●第三話:帰路

 一人分の足音だけが世界に響く。
 うつむいた視界には、機械化処理された鉄の脚が、のろのろと歩く様が見えた。ぐちゃ、ぐちゃ、ぬかるんだ泥道を、脚を汚しながら歩いている。
 いつからここを歩いているのか――男は思い出せないでいた。いつから、どこから、どこへ、何の為……何もかもが曖昧だ。頭がぼうっとしている。自分の身なりから、男は自身が機械化処理された兵士であることは理解できた。背中から何かぶら下がっているのは……壊れたマニピュレータだ。だらんと、武装の一つだったそれは重たい鉄の物体と化していた。
 男は両手を見る。何も持っていない。かつては銃を持っていたんだろうか? それから顔を上げた。辺りは――彼方が見えないほどの真っ白い霧に包まれていた。
「ここは、どこだ……」
 立ち止まって、乾いた声で呟く。真っ白で何も見えない。聴力を失ったのかと錯覚するほど、何も聞こえない。
 そんな時だった。
「――アダム?」
 唐突に、後ろからかけられる声。アダム、という単語が自分の名前であることを男は空白になりかけていた頭で思い出す。振り返った。そこには男、アダムと同じような見た目をした兵士が立っていた。その兵士に、アダムは見覚えがあった。
「ライラー……!」
 それは自らと同じ部隊の兵で、同郷の幼馴染で、無二の親友だった。
「よかった……誰もいなくて、どこなのか分からなくて」
 アダムは友人に駆け寄った。何も分からない真っ白の中、唯一の確かな存在は安心感を与えてくれた。合流の安堵はライラーも同じなようで
それから――そうだ、自分達は兵隊なのだから、周りに同じ部隊の者はいないものか。そう思ってアダムは周囲を見渡すが、真っ白に阻まれて何も見えない。なのでライラーに質問する。
「他に誰かいないのか?」
「うーん……分からないよ、見渡しても真っ白だし……気付いたらここにいたし……」
 どうやら、気が付いたらこの真っ白い霧の中にいたのはアダムもライラーも同じのようだ。
「ここは、どこなんだ……?」
「さあ……霧の中っぽいけど……」
 余程、凄惨な状況だったのだろうか。兵隊ということは戦場にいたはずで。この世界のいさかいが、もうどうにもならないような酷さであったことは確かに覚えている。銃声と爆発音、爆風、悲鳴、機械の軋み、血溜まり……。酷い目に遭うのは分かっていたのに兵士になったのは、そうするしか生きる術が最早なかったからだった。
 アダムは立ち尽くす。正面には親友が、「大丈夫?」とその顔を覗き込んだ。機械化処理は頭部にまで及んでおり、二人の顔はまるでガスマスクをつけているかのような見た目をしていた。
「俺は大丈夫……多分。それで、どうしようか――ここでいつまでもじっとしてる訳にもいかないし」
「じゃあ、皆を探す?」
 友軍に合流。それは兵士としてならば模範解答だ。しかし、アダムは悩む。またあの地獄に戻りたいのか……「嫌だ」、というのが率直な感想だ。友軍と合流すれば、また兵士として戦わなければならない。終わりのない、終末戦争に身を捧げねばならない。もう嫌だ……もう嫌だった。怖かった。死ぬことが。傷つくことが。殺すことが。傷つけることが。
「アダム?」
「ああ、……、なあ、ライラー」
「どうした」
「帰ろう」
「帰るって、どこに?」
「俺達の故郷だよ。俺達の家に……帰ろう。もう帰ろう」
 うつむいて呟く。アダムの脚も、ライラーも脚も、泥だらけだった。
 もし、ライラーが裏切り者としてアダムを友軍の元へ連行すれば、アダムの処刑は免れ得ないだろう。この申し出は、相手に命運を委ねるような行為だった。対するライラーは――
「うん、そっか。じゃあ帰ろうよ。一緒に帰ろう」
 明るくそう言ったのだ。友人の肩に手を置きながら。
 その一言にアダムはどれほど救われただろうか。きっと目玉が肉でできていたならば、涙が込み上げていたことだろう。
「ああ、帰ろう……一緒に帰ろう」
 アダムはライラーの手を取った。手を繋ぐなんて、小さな小さな頃に一緒に遊んだ時以来だった――だけど、なんだか繋ぎたくなったのだ。お互い、もう金属の手になってしまい、体温も柔らかさもないけれど。ライラーは幼いかつての頃のように握り返してくれる。そうすると不思議なことに、アダムはこの手をなんだか離してはならないような気がしたのだ。離してしまうと目の前の友人が消えてしまいそうな、そんな、不思議な確信が心を占めたのだ――。
 帰り道なんて分からない。けれど帰路を探して、二人は白い霧の中を歩き始めた。

 ●

 兵士として改造された時、頭の一部も改造されていた。脳にダイレクトに送られた情報によって、あらゆる武器をプロのように扱うことができた。同時にその改造は脳内物質や神経を弄る代物で、二人を始め全ての兵士は死や争いを恐れぬ戦闘兵器となっていた。人としての自意識はほとんどなく、夢見心地で全てが希薄なまま、ただ、命令を実行するだけの駒だった。
 だからずっと頭がボーッとしていて……そんな日々の中でも、隣にいた友人のことだけはハッキリと覚えている。ろくに人間らしい思考ができない頭の中で、友人の姿を視界に収める度、「ああ、まだ生きてる」と実感が湧いた。思えば、意識が鮮明になったのは命を実感した時ばかりだった。
 目覚めたくても目覚められない夢のように、話しかけたくても話しかけることはできなかった。ただ、目が合ったような気がしただけで、あいつがまだ生きているからまだ死ねない、それだけを抱いて、また曖昧な意識へと沈んでいった。
 恐怖が鈍化した戦場で。体中に取り付けられた冷たい武器を振るいながら。思っていたことはいつも、いつも、「早くこの戦いが終わればいいのに。そうしたらライラーと一緒に故郷に帰るんだ」――人を殺しながら、故郷で友人と見た花を思い出していた。鮮やかな色彩を思い描いていた。言葉にできない言葉を、心の中で呟いていた。
「ライラー、お前が生きているなら、俺はまだ、あともう少しだけ、がんばれるんだ……」

 ●

 やっと帰れるんだ。
 そう思うのに、頭の中の霧が晴れない。あれほど待ち望んだ帰路なのに、体はひどく重かった。
 きっと疲れているからだ。濡れた地面を踏みしめる。二つ分の足音。濃霧はひどく、見えるのはせいぜい足元ぐらいだ。時折、瓦礫が霧の中で微かに見える。この場所が戦いによって破壊された場所だと想像できた。
 しかし音はなにもしない、二人の足音以外は。生き物の気配は何もない。進んでいるはずだけれど、景色がほとんど変わらないから、全く進んでいないような気もしてくる。同じ場所をぐるぐる回っているだけかもしれない。
 不安感が込み上げかけるも、それは繋いだ手が打ち消してくれる。機械の血の通わない手であるはずなのに、不思議とぬくもりを感じる気がした。
「懐かしいなぁ……」
 ふと思い出すのは、遠い遠い過去のこと。まだ戦争がここまで酷くはなくて、二人は何も知らない幼い子供で――夕暮れの空の帰り道だ。時が止まればいいのにと思いながら、同時に早く明日になって欲しいと願いながら歩いた、あの帰り道。長い影。
「うん。こんなふうに二人で歩いたの、久々かも」
 過去は美化されるものというが、それをありありと感じた。ひとつひとつ、思い起こす故郷の風景。田舎でなければ都会でもない、それなりに栄えたありふれた街並み。青い空。平和だったあの頃。漫然とした、それでいて穏やかだった日々。こんな毎日がずっと続いていくのだと無意識的に確信して生きていた時間。
 何の憂いも知らないまま、子供の頃は、二人で走ってはしゃいだものだ。何もかもが煌めいたように感じる。カーブミラー、車、アスファルト、雲、自転車……家族がいたし、居場所があったし、食べ物にも呼吸にも困らなかったし、あの頃は大人になったらこんなことになるなんて、想像もしなかった――。
 ばしゃり、と音がする。それは不意にアダムが水溜まりを踏んだ音だった。何気なく彼はそちらへ視線を落とす。揺らぐ黒い水面がそこにある。そこにはアダム自身の顔が映って――いるのだが――それは真っ白く塗りつぶされたかのように、ぽっかりとのっぺらぼうだった。
「っ!?」
 息を呑んで後ずさる。空いている方の手でアダムは自分の顔を触った。機械化処理がなされた硬さと凹凸は感じるのに、水面に映る顔は何もない白塗りだ。同時にアダムは、自分の顔というものを思い出せなくなっていた。
「どうした、アダム? どっか痛いのか?」
「いや、……顔、顔が」
「顔?」
「俺の顔がない」
「顔、……僕からは見えてるよ、ちゃんとあるよ。……戦争で、酷い目に遭ったから。きっと混乱してるんだ。それに機械化処理に伴う幻痛とか認識障害とかも起こり得るってどっかで見たし」
「そうか、そうだよな、そうだよな……」
「僕ら、ずっとずっと戦ってきたじゃないか。体もこんな風にされてさ。……だから、アダムはちょっと疲れちゃったんだよ」
 戦いは酷いものだった。お互い戦火で家族も家も失って、生きていくには兵士になるしかなかった。兵士になれば衣食住が保証されるし、兵器の汚染で病に罹ったり戦火で手足を失っていても、それを『治して』くれた。引き換えに終わることのない戦争へ身を投じることとなるのだが、……平和と言う理想を掲げても、もう生きられない世界になっていたのだ。
「……酷いものだったな、戦いは」
「うん……そうだね」
「俺はもう戦いたくない」
「僕もだよ」
 またかつてのように何の憂いもなく生きることができたなら。心からそう思うのだ。そうすればまた、希望というものを感じられるような気がする。
「なんでこんなことになったんだろうな」
「分からない。そもそも理由なんてないのかも」
 アダムの言葉にライラーはそう答え、続ける。
「理由があった方が納得できた?」
「どうだろうな。あったらあったで、その理由とやらに憤ってたかも。……どんな理由だろうと納得できないよ、こんな――」
 兵士は自分の機械となった掌を見る。掌を見る目玉だって機械だ。生身の部分は脳と臓器ぐらいである。
「こんな体になってまで?」
 アダムが途切れさせた言葉を、ライラーが継いだ。
 生き伸びる為の道がそれしかなかったとはいえ――今になって戦いから逃げたいという気持ちが強くなれば、後悔ばかりが浮いてくる。自分の体は自分由来のものではないという不安感。自分が希薄で虚ろで朧で……。
 けれど不思議と、友と手を握った場所は『自分』を感じた。そこだけが唯一のリアリティだった。
「この霧はどこまで続いているんだろう」
「さあねえ。地球全てを覆ってたりして」
「……ありえなくもない話だな。環境汚染なんか平気で起きてたから……」
 この白をじっと見ていると、アダムは徐々に自分までも白くなっていくような心地を覚えた。まるでこの霧と同化していくような心地だ。もしかしたら顔面についてはもう漂白されているのかもしれない――先程の水溜まりの光景を思い出す。もう一度、空いている方の手でアダムは自らの顔に触れた。さっきと変わらない感触が返ってきた。
 二人分の金属の足音は、白い世界で頼りなく響いている。会話が寸の間でも途切れれば静かなものだ。死の世界のような――……もしもライラーと手を繋いでいなかったらとっくに歩くのを放棄していたかもしれない。男はそんなことを考える。

 白――

 空白――

 白――……。

 ●

 春の日の午後を覚えている。
 たくさん咲いた色とりどりの花が風に揺れていた。
 あの時はまだ子供だった。
 一日中遊んで、まだ足りなくて、でも暗くなっても遊んでいると親に叱られるから、後ろ髪を引かれながら友人と並んで帰路に就く。今日は楽しかった、明日はどこで何をして遊ぼうか、そんなことを話しながら。
 帰路が嫌いだった。遊ぶことをやめて、家に帰らなくちゃならないから。
 だけどそれも家のドアを開けるまでで、ドアの向こうには家族がいて、「おかえり」と優しい声が聞こえた。母親に今日の晩ご飯が何か聞く。手を洗ってきなさい、とたしなめられて。そうして空腹を思い出すのだ。
 そうして温かなベッドの中、お腹を満たされて、明日に想いを馳せている。
 帰路の煩わしさなんてすっかり忘れて。早く明日がくればいいのにと願っていた。
 今日みたいな日が明日も続くと信じていた。

「ねえ、今日は何して遊ぼうか」

 まだ声が変わる前の友人の声、無垢な笑顔。
 花が咲く陽だまりを駆けていた。
 自分達は永遠なのだと錯覚していた。
 自分達は大人になったりしないと思っていた。

「ずうっと友達でいようね」
「約束だよ」
「……あーあ、帰りたくないなぁ」

 そこから時が流れて、戦争の日々の中、永遠がないのだと知って。家族も知り合いもみんなみんな死んでしまって。
 もうふたりきりだった。
 このまま瓦礫に隠れて逃げ暮らすのか、兵器の汚染から逃げきれるのか、それとも……。
「アダム。僕、兵士になるよ」
 壊れた建物からどうにか取ってきた凹んだ缶詰の中身をはんぶんこしている時だった。
 アダムは咳をしながら友人を見た。最近、兵器による汚染がじわじわと喉と肺を冒し始めていたのだ。
「冗談だろ」
 かすれた声で少年期を脱したばかりの青年は言う。ライラーはニッと笑った。
「大丈夫だよ。兵士になったら住む場所も飯も保証される。金だってもらえる。兵士の身内は安全な場所で暮らせるって話だ。アダムも医者に診てもらえる」
「そんな」
 言葉の先は濁った咳に阻まれた。膿臭い痰のせいで口の中が不快だった。咳をしすぎて血の味がしていた。
「だって、兵士になるってことは、改造されちまうんだぞ」
「そうだよ。だけど、それが最善だろ」
「戦わなくちゃならなくなるんだ、人を殺すんだぞ」
「そうしないと死ぬだけだ。僕も……君も」
「だったら」
 口元を歪めて、アダムは友人に縋った。
「俺も行く。俺も兵士になる。お前の負担になるぐらいなら、せめてお前の隣で戦いたい」
「……安全な場所にいられるっていうのに?」
「俺一人じゃ意味がない……そこがどんなに安全で平和だったとしても……」
 土埃だらけのかさついた手を見下ろした。
「俺を覚えているのはもうお前しかいない。お前がいなくなったら、誰が俺の名前を呼んでくれる? 誰からも忘れ去られて気付かれないで、たった一人で死んでいくなんて……そんなの嫌だ……もう誰もいないんだよ、お前以外には……」
 泣きそうになって、泣き顔を見られたくなくて、俯いていた。
 そうすると含み笑いが聞こえた。困ったような、だけどどうしようもなく喜びが滲んだ声だった。
「わかったよ」
 俯いた視界に、差し出される掌が見えた。
「じゃあ一緒に行こう。帰る場所はもうないけどさ……お互いが生きてる限りは、お互いが僕らの帰る場所だ」

 ●

 随分と歩いたように思う。
 白い霧はどこまでも続く。
 ふと、アダムは思う。これは夢だろうか、現実だろうか。さきほど、ここは死の世界のようだとは思ったけれど。しかしここが何かを親切に示してくれる看板など見つかりやしない。霧の白と足元の黒だけだ。そのコントラストを見つめていると、もっともっと分からなくなる。夢か現実か生か死か。ぐるぐる――答えが出なくて、落ち着かない。だから現実のことを考えることにした。
「なあ、ライラー。俺に会うまでどこにいたんだ? 何か覚えてるか?」
「覚えてないのか? 一緒にいたじゃないか」
「一緒に? じゃあ……いつの間にここに?」
「いつの間にか……としか、言いようがない」
「なあ……ここはどこなんだ?」
「霧の中、だねぇ」
「……なあ、お前はなんともないのか。体とか……顔とか」
「見ての通りパーツがいくつか破損してるね。まったく重たいったら」
 ライラーは友人を一瞥する。「顔がない」と言っていた彼を気遣うような間だった。だからアダムは溜息を吐いてから、こう言う。
「ここが夢なのか現実なのか分からないんだ……まるで置いてけぼりにされたような、落ち着かない心地だよ。こんな仰々しい殺人マシンになっておいて、情けないけどさ……笑わないでくれよ」
「笑うもんか、友達だろ」
 友人は快活に笑って、それからこう言った。
「なあ、アダム。この霧から出られたら、何をしたい?」
「そうだなぁ……花畑の中で昼寝がしたい。海の傍で……潮騒を聴きながら、青空を見上げて……」
「いいねえ。誰もいない場所で……静かな世界で」
「そんな場所、残ってるのかなぁ……この霧の外に……」
「きっとあるさ。……霧の外に幸せはあると思う?」
「どうかな。あるといいな……あって欲しい、が正しいかも」
「辛いことも忘れたままなら、幸せだと思う?」
 ライラーのその言葉に、アダムは改めて、自分の記憶が曖昧であったことを思い出した。戦乱に身を投じていたこと、幼少期は友人と平和な日々を送っていたことは覚えているが……この霧の中にいる経緯をさっぱり思い出せないのだ。
「アダムの……僕らの帰りたい場所に帰れるといいね」
 二人の故郷。二人の家。……そうだ。もう『ない』んだ。消えてしまったんだ、そんなものは。焦土になり果ててしまったんだ。
「ライラー、どうしてそんなことを聴くんだ?」
 瓦礫、焦土……頭の奥がちりちりと、焦げ付くような感覚に襲われる。
「聴いてみたくなったんだ」
 友人は答えた。
「だって僕は」――そんな言葉が続くような気がした。彼は何も言っていないのに、アダムにはそう思えたのだ。
 だって僕は――……。その先の言葉を勝手に脳が導いてしまう。
 空を横切る白い、――白い、光のような一筋。
 そうだ。アレはミサイルだ。
 アレが故郷を焼き払って壊し尽くしてしまったのだ。
 それだけじゃない。
 戦場で……
 ライラーが、庇ってくれて。

 ――「だって僕は死んでいるから」。

「……!」
 アダムはビクリと肩を震わせ、立ち止まった。
 まだ霧の中から抜け出せない。繋いだ手の感触が、少しずつ希薄になっている気がする。
 いや、手だけじゃない。体が少しずつ霧に溶けつつあったのだ。アダムの体も、ライラーの体も。
 ずっとずっとここにいると、このまま二人は完全に溶けて、霧と一つになってしまうかもしれない。
「ライラー……お前は」
 振り返った。
 そこに、友人の姿はなかった。
 まるで煙のように、感触も存在も、ふっと消えてしまっていた。
「ライラー! ライラー、どこだ!」
 繋いでいた形で不格好なまま、宙ぶらりんのアダムの片手。白い世界に男の悲痛な声が響く。
「どこだ――どこに行ったんだ」
 もう死んでいる。友人は死んでいる。戦場で、ミサイルから庇って、死んでしまった。死体を見たんだ。そうして焦土に独りきりだった。壊れ尽くした戦場で。
 脳の処理による『駒化』から覚めたのは、ミサイルの衝撃で? それとも……『友達を庇う』なんて非合理的でありえない行動をしたライラーを見て、バグが起きた? しょせんは人間だったから? 分からない、けれど、確かにミサイルが飛んできた時、ライラーは人としての意識を取り戻し、そして今、アダムもまた人として目を覚ましている。
「どこに――……」
 ライラーは死んでいる。死んでいたんだ。あのミサイルに焼き払われた戦場で。バラバラの骸を見てしまったんだ。ライラーは死んでいる。ライラーは死んでいる。ライラーは死んでいた。ライラーはもういない。どこにもいない。二度と会えない。
「俺をひとりにしないでくれぇ! 一緒に帰ろうって言ったじゃないか、一緒に……、帰りたい……、家に帰りたい……」
 思い出してしまったんだ。もう大切なものをとうに失いつくしてしまったことを。ふらふらと茫然自失のまま、戦いを放棄して夢遊病のように歩いて、そうしてこの霧の中を歩いていたんだ。どうして忘れていたんだろう――答えなんか分かりきっている。愚かしいほどの現実逃避だ。残酷な「ありのまま」を直視できなくて、虚像と妄想に縋っていた。「霧のように溶けて消えてしまえたら」。
 帰る場所もなく、共に歩む者もいない。もう何もない、何もなかった。
 だからもう歩けない。帰る先なんてどこにもない。
 生きる意味も、目的も。
 膝を突いた。俯いた。
 全部全部、壊れかけた心が見せた妄想だった。この霧も、友の幻影も。
 だったらこのまま、妄想の曖昧模糊に消えて溶けてしまいたい。
 どこにもいけない末路にふさわしい。
 さっきまで手を繋いでいたはずの手で、握り込むように砂を掻いた。指の数だけ砂が抉れた。
 ふと――視界の端、目の前に、誰かの足先が見えた。
 見えたのは足先だけだった、なのに手を差し伸べられている気がして。
「ライラー!」
 アダムは顔を上げた――ざあっと顔を潮風が撫でた。霧は最初からなくて、晴れた空の青と、海の青とが、目の前にあった。
 そこは波打ち際だった。打ち寄せる波が、跪いた兵士の足を冷たくさらっていった。そして、目の前に見えた誰かは、どこにもいなかった。
「……う、み……」
 どこまでもどこまでも、その青い色は続いていた。最後に海を見たのはいつだったろうか。波の音が聞こえる。水面がきらきら輝いている。これも妄想の、現実逃避の果ての光景なんだろうか?
 きらり、と何かが近くで光った気がした。アダムが視線を砂浜にやれば、波に洗われながら、白い砂の中に何か光るものがあることに気付いた。それは銀色の指輪だった。
 手に取った。日に透かす。内側には「ネロ、サチコ、永遠に」と彫られていた。知らない人の愛の証だった。
 そのまま捨ててもよかった。だけど、そこに込められた誰かの幸せな思い出を考えると、無下にすることはできなかった。アダムにライラーという大切な人がいたように、ネロとサチコは互いに大切な人なのだろう。……恋破れて、やけっぱちに海に捨てられた愛の指輪かもしれないが。それでも、過去を辿ればきっと思い出は美しかったはずで。
 そうだ。この指輪は、アダムの知らない誰かが確かに生きた証なのだ。命があった証明なのだ――兵士は指輪を握り込んだ。もう一度顔を上げて、海の方を見る。
「ライラー……」
 霧の中で、友人は「ずっとここに居よう」とか、停滞を促すようなことは一切言っていなかったことを想い出す。霧の外のことを繰り返していた。今になって思えば、現実逃避による妄想に気付かせるような言い回しをしていた。どうしてだろう。
「……俺に、もう少しだけ生きてみろって言いたかったのか」
 答えは聞こえない。波の音しか聞こえない。

 ああ――お前は世界で一番の俺の友達だよって、言っておけばよかったな。

 兵士は重い体でどうにか立ち上がった。
 これからどこへ行こうか。
 壊れた体と、壊れそうな心を引きずって。
 これからどこへでも行ける。帰る場所はないけれど。

 そうだな――最後に、綺麗な花畑が見たい。
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