●第一話:だいかいじゅうとしゅうまつばくだん

 入道雲の空の下、豪雨めいた蝉の合唱、黒ずくめのスーツの男が汗ひとつなく佇んでいる。
 通勤ラッシュを過ぎた午前、プラットホームのひとけは疎らだ。白線の内側、男はスマホをいじるでもなくじっとしている。中折帽の陰の下、引き結ばれた表情は友好的とは言えず、どこか緊張感すら漂わせていた。

 ――男の正体はよその国の工作員である。今からこの国の政治の中枢を戴いたエリアへ赴き、『一仕事』することが使命だった。それも、命懸けの。
 全ては恋人の為と、復讐の為であった。

 まもなく電車が参ります――蝉を伴奏にアナウンスが流れる。
 男はぐっと顔を上げた。目的地へ彼を運ぶ為の乗り物を待つ。横目に見やれば線路の向こう、ゆっくりと電車はやって来る。深呼吸をひとつした。一秒一秒がスローモーションのように感じる……。
 その只中だった。
 ふらり、男の視界の中に現れたのは幼い少年で。その子はそのまま――電車の迫る線路へと、ふらふら――足を――……

 ――電車が緩やかに止まる音。ドアの開く音。疎らな人の足音。アナウンス。

 気付けば、男は少年を抱えたまま、プラットホームの真ん中でしりもちを付いていた。通り過ぎる人々が怪訝気な目でちらと見ては、エスカレーターの片側へと進んでいく。
「お、お前……!」
 男は我に返っては慌てて立ち上がり、目の前の男の子の両肩に手を置いた。小学校の低~中学年ぐらいだろうか? 今日は平日だから、本来であれば小学校にいるはずなのに、ランドセルも何もない。
「危ないだろ! 死のうとするな!」
 いろいろ言いたいことは込み上げるが、実際に言葉にするとこんな月並みなものしか出ないものだ。ようやっと少年が顔を上げる。ぼうっとした、子供がするには疲れ果てたような、鮮やかさが全くない表情をしていた。
 だが目が合った途端、少年の顔はどんどん歪んで、赤くなって、瞳からは大粒の涙がボロボロこぼれ始めて――わあ、と大きな声で泣き始めてしまうではないか。
 男は面食らってしまう。というか少年を引き留めた時からずっと困惑している。周囲の眼差しが痛い――小さな子供を泣かせた男、社会的にアウト――今度は男の顔が歪む番だった。
「馬鹿っ、泣くな泣くな! ああもう……ちょっと来い!」
 男は子供の手を掴むと、大急ぎでその場から離れるのだった。

 ●

「つまり改造人間になるということか?」
「そうです。生物兵器……という呼称の方が正しいですが」
「どっちも同じさ。やれよ、俺には救わなくちゃいけないひとがいるんだ」

 階段を駆け上りながら、頭を過ぎったモノローグ。
 気を引き締めて大真面目だったっていうのに、とんだシリアスブレイクだ。
 どうしてこうなったんだか。作戦予定がこんなにすぐ崩れることになるとは思わなかった。目的の駅ではないのに改札から出てしまった……。
「はぁ」
 黒づくめの男は溜息を吐く。ぐしゅぐしゅと泣く子供の手を引いている。周りの視線に突き刺されながら、駅前のファミリーレストランに上がり込んだ。
 何名様ですか、二人、お煙草は吸われますか、吸わない、あちらの席へどうぞ。そんなやりとりの後、窓際の席、男はまだ泣き止んでいない男の子(どうにか大声は収まった)を席に押し込むと、その向かいに座った。
「……」
 沈黙。男は天井を仰ぐ。この沈黙をどうにかしなければならないのは自分だった。こんなに重い空気は、彼女との初めてのデートで観に行った映画が信じられないぐらいクソ映画だった時以来だった。
「……なんか飲むか」
 俯いて両手で目をこする少年に、男は気まずそうに話しかける。しかし嗚咽しか返ってこないので、諦めて、店員を呼んで、「メロンクリームソーダとエスカルゴ、俺は水でいい」と注文をした。まだ昼時には早いからか店内には人はそうおらず、メロンクリームソーダはすぐに来た。それから水も。
「俺はネロだがお前の名前は?」
 甲斐甲斐しくストローを挿してやりながら、黒ずくめの男――ネロは尋ねる。少年はようやっと顔を上げた。涙でべしょべしょだった。
「ミチル……」
「ミチルくんか。……それ飲んでいいぞ」
「……いいの?」
「いいから『いい』って言ってるんだよ」
 ネロがあごで示すと、少年――ミチルはおずおずと、鮮やかな緑色で満ちたグラスを引き寄せた。泡をまとった氷でキンと冷え、水面には真っ白いバニラアイスが浮かんでいる。窓際からの光にそれはキラキラしていた。
 ミチルは上目に男の方をちらと見る。中折帽の陰から、ネロはあまり人相の良くない目つきで少年とメロンクリームソーダを監視していた。「飲め」と圧を出している――だから少年は躊躇いながらもストローを咥えた。
 甘い――甘い味。炭酸がしゅわしゅわと弾ける。アイスを混ぜて溶かして飲めば、アイスのまろやかな甘みもそこに加わった。さっぱりとして、冷たくて、真夏に浸った体に心地よく染み渡っていく……。それは少年にとって、感動的な心地だった。
「こんなの、初めて飲んだ……」
「そーなの? ふぅん」
 男は間を繋ぐように、冷たい水を一口飲んだ。
「で、少しは落ち着いたか?」
「……」
「まあいいさ。それで、何があったんだよ? 線路に飛び込んだらどうなるか、流石にその歳でも分かってるだろ?」
「死のうと思った」
 ぽつりと放たれる言葉に、予想はしていたとはいえ男は肩を竦める。
「学校でイジメでもされてんのか?」
 ミチルは首を横に振った。それから、嫌われてもいないが、特別仲の良い子もいないことを告げる。弾かれないが迎えられもしない、そこにいるだけの、いてもいなくても同じなのだと。
 しかし、線路へ身を投げようと思ったのはそれが理由ではないと少年は続けた。
「お金が欲しかった」
「……金? どうやって。線路に飛び込む仕事でも請けたのか?」
「ほけんきん……死んだらお金になるんでしょ……?」
「馬ッ鹿、ふつー自殺じゃ保険金はおりねぇよ!」
 男が顔をしかめてそう言うと、ミチルは驚いたように目を丸くして、眉尻を下げて泣きそうな顔をした。強い言葉で否定されたからではなく、先程の行為が無意味だったことを知ったからだった。
「じゃあ僕、どうしたら……」
「そもそも……なんで金が要るんだよ?」
 ぱっと見て貧乏そうには見えない身なりだ。普通の、どこにでもいる家庭の、という印象がある。子供がお金を欲しがる理由なんて――ネロは「好きなゲーム? いやいや自分が死んだら意味ないし」など考えつつも、相手に話すよう促した。ミチルは半分ほど減ったメロンクリームソーダに視線を落としている。
「……お金があったら、お母さんも喜んでくれる……きっと、僕を産んでよかったって思ってくれる」
「あー……」
 ネロは額を押さえた。この子供、虐待でもされているのか? 一見して傷は見られないが、よもやシャツの下は……というやつか? 随分とヘヴィなネタに踏み込んでしまったものだと形容しにくい気持ちになる。
「えーと……とりあえずだな。殴られたり蹴られたり煙草の火ィ押し付けられたりしてるんなら、学校の先生とか身近な大人に言うんだ。あと警察とか? いや先に病院の診断書か……」
「……痛いことはされてない」
「あ?」
「何もされてない。『何も、されてない』」

 ――母親がひとり。生まれた時から家族の構成は『そう』で。
 狭くて散らかったアパートが、ずっと住んでいる世界。
 母親がどんな仕事をしているのかは、知らない。
 いつも見るのはしかめ面で厚く化粧をしている姿か……脱ぎ散らかした服と化粧道具とゴミに囲まれて、疲れて寝ている姿だった。
「話しかけないで頂戴」「今お母さん忙しいから」「放っておいて、疲れてるの」――それ以外の言葉が思い出せない。母親との繋がりらしい繋がりは、食事代である机の上に置かれた紙幣だけ。
 ……ずっとそんな生活だ。思い出なんてほとんどない。
 いてもいなくても同じ……いいや、もしかしたら多分、自分がいない方がいいんだろうなぁ、とは薄々思う。
 自分がまるで薄っぺらくて透明のようだった。本当に透明人間になれたらいいのに。
 そんなスカスカの人間だから、きっと、他の人間にも相手をされない。人間と、うまくいかない。いつも蚊帳の外。いつも遠巻きに賑やかさを見ているだけ。誰かにとっての一番になれないまま。何もないまま。
 だから、死んでお金がたくさん入れば、たとえ一瞬だけでも――母親の一番になれるのではないか?

「詳しいこととかは分かんないけどよ」
 ぽつぽつ語られていった言葉に、ネロは肩を竦めた。
「泣くぐらいなら死のうとするなよ」
 その言葉にミチルははっとしたように顔を上げ、何かを言おうとして――「お待たせしましたエスカルゴです」、と店員の声に全ては遮られて有耶無耶になった。タコ焼き機のような穴あきのプレートに、ぐつぐつ煮えたぎったオイルの中のエスカルゴ。テーブルに置かれたそれに、少年は目を丸くする。
「……それなぁに?」
「エスカルゴ。カタツムリだよ」
「ええ……カタツムリって、あの? うええ……病気になりそう」
「店で病気になる食いもん出すかよ。食用のカタツムリだぞ。うまいぞ、貝みたいで」
「……」
「そんなドン引きするなよ」
 ネロはわざとっぽく口をへの字にして肩を竦めた。そのままエスカルゴを食べる素振りを見せないので――ミチルは首を傾げる。
「……食べないの?」
「見たら分かるだろ、まだ熱すぎる。グッツグツだ。……まあ俺はゆっくりしてるからよ、お前ものんびりそれ飲んだらいいぜ」
 まあ、あんまりのんびりしてたら氷が溶けて薄くなっちゃうけどな。ネロはそう言って、頬杖の姿勢で窓の外を眺めている――ありふれた駅前の風景。午後も近い真夏の日中。炎天下を車が通り過ぎる。人々は太陽に顔をしかめながら歩いていく。

 平和なものだ。
 こうしていると、この国が世界で一番の軍事国家で、事実上の世界の支配者であり、世界中のありとあらゆる紛争の関係者で、武力でなんでも解決したがる恐怖の存在だなんて、ネロにはとても想像できなかった。しかしそれらは紛れもない事実なのだ。そして、男はかの国の横暴と、それが生み出す悲劇と犠牲者をこれ以上増やさない為にも、命を懸けてここへ来たのである。

(……なのに、何やってんだかなぁ、俺……)
 ちらと視線を前にやれば、バニラアイスが溶けてクリーミィな緑色になったメロンソーダをちょっとずつ飲んでいる初対面の子供。どうやら誰からも大事にされなかったことで、心のよすがも居場所もなくて、自己の存在を保てなくなっている哀れな子。自分の存在に価値を求めて苦しんでいる可哀想で愚かな存在。これだけ豊かな国でもこういう存在はいるものなのだなぁとネロは思った。
 ……まあ、作戦決行までまだ時間はある。今だらだらしているこれはただの時間潰しだ。そう思いつつ。
「うまいか?」
「……うん。……ありがとう。僕……いっぱい迷惑かけてるね」
「子供なんだから、なんでも要領よくできるわけないだろ。子供が完璧なら学校も親もいらないって」
「ネロは不思議だね。……不思議なことをいっぱい言うね」
「世の中にはな、不思議で意味不明で意思疎通ができない人間の方が多い」
 ネロはスプーンでエスカルゴをつついている。ふうふう冷ませばいけないこともないだろうか、いやまだ無理そうだ。そんな考えがスプーンの躊躇うような動きが物語っている。ミチルは油の付いた銀の匙を見つめている。口の中はまろやかに甘い。
「ネロはどうして、僕を死なせないようにしたの?」
 また一口分の炭酸飲料を口に含んで、ミチルは問いかけた。あの時――ミチルは本当に消えるつもりだった。今ならいけそうだ、できそうだ、唐突にそう思ったのだ。この気持ちが消えてしまう前に、と少年は学校から抜け出した。誰も引き留めなかったし追いかけてもこなかった。振り向いたそこに誰もいなくて、背中を押されたような気がした。だから「できる」と確信した。確信できてしまった。
「目の前で死にそうな子供がいたら助けるだろ」
 ネロは言う。ミチルはまばたきひとつ分の間を空けた。
「……ヒーローみたいだね」
「ヒーロー……ねぇ。その逆だよ俺は」
「どういうこと?」
「俺はなぁ――悪の怪人なのだ!」
 冗談めかした口調で笑って言った。ミチルはぽかーんとその言葉を聴いたが、「かっこいいね」とおかしそうに含み笑った。
「怪人なら、変身したりするの? 巨大化する?」
「まぁな」
「じゃあ見せてよ」
「まあ、そのうちな」
「えー」
 やっぱりできないんでしょ、といった意図がミチルの言葉には含まれていた。しかしそれは笑い話の範疇で、少年は大人にからかわれているのだと思っていた。大人も穏やかに目を細めていた。
 そうこうしていると、エスカルゴはなんとか火傷しない程度の温度になっていた。ネロはテーブル上のケースに置かれていたスプーンを一つ手に取ると、ミチルの方に差し出した。
「ほら、そろそろ食べれると思うし、一つ食べてみなよコレ」
「えー……」
 この「えー」はさっきと違って、明らかに拒絶の「えー」だ。少年にとってカタツムリを食べることは馴染みのない行為だった。いくら食用で――見た目も貝のぶつ切りのようで、「いかにも」な見た目ではないとはいえ、口にするのはとても躊躇われた。すると、ネロが鼻で笑う。
「なんだ、死ぬガッツがあるんならコレぐらい余裕だろ」
 言われてみれば、である。ミチルは逡巡する。それから――差し出されたままのスプーンを手に取ると、まだ温かいそれをひとすくい。「火傷するなよ」と言われつつ、ふうと吐息で冷まし、まじまじと間近で見下ろして、また逡巡して――どうにか、一口。
「ん……!」
 口の中のそれは香ばしくてオイリーで、貝に近い具合の食感と、濃い味。臭みやぬるつきや変な感じは一切しなかった。
「……おいしい……!」
「だろ? 上っ面と偏見で判断しちゃならねぇってこった」
 そう言って――ネロはおもむろに立ち上がった。「あとは全部食べていいよ」と言いながら、財布の中から引っ張り出した紙幣をまとめて卓上に置く。
「俺はそろそろ行くからよ。金は置いとくから……算数はできるな? 予算内で好きに飲み食いすりゃあいい。おつりはお小遣いにしな」
 じゃあな。ネロは踵を返そうとする。
「待って」
 ミチルはその背を呼び止めていた。ほとんど反射的だった。
「待って、ネロ……つれてって」
「……つれてくって、」
 どこにだよ。顔だけ横向けて振り返るネロが、帽子の陰で呟く。少年は俯いた。
「ネロのいくところ……」
「駄目だよ。俺はこれから仕事なんだ」
「邪魔……しないから……!」
 帰ったところで。戻ったところで。またいつものカラッポな日々だ。誰にも見向き去れず、誰かの特別にはなれず、漫然として、自分が消えた方が世界にとって利ではないかと思いながら、ただ生きているだけの……。だからミチルはそんな世界を捨てたかった。生まれ変わりたかった。ネロについていけば、何かが変わりそうな――そんな漠然とした期待があった。「ついていきたい」がただの幼い我儘で、彼にとって迷惑になるとは自覚していたのだけれど。
「あー……」
 案の定、ネロは困った顔で後頭部を掻いた。ここで黙って立ち去れていればよかったものをと男は内心で自嘲する。
 さてどうしようか。ネロの目の前には泣きそうな顔の少年。見捨てるか、連れていくか、どっかに連絡でもしてやるか。現実的なのは3つ目だ。理想を言えば親にでも連絡して、なのではあるが、よその国の工作員が他人の家庭事情に首を突っ込むのはどうなんだ?
 ネロは溜息を飲みこむ。逃げるように視線を上げた。ファミレスの大きな窓の外には夏の景色が目に痛いほどギラついており――ちょうど、通りに幾台かの車が停まっていることに気が付いた。そして、そこから出てきたと思しき者らが……たった今、ファミレスのガラス扉を開けたことにも。
 一切の乱れなきスーツの彼らは物々しい雰囲気だ。とても食事に来た団体客には見えなかった。怖気ながらも店員が「あの、何名様で……」と呼びかけたのを無視し、一団はネロへと歩み寄りながら無表情でこう言う。
「A国工作員のネロですね」
「……なんでバレてんだよ?」
「我が国の情報収集能力が、純粋に貴国を上回っていただけです」
「流石、世界一の軍事国家様は格が違いますなぁ……」
「我々に同行して頂きます」
「――……」
 ネロは押し黙る。場違いなほど平和な店内BGMが、無言を気まずくさせていく。
 その一方、緊迫した大人達を不安そうに見上げるミチルへ、一団の幾人かが眼差しを向けていた。「この子供は?」「情報にない」「連れていけ」と――そんな会話を盗み聞きながら――ネロは歯列を剥くように笑った。
「同行はできない。俺は……ここで道草食ってる場合じゃないんでね」
 す、っと。まるで握手を求めるかのようにネロは中空に手を差し出した。片手だけでなく、両方の手を。
 その瞬間。ネロの両手がぐじゅりと蠢いて――幾本もの黒い触手へと変貌する。一団がぎょっと息を呑むのも束の間、鞭のように振るわれた触手が彼らを無慈悲に薙ぎ払う。あるいは絡め取って窓の外に投げ飛ばす。ガラスの割れる音と、一団のうめき声と、店員の悲鳴が響いた。
「ミチルくん、来い!」
 窓の外で待機していた者らが、一斉にネロへ銃を向ける光景を視界の端に――男は触手の一本でミチルの小さな体を軽々抱えて走り出す。
 銃声。銃声。またガラスが割れて、店員はすっかりパニックになって泣き叫び続けて――そんな音を聞きながら、ミチルの視界は目まぐるしく回った。

 ●

「話しかけないで頂戴」
「今お母さん忙しいから」
「放っておいて、疲れてるの」
 ――図工で描いた、母親の絵を丸めて捨てた。見て欲しかったけれど、見て欲しいという欲求は邪魔だから。
 テストで良い点を取っても、わざと悪い点を取っても、仮病を使っても、本当に熱が出ても、家には誰もいなくて、母親は振り返ってくれなくて、仕事が忙しいとだけ繰り返した。

「それも社会勉強だと思って」
「苦労してるのはあなただけじゃないよ」
「大人になるともっと大変なことがあるから」
 ――教師に胸の内を打ち明けても、それ以外の言葉は得られなかった。大人に頼ることはできないのだと、すぐに学んだ。教師の面倒臭そうな顔を今でもよく覚えている。そのくせ、やたら絆や感謝を尊ぶ教育をするのだから、もう何がなんやらわからない。

 辺りを見渡した。
 子供達は仲のいい者同士で既に固く結束しており、そこに立ち入る余地はなかった。もう既に誰かが誰かの親友だった。親友がいないのは少年だけだった。
 いっそ蛇蝎のように拒絶されれば、まだ存在を認識されただろうに。
 頑張って輪に入って、ボール遊びをしたとして、ボールが回って来ることは一度もない。楽しげな背中を見ていることしかできない。それが柔らかな拒絶に感じる。お前は要らない、どうでもいい、あっちにいって欲しい。そう言われているような気持ちになってくる。

 ――無関心。漫然とした背景のひとつ。誰もその目に映してくれない。
 ここにいるのに。ここで生きているのに。
 誰もその子を見ていない。家でも。学校でも。
 いてもいなくても同じだ。空気はまだ誰かに吸ってもらえるから、空気ですらない。透明な、なんでもない、何かだった。
「僕は誰?」
 のっぺらぼうだ。自分がない。気に入られたくて、周りに何となく合わせていても、ただそれだけ。それだけで終わり。勇気を出して話しかけても。目立とうと意を決しても。結果はさもありなん。

 何もない。
 何もない。
 何もない。

 ――迫る電車。アナウンス。蝉の声。ここに飛び込めば、何かに誰かに見てもらえる。かもしれない。お金がたくさん入って、母親はもうつらいつらい面倒臭いやめたいと愚痴をこぼし続ける仕事をしなくて済むだろう。そうしたら感謝してもらえるはずだ。居ても良かったと思ってくれるはずだ。葬式ではクラスメイトと先生が泣いてくれるだろうか。たとえ一晩だけでも、想ってくれるだろうか。
 誰か肯定して。
 いてもいいんだと思わせて。
 衝動で、一念発起だった。どうにかしたいと考えた果ての。こんなことしか思いつかなかった。小さな子供の発想では。自分磨きとか、努力とか、折り合いの付け方とか、忍耐とか、助けを求めることとか、逃げる方法とか、そういうことを教わってはいなかった。誰からも。だから分からなかった。

 いっそ全部ぶっ壊れてしまえばいいのに。
 目を閉じたら、開く前に世界が終わってしまえばいいのに。

 メロンクリームソーダの甘い味が、口の中に残っている。

 ●

 はぁ。
 はぁ。

 弾む息と生温さ。アスファルトの陽炎。
 誰もいない日中の公園。UFOを象ったオブジェクトは空洞で、中に入ることができた。炎天下に比べれば、コンクリートのシェルターはいくらかヒンヤリとしている。ネロとミチルはそこに隠れるように座り込んでいた。
 こうしてじっとしていると、まるで秘密基地のような感覚で――ミチルは鮮烈な想いが心を染めていくのを感じるのだ。そうしてつい先程の出来事を思い出す。変身した怪人、スーツを着た大人達、銃声、疾走――何もかもが非日常で。まるでテレビかマンガの世界に飛び込んだかのようで。驚きはある。銃声は恐いとも思った。けれど感動がそれを上回っている。
 もしたしたらここは死後の世界で、己は夢を見ているんだろうか? 少年はふっとそう思い、頬を抓ってみた。痛みが現実を知らせてくれる。嘘みたいな本当だった。
 そんな少年の隣、男は大袈裟に溜息を吐いた。
「くっそ~~……どっから情報漏れたんだよ……こんなの聞いてないぞ……」
 UFOの内側に背を預け、顔をしかめるネロであるが、その顔には汗一つない。それが先の触手を始め、彼の構造が人体のそれとはかけ離れていることを示している。なお、今の彼の手は普通に人間の手だ。
「ネロ、ほんとに怪人だったんだ……」
 隣に小さく体育座りしているミチルは、真夏の暑さに額に汗を浮かべている。ちらと横目に黒スーツの男を見る。「だから言ったじゃねぇか」と男は小さく言う。
「ネロは何しに来たの? 世界征服?」
「……そうだな。世界征服だよ」
「すごい……」
「すごかねぇよ。いや、すごいかも」
「なんで世界征服するの?」
「上が決めたから。……まあ、世界をより良くする為だよ」
「より良くなったらどうなるの?」
「戦争が減って、経済もいい感じになって、過ごしやすくなるんじゃないかな」
「ネロは『かいぞうしゅじゅつ』をしたの?」
「そーだな。良く知ってるじゃないか」
「テレビでやってた」
「ほー。まあ、そうだな。改造手術。……それ受けたら、願いをいっこ叶えてくれるって言うからさ」
「願い?」
「いろいろね。大人にはいろいろあるの」
 はぐらかして、手をヒラリとして、ネロは質疑応答を打ち切った。
「はぁ……それよりもだ。すまんな、ミチルくん。巻き込んじまった」
 ミチルは工作員の関係者と見られてしまっている。さてどうしたものか。下手をすればこの少年が危ない目や酷い目に遭うかもしれない。いやもう危ない目には遭っている。「この子は無関係なんです」とのたまっても信じてもらえるかどうか。多分、信じてもらえない。
「別にいいよ」
 少年はシンプルに答えた。その言葉尻にも、横顔にも、どこかわくわくとした様子があった。こんな状況に置かれて嬉しそうにするなど不謹慎ではある、なれど子供ゆえの無垢さでもある。なにもない色もない世界が唐突に鮮やかになったような――そんなドキドキした心地が、小さな胸の中にあった。これまでの嫌なことが全て吹っ飛んで変貌したような、そんな期待が溢れていた。
「そっか」
 ネロは複雑である。嫌だ嫌だお家に帰してと泣き叫ばれている方がよかった。気持ち悪いバケモノ、と恐れられ侮蔑されている方がよかった。
「あのね」
 顔を上げるミチルの眼差しの奥には、どうしようもなく憧憬がある。眩しかった。夏の太陽よりも。だからネロは直視しないよう横目に、「なんだ」と言葉を促した。少年はこう言う。
「駅で……ネロは僕を助けてくれた。僕に死ぬなって、言ってくれた。『死ぬな』って……生きてていいって言われたの、居てもいいんだって思えたの、すごく……すごく、すごくうれしかったんだ」
 だから駅で助けられた直後、心がぶわっと嬉しくなって泣いたんだ――膝を抱えて俯く少年の目が、またじわりと潤んでしまう。存在を肯定されて、ずっとふわふわしていた心地が、急に、地に足が着いたような気がした。これが「いてもいい」ことなのだろう、と少年は感じた。それはとても――安心した。
「お前、変な奴に懐いちまったなぁ」
 ネロは溜息を吐いて、人間の形である掌をミチルの髪の上に置いた。まだ子供髪質の、細い毛だった。
「俺が恐くないのか? 外人だし、触手だし」
「ネロはかっこいいよ!」
「人間じゃないんだぞ」
「それでも……」
「この国を滅茶苦茶にしに来たんだぞ」
 圧倒的な軍事力と技術力で世界の覇権を握っている強国を崩して、その支配から世界を解放する。
 それが、ネロが上から聞かされた『理想』だった。『世界征服』の理由だった。もっと世界はより良くなる、悲劇だってなくなる――だからネロは改造人間になった。生体兵器となった。
「どうして、ネロは怪人になったの?」
「恋人と、復讐の為さ」
 ネロはへらりと笑った。そうしてやおら身を起こし、UFOのようなオブジェクトの穴から出る。完全に体が真夏の日差しに晒された頃には、両腕はまた幾本もの触手となり、顔も不気味の黒色の怪物へと変貌していた。
 橙色の無機質な眼球が見据える先には、この国の軍事力の一端であるロボット兵士が立っている。2メートル以上はあろうか。無骨な装甲は一切の装飾がなく、どこまでも機能性を突き詰められている。その機械の体には、そこかしこに兵器が仕込まれていることをネロは知っていた。改造人間として研ぎ澄まされ過ぎた五感が、本能が、警戒信号を発している。あれは危険な存在だ、と。

 ――勝てるのか? あんなバケモノに。
 いいや。俺だってバケモノなんだ。
 勝てる。勝たなきゃならない。
 ここで立ち止まる訳にはいかない。
 もう状況は「がんばる」とか、「どうにかせねば」ではなく、「どうにかする」しか残されていない。

「ミチルくん、そこでじっとしてろよ」
 ネロは不気味な顎を開いてそう言った。背後に、オブジェクトの中で小さくなっている子供の気配を感じながら。

 ――土を蹴る。砂煙が上がる。銃声、唸り声、堅いもの同士がぶつかる音。

 ミチルはUFOの隙間からその光景を見ていた。目まぐるしすぎて人間の目では追いきれない攻防。黒い触手が空を切り、機械の武装ユニットがいくつもの弾丸を放ち――装甲がひしゃげる、切り落とされた肉片が転がる。
 少年は知らない。ネロが、ミチルの方へ流れ弾が向かわないように立ち回って戦っていることを。防ぎきれない時はその身を呈して守っていたことを。ただ少年はじっと、じっと、男の背中を凝視していた。自分を守るように戦ってくれている人間の姿を。「恋人と、復讐の為さ」。そう言って笑った彼の横顔が脳に焼き付いていた。
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