●第二話:果ての底のアプロディーテー
かくして、世界は大きな大きな戦いに包まれた。
世界を支配していたその国はギリギリのところで倒れなかった。そのことに恐れをなした幾つかの国々は報復を恐れて、かの国へと協力姿勢を見せた。その中には、本来はかの国を打倒する側の勢力であった国すらも含まれていた。
深刻なダメージを受けた巨国は報復すべしと怒り狂っていた。こうして世界は二つの勢力に別れ、そこに裏切りや思惑が交錯し、連鎖し、戦況は複雑に泥沼に、混沌へと果てていった……。
――顔に三本線の傷痕がある男は、海の深い場所でそんな地上の惨劇に思いを馳せる。
彼がいるのは潜水艦の中だった。その船の名はアプカルル号。それは選ばれし者――ごく一部の技術者や富豪や学者や芸能人や芸術家など――を地上の戦禍から守る超巨大シェルターであった。
しかし傷痕の男は選ばれた高尚な存在ではない。高尚な存在を護る為の兵士として、高尚な彼らが軍から派遣を要請した存在だった。選ばれし者らの守護者に相応しくと纏う軍装は麗しい。庶民生まれの武骨な図体も、華やかさのない見てくれも、おかげさまで『それらしく』見える。
深い場所の水圧に耐えうる窓――特殊処理が施されているので、外に光が漏れることはない――の向こうに見えるのは、どこまでも暗く暗い深海の景色だ。現在の時刻は深夜。海はまるで夜を溶かし込んだかのような漆黒だ。
男はそれを横目に、日々の退屈な任務である巡回を見た目だけは真面目に行っていく。瀟洒で品の良い赤絨毯には埃一つとて落ちていない。ハイエンドホテルさながらの美しさ、洗練された外装。窓の外の海を見なければ、ここが深海だなんてことを忘れてしまいそうだ。本当にただの素敵なリゾートホテルのようである。収容人数も凡そそういったホテル程度で、従業員も合わせればかなりの人数であった。
荒唐無稽な計画だ――戦争が落ち着くまで、深海でこんな巨大な潜水艦で隠れてやり過ごそう、なんて。警備兵の男からすれば「よくもまあこんな計画が実行されたものだ」という感想以外が出てこない。
まあ――それだけ地上が逼迫した状況になったからだろう。所かまわず兵器が飛び交い、生物兵器やロボット兵器が大暴れして、どこもかしこも廃墟や汚染地域だらけだから。安全な場所なんてもうどこにもない。だからこの船の乗客となったような技術者、富豪、学者は叡智を寄り合わせたのだろう。
昼間の時間であればラウンジからは無聊を慰める音楽が聞こえてくるものだが、今は夜ゆえ聞こえない。今、彼がいるのは主に娯楽を司るエリアだった。図書館エリアやカジノ、ゲーム、遊園地やゲームセンターさながらな『楽しい』が詰め込まれている。
この船は人間が健康で文化的に生きていくにあたって、何一つ不自由のない場所だった。今この時も選ばれなかった人々は戦禍に苦しめられているというのに。この世界に平等という概念はない。完璧な美しさを誇るこの潜水艦は、誰かを見殺しにして今日もまた輝いている。
そうやって今日もまた、戦争から隔絶された楽園のような平和は――
いつまでもと続くのだと、誰も彼もが信じていた。
――……敵襲を知らせるアラートが鳴り響いた、ところまでは覚えている。
気が付けば、男は俯せに倒れていた。やたら眩しい、のは、顔のすぐ横に照明があったからで。どういうことだ? 床に照明などあったろうか? それよりも頭が痛い……打撲の痛みだ。男は顔をしかめて立ち上がる。そうして気付いた。自分が『天井』に倒れていたことを。
男は目を見開いた。世界が逆様だ――いいや違う、船体がひっくり返っているのだ。それがなぜか、兵隊はただちに理解する――船が大破しているからだ。ゾッとした。まさか。対策は万全になされていたはず。何かの間違いじゃないかと男は通信機を用いるが、応答はない。どこもかしこも。舌打ちをした。
アラートが酷くうるさい。男は周囲を見渡した。眩暈と頭痛が酷い。よほど強く頭を打ったらしい。逆様の廊下が赤く続いている。人は見当たらない――いや、後ろに。
「あの……」
そこにいたのは、品の良い身なりをした乙女だった。長くて真っ直ぐなプラチナブロンド、空色の理知的な瞳、はっとするほど見目麗しい顔立ち。しかし――レトロな趣をした臙脂色のドレスも、その艶やかな髪も、すっかり濡れてしまっている。
驚いた男が何かを言う前に、彼女は彼へ顔を寄せた。
「酷い怪我を……!」
そっと白い手が伸ばされて、男の額に触れた。そこは硬い場所にぶつけたのか裂けてしまっていて、血が流れていたのだ。男はその時ようやっと、自分が流血していることに気がついた。けれど起きた事態が深刻過ぎて、負傷をどこか他人事のように感じていた。
「あ、ああ……本当だ」
「頭を強く打っているようです……どうか安静に、座って」
狼狽と表現していいほど心配している乙女にそう促され、男は床と化した天井に腰かける。乙女はその胸元に結わえられていた柔らかなリボンを解くと、「そのままじっと」と男の傷に巻こうとした。
「あなたの服が汚れてしまいます」
相手はどこぞの富豪の娘だろう。身分が違う。だから躊躇われる。しかしそんな兵士の拒否を無視して、彼女は手際よく装飾具を包帯代わりにしてしまった。湿っていて冷たいが、ないよりマシだった。
「……この船はもうダメみたいですね。もう、沈むだけです」
ぽつり、手当てを終えたばかりの乙女が目を伏せる。長い睫毛が、下から射す照明に陰影を作る。
「いや……まだ、被害状況が分からない以上は」
そうは言うものの。なにせ上下逆様になっているほどだ。男は眉根に皺をよせ、深呼吸を一度だけする。目覚めたばかりの頭と心を整理していく。警備兵としてしなければならないことは、被害の確認と生存者の救助だ。まずは目の前の『生存者』にこう言った。
「警備兵のミチルです。あなたは」
「名前、……リンダと申します」
「リンダ様以外に生存者は」
ミチルの問いに、リンダは悲痛な声でこう言った。
「客室エリアは……攻撃が直撃したのか、酷い有様でした。阿鼻叫喚とはあのような光景を示すのでしょうね」
リンダの服が濡れているのは、浸水が酷い場所から逃げてきたのだろうとミチルは察した。今は深夜。ほとんどの者が客室で眠っていた時間だ。そこに運悪く攻撃が当たるなんて……。
「……」
ミチルは小さく溜息を吐いた。警備兵としての任務を遂行するならば、客室エリアに向かって生存者を探すべきだろう。同時に脱出ポッドが無事に機能するかも確かめねば。
「リンダ様、ついてきて下さい。生存者捜索と、脱出ポッドの確認を行います」
「わかりました。ありがとうございます」
ぱ、とリンダは安心したように笑んでみせる。まるで「ついてこい」という命令を喜ぶかのようだった。こんな状況だ、目的があった方が落ち着くのが人の心だろう。そう思いながら、「こちらです」とミチルは歩き始める。リンダはその斜め後ろをついていく。
――男は、惨劇をすぐに知ることとなった。
アプカルル号はあちこちが破損し、明かりが途絶え、水浸しになっていた。
床から壁か天井に叩き付けられて死んだ者、浸水した水面に浮かぶ溺死体……あっちこっちに死が転がっている。
「死にたくない……死にたくない!」
「どうして私がこんな目に遭わなきゃならないの!」
「責任者を呼べ!」
「お前がこの船に乗ろうって言ったんだ、全部全部お前のせいだ!」
「痛い、痛い、ああ、足が動かない……誰か助けてくれ、誰か!」
「助けて! 助けて! ドアが開かない……こんなところでひとりぼっちで死ぬなんて嫌ぁあああ!!」
わずかな生存者達は一様にパニックに陥っていた。明滅する照明と暗黒が、人間の心がいかに呆気ないものかを物語る。逃れられぬ死。それが連れてくる恐怖は、計り知れない。
地獄だ――ミチルは傷顔を強張らせる。不安そうにリンダが彼の服を控えめに握った。男はそれを振り解きはしなかった。
彼らをどうすればいい? そう思った瞬間にまた船体が揺れて、傾いて、いっそうの悲鳴があがった。ミチルは咄嗟に傍のリンダを庇っていた。
「……なんて有様だ……」
こんな状況で、どう人々をなだめよう? 助け出せるのか? 船を修理できるのか? いや、この様子だともう船は駄目だ。通信機がダメになっているのは……多分……中枢エリアが攻撃で完全損傷したのだろう。この船は人体でいうところの頭部を綺麗にヘッドショットされた訳だ。
となれば助かる手段はアプカルル号からの脱出しかない。ミチルは脱出ポッドが機能しているか確かめる為、悲鳴と怒号を背景に、不安定な足場を走った。
……かくして彼は、すぐに立ち止まることになる。
脱出ポッドのあるフロアへの通路は、完全に水没していた。
それでも脱出ポッドへ向かおうとして、息が続かず力尽きたのだろう、溺死体がうつ伏せに浮いている……。
「う、」
死、の気配。兵隊として戦場の経験があるミチルだが、感じたのは戦場のそれとは全く異なる『死』の気配だ。心臓を鷲掴み、血を凍らせる、本能が戦慄してしまうモノだ。
傾いた天井を後ずさる。……他の場所の脱出ポッドはどうだ。頭の中に船の地図はある。不安そうにしているリンダに声をかけることもできないで、再びミチルは走った。
しかし、もうここが袋小路であることを嫌なほど理解しただけで終わった。
どの通路も水没しているか破損しているか。もうどこにも行けない状態になっていた。そして残ったエリアも刻一刻と、浸水が続いている……。
手詰まりだ。
逃げ延びる手段がない。死ぬしかない。この沈む船の中で。もう駄目だ。もう助からない。実感がどこまでも残酷に湧いてくる。心臓が嫌な震え方をする。そんな状況で、暗闇の向こうで恐慌状態の人々をなだめてまとめたところで何になる? 助けられない。助からない。脱出も修理もできない。それどころか、変にリーダーシップを発揮したところで警備兵という『下』の立場だからこそ、パニック状態の彼らがミチルを攻撃し始める危険すらあった。そうなったらもう最悪だ。
誰も助けられないし、誰も助からない。
もうどうしようもない、どうすることもできない……死ぬことしか、できない。
「畜生……マジかよ……」
ずき、と頭が痛む。気持ちが悪いのは頭の痛さのせいか、この状況のせいか。ミチルの顔は真っ青だった。心配そうにリンダが男を見上げる。
「できるだけ安全な場所で休みましょう、とても苦しそうです……」
「……」
そんなことをして何になる、どうせ死ぬのに。……とは飲みこんだ。リンダが男の軍服の袖を引っ張る。ほど近い場所にはミチルと同じ結論に至ったらしい乗客が、真っ青な顔でうずくまって放心状態だった。よく見れば足が折れているようだった。その者にミチルができることは何もなかった。一応、「大丈夫ですか、一緒にできるだけ安全な場所で休みませんか」と聞いてみたけれど……返事はなく、ただ首を横に振られただけだった。
その者を引きずり起こして、「きっと大丈夫だ、きっと助かる!」なんて希望をいたずらに植え付けたところでどうなるというのだろう。叫びたくなるほど、もう、この船の中の人間の運命は決まってしまっていた。そんな場所で『警備兵としての務め』に縋ってどうなるというのだろう。ミチルは乗客から目をそらした。その瞬間から、ミチルはもう『警備兵』ではなく『死ぬことが決定したただの人間』になった。歩き出した瞬間、壮絶な絶叫と鳴き声とが、後ろから延々と響き続けた……。
●
――そうして気付けば、ミチルは最初にリンダと出会った通路に座り込んでいた。
頭が痛い。酷く痛む。吐きそうなぐらいだ。鍛えられた屈強な軍人であろうと、死ぬしかない状況を完全に理解してしまうと心が酷く軋んでしまうらしい。通信機は相変わらずずっと無音で、その砂嵐が嫌なほどこの船の終焉を知らせている。
隣にはリンダが座っている。「大丈夫ですか」という言葉を彼女は何度も飲み込んでいた。彼が大丈夫ではないのは、見れば明白だからだ。
「ミチルさん、横になられてはいかがです?」
「……そうします」
「膝を貸しましょうか?」
乙女はスカート越しの足をぽんと叩いて気遣うように微笑んだ。ミチルは苦笑してしまう。むくつけき男がやんごとない乙女の脚に頭を乗せるなど、とてもとても憚られた。
「……恐ろしくはないんですか?」
壁にもたれて座り込んだまま、ミチルは問いかける。兵士である彼よりも、眼前の乙女は冷静なように見えた。
「分かりません。……でも、どう足掻いても運命が『死』の他にないこの状況は……とても、悲しいです。これが恐ろしい、ということなのかもしれません」
憂いの表情さえ、人形のように美しい。リンダが俯けば、新月色の髪が一房、はらりと頬にかかった。
そんな状況で今更、ミチルははたと気付く。
「……リンダ様、そういえば濡れた服のままです。ご婦人にこんなことを言うのも気が引けますが、その……俺の上着を貸しますから、着替えられては」
ミチルの図体は大きい。軍服の上着だけでも、乙女にはワンピースのようになってくれるはずだ。下心がないことを伝える為にも努めて真摯にそう言ったミチルを、リンダは真ん丸な瞳でじっと見つめ――ふ、と笑む。
「ミチルさんは優しい方ですね。……名前、リンダでいいです。様って呼ばれると、なんだか距離を感じてしまって……言葉も敬語じゃなくて、普段ミチルさんが喋るような話し方だと嬉しいです」
「はあ、しかし」
親しき中にも礼儀ありとは言う。急にそう言われても、という心地だ。
「じゃあこれは命令です! 敬語は禁止で、私のことはリンダと呼ぶように!」
声を弾ませるリンダが、まるで元気づけようとしてくれているようで――その健気さに、ミチルは迎合することにした。
「わかりま――わかった、わかった、これでいいか?」
降参のように両手を上げると、リンダは満足げな表情をした。
「それで……あー、リンダ。服を……」
「大丈夫です。私、丈夫な子なので。ミチルさんの体が冷えてしまう方が心配です」
「じゃあ、こうだ。アーカイブコーナーが近くにある。そこに確か……膝かけ用のブランケットがあったはずだ。そこに行こう。これでいいか?」
「……アーカイブコーナー?」
「知らないのか? 古今東西の本や論文の電子版が保管されてるんだよ。人類文明を護るためだそうだが」
それもこの沈むだけの船じゃな、と皮肉った。一方でリンダは興味津々といった様子で頷いて見せる。
「私、気になります。行きましょう! ……あ、でもミチルさん、傷は……」
「平気だ。ちょっと座ってたらマシになった」
これは本当だ。さっきまで視界がぐわんぐわんと回っていたが、今は少しだけマシになっている。それは言葉通り「ちょっと座ってたからマシになった」のか、はたまたリンダとの会話が心を少しだけ絶望から引き揚げてくれたからか。
平気だ、という言葉が本当であることを示す為にミチルは立ち上がる。一瞬だけ眩暈がしたが、大丈夫そうだ。「こっち」とリンダを伴い歩き出す。
●
アーカイブコーナーはすぐ近くだった。ここが物理的な本を並べている部屋だったなら、きっと床――いや、天井中に本が散乱していたことだろう。図書室というよりパソコン室に趣は似ている空間だ。並んだデバイスから閲覧したい電子化書物をいくらでも読める場所である。……尤も、それらは天井と化した床に固定されているので、手が届かない存在になってしまったが。
「うう……手が届かなくて読めないです」
「……よくこんな状況で読書したいって思えたな」
ミチルの言葉に、髪を揺らして振り返った乙女は困ったような笑みを浮かべた。それから濡れた服を示してこう言う。
「ねえ、脱がせてくださる?」
「勘弁してくれ」
「ふふ。少しからかいたくなっただけです」
「そうかい……」
後頭部を掻いて、ミチルは上着を脱いで「ほれ」と乙女の方へと差し出せば、白い手がそれを受け取った。それから男は後ろを向く。ついでに手近に落ちていたブランケットを肩に羽織った。別に半裸になったわけじゃない、上はシャツ姿だけれど、「あなたの体が冷えたら困る」とおてんば娘に言われない為だ。
しゅるり、衣擦れの音がする。
「ねえ、ミチルさん」
「なんだ」
「……恋をしたことはありますか?」
「藪から棒だな……」
女の子ってのは猫も杓子も恋バナとやらにお熱なのか。男は偏見気味の思いを胸に、小さく溜息を吐く。
「ないよ。ない。俺が子供の頃にこの大戦争が始まって、国がメチャクチャになって、それどころじゃなかった。すぐに軍に入ったしな。……それにこの顔だ、モテなくてね」
最後の言葉は半ばジョークだ。ミチルは顔に三本入った傷痕を指先で撫でる。
「その傷痕も含めて、あなたという存在なのでしょう?」
ミチルの分厚い背中に、乙女は淀みなく言う。それからこう続けた。
「私も……恋をしたことはありません。なので、……これは私のワガママなのですけれど」
その声は花が咲くよう、しかし、どこか一抹の寂寥を帯びてもいた。
「――この船が沈み切って藻屑になるまで、私と恋人ごっこをしませんか?」
思わず、ミチルは断りも忘れて振り返っていた。荒唐無稽すぎて片眉を持ち上げていた。
乙女はワンピースドレスのように男の大きな軍装を纏っていた。腰のベルトを結んでウエストリボンのように仕立てている。白い素足の眩さは倒錯的でもあった。神秘的だった。
男は視線を彷徨わせる。
「なんでそうなる」
「だって私……何も、何も知らないんですもの。何も知らないまま、空虚なまま、憧憬だけを胸に抱いて消えるなんて、悲しいです……なにか、せめて、一つだけでも、知りたいんです」
「だ、としても、こんな、まだお互いの名前しか知らないような」
「そう。だから、言ったでしょう――恋人『ごっこ』、って」
乙女が一歩、男の顔を覗き込むように。
「ささやかな、深刻ではない、模倣でいいんです。……こういうのを一生のお願い、っていうんでしょうか。私の……最初で最後のワガママです」
「……。いいのか俺で」
「ミチルさんこそ、突っぱねてくれても構わないんですよ?」
そんな風に微笑まれて――ミチルは考え込んだ。普通の倫理観から言えば、こんなほとんど見ず知らずの乙女といきなり恋人、しかも『ごっこ』なんて、頭のおかしい話である。
けれど、だ。もう助からない、死ぬしかないこの状況。……死ぬ前の多少のトンチキぐらいは許されるのではないか。それで誰かの未練を昇華してやれるのであれば。現実逃避で、少しでも絶望を直視せずに済むのであれば。馬鹿々々しい話だけれど、全てを飲みこむ破局の前ではなんだっていい。
「一つ言っておく。……若くて綺麗な娘さんだから呑んだ話じゃないからな」
下心があって鼻の下を伸ばして頷いたと思われるのは不本意だった。たとえリンダの見た目がどのような形であろうと、ミチルは頷いていた。「あなたでよかった」、とリンダは嬉しそうに言う。
「それじゃあ――死が二人を別つまで、どうぞどうぞよろしくね、ミチルさん」
乙女が手を差し出し、男の大きな手を握る。分かち合う体温は、冷たい深海での唯一の熱だった。ミチルは視線を手元に落とす。そして、リンダの手を柔らかく握り返した。
誰かにとっての特別になる。たとえそれが『ごっこ』でも――
「できる限りは、誠実でいようと思うよ」
その言葉は、本物だった。
「ありがとう」
リンダは握る手にもう少しだけ力を込めた。まるで宝物を扱うかのような大切さで。
「……今日のところは疲れているでしょう。いろんなことがあって……怪我もしているし」
お休みになられてはいかがです。リンダはそう言って、ミチルに座るよう促した。リンダに言われた通り、男は酷く疲弊していた。促された通りに座り込む。『床』に照明が付いており、天井に家具が生えているのは、改めて騙し絵の中にいるような奇妙な心地を産んだ。次に、まだ電気は生きているんだなぁとどこか遠く感じた。
「膝を貸しましょうか?」
乙女は白い足をぽんと叩いて無垢に微笑んだ。ミチルはやっぱり、苦笑を浮かべる。
「気持ちだけ受け取っておくよ。……重たいから、足が痺れるだろうし」
天井は硬いけれど、ブランケットを敷いてどうにかする。その上に横になる。リンダが甲斐甲斐しくその体に別の毛布を掛けてくれた。
「……リンダも休める時に休んでおけよ」
「お気遣いどうもありがとう、私のジェントルマン」
「よせよ」
軽いやりとり。ミチルは目を閉じる。体が鉛のようだった。こんな状況でも悠長に眠れるものだな、と男は思う。どうせだったら、眠っている間に船が砕けて知らぬ間に死んでいたい。そこまで考えたところで、眠気はあっという間に、男の意識を深く沈めていく――……。