむくころころとした小ささが嘘のように、生物兵器は成長していた。犬が一年で成犬と変わりない見た目に成長するような空気に似ていた。しかし最初は狼人間と思っていたが、今は神話上の悪魔のような印象が強くなったものだ。
「おはようおはよう」
単語なら会話ができるようになっていた。甘えるようにエンキの胸板に頭突きをかましてぐりぐりしてくる。圧が強い。
「おはよう……」
肺を押される声が出る。ミライが目覚めた時から、二人はいつも一緒に寝ていた。でも最近はもうミライが大きくなったのでベッドが狭くてしょうがない。しかも寝相がすこぶる悪く、手足をデンと投げ出すわごろごろ寝返りするわ寝言でぐるぐる唸るわで大変なのだ。違うベッドで寝るように説明しても言うことを聞かない。最近のミライは「本当は言ってることが分かるけど、分からないフリ」をするようになっていた。わざとらしく目を真ん丸にして「エ?」という顔で首を傾げるのである。
「おはよう!」
「うんおはよう……げほっ……」
やっと退いてくれた。ゲッソリした顔で着替える。エンキの体も、ストレスにやられた時と比べてかなり引き締まっていた。この歳でも筋肉つくもんだな、と鏡に映った着替え中の自分を見る。
すっかり日課になったストレッチも済ませたら、朝食の時間だ。シェルター内に太陽はないので時の流れは分かりにくいが、こんな状況だからこそせめて人間的な生活をとエンキはいつも規則正しい時間で日々を送っていた。卓上には形成機によって作られたトーストがある。目玉焼きとチーズとレタスが乗った、オープンサンドスタイルだ。飲み物も形成機によって味が付いているように感じるモノ――すなわちコーヒーになっている。ミライの分は牛乳だ。
ミライは小さかった頃はガツガツと獣めいて喰らっていたものだが、エンキの根気強いしつけの甲斐あってか、今ではちゃんと椅子に座って人のようにものを食べる。指の構造から食器を器用に持つのは苦手ではあるが、それでもエンキから見れば随分と上達していた。それにオープンサンドのような手に持って食べるものであれば普通に食べることができる。
「うまいか」
「ウン」
「そうかそうか」
生き物の首筋ぐらい簡単に噛みちぎれる顎と牙でミライはオープンサンドを食べている。垂れる目玉焼きの黄身をざらついた長い舌で舐めている。
「今日は南側の探索をしようか」
コーヒーの見た目と味と香りがする水を飲みながら、プラシーボなカフェインを堪能する。エンキの言葉は……食事に夢中なミライには聞き流されていたようで、男は肩を竦めてからもう一度言った。
「探索だよ、た・ん・さ・く」
「ン」
探索、というワードでミライがパッと顔を上げた。元気そうだしやる気も十二分、いいことだ。
さて、食事も終われば野外活動用のスーツを着て。銃器を持って。成長した生物兵器を連れて。
今日もまた、男は花々の世界へと出る。太陽は今日も出ていない。いつも空はどんよりと淀んでいた。
「いつか、ミライに綺麗な青空を見せてやりたいよ。よし出発だ」
「ン!」
二人分の足音。どこまでも広がる七色の色彩。
今日は南側――最初に外に出た時、廃墟の都市が見えた方角へ足を伸ばした。探索を本格的に始めたのは最近で、まだあの都市を隅々まで調べ尽くせていない。
「今日こそ生存者が見つかるといいんだが……そんな簡単にいかないよなぁ……まあ、絶望しないよう希望しすぎない程度にね」
「えいえいにゃ」
「せいぞんしゃ、せ・い・ぞ・ん・しゃ」
「ふーん」
変な相槌は妙に流暢に覚えてしまったものだ。軽やかに気ままに生物兵器は駆け出していく。最初は「遠くに行くなよ」と不安だったが、今では索敵も兼ねていると分かってそんなに心配にはならない。
それに、鮮やかな色彩の中で跳ねて遊ぶミライを見ていると、心にじんわり温かいものを感じるのだ。「命が、生きている」。文字にすると馬鹿々々しいほど当然の表現だけれど、エンキはそんな瑞々しさを覚えたのだ。
生物兵器の、少年らしさが抜けきらない笑い声――どんなに見た目が大きくて怖そうになっても、その根本は変わらない。だからエンキも、ミライが怖いとはちっとも思わなかった。……小さい頃の感覚で飛びついてくるのは勘弁して欲しいが。
「エンキ!」
「わかったわかった跳んでくるなうわあああーーーーッ」
花畑でこうして追いかけっこをするのも日常である。ミライときたら、ギリギリでエンキを捕まえない距離と速度でわざと追い立ててくるのである。そうしてもう走れなくなって膝に手を突いてぜえはあしたところで、(加減はしてくれているが)タックルをかまして押し倒してくるのだ。
「はあ゛ッ……はあ゛ッ……もうこの追いかけっこ、明日からやめよう……やめようッ……!」
「いや~~~いや!」
「くそ……最近はNOを覚えよって……昔は何でもかんでも『ン!』てOKしてくれてたのに……おいヘルメットを噛むな!」
のそのそ身動ぎして、押し倒された状態から脱出する。座り込んだ姿勢、隣で座っているミライの頭にポンと手を置いた。
「ほら、私達は生存者を探す為に探索をしてるんだ。遊ぶのは帰ったらいくらでも……いくらでもはちょっとしんどいからそれなりに……まあ帰ったら遊んでやるから、先に進もう」
「ンン~~」
「ミライはいいこだから言うこと聞いてくれるよね」
「ン」
どうしてロボット兵器やAIではなく、博士は生物兵器を……しかも幼体の姿で用意していたのだろう。
最初、エンキは疑問でしかなかった。けれど今なら分かる。
孤独は人を殺すのだ。ひとり、とは途方もない毒なのだ。
生きている子供の面倒を見させる。疑似的な家族関係を作り上げる。そこには打算も見栄もない。生き物の面倒を見る目まぐるしさは、孤独を感じている暇なんて与えてくれない。「自分が死んだらこの子はどうなる」、という使命感が前に進ませてくれる。
たとえミライの脳が、男に従順であるように最初から仕組まれたモノであっても。エンキはこの生物のことを、本当の家族のように感じていた……。
――地獄の底にいるかのような、唸り声が響く。
猛毒の世界の中、鮮やかな花弁が舞い散った。
ミュータントな粘菌が動かす殺人スクラップ(エンキはこれをゴーレムと呼ぶことにした)の残骸を踏みつけ、ミライは勝利の咆哮を上げる。
生物兵器。その名に恥じず、成長したミライはまさに兵器だった。鉤爪で、角で、尾で、脚で、牙で、ありとあらゆる敵対者を粉砕する。成長したことで筋肉も発達し、手足が伸びてリーチも長くなり、本気の動きなどもう人間の目には追えないほどだった。そして発達して分厚くなった鱗は、些細な攻撃で傷一つ付かないのである。
車だったオブジェクトにはツタ性の植物が巻き付き、満開の花を咲かせている。エンキはその物陰に身を隠しながら、一部始終を見守っていた。見たところミライに怪我はない、安堵の息を吐く。
……と、ミライの姿が掻き消えた。違う、跳んだのだ。ひとっとび、ぐしゃりと車だったモノを凹ませながら生物兵器はエンキが隠れていた障害物の上に着地する。さっきまで戦いの昂揚に逆立っていた毛も棘も消え、ぐっと上から身を乗り出してエンキを覗き込んでいる。
「だっこ」
「無理だよ……お前もう何キロあると思ってるんだ、3ケタあるんだぞ」
「ンン~」
影が射すように、するりとミライが下りてくる。お辞儀のように頭を低くしているのは撫でて欲しいからだ。なので撫でる。そうすると生物兵器は目を細めて、るるるるるるる……と嬉しそうに喉を鳴らすのだ。
「ケガは……してないな。よしよし、よくやったぞ」
「ふふ。たんさく」
「そうだな、探索を続けよう」
微笑み合って、二人はまた歩き出す。
彼らが歩いているのは、花に埋もれた都市だった。天高くそびえるビルの天辺、交差する立体道路の隅々まで花が覆われている光景はどこまでも非現実的だ。アスファルトの黒も、ビルの灰色も、この世界にはない。風がそよぐだけで花弁が舞い、ビルだった花が織りなす影と光に煌めいている、本当に美しい光景だった。
「本当に……綺麗な光景だ……」
見上げるエンキはヘルメットの中、目を細める。
こんなに美しいのに、生き物の気配はまるでない。
世界は完全に滅んでしまったのだろうか。この世界にはもう、誰もいないのだろうか。
……いや、いる。きっといるはずだ。もしかしたらエンキのようにコールドスリープとか、安全な地下シェルターとか……。
まだ見ぬ彼らを見つける為にも、今は未だ拠点の周囲しか探索できていないが、いずれ野営をしながら遠いエリアも探索しなければ……とエンキは物思う。一応、防護服を着たまま食事もできるし、寝心地も悪いが横になって眠れるので野営自体は可能だ。しかし遠くへ行くなら乗り物が欲しいところだ……食料にしたって一度に運べる量にも限りがある。
(というかまだ食料に余裕はあるけど、こんなこと何年も何年もしていたらいずれは尽きてしまうし……)
溜息を飲み込む。未来のことを考えれば考えるほど不安の暗雲が立ち込める。
「エンキー!」
明るい声がして、顔を上げた。ミライが電柱だった花の天辺に上り、何度もエンキの名を呼んでいる。何か見つけたのではなく、あれはただただ構って欲しくて何度も名前を呼んでいるだけだと男はすぐに分かった。
「おー。ミライ、落ちるなよー」
呼びかければきゃらきゃら笑って、軽やかに近くの建物の屋根に飛び移る。こんな世界で、その子はどこまでも自由だった。
「いっそこのまま――誰も見つからないまま、お前とふたりきりで、世界を彷徨い続けるのも……案外、悪くないのかもな。こんな世界の終わりには、相応しいのかもしれない」
独り言は生物兵器の眩いほどの笑い声と、男の名前を呼ぶ声で掻き消される。
●
それから、男は歩き続けた。
幾つもの昼が過ぎ、幾つもの夜が過ぎた。
幾つもの町を通り過ぎ、幾つもの廃墟を歩き回った。
「誰かいないか」、と何度繰り返したことだろう。
遂に返事は一度もなかった。
世界は変わらない。美しい花がどこまでもどこまで咲いているだけ。
墓場のようにただ静かだ。
この世界はもう墓場なのかもしれない。
誰も見つからない。
誰もどこにもいない。
もう誰もいないんじゃないだろうか。
それでも。
――『それでも』という希望を胸に、男はただ、ただ、歩き続けた。
どこかに、誰かが、いると信じて。
寒い季節になって、雪が降り始めた。灰色の雪は、人間が生身で触れればたちまち毒で死んでしまう死を秘めている。
降り積もる雪に花が枯れることはなかった。灰色に染まる世界の中、ぬっくと疎らに頭を出した花々は、なおも鮮やかに咲き誇っていた。
「誰もいないのか――誰か、いないのか!」
びょうびょうと雪が吹く。夜なのに、雪のせいで空が白んで見えた。
傍らにいる生物兵器の毛皮や鱗にも雪がついている。叫ぶ男を、じっと赤い目で見つめている。
生物兵器は知らない。かつてこの世界がどれだけの生き物で溢れ、どれだけの文明で輝いていたのかを。男がそれを知るからこそ、悲痛に叫んでいることを。
――雪だけが唸る。
エンキは膝を突いて、空を見上げた。
「エンキ」
正面にミライがしゃがみ込む。雪の寒さなど感じていない様子で、顔を傾けそのヘルメットを覗き込む。事情は分からないが心情は察しているようで、気遣うように耳が伏せられていた。男はふっと笑った。
「お前は優しいな。……世界が終わらなければお前は生まれなかったし、私と出会うこともなかったのか。なあ……ミライ、お前……幸せか? こんな世界で……私なんかとふたりきりで」
「ン」
ミライは目を細めると、額を男のヘルメットにゴツっと押し付けた。角を擦りつけるごりごりとした音がヘルメット内に響いた。
どこまでミライが言葉を理解しているのかは分からない。それでも男は、その感情表現に救われる。泣きそうな顔で笑って、エンキは両腕をミライの首に回して抱き締めてやった。
「お前はいいこだなぁ……。なあ、これは人類への罰なんじゃないかって私は思っていたんだ。人類がこんなことをしたから……私はその罰を一身に背負って、何もない世界をただただ、叶いもしない使命と報われない努力に刺されながら、歩き続けなくちゃいけないんじゃないのか、って。ここは地獄なんじゃないか、って」
防護服越しだけれど、男は目の前の生物から温かさと鼓動を感じている気がした。雪の空を見上げていた。
「でもな……お前がこんなにも毎日楽しそうに生きている姿を見ていると、もしかしたらここは地獄ではないんじゃないかって、最近はそう思えるんだよ。ミライ……私と出会ってくれてありがとう。私とふたりきりになってくれてありがとう。お前のことが大事だよ、世界で一番大事だよ」
どうして涙が流れているのか分からない。この感情が希望なのか絶望なのかも分からない。
ただ男は薄々感じていた。もうどこにもいけないのだと。この先、どれだけ歩いても、きっと誰も見つからない。何もない。ガランドウだ。報われない。叶わない。意味がない。ここはとっくに行き止まりで、どうにかすることなんてできなかったのだと。
「もう……どうしようか。まだ、歩き続けようか。それとも安全な……あのシェルターに、ずっと籠ってようか。なあミライ、お前はどうしたい? お前は……どこへでも行けるし、どこでだって生きていける。お前は、どこへ行きたい?」
鱗と毛に守られた背中を撫でた。無垢で可哀想で羨ましい化け物。図体ばかりでかくなって、中身は仔犬のようだった幼い頃とほとんど変わっていない。
男の問いかけに――ミライはすっくと立ちあがった。耳をピンと立て、目を丸くして、空の一点を見つめていた。
何かを見ている? エンキはつられるように上を見た。そうして雪がやんでいることに気付いた。雲の切れ間から、珍しく星空が見えていた。ミライが空を指で差す。
「ほし」
「ああ……星が見えるな、雲間が晴れるのは珍しい」
「ほしだ! エンキ!」
ミライがしきりに星を指さす。どうも星が見えているからではないようで、エンキはおもむろに立ち上がった。
「星が、何――」
言葉終わりに、男は目を見開いた。
瞬く星の中の一つ、やけに輝きが大きい。
しかもそれは動いていた。流れ星ではない――何かが、この星に落ちてくる。
「いこう!」
ミライは笑った。いつものように眩く笑った。エンキの手を握って、いきなり走り出す。男はそれに引っ張られる。
「あ――おい、待ってくれよ!」
「あはは! あはは! ほしだ!」
雪に足跡をふたつ残しながら。
光が落ちてくる方へ走り続ける。
あれは何なのだろうか。宇宙人だろうか。隕石だろうか。それとも……どこぞで作動したミサイルか何かか?
分からない。分からないからこそ、エンキの胸は期待と不安でどうしようもなくざわめいた。
――やがて空の雲は全て掻き消え、そこには満天の星空。
壊れた柵に絡み付く花の門の隙間を縫って、辿り着いたのは雪が疎らな花畑。海が見える、丘の上。
花で覆われた何かが定間隔に生えている。それは墓標だと、エンキは気付いた。ここは墓地だった。
ミライの言う「ほし」は、海の向こうに落ちた……のだろうか? それとも空中で燃え尽きたのだろうか。二人並んで、夜の黒い水平線を見つめている。
「ほし……」
「大分と遠い場所みたいだな。もう見えない」
「ンン」
「ここは墓地かな……、生存者はいなさそうだ」
エンキは辺りを見渡した。言葉通り、生き物の気配はなかった。
そしてふと、近くの墓標らしき花の中、何かを見つける。
「あれは……」
なんだろうか。近付いて、用心深く、花を掻き分ける。真っ白い墓標には「ミチル」と名前が刻まれていて……小さな箱が置かれていた。丈夫そうな作りだが、開けることができそうだ。
エンキはそれを開いた。指輪の箱みたいだな、と思ったら、本当に中には銀色の指輪があった。それから畳まれがメモが一枚。
――ロボットを侵食する粘菌が現れ始め、私達も襲われています。
少しずつ蝕まれている。パーツを取り換えても駄目。
このままでは、私達は私達を保てない。
私達は自壊による尊厳死を選びます。
私はここで、恋人と共に眠ります。
なのでいつの日か、ここに来る人間にこの指輪を託します。
私の果たせなかった約束。
どうか指輪を、サチコという人間に届けてください。
エンキは再び指輪に目をやった。手に取って透かして見れば、内側には「ネロ、サチコ、永遠に」と彫られていた。
男は小さく笑って、指輪を箱にしまい込むと、それを防護服の胸ポケットに収めた。
「わかったよ」
そうして顔を上げる。ミライの背中が見えた。「ほし」が落ちた方を、ずっとずっと見ていた。
「ミライ、そんなに気になるか?」
呼びかければ振り返る。エンキはその隣に、ゆっくりと歩いて並んだ。
「だったら――探しに行くか? あの海の向こう、落ちてきた『ほし』を。もしかしたら宇宙船かもしれないぞ。人間が乗ってるかも。月だか火星だかに逃げていた誰かが帰ってきたのかも。……もしかしたら、新しく住める星を見つけてきた調査団かもな?」
殺戮の為に造られたミライの手を握った。
もしミライが「ほし」を見つけてくれていなかったら。そう思って――今度はエンキが、相手の手を引くのだ。
「行くぞ、ミライ! 我々にはまだ、やるべきことがあるのだから!」
こんなに終わっていて。
こんなにふたりきりで。
それでも――『それでも』、まだ、前に進めそうだから。
『了』
1/1ページ