●第五話:最果てのプロメテウス


「――どうか、皆を救って欲しい」

 託されたのはそんな使命。
 たった一つの、拒否権のない命令。
 それでも彼女は、それを請け負った。

「だって、世界を終わらせたのは私の恋人だから。私が再生の鍵を探しに行くのは当たり前でしょう」

 ――轟音――

 それは彼女を乗せたロケットが、遥かな宇宙へ旅立った音。
 途方もないスピードで、少しずつ地球の重力から解放されていく……。

 遠ざかる地球は、人の業によって滅びの道を辿っていた。
 かくなる上はと人が新天地に求めたのは、遥かな宇宙のどこか――地球の代わりとなる星で。
 かくして彼女はパイロットに選ばれた。長い宇宙の旅にも耐えられる機械の体を与えられて。
 乗り込んだ船の名は、宇宙船『青きノア号』。
 彼女の名はサチコ。終末の原因となった大怪獣ネロの恋人であり、ひとりの人間だった女。

 サチコは操縦席で目蓋を伏せる。脳裏に蘇るのは地球での様々な出来事だった。そして、「地球の皆を救ってくれ」と懇願する数多の「おえらいさん」方の激励と。
 そうして目を開ける。見やる彼方、黒い宇宙のどこかにある、青い綺麗な星を目指すように。

「こんにちは。具合はいかがですか?」

 そんな時だった。一つの声が宇宙船内に響き、人物のホログラムがサチコの隣に浮かび上がる。無垢な少女の見かけで、服装はサチコと同じパイロットスーツだった。
「私はこの宇宙船『青きノア号』のサポートAI、名前はアララトといいます。どうぞよろしくお願いします」
「ああ……事前に話は聞いてたよ。よろしく、アララト」
 握手をしようと手を差し出した。アララトはそれを見ると手を伸ばす――ホログラムゆえに感触はないけれど、二人の手は確かに合わさった。ニコリと、二人は笑みを交わした。
「お近づきのしるしに——」
 機械の動く音がした。マニピュレータがパイロットに何かを差し出したのである。サチコが受け取ったのは日記帳とペンだった。
「航海日誌です、どうぞ。まずは出航の気持ちを書き記されてはいかがでしょう?」
「航海日誌? まあ……こういうのもアリか」
 意外と人間臭いことをするのだなぁと思いつつ、サチコはペンを手に、まっさらな一ページ目を開いた。

 今日私は地球を離れ、これから第二の地球となる星を探すべくの旅に出る。
 人は私に「地球の皆を救ってくれ」と言うけれど、私は連中を救うつもりなんてちっともない。
 私がこれからやることは、単なるビジネスだ。
 全ては恋人の為と、復讐の為。

「以上で」
 サチコはペンを挟み、航海日誌を閉じた。アララトが音のない拍手をする。
「記念すべき一ページ目ですね!」
「そんな浮ついた内容でもないけどね」
 少なくとも自分を送り出した者達に見せられる内容ではないな、とサチコは内心で苦笑した。同時に、記入内容を隣で見ていたのに苦言の一つも呈さなかったアララトに対し、彼女はそう言った存在なのだろうと察した。これから無間のように続く宇宙の旅の中、孤独や不安や虚無にパイロットが圧し潰されないようにする為のコンパニオンなのだろう。
 サチコはそこに否定的な意見は湧かなかった。パイロットに都合よく作られた存在であろうと、楽しくおしゃべりするのは嫌いじゃない。なによりサチコがアララトを拒絶したところで、この宇宙という絶界ではどうあがいても二人きりなのだ。だったら、あえて険悪なムードを作り出すのも馬鹿らしい。
「——それではマスター、今からワープ機能を作動させます。地球時間で云うところの丸一日の移動になります。揺れますのでシートベルトはしっかりつけておいてください。宇宙酔いなどありましたら、遠慮なくお伝えくださいね!」
「この機械の体って酔うのかな? うん、お気遣いどうも。いつでもいけるよ」
 期待とも不安とも違う、しかし両方ともに近しい、不思議な胸のざわめきと高鳴りを携えて。深呼吸の要らない体で、それの真似事をした。
「必ず第二の地球を見つけ出しましょうね。それでは——ワープ開始!」
 ぐにゃり、と宇宙船の周囲の空間が歪んだ。人類の英知を詰め込んだ『箱舟』は次元を超えて——人類未踏の星域へ。

 ●

 誰もいない『宇宙(そら)』。
 数えきれないほどの星々が、あちらこちらで煌いている。
 この中の一つに、第二の地球があるのだろうか?
「それでは早速、ミッション開始ですね!」
 アララトが可愛らしい少女の声で言う。コックピットに展開されているのはホログラムのモニターだ。今からこの那由他の星々を一つずつ調べ、地球と似た星を探すこととなる。
 機械化処理の際に一通りの知識は生体脳にインストールされている。サチコはアララトのサポートを受けつつ、手早く仕事を始めた。
 しかし――
「うーん……一致率27,33%。生き物が住むには適していませんね。原子構造としては地球と似ているのですが、あまりに気温が低すぎます。酸素が液体で存在しているほどですから……」
「五億発ほどミサイルをぶっこんだらあったかくなりそうだけどね。……ていうのは冗談で」
 サチコは肩を竦めた。
「意外とすぐ見つかるかもって結構、楽観視してたかも……なにせ星は星の数ほどあるわけだし」
「トライアンドエラーですよマスター! 一緒に探しましょう!」

 ……一つ、一つ、また一つ……。
 幾つの星を探しただろう。だがどれも、一致率は低いものばかりだ。
 地球と違って太陽の移ろいなどない宇宙船の中では、時間の動きも曖昧で。どれだけの時間を調査に費やしただろう。小休止を挟みながら繰り返し続けたその作業に、いよいよ脳は集中力の限界を訴えていた。

「うーん、どれも一致率50%以下……」
「この辺の観測できる範囲はひととおり調べた感じはあるけど……別の星域を探した方がいいかもしれないねこれは」
 サチコは眉間を揉む。機械化処理された身ではあるが、宇宙服を脱げば人と見た目は変わらない。今はヘルメットも脱いで素顔を晒していた。短めのセミロングヘアを後ろで一つにまとめた、少し勝気そうな赤毛の人種の見た目をしていた。
「そうですね。マスターの提案に賛成します。それにしても、これだけ短時間で想定以上の星を調べることができたのはすごいことですよ!」
「どーも、そう言ってくれて嬉しいよ。……見つけられてないから成果はゼロなんだけどね」
 アララトにそう答えてから、いけない自虐や弱音は、とパイロットは困った笑みと共に「最後のはナシで」と付け加えた。意図を察するAIはくすりと笑う。
「今日のところはお休みになられた方がよろしいでしょう。お疲れ様です」
「うん、そうする。無茶したところで、って感じだし」
「そうですよ! 頑張りすぎて体を壊してしまっては、誰が第二の地球を見つけるのですか?」
 ホログラムの指先が、主人の鼻先をツンとつついた。感触はないけれども。
「私の方でも、自動探索モードに切り替えておきますから。気兼ねなくゆっくり休まれてくださいね」
「優秀だねえ。お言葉に甘えるとしよう」
 さて、と伸びをする。機械の体に肩こりなんてないけれど、これは気持ちの問題だ。サチコはコックピットの席から立ち上がった。様々な技術によって食事が要らない体ではあるが、睡眠やリラックスは必要なのだ。狭いが宇宙船には寝室がある。
(……シャワー浴びたいな……)
 しかしシャワーを浴びる必要のない体だから、船にそんなものはない。
 だから代わりに、いつか第二の地球を見つけたら、そこの雨を全身で浴びてみたい。人間の手で汚される前の、綺麗な水を……。
 ベッドには航海日誌が置いてある。だからサチコは、今思ったことをそのまましたためることにした。

 いきなり何事もうまくいくわけはない……そうは思っていても、やはり成果がないことについて思うところがゼロだと言うと嘘になる。
 まあ、全ての可能性が潰えたわけでもないのだ。それで心を慰めることにする。
 それから……できるならもう一度、シャワーを浴びたい。この際、熱くても冷たくても構わないから。
 機械の体は便利ではあるが不便だ。尤もこうでもしないと命を落としていたのは事実だし、提示された条件を飲んだのも他でもない私自身ではあるのだが。

 ――航海日誌を閉じる。パイロットスーツを始め、装備を外してベッドに横になる。毛布を体にかける気力はなかった。宇宙船内は人類の叡智によって重力が存在している為、体が勝手にベッドから浮き上がることはない。
 寝ようと思った――眠気がある、疲労もある、しかし不思議と寝付けない。フットライトだけの薄暗さの中、目を開けた。
「アララト、いる?」
「はい、御用でしょうか」
 サチコが首を動かせば、ベッド脇にホログラムの少女が立っていた。その姿にパイロットはふっと口元を笑ませる。ベッド脇から自分を覗き込むAIの姿に、地球での記憶が重なった――病室で、自分を覗き込む恋人の姿。
「いつも、花を持ってきてくれた……」
 ほとんど独り言だ。アララトは小首をかしげる。
「地球にいた時の話。恋人がいてね……カタツムリだの、生の牛の胃袋だの、そーゆー食べ物好きな変な奴でさ……変にグルメだったから、デートっていったら大抵は変なモノを食べに行く感じで」
 ほら、食べてみなよコレ。……いつもそう言った。そうして勇気を振り絞って食べてみて、「おいしい」と伝えたら、嬉しそうに彼は笑ってこう言うのだ。「上っ面と偏見で判断しちゃならねぇってこった」。
 思い返すほどに美しい記憶。もう永遠に手の届かないモノ。手を繋いでイルミネーションの街を歩いた時。彼の家で初めてキスをした時。安いカップ麺を食べながら漫然と午後のパラエティを観ていた時。一緒に指輪を作りに行った時。こっちは「愛してる」と言っているのに、向こうは頑なに「好きだよ」しか言わなかった。なのに指輪を渡す時、初めて彼は「愛してる」と言ってくれた――……彼がそう言ってくれたのは、その時と、そして、最後に会った時だけ。白い病室、いつも花を持って来るから、花屋のようになったその空間で。

 サチコ、愛してる。

 もう感覚のない――溶けてしまった彼女の手を握り締めて、彼は真っ直ぐそう言った。
 サチコはもう二度と彼に会えなくなってしまうような気がした。
 その時は……やっと、彼が自分を見捨てたのだと思った。「私を捨てて新しい人生を過ごして」、喋れる内に何度もそう伝えておいたから。
 ああ、これでいいんだ。これでいい。やっと自分という枷から彼は自由になれたんだ。
 自分のせいで彼の生活を財産を圧迫してしまっていることは苦しいほどに理解していたから。
 これでいいんだ――
 なのに――

(行かないで)

 遠ざかる足音に。見えなくなる背中に。

(嫌。嫌。これで終わりなんて嫌。お願い見捨てないで、私を一人にしないで、ずっとずっと傍にいてよ!)

 浅ましいほどにそう思ってしまった。
「私を捨てて」「私を見捨てないで」――どっちもサチコの本音だった。
 それを理解して自覚してしまうからこそ、なお苦しくて。

(ネロ! 行かないで!!)

 溶けゆく体はもう声も出せず、手も伸ばせない。
 何もできない。自分は何もできない。醜く崩れた皮膚の頬に、涙が伝うだけだった。

「ネロ……ごめん……全部、私のせいなんだ……」
 握り込むサチコの左手、その薬指には銀色の指輪。ネロと揃いで作った永遠の誓い。
「私があんなこと言ったから。あんなことになったから。彼は……終末戦争の引き金に。私が居なければ……私がさっさと死んでいれば……私がいなければ……こんなことには……」
「マスター、それでも私達は生きていかねばならないのです。……多くの死と隣り合わせのあなただからこそ、ただ生きていることがどんなにすごいことなのか……きっとお分かりでしょう?」
 尤も、生きていない機械の言葉ではあるのだけれども……とアララトは苦笑する。
「つらいことをつらいと思えるぐらい、楽しいこと、嬉しいこと、幸せなことがあったんですよ。その比率がどうであれ……それらの積み重ねの上に、今、あなたはいるんです。マスターはこれから、どんなことを積み重ねていきたいですか?」
「……決まってる。未来を掴むんだ。死に損なって何もかもをメチャクチャにした、最低な私自身への復讐だ。私がここで潰えたら、ネロがいた事実も歴史も何もかも消えてしまうから。だから私は、私の為に人類を生かす」
 アララトの言葉で、彼女は自らの決意を再確認した。そうだ。その為に、サチコは自身を『治療』した者達の願いを聞き入れたのだから。

 兵器による汚染によって、サチコの体は溶けて死に向かっていた。生き永らえるには、肉の体を捨てる他になかった。
 当然、民間人が気楽にできるような施術ではない。それをサチコができたのは、ネロが国の上層部と契約したからだ。その身を捧げる代わりに、サチコを治療して欲しいと。
 かくしてサチコは機械の体になり、延命された。
 全ての術式が終わってから……ネロの事件を知り、世界が終末戦争へ向かい始めたことを知った。
 このままでは世界はメチャクチャになるだろう。だからこそ、機械の体という特異な身を持った彼女に『第二の地球計画』がやってきた。
 ……尤も、どこまでが真実かは分からない。本当に人類を救う為なのか、ネロの件を秘匿するためにサチコを宇宙へ放り出したのか……。

 いずれにせよ。

「……私はネロに生かされて、こんな宇宙の中で生きてる。馬鹿だな……こんな大事なことも忘れて、『私なんかいなければ』だなんて」
 サチコは眉尻を下げて笑い、ゆっくりと上体を起こした。
「ありがとう、アララト。あなたのおかげで再認識できた。……実は最初はさ、私にとって都合のいいようにプログラミングされたデータだろうって思ってた。ごめんね、訂正するあなたはこの宇宙の冒険での、私の大事なパートナーだよ」
「どういたしまして、マスター! あなたが元気なら、私は幸せですっ」
 電子の少女は無邪気に笑む。
「苦難の果てに、きっと幸せはあります。二人できっと、見つけましょう!」
「うん。きっと、見つけよう。この最果ての星の海から、探し出そう」
 拳を差し出す。するとアララトも同じように拳を差し出し、そこに見た目だけでコツンと合わせた。

 ●

 新天地を目指して。
 それから何日も——何日も——星を探し、候補を見つけては、その一致率の低さに肩を落とす。
 そんな日々ばかりが、ずっとずっと過ぎていく。
 狭い宇宙船の中、流れているのはとあるゲームの楽曲だ。アララトには様々な娯楽がインストールされているのである。かつて平和な地球で、サチコがネロと共に夜通し遊んだ思い出のゲームである。
「大丈夫ですよ、マスター。きっと、どこかに第二の地球はあります」
 また第二の地球が見つからないまま時が過ぎる。無意識的に唇を噛んでいたパイロットに、アララトはそう言った。見つからない、見つからない、それの積み重ねが徐々にサチコの心に影を落としていることはすぐに分かった。
「だって、宇宙はこんなに広いんです。探してない星の方が多いんです。見付けられる希望は、きっとありますよ」
「……そうだよね。未探索の場所の方が多いんだし。ふう……すぐ弱気になるのが私の悪い癖だな」
「それだけあなたが等身大の人間だってことですよ。マスターが諦めなければ、必ず目的に到達できます!」
「いつもありがとう、アララト」
 永劫の空間で心が潰れていないのは、ひとえにこの宇宙船そのものが支えてくれているからだ。――この「広い」という言葉では語り尽くせぬほどの宇宙で、いかに人の心というものがちっぽけなのかをサチコは思い知らされる。
「こんな小さな星粒の中で、私達は血反吐を吐くような思いで毎日生きてきたんだね……恨んだり、憎んだり、殺し合ったり、愛し合ったりしながら……」
「それって、確率で言うと本当に奇跡のようなことですね、マスター」
「うん。……地球ではまだ殺し合いが続いてるのかな。私達が戻ったら全て滅んでいました……なんてことになってたらどうする、アララト?」
「どうしましょうか。生き残っている人を探すことになるでしょうか」
「そうだね。そして……皆で、第二の地球でやりなおせたらいいな。『人類(私達が生きた歴史)』を終わらせない為にも」
 と、言葉が終わったその時である。
 ぴこん、とモニター上に反応があった。
 一致率65%——初めての50%以上だ!
「これ、は、……!」
 無いはずの心臓が跳ねた。すぐさま拡大してみれば、地球と似ている青い星の画像が浮かび上がる。
「地球と比べて平均気温が低く、大気の流れが激しいようですが……着陸は可能ですね! 一致率は……数値として見れば高い部類ではありませんが、着陸できるということは凄いことです。初めてですよ!」
「本当だ……こんなの初めてだ! ああ、信じられない……」
「早速、着陸して現地調査を行いましょう、マスター!」
「了解だ。アララト、着陸用意」
「お任せください。……この星は、何と呼びましょうか。名称を設定して下さい」
「名前……名前か。そうだなぁ……『ハクバ』だ。白馬の王子様のハクバ。ないない尽くしの宇宙の日々の中で初めて見えた救いの光。この星が、私達にとっての白馬の王子様であるように願いを込めて」
「素敵なお名前ですね! それでは――いざ、我々の希望の星へ!」
 ワープ装置を使い、青きノア号は一気にハクバ星へと接近する——かつてない高揚感と緊張感を抱いた人間を乗せて。

 ――……ずずん。

 地響きが、着陸の合図であった。
 ハッチが開き、野外活動用のスーツに着替えたサチコはハクバ聖に降り立つ。
 そこは、どこまでもひび割れた荒野だった。驚かされたのが土が青っぽい色をしていることである。そして風がとにかく激しく、それが砂塵を舞い上げる。もうもうと立ち昇った砂塵は周囲を薄暗く、そして空を青く染めていた……地球の色のように。
「ヘルメットかマスクなしじゃ、あっというまに粘膜がやられそうだね……」
「海水は強い酸性。……この砂塵の成分は、液体に溶けると酸性にさせる性質があるようですね。となると、ここの雨も強酸性でしょう」
 宇宙服内蔵ユニットを介し、アララトが言う。
「ってことは、この塵を吸い込むのは人間にとって致命的なワケだ。こいつをどうにかできれば人間も住めそうなんだけど……地下とか、シェルターを作るとか、風がマシな場所を探すとか……」
「そうですね……。マスター、生き物は見当たりますか?」
「んー……」
 ちきき、とサチコのアイカメラが遠方を観測する。
「砂塵の所為で見通しがすこぶる悪いね。とりあえず見える範囲に動くものは見当たらない。もう少し辺りを歩いてみる」
「了解です。くれぐれもお気をつけて……」
「念の為の武装もあるしね」
 サチコは手にしている銃器を示した。

 ごうごうと吹き荒れる風――。

「それにしても地形の起伏がないなぁ……ずーっと平ったいや」
 ここは第二の地球たりえるのだろうか。サチコの表情は思案気だ。
(水は浄化が必要だし、住むにしたって地下暮らしか閉じこもりか……ワガママ言ってらんない状況ではあるけど……生き物がいないなら食糧だってどうするか……この土壌で作物が育つのか?)
 なんて、考えている時だった。
「ん、……あれ?」
 砂塵の彼方、山のように大きな何かの影が見えた。
「なんだあれ……山? いや、」
 それには巨大な脚が幾つも生えていた。まるで虫のような……ゆっくりと動いている。生き物だ。とびっきり巨大な。
「生き物……なんて大きさだ」
 でも、あれがもし狂暴な生き物ではなく、更に食用に向くのならば。サチコはそう思ったが――次の瞬間、砂塵の彼方、巨影から『何か』が飛んできた。サチコは咄嗟にかわした――それは肉の鞭のようなものだった。丸太よりも大きく巨大ではあるが。それは一瞬にして砂塵の中に消える。あの化け物からの攻撃だとすぐに分かった。
「嘘だろあの化け物、こっちに気付いてやがる!」
 そして攻撃を加えてきた。あんなもの、こんな小さな銃で勝てる訳がない。それこそ戦闘機の編隊だのミサイルだのが必要だ。
「アララト、一度船まで撤退する! 援護頼む!」
「了解です、マスター!」
 サチコは走り出した――右へ左へ跳ぶ。地面を巨大な肉鞭が打ち据え、地響きを鳴らした。機械の体に由来する反射神経によってサチコはどうにか回避できているが、ただの人間ならばたちまち粉砕されていることだろう。
「マスター、こちらです!」
 青きノア号がハッチを開けて待っている。サチコはそこへ飛び込んだ――すぐさま船は空に飛び立ち、高速でその場から離脱する。
「はぁ……ったくホラー映画じゃないんだからさ」
 へたりこんだまま、サチコは天井を仰いだ。
「マスター、お怪我は……ないようですね。安心しました……」
「おかげさまで。ありがと、アララト」
「それから……非常に悪いニュースがあるのですが」
 少女の声が苦い色を帯びた。
「どうやらあの巨大生物……大量にいるようです。我々を見つけた固体が仲間を呼んだようで」
「冗談だろ?」
「地表に次々と現れています。私達を探しているようです。……海にも……」
「別のエリアに行ってみよう。あいつらがいるのはあの辺だけかもしれないし」
「そうですよね。試してみましょう!」

 しかし――
 結果は悪いものばかりだった。
 かの巨大生物はハクバ星中にいたのだ。しかもどのようなコミュニケーション方法を取っているのか不明だが、明確にこちらを敵か餌かと認識しているようで、積極的に襲いかかってくる。最初に上空から様子見した時はいなかったのに……。
 どうあがいても、人類の場所はここにはなかった。

「……人が住むにはハードすぎるね、ここは」
 溜息のようにサチコは言った。
「離脱しよう。万が一でも船が損傷したら困る」
「了解しました、マスター」

 苦渋の決断。……『第二の地球』たりえなかった星が、遠退いていく。
 それは物理的な意味でもあり、精神的な意味でもあった。

「あの星は、どうしてもどうしても他に行く場所がなくなった時のヤケクソで降り立つべき星だね。ハクバ星改め、イチカバチカ星に変更だこの野郎」
 スーツの洗浄を行い、生身となってコックピットに戻ってきたサチコは毒づいた。
「マスター、現地調査お疲れ様でした。本日は、ゆっくり休みましょう」
「そうするよ。……やれやれ、今日は日誌に書くことがたくさんありそうだ」
「早速書かれますか?」
「うん、リアルに覚えてる内に」

 ――初めて着陸可能な星に遭遇。一致率50%超えなんて初めて見た。
 あの時の高揚感は忘れられそうにない。
 私達の白馬の王子様になるようにと願いを込めてハクバ星と名付けたが、そこはあまりにも劣悪な環境だった。
 酸の塵、不毛の荒れ地、日差しもほとんど届かない、おまけに超狂暴な巨大生物が惑星中にうようよいて、連携して襲いかかって来る。
 人間が安全に住むにはあまりに課題が多すぎだ。白馬の王子様どころかDV彼氏だったとはね。
 この星はイチカバチカ星に改名だ。移住の最後の手段として候補には上げておく。
 ……せめてあの巨大生物のサンプルか何かを採取できればよかったんだが、ありゃちょっと無理だ。
 次に着陸可能な星に出会えるのはいつになるかな。
 次はもっとマシな星だといいんだけど。
 まあこれで終わりじゃない。自分にそう言い聞かせる。
 次の『未知』を踏破しに行こう。大丈夫、きっとどうにかなる。

 ●

 ――また長い長い時間が過ぎた。
 第二の地球は、見付からない。
 時々、一致率の高い星を見つけるも、ハクバ星のようなことばかり。
 危険な原生生物がいなくとも、そもそも環境が命を拒む星も多々あった。
 悪意のようなウイルスが満ち満ちた、死の星もあった。

 ……日誌のページばかりが増えていく。

『最初に地球を見た人間が、今の私達を見たらどう思うだろうか』

 地球を出発してから、何日、何週間、何か月、いや、ひょっとしたら何年……?
 地球は無事だろうか。そんな思いを胸に、サチコは今日の分の航海日誌を書き、ペンを挟んで閉じた。
「なにか音楽か、映像を再生しましょうか?」
 アララトが問う。サチコは首を横に振った。最初の方こそは作業用BGMのつもりで音楽を流していたけれど、最近はずっと無音のままだ。そうすれば機械の駆動音だけがこの船内に響いた。
 真っ黒な世界に、点々と散りばめられた光粒。最初の方こそその神秘的な美しさに感動したものだが、慣れてしまえば退屈な光景だ。無限の可能性があるかもしれないよ、と甘い顔をして、その実、ひたすら無間地獄なのだから。
「マスター……」
「大丈夫。……やるべきことを見失ったりなんかしないよ。私達は前に進むしかないんだ、そうだろアララト?」
 サチコは不敵に笑んで見せる。
 ネロはもっと辛い思いをしたのだろう。そうまでしてネロが繋いだ命なのだ。サチコはそれだけで、前に進める。
「この世界は残酷だね。……新しい地球が見つかったとして、そこに住む人達も、『この世界は残酷だ』っていつかは思うのかな」
「それは……わかりません」
「人間がたくさん住む以上、犯罪も起きるし諍いも起きる。楽園も、慣れちゃえば地獄なのかもね」
 深呼吸一つ分の間を置いた。どこまでも広がる星の海に、サチコは目を細める。
「それでも――……」
「それでも?」
「私達は生きる。前に進んで、生きる。私は諦めない。諦めてたまるか。こんなところまで来たんだ。ネロ、あなたが命懸けで生きたんだから、私だって命を懸ける」
 それは執念に近い覚悟。
 サチコは那由他の煌きに目を凝らし続ける。
 猿がランダムにキーボードを叩いた結果が偉大な古典文学になるような確立でも。
 挑み続けた。
 願い続けた。
 そして――……

 —— 一致率90.79% ——

 ついに、彼女は発見する。
 液体の水が存在し、酸素が程よい割合で存在し、大気も安定している、地球とよく似た星を。
「……! マスターっ!」
「アララト……これは私の見間違いじゃないよね?」
「はい、見間違いなんかじゃありません!」
「よし……よし! 着陸準備を! これより現地調査を行う!」
「了解です、マスター!」
 かくして、青きノア号は浮足立つ者達を乗せて、『地球とよく似た星』へのワープを敢行する。

 ――もう慣れきった着陸の衝撃。
 開かれたハッチより降り立てば……

 一面に緑の草原が広がっていた。

 久々の地面。
 美しく輝く草原に、青い青い空、白い雲、太陽に似た星が世界をキラキラ照らしている。
 嗚呼、懐かしい気持ちで胸がいっぱいだ——。まるで地球と同じじゃないか!
「マスター、ヘルメットをオープンしますか? 風を感じられるかと思いますよ。大気成分も安全なので、大丈夫かと」
「うん、頼む」
 そうすればヘルメットが開き、――爽やかな風が、頬を撫でた。
 サチコは言葉を失っていた。緑広がる景色の中、涙を流せたならば頬に伝っていたことだろう。
 どこまでも世界は輝いているように見えた。
 こんなに、世界は美しかったのか……。
「ついに……やりましたね、マスター! ……とはいえ、もう少し現地調査を行った方が良いでしょう。もしかしたら、ハクバ星のような危険な原生生物がいるかもしれませんし、未知の病原体が発見されるかもしれませんし……」
「あ……うん、そうだね。ごめん、ちょっとボーっとしてたや」
「ふふ、私も同じ気持ちですよ。……この星には、何と名前を付けましょうか?」
「そうだね……、――ネリヤカナヤ。彼方にある楽園の名前を付けようか。生きる者も死した者も安らげるように」
 地球にはきっと、安らぐ場所もない死者がたくさんいるだろうから。――思い出の中の横顔に想いを馳せ、サチコは彼方の地平線を見つめていた。
「ネリヤカナヤ星! いいですね、素敵な名前だと思います」
「でしょ?」
 宇宙服から聞こえるAIの弾む声にそう答え、サチコは柔らかな草を踏んで歩きだした。
「いざ! ネリヤカナヤ星の探索ですね、マスター!」
「うん、行こう!」

 着陸前の上空からの偵察では、文明的な痕跡は見当たらなかった。また、生き物らしい反応もなかった。
 それを除けば――どこまでも地球と似た光景がネリヤカナヤ星にはあった。また、環境については地球の温暖な地方と酷似しており、人間にとって極めて快適である。
 しかし一点だけ気になったのが、植物は豊富だが、虫や魚、哺乳類などの動物が一切見当たらないことである。驚くべきことに微生物も見つからず、無菌状態ですらあった。

 そうこうしている内に、日が暮れ始めた。……綺麗な夕焼けだ。広い湖のほとり、彼方の地平線に沈んでいく赤い恒星。茜色に輝くその景色は、どうしようもない憧憬と望郷でサチコの胸を満たす――。

「……夕焼けを見るのなんて、いつ以来だろう……」
 現地調査の過程で、青い夕焼けを見るという神秘体験もしたけれど。地球によく似た光景の、となるともう随分振りだった。
「綺麗……ああ、夕焼けってこんなに……こんなに綺麗だったんだ……」
 記憶をたどれば、ビル群の中で見た夕焼けがどうにか最後に思い出せる。伸びあがった建物の窓に、車の窓に、赤い夕陽がきらきらしていたっけ……。
「地球の夕焼けって、こんな感じなんですね」
 宇宙服からアララトの声がする。
「うん、……ああそうか、アララトは地球の本物の夕焼けを見たことないのか」
「ええ……データでは知っているのですが」
「地球の夕焼けもこんな感じで、綺麗だよ」
 柔らかな風が吹く。誰もいない星で、さらさらと草原が揺らめく音だけがする。
「もし……いつか……」
 少女の声がぽつりと言った。
「長い長い時間の果てに、地球がまた綺麗になって……そうしたら……地球の本当の夕焼けを、私は見ることができるのでしょうか」
「どうかな。でもアララトはロボットだから、人間より長生きできるし、チャンスはあると思うよ。……地球が恋しい?」
「恋しい……、わかりません。でも……これは、そうですね、地球への憧れ……なのかもしれません。地球で活動した時間なんて、テスト起動の時と離陸の時ぐらいしかなかったのに」
「確かにそうかもね。でも時間の長さなんか関係ないよ、アララトは地球で生まれたんだ。それは違いない。地球はアララトのふるさとなんだよ」
「ふるさと……」
「もしもネリヤカナヤが移住できる星だったなら、ここが第二の故郷になるね。……あ、そういえば」
 沈んでいく夕日を見ながら、サチコは言葉を続けた。
「アララトは惑星探索用の宇宙船でしょ。ネリヤカナヤに移住が決定したら、あなたどうなるの?」
「地球に帰還後、人々を運ぶ為の船として改造後に活動予定です。それが済んだ後のことは……分かりません。でも、皆様のお役に立てるならなんだってしますよ」
「……私の体みたいな、人間の見た目をした体を手に入れるってことはできるの?」
「分かりません。マスターは、私は人間型のボディを得ることを望んでおられますか?」
「全部の仕事が終わったら、そうなったらいいなって思うよ。どうせ私も家族も恋人もいない独り身だしさ、なんだったら一緒に住もうよ。もうこの旅でずっと一緒にいるし、その延長線でさ……どうかな」
 サチコの提案に、アララトは寸の間だけ言葉を止めた。それは人間で言うと、息を呑んでいるかのような一間だった。
「いいんですか?」
「いいに決まってるでしょ! 私はあなたのこと、かけがえのない仲間だと思ってる」
「私、機械なのに」
「私だって機械の体だよ」
「……」
 またアララトは黙り込む。そうして、はにかむように笑った。
「嬉しい、ってこういうことなんでしょうか。ありがとうございます、マスター」
「どういたしまして。それから……ずっと言うタイミングを逃してたんだけどさ。その『マスター』っていうのやめにしない? サチコでいいよ。いきなり呼び捨てがハードル高いなら、『さん』なり何なり付けていいし」
「では……サチコさん、でいいですか?」
「うん、OK」
 サチコは笑みを浮かべた。
 彼方の恒星は沈みきり、黄昏時。薄暗さの中、早くも星が煌めき始めている。赤色と青色、複雑に色模様が変わっていく空。
「なんだか、今日のことは忘れられそうにないな」
「私もです、サチコさん」
「安全みたいだし、ここで寝ちゃおうかな。キャンプキャンプ」
「いいですね! 星空がテントですよ!」
 かくして、サチコは枝を集めて小さな焚火を作った。

 夜になれば満天の星空だ。
 この惑星には衛星が二つあり、二つの大きな月に照らされる夜はとても明るい。

「この体だから食事ができないのが残念だけど……可能だったら、ここでキャンプメシみたいなの食べたかったなぁ~……」
「地球でのキャンプのご経験は?」
「一応ね。ゆる~いやつだけど……ネロと一緒に」
「サチコさんの思い出には、ネロさんがいつも一緒ですね! 素敵です」
「……そうだね。学生の頃から知り合いではあってさ」
「告白は……どちらからだったので……!?」
「おーいっちょまえに恋バナが気になっちゃう? ふふ、内緒」
「ええ~~~」
「うそうそ。ネロからだよ」
「ほんとですか?」
「ほんとだって。ふふ」
 そんなロマンチックな状況じゃなかった。なんとなくそういう仲になりつつある時、メッセージのやりとり中になし崩し的というか、ポロッと「好きなんだよね」と会話の中で送られてきた言葉。そこから……これといったドラマ性もなく、「じゃあ付き合おうか」という流れになったんだっけ。
「……地球でのサチコさんのお話。もっと聴きたいです。私にインストールされている地球の知識よりも、サチコさんが話してくれる地球のことの方が……なんだかリアリティがあるから」
「いいよ。じゃあ何から話そうか……――」

 宇宙の片隅。
 静かな夜が、更けてゆく。

 ●

 目の前にはメロンクリームソーダ。
 鮮やかな緑色で満ちたグラス。
 水面には真っ白いバニラアイス。
 窓から射し込む日差しに、グラスの結露がキラキラしていた。
 ストローを咥える。甘い――甘い味。炭酸がしゅわしゅわと弾ける。アイスを混ぜて溶かして飲めば、まろやかな甘みもそこに加わった。さっぱりとして、冷たくて、真夏に浸った体に心地よく染み渡っていく……。
「お前それ好きだなぁ」
「そーゆーあんたはまたカタツムリ食べてさぁ」
 顔を上げれば正面に、若い男が座っている。オーブンで焼かれたカタツムリをふうふう冷ましながら食べていた。
「エスカルゴって言えエスカルゴって」
「カタツムリじゃん」
「一個食べる?」
「今はいいー。今日の晩ご飯さぁどうする?」
「食事中に次の食事の話されてもなぁ……」
「まあそうだけどね」
 テーブルの下、足を手遊びのように揺らした。デートだからって格好つけたくてはいた、ヒール付きのパンプス。そいつのせいで足が結構痛いんだけど、彼には内緒だ。「お、それ初めて見た。似合ってんじゃん」と言ってくれたし。
 すっごいイケメンってわけでもないし、大金持ちだとか一流企業とかでもないし。
 グルメだけどちょっと偏食気味で、食事を作るのにとにかく面倒事が多いし、何回言っても靴下は家で脱ぎっぱなしにするけど。
 髪切ったとか、新しいコスメとか、服装とかネイルとか、ちょっとしたことにはすぐ気付いてくれるし、「いいじゃん」って言ってくれる。逆に、頭痛い時とか眠い時とかもすぐ「もしかしてしんどい?」「眠い?」って気付いてくれる。観察眼がすごいんだよなぁ。
 ……だからだろうな、新しいパンプスに足がやられ始めた私に、いきなり「そこのファミレス行こーぜ」って言ってきたのは。
 私は小さく含み笑った。
「今キスしたらさ、カタツムリのメロンクリームソーダ風味だよ」
「えっげつねえ、ハハハ」
 彼が笑う。
 彼が笑った顔を見るのなんて、いつ以来だろう。
 そう、これは夢だ――唐突にご都合的な自覚が湧いた。私は今、夢を見ている。過去の懐かしい記憶の反芻を。
 夢だと分かっているからこそ、覚める前に私は――
「ねえ、――、」
 彼の名前を呼ぼうとして、それがすぐ出てこないことに、ふと気づいた。

 ――飛び起きる。

 無いはずの心臓が嫌にざわめいているような心地。焚火は消え、星と月だけの世界、もがくようにスーツの上半身を脱ぐ――AIの驚いた声が聞こえた。それを無視して素手を晒す。左手。その薬指の指輪を毟るように取って、内側を見る。

 ――ネロ、サチコ、永遠に――

「ネロ……」
 その名前を見て、ようやっと思い出せたのだ。どうして。忘れるはずがない名前なのに。
 そんな時だった。
 頭の中に、不思議な声が流れ込んでくる。

『こんにちは、宇宙人。あなたはどこから来たのですか?』

 サチコは目を見開いて周囲を見渡した。誰もいない。
「サチコさん、サチコさん! どうされたのですか?」
「今、誰かしゃべった――」
「え……?」
 不思議な声――男のようにも女のようにも感じとれる不思議な音程――は、またサチコの頭の中で口を開く。
『驚かせてしまってごめんなさい。生き物にしか声が届かないみたいで』
「あなた……なに?」
『私はネリヤカナヤ……あなたが先程名付けてくれた、“この場所”です』
「驚いた……この星自身ってこと? 星が意思を持ってるなんて……」
 サチコは驚愕しっぱなしのまま――指輪と宇宙服を元に戻しつつ――事態が呑み込めていないAIに事情を簡単に説明する。AIは信じられないといった様子だった。
「星一つが生命体として意思を持って……しかも私達にアプローチしてくるだなんて」
「でも……こんな宇宙だ、絶対にありえないことがありえない。とりあえず会話を試みてみるよ」
 ネリヤカナヤの物言いから、少なくとも敵意があるようには感じなかった。むしろ行為や好奇心を感じていた。
「私はサチコ。地球から来たんだ」
 サチコは事情を簡単に話した。地球は危機に瀕しており、移住先を探している只中なのだと。
 それらを、ネリヤカナヤは静かに聴いていた。
『……なるほど。それで、“私”のところに辿り着いたのですね。遠くから見たこともないモノが来るので、心を躍らせておりました。しばらく無言だったのは様子見をしていたのです。ああ……それにしても、すごいことです。こうして生きて動いている存在と会話をしたなんて初めてです』
 どうやらネリヤカナヤは喜んでいるようだ。つられるようにサチコも笑う。
「私も、惑星と会話をしたのは生まれて初めてだよ。あのさ……この星には、生き物はいないってことなの?」
『はい。この星は、ガランドウです。見ての通り動物がいません。植物までは創れたのですが、自律的な生物はうまくいかないのです』
「創る!? とんでもないなぁ……」
 ふう、とサチコは一息を吐いた。笑みを少し、陰らせながら。
「この星に移住できないか、ネリヤカナヤさんに交渉されてみては?」
 アララトが言う。ネリヤカナヤも嬉しそうにそれを肯定する。
『ええ! 私は私を発展させ、繁栄させたいと願っています。貴方の惑星、“地球”からの移民を歓迎します。貴方の惑星の生物は救われる、私は私の繁栄を謳歌できる。悪くない話だと思います』
「うん、そうなんだけど……。あのさ、自律的な生物を創ってうまくいかなかったって話、詳しく聞かせてくれる?」
『そのことですか? ええ、最初はうまく動いているのですが、次第に動くことをやめて、そのまま衰弱死してしまうのです。まるで生きる目的というプログラムを喪ったかのように』
「ああ――なるほど、それで、そういうね」
 サチコは立ち上がり、今の言葉をAIに伝えつつ、歩き出した。宇宙服のグローブの下、左手の薬指をさすりながら。
「あなた、名前は」
「え……? アララト、ですが」
「アララト、船を近くに寄せて」
「は、はい、了解です」
 ほどなく、『    号』がやって来る。船体に書かれた文字で、サチコはそれの名前を思い出した。開かれたハッチから中へ。
「アララト、船を出して! この星から急いで脱出する! 早く早く早くッ!!」
「りょ――了解です、サチコさん!」
 ぼ、と船のエネルギーが灯る。流星のように飛び上がる。
「この星は生き物の記憶を溶かしてる! 私達は――人間は、この星には住めない!」
「そんなことが……!」
 茫然とするアララトだが、先程の「あなた、名前は」と問われたこと――そして「生き物は生きる目的というプログラムを喪ったかのように停止する」というネリヤカナヤの言葉を思い出すと、パイロットを疑うことはできなかった。
 サチコは顔を歪めつつ、操縦席へ走る。

『なぜですか?』

 頭の中で声がした。とてつもない風がごうと噴き、船の進路を阻む。 
『なぜ、ここにいてはくれないのですか?』
 その声は嘆きであり、怒りである。
『ここにいて下さい。ここにいて下さい! 名前までつけてくれたのに! あなた達の移住先になれるのに! あなた達を助けられるのに! ひどい ひどい ひどい! ひどい! ひどい!! 一緒にいてくれないのは、なぜですか!?』
「たしかにこの星は、あなたは美しい! だけどここにいたら、あなたが美しいことも、かつて私が見てきた美しかったものの記憶も、何もかもが分からなくなって消えちゃうんだよ!」
 サチコはこの星に到着してからの記憶が、酷く遠い過去のように朧であることに気付いた。アララトと何か会話したような気がするのに。
「だから私達は、この星にはいられない! 一緒には、いられない!」
『やっと会えたのに! 初めて誰かに会えたのに! この寒い宇宙で、ずっと一人で、やっと、やっと会えたんです! 私以外の誰かに! なのにどうして! 記憶がなくなるぐらい別にいいじゃないですか!』
 大地が隆起する。それは意思を持つかのように――実際に持っているのだ!――うねりながら、青きノア号を叩き落とそうとする。
 船体が大きく揺れた。辛うじて青きノア号はそれらを掻い潜る。
「……進まなければ。私達は、進まなければなりません。地球の皆の為にも……!」
 どうにか船に掴まるサチコの手に、ホログラムの掌が重なった。
「共に進みましょう、サチコさん。私達の未来の為に……!」
「もちろん!」
 宇宙は広くて、寒くて、暗くて、独りぼっちだ。
 サチコはそれがよくわかる。こんな場所にずっと独りだなんてきっと気が触れてしまう。
(……ああ。あの星は、きっと気が触れてしまっているんだ)
 記憶を溶かすことも、おそらく無意識なのだろう。
 サチコは前を向き続ける。進むことを決めたから。

 悲痛な叫びが小さくなっていく――ネリヤカナヤ星がどんどん遠くなる。
 振り返ればそこに、地球とよく似た星があった。

「危機一髪でしたね、サチコさん。――……いいえ、前言撤回です。まだです」
「なんだって……?」
 サチコは愕然とした。
 地球によく似た星が、ネリヤカナヤが、ボロボロと崩れていくではないか。それは宇宙という漆黒の中 まるで細胞のように蠢くと……まるで生物のように宇宙空間を泳ぎ、船に襲いかかる!
「冗談きついって……!」
 崩れた星が泳ぐ様は、まるで「いかないで」と伸ばされる手のようで。あるいは、怒り狂った龍のようで。
 宇宙船は速度を上げる――しかし。
「速い――かわしきれません! ワープ機能、カウントダウン…… 駄目、間に合いません! サチコさん、掴まっていてッ!!」
 アララトが悲鳴のように叫んで――
 凄まじい衝撃で世界が揺れて――

 世界が暗転する。

 ●

 ネロ。
 私にサヨナラって言って。
 あなたをこれ以上苦しめたくない。
 あなたの負担になって、嫌われるなんて耐えきれない。
 私が私であるうちに、綺麗にサヨナラしよう?
 ごめんね。
 私のことなんて忘れてね。

 嘘。

 行かないで。
 見捨てないで。
 忘れないで。
 私とずっと一緒にいて!
 寒くて、暗くて、独りなんて嫌!
 サヨナラなんて言わないで!
 お願いだから――なんでもするから――

 神様――
 私、どうなっても構わないから……
 彼と一緒にいたいだけなの……
 お願い……お願い……
 どうか、どうか、神様……。
1/2ページ
スキ