●6:もういいかい、もういいよ


「君が好きだ」

 ●

 キンモクセイの香りの盛り。
 暑さはようやっと鳴りを潜め、ツクツクボウシの声もやんだ。生徒達からも、いい加減に夏休み気分も抜けきった。
 秋、二学期。校内は文化祭に向けて、にわかに騒がしくなりつつあった。特に一年生は野外ステージで何か披露するのがこの学校の伝統で――何か、とは何でもいい。とはいえ凡そダンス、合唱、演劇から選ばれているが――ノバラやサダヒロもその伝統の例に漏れず、出し物の練習に銘々励まねばならなかった。

 かくして放課後――。

「ぬぅうううおおおおおおおお戻れぇええええああああああああ」
 いつも昼休みにお弁当を食べる場所。サダヒロは生えっぱなしになっている角を戻すべくの特訓をしていた。特訓というか試行錯誤というか……悪あがきというか……。
「押してダメなら引いてみろウオアアーーーーッッッいっそ角伸びろアーーーーー!!」
「声でっか……」
 力むのと念じるのとでどうにかなるものなのかそれは、とベンチに座ったノバラは片耳を塞ぐ。彼女の膝の上には印刷した紙束をホチキスで留めただけの『台本』が置かれていた。
「駄目だ全然角が戻らん、伸びもしなけりゃ新しく生えることもない……ッ! うぅうううなぜだ何が足りんのだ一体どうすればいいんだ」
 サダヒロのこめかみからは真っ白な角が少しだけ生えている。既にクラスメイト中から「変身できたの!?」「それどーしたの!?」「なんで生えっぱなしなの!?」と一通り質問責めにされた。かれこれこうなってしばらく……今はもう質問されることもなく、もはや日常風景になってしまっていた。
 とはいえ当のサダヒロ本人からすれば、竜にもなりきれず人の姿に戻りきれない現状はちょっと困るのだ。命に別状はないし誰かに迷惑をかけているわけではないが、どっちつかずはちょっとカッコ悪い……と思っていた。外を歩けば「なんであのこ角出しっぱなんだ」という目で見られるし、服を着る時に引っかける。とにもかくにもどうにかしなければならなかった。
「竜の力がまだ不安定……なんだっけ」
 ノバラはしょぼくれた顔で隣に座ったサダヒロを見やる。
「安定する方法、早く見つかればいいね」
「うん……こればっかりは体が適応するのを待つしかないみたいだが……」
 竜の力をもっと取り込めば、という話でもないので、またノバラの血を分けてもらえば解決する話ではなくて。
「それにしても全然……ぜんッぜん適応しないんだが!?」
「まだ一か月そこらでしょ、気長に待とうよ」
「……ウン……」
「そんなメショメショしないで……大丈夫だって」
 ノバラは小さく笑って、腕時計を見た。夏より少し日は短くなり始め、空はもう夕暮れだ。膝の上の薄っぺらな台本を閉じる。
「サダヒロくん、そろそろ帰ろっか」

 ここのところ文化祭の準備がある為、最近は昼休みや放課後に会う時間が減っていた。まあ登下校は一緒だし、土日に一緒に勉強をしたりと、そういうのがあるから別段寂しさや物足りなさは感じないが。

「三組――サダヒロくんとこはダンスだっけ」
 校門を出て帰り道。今日も一日疲れたなあ、と思いながらノバラは隣のサダヒロに尋ねた。少年が「うん」と頷く。
「うちのクラスにはダンス部がいるからな、そのひとが全部うまいことやってくれるから助かってるよ。ダンスは振り付けを覚えるだけでいい、体操みたいでラクチンだ……」
「いやぁ振り付けパパッと覚えられちゃうのすごいよ……」
 そういえばノバラの前でサダヒロがダンスの練習をしていることはない。「もう覚えた」からだろう。対するノバラはお弁当中や登下校の電車の中で台本を何度も読み返している。ノバラのクラス、一組は演劇が発表内容だった。
 文化祭に向けて、文化部の多くが忙しくなる。ゆえにそういった面子は台詞の少ない役とか裏方とかに回された。では主役級の役はというと、『文化祭前にそんなに忙しくならない者』の中からくじびきとなった。誰もが緊張と遠慮と恥じらいで主役に自ら立候補する者がいなかったのだ。――で。ノバラは見事にヒロイン役のくじを引いたわけだ。
 演目はありふれた昔話をアレンジした内容。昔々あるところに美しいお姫様がいて、悪しき魔法使いに誘拐されたので、王子が従者を連れて姫を救いにいく……という。
(私、お姫様ってガラじゃないのに……)
 もっと華のある子になぜあのくじが引かれなかった、とは思うものの後の祭り。まあなってしまったものはしょうがない。昔のように「ノバラさんがいいと思いまーす」という押し付けならとかく、くじという全員平等な立場での選抜だ、流石に「無理です」はワガママだ。それに帰宅部だから、他の生徒よりも時間があるし……。
 しかし、である。
 演劇なんて生まれて初めてのノバラは知らなかった。自分が、致命的に「セリフを覚えるのが下手」「どうにか覚えても致命的に棒読み」であることに……。
「んあああ~~~~~~~~……」
 今度はノバラが呻く番だった。いつものコンビニ、いつものドーナツをはんぶんこ、眉根を寄せてノバラは空を仰ぐ。
「駄目だ……ぜんっぜん台詞を覚えらんない……なんで……普通の英単語暗記とかはできるのに……どうして……長文だから……?」
 ヤケっぱちになりながら、プレーン味のドーナツにがふがふと食らいつく。
「大変そうだなあ……」
 横目に、チョコ味のドーナツをかじるサダヒロ。
「アレだ……俺も演劇経験がないから言えたモンじゃないかもしれんが、場面場面の台詞を一言一句丸暗記しようとしてるから難しいんじゃないか?」
「どーゆーこと?」
「一言一句正しくなくても、だいたいニュアンスが同じセリフを言えればそれでいいんじゃなかろうか」
「いや……それ……いいの? 脚本書いた子がわざわざ考えてくれたセリフだよ? それをちゃんと言わないのって、なんか脚本の子に失礼じゃない?」
「詰まってセリフが出てこなくなって芝居が止まるよりは、まだマシじゃないか?」
「た、たしかに……」
「ニュアンスだけ掴んで、全体の流れをざっくり覚えてから細かい調整をしたらいい……かも!」
「なるほど~~……流れで掴む……。あ、じゃあさサダヒロくん」
 残りのドーナツを飲みこんで。
「昼休みとか放課後、よかったら台本の読み合いの練習つきあってよ」
「え? いいけど……脚本のネタバレにならないか? 俺は別にネタバレされても平気だけど」
「いいのいいの、サダヒロくん脚本内容を言いふらしたりしないでしょ。それに有名な昔話のアレンジだからネタバレのバレもないよ。みんな知ってるお話」
「そうか……なら手伝うよ」
「ありがと!」

 ――かくして、また放課後が来る。
 キンモクセイの香りの中、いつものベンチに座った二人は、半分ずつ脚に乗せた台本を覗き込む。
 実を言うと姫の台詞はそう多くはない。なにせ攫われているポジションなのだから、出番は冒頭と最後だけだ。なので読み合い練習自体はそう時間のかからないものだった。
「助けてくださってありがとう、王子様」
「なすべきことをなしたまでです、姫」
 王子、姫を抱き寄せる。キスをする(実際にはしない、顔を近づけてそれっぽく見せるだけ)。
「よし」
 最後の台詞までの読み合いを終え、ノバラは台本をサダヒロの方に押しやった。
「じゃあ次、台本なしでやってみる」
「オーケー、いくぞ!」

 サダヒロとの『特訓』のおかげで、ノバラはかなり台詞を覚えられていた。この調子でいけば、文化祭当日にはちゃんと台詞を喋れそうだ。……棒読みっぽいのはもうしょうがないとして。もともと、人前で発表するとかそういうのは不得手なのだ。ノバラ個人としては、噛んだりどもったりせずに台詞を言えているだけで奇跡である。

「は~……なんとかなりそう……サダヒロくんほんっとありがとね」
 今日の練習はこんなもんで。ふう、とノバラは一息を吐き、缶入りのミルクティーを飲んだ。甘い味に身も心もほぐれていく……。
「前は『文化祭なんて来るな~~~』って思うほど台詞が覚えらんなくてヤバイって感じだったけどさ。これならどうにかなりそう……一時はどうなることかと思ったもん、マジで」
「コツを掴んだら上達はすぐだったな、ノバラさん、筋がいいんじゃないか? すごいぞ!」
「そうかなあ? 台詞を言わされてる感については我ながら『すごい』とは思うけどね……」
 なんて苦笑を挟みつつ。傍らに缶を置いて、ノバラは手遊びのように台本をパラパラと捲った。それから……開かれた最後のページに、何とも言えない顔をする。
「あのさあ……私、つくづく思うんだけど」
「ん?」
 サダヒロはなんだろうかと横を向く。ノバラは「ここ」とラストシーンを指さした。
「王子が姫にキスするじゃん、これなんで……? ほぼ初対面じゃんこの二人? いや姫にとっては命の恩人ではあるよ? 相手もどこの馬の骨ともしれん男じゃなくて一国の王子っていうやんごとないひとだよ? 腕っぷしもすごいひとだよ? でもさあ……するかね? 普通……いきなりキス……一目惚れしたってこと? それとも命の危機から解放された安心感でちょっと精神状態がおかしくなってた?」
「……きみ、SF映画の宇宙シーンで音があったら『なんで?』って言うタイプ?」
「だって宇宙は音しないじゃん!?」
「まあまあ……アレは音が鳴った方がエンタテイメントとしておもしろいのであって……」
「そうかエンタテイメント……このお話もリアルじゃないもんね、フィクションのエンタメだから……ここでキスした方が盛り上がるからキスするのか……なるほど……」
 しみじみと顎を擦ってから、ノバラは「あ、こーゆーとこが私のかわいげのないとこなんだろな」と内心で思った。
(……あんまり、難しく考えすぎなくっていいのかな……)
 とは思うものの。
「もしかしたら姫と王子は知り合いだったのかもしれんな」
 サダヒロが空想を楽しむようにそう言いだした。
「実は幼い頃から何回か顔を合わせていて、お互いに『いいな……』って思ってたのかも。親もそれを薄々感づいてて、いずれは二人の結婚を勧めるつもりだったのかも」
「あ~。なるほど、いいねそれ。……もしくは完全に初対面だったとして、お姫様は王子様と政略結婚すべくあそこでキスして既成事実を作ったとか」
「うわ~それはえぐいな~。じゃあもしかしたら、魔法使いに姫を攫わせたのもその国の自作自演だったとか……王子と政略結婚する為の……」
「なにそれ怖~! 最悪じゃ~ん!」
 夢も希望もない話だが、ただの冗談だ。ブラックジョークで笑えると、少しビターな大人になれたような、子供っぽい喜びがあった。これ見よがしとブラックコーヒーを買うティーンエイジャーと似た心境だ。
 そんな笑いが一段落して。ノバラはなんとはなしに脚本へと視線を落とす。
「ねえ、サダヒロくん、……一目惚れって本当にあると思う?」
 なんだかんだ、「なんで?」とか斜に構えて口走ったが、本当はわかっている。この二人は、王子様とお姫様は、一目惚れをしたのだ。そういう運命だったのだ。その方がドラマティックだし、納得のいく理由に見えた。だけど、リアルでそんなことが起きるのだろうか?
「……一目惚れかあ」
 サダヒロは考え込む。……そうして真っ先に思い浮かんだのは、初めてノバラと出会った日のことだった。赤色の、美しくて、綺麗な竜――あんなに美しい竜を見たのは初めてだった――もしかしたらあれは一目惚れだったのだろうか。
「もしかしたら……あるのかもな、実際に。だって『無い』ものだったら、フィクションですら描かれないと思うし」
「ああ、なるほどなあ……でもさー、一目惚れって外見から始まる恋、だよね。そういうのって長続きするのかなあ……」
「さあ……どうなんだろうな。……ノバラさんはどう思う? 一目惚れって本当にあると思う? あるとして、長続きすると思う?」
 少年は、少女の横顔を静かに見つめた。「うーん」と、ノバラは鞄に台本をしまいながら考える。
「もしも本当にあるんなら、ロマンティックだなあって思うよ。長続きするかどうかは……その人たちによるんじゃないかなって思うから、なんとも言えないなあ」
「そうか」
 一間。吹奏楽部の練習の音が聞こえる。言葉を切り出したのはサダヒロだった。
「その……一目惚れしてみたい?」
「あはは、なに言ってんのも~。そんなドラマみたいなことがホイホイ起きるわけないじゃん」
 答えは一瞬、ノバラはからから笑っていた。それから目を細め、秋晴れの下のキンモクセイの生け垣を見つめる。
「恋ってわかんないよ、まだ」
「……そうか」
「サダヒロくんにはわかる?」
 首を傾げて微笑みかけるその問いは、真剣な質問などではなく。だからサダヒロも、ラフに笑った。
「俺もよくわからないよ」
 いっそ全部理解できたらいろいろ楽になるんだろうか。そう思いながら、まだ友達のまま、キンモクセイの甘い香りの中にいた。

 台本をなぞる言葉の掛け合いの中では、二人は姫と王子になれたけれど。
 今日も、昨日と変わらないまま、平和な一日が過ぎていく。

 ●

 そうして文化祭の当日はやって来た。
 運動場に作られた野外ステージ。並べられたベンチ。一年生が伝統に則り、舞台の上で出し物を披露していく。
 サダヒロのクラスはダンス部が監修しただけあって、『魅せ』ることを意識した内容だった。全員、特別な衣装ではなく制服のままというのがミソらしい。確かに学ランとセーラー服で統一された少年少女のダンスは、いい意味で『学生が踊っている』という青春を感じさせる瑞々しさがあった。
(おー……ダンスしてるサダヒロくんなんて初めて見たな……)
 軽快な音楽、ワイワイ盛り上がる客席。隅っこの席でノバラは、周りに合わせて手拍子をしながらステージを見ていた。サダヒロはものすごい真面目な顔で、ものすごく真面目に踊っている。ダンスによるクリエイティブな自己表現というよりは、振り付けをそのままなぞっているだけの、体操とかそういうのに印象は近かった。大真面目なのは確かだった。顔が大真面目すぎてダンスが儀式めいていた。
(ロボットダンスとか結構うまくやるんじゃ……?)
 想像したらちょっとかわいらしくて、一人でフッと笑いそうになって、一人でニヤニヤしているのはちょっとアレなので、口元を引き締めた。
(っと、そろそろ準備しにいかないと)
 サダヒロのダンスを見終わったところで、ノバラはいそいそと席を立つ。お芝居の役者としての準備が待っていた。……まあ、衣装を着る程度なんだけれど。

(――はあ、終わった終わった緊張した……)
 サダヒロはほっと息を吐いた。別にセンターで踊るとかじゃなかったけれど、人前で何かするのは緊張する。ましてやダンスなんて普段やってないことで。
(ノバラさん、見てたかなあ……)
 ダンスに必死すぎて客席が見えていなかった。サダヒロは今しがた座った席が、奇しくもさっきまでノバラが座っていたところだと知ることは永遠にない。
(そろそろ一組の演劇か……うう……なぜか俺まで緊張する……)
 ノバラの台詞や芝居の練習にずっと付き合ってきたから、もう目線が観客ではなく関係者である。若干、保護者目線にも片足を突っ込んでいた。
(だ、大丈夫……あんなにたくさん練習をしたんだし……きっと大丈夫だ……ノバラさん……がんばってくれ……俺はここで……応援しているぞ……ッ!)
 緊張に背筋も伸びる。グッと拳を膝の上で握り込む。サダヒロはドキドキしながら開演を待っていた。
 かくして――演劇が始まる。演劇部のクラスメイトが監修したとはいえ学生レベル、九割が素人、持ち時間もそう長くはない。クオリティが高いとは決して言えないが、当の本人らは一生懸命だった。
「昔々あるところに……」と定番のアナウンス。「それはそれは美しいお姫様がおりました」、現れるのはドレスを着たノバラだった。ドレスと言ったが、ディスカウントストアで安く買えそうな仮装だ。フリルとレースの白い衣装。お姫様らしい清楚な印象だ。
(……あ。綺麗だな……)
 夏休み、彼女がワンピースを着ていたのを思い出した。ぼうっと、サダヒロはドレス姿の少女に見入っていた。魅入る、という表現の方が正しいかもしれない。
(ノバラさんのドレス姿なんて初めて見た……、いや、当たり前だけども……)
 台詞や周りの音も遠のいていく――そんなふうに見つめていたら、舞台上でお姫様は悪しき魔法使いに攫われて、あーれーとフェードアウト。ここから最後の方まで出番なし。しかしサダヒロは「綺麗だったな……」という回想でずっとボーっとしていた。そんなこんなで体感的にはクライマックスのお姫様再登場はすぐだった。
(あ。しまった。ぼーっとしてた……)
 気を取り直して観客になる。舞台の上、悪しき魔法使いを退治した王子様と、救い出されたお姫様が歩み寄る。
「助けてくださってありがとう、王子様」
「なすべきことをなしたまでです、姫」
 芝居がかった、ちょっと棒読みの。見つめ合う二人。王子様の優しい微笑み。
 ――どくん。サダヒロの胸の奥で、何か重いモノが脈打った。

『王子、姫を抱き寄せる。キスをする』

 名前も知らない、どこの馬の骨とも知らない、男の手がノバラに伸びる。
(実際にはしない、顔を近づけてそれっぽく見せるだけ)――分かっている、知っている、だけど。脳裏に過ぎる、蘇る、恋を諦めたあの日のドラマのクライマックス。テレビの中のラブストーリー。二人が幸せに結ばれてキスをする感動的なシーン。お涙頂戴の最終話。姉のすすり泣く声をBGMに、幸せそうに見つめ合う二人。

 ――ああ、あれは、『フィクション』なのだ。少なくとも、自分の人生では。
 ――俺がどれだけ手を伸ばしても、決して届くことはしない理想なのだ。

(……あ、あれ、?)
 サダヒロは、いつからか自分が客席からふらりと離れ、ステージに背を向け、逃げるように歩き出していたことに気付いた。
(な、なんで俺……)
 ただのお芝居じゃないか。ただの演技じゃないか。なのにどうして直視ができなかった?
 ぐるぐるしたまま、今どこを歩いているのかもわからないまま、周りの賑やかさすらわからないまま、少年は歩き続ける。
 なんで――どうして――……そうして答えを直視した。
 自分はノバラに、あんなことはできない。だからたとえ、演技であっても、ノバラを抱き寄せキスの真似事をする王子を心底羨んだのだ。憎らしいと思うほどに。
 そうだ。自分はノバラに、あんなことがしてみたい。見つめ合って、抱き寄せて、口付けてみたい。

 ――彼女と恋がしてみたい。
 ――独り善がりな思慕ではなく。

「は、……」
 気付けば校舎裏にいた。最初に彼女と二人、桜散る四月、面と向かったあの場所だった。
 立ち尽くす。秋晴れを仰ぐ。溜息を吐く。今更、あんな、お芝居でここまで動揺する自分に呆れていた。深呼吸をゆっくりと繰り返す。落ち着け、落ち着け、大丈夫だ……。
 ――そんな時だった。

「サダヒロくん!」

 ノバラの声がした。驚いて少年が振り返れば、はぁはぁと息を弾ませた白いドレスのお姫様が。彼女は祭の喧騒を運ぶ風に髪――最初に出会った頃より少し伸びた――を掻き上げつつ、問いかける。
「大丈夫? ステージから……その、いきなりふらふらっといなくなったのが見えてさ、具合悪いのかと思って、……ていうか顔色ひどいよ、マジで大丈夫?」
「……、」
 ――「いやいや大丈夫、ちょっとめまいがして」「すまん心配かけたな、俺は大丈夫だ」いろいろ言葉は浮かぶのに、どれもこれもつっかえて出てこない。どうして?
 そうして沈黙していると、ノバラはますます心配した様子になって、傍に来る。顔を覗き込んでくる。
「ねえ……ほんとに大丈夫? ていうか大丈夫じゃないよね?」
 図星を当てられると、なぜ言葉が出なくなるのか。サダヒロは、思わず口を引き結んでいた。
「サダヒロくん、保健室行こう? ねえ……どっか痛いの? しんどいの?」
 少年の心臓が熱く脈打った。角が生えたあの時のような。どく、どく、全身が心臓になったかのよう。なんだか今、このまま、竜になれそうだった。同時に「嫉妬で竜になるなんてほとほと馬鹿らしいなあ」と自嘲した。そんな物憂いで返事の機会は失われて。
「サダヒロくん! ねえ黙ってたらわかんないよ。私エスパーじゃないよ、ちゃんと話してよ」
 正面にノバラがいる。きっとした赤い眼差し。少年はそれを見つめ返した。
「黙らなくていいのか?」
 そう聞き返した言葉に。かつてない意図が滲んだ台詞に、ノバラは異変を感じつつも。
「いいよ。なに。話して」
 真っ直ぐに返した。
 だから、サダヒロは諦めた。このままずっと、胸の内に秘め続けていたってよかったのに。
 話さずにはいられなかった。黙り続けることが、無理になった。

「君が好きだ」

 その言葉に、少女はルビーの瞳を真ん丸にした。
「……え」
「君とは友達でいたかった。友達のままで十二分に幸せだったのに。ずっと友達でいられたら、それでよかったのに。今のままでよかったのに。なにひとつ不満なんてないのに。それ以上を望む俺はどうしようもないんだ。本当にどうしようもない。もう……俺は……どうしようもないぐらい……抑えきれないぐらい……君に恋をしている。恋の対象として、君が好きなんだ。俺は、君と……恋がしたい、とても」
 言葉と想いが決壊する。走馬灯のように今までの記憶が蘇る。まだ一年も経っていない、なのにあまりにも濃密で幸福な、「きっとこういうのを運命と呼ぶんだ」なんて信じたくなるような。
「ごめんね、ごめん」
 未練がましく手を取った。少女の小さい手。あたたかい手。
(ああ……このまま……竜になれたら……)
 飛び去って、連れ去ってしまいたいなあ。……そう思ったのに、額の角が引っ込んでいた。やっぱり竜の姿にはなれなかった。
(ここでかっこよく竜になれてたら、まだサマになったのか……? ノバラさんから血までわけてもらってこのザマか……情けない……ほとほと俺は情けない……)
 じわりと涙が滲んできた。いっそう惨めだ。もう消えてしまいたい。俯いて、引っ込めと念じたのに、引っ込んだのは角だけで、代わりに涙がぼろぼろ出てくる。
「そっかあ」
 そうして聞こえた、ノバラの声。柔らかな声。
「ありがとう、話してくれて。……謝ることなんかじゃないよ。謝らないで。いいんだよ」
 ノバラは少年の手を優しく握り返した。「ねえサダヒロくん、聴いて」と彼だけに聞こえる内緒の囁き声で。
「私も君が好き」
 だからこっち向いて、と少女は言った。どうにかサダヒロが泣き顔を上げれば、ノバラは照れるような笑みで彼を見ていた。「でもね」、と続ける。
「……でもね、君と同じ好きかわかんないの。サダヒロくんのこと、友達として好きなのか……恋として好きなのか……もしかしたらもっと違う好きなのか……恋ってどういうものなのか……私、まだ、恋っていうのがなんなのか、わからない。きっとサダヒロくんより子供なんだ、私。だから……だからね、サダヒロくん」
 少女は笑った。優しそうに、嬉しそうに、幸せそうに。

「私より先に恋がわかった君にさ……教えて欲しいな、私の『好き』が、恋なのかどうか。――君と恋ができたら、多分、それはとっても素敵なことだと思うから」

 少女は少年の手を引いた。お姫様のドレスで、賑やかな方へ。
「ねえ、エスコートしてくださる? 今日は折角の文化祭でしょ。うちのクラスね、劇に出た人はそのままの衣装で回ることになってんだよね」
「……俺、王子様役じゃないよ。モブですらない、観てるだけの観客だったのに」
「いいじゃん。いいでしょ? 君がいいの」
 悪戯っぽい物言い。だからサダヒロは涙を拭って、お姫様の手を握り直した。
「喜んで、お姫様」
「ふふ。ダンスかっこよかったよ」
「うん、……ありがとう。ノバラさんも、ドレス似合ってる。綺麗だよ」
「あはは」
 エスコートして、なんて言ったのにノバラがサダヒロの手を引いていた。照れ隠しに進む方を見る顔。黒い髪から覗く真っ赤な角。白いドレスのスカートから覗く深紅の尻尾。握る手の爪も鋭くなって。はたはた、ご機嫌に揺れる赤い尻尾の先端が、彼女の情緒を物語っていた。
(かわいい……)
 そう、少年が心に感じたこの無垢な疼きの名前は、きっと、『ときめき』。

 ●

「ええ……お化け屋敷? ヤだよ私、ビックリして竜になっちゃったらドレス破いちゃうもん……。……でもどんなのかちょっと気になるから、サダヒロくんひとりで行ってきて……後でどんなんだったか教えて……」
「そこまで気になるなら一緒に行けばいいじゃないか……大丈夫だって学生クオリティなんだしそんな、ガチじゃないって」
「うええ……ヤダ……ネタバレだけ聞きたい……」
「もう……しょうがないな……」

「……っていう感じで、お化け屋敷はそんなおどろおどろしいのじゃなかったぞ」
「な~んだ。全然大したことないじゃん」
「じゃあ行く?」
「ヤダ」
「……」
「あ、映画上映だって。ねえ、ちょっと見てこーよ」

「……ちょっと! ホラー映画なんて聞いてないんですけど!? ねえ! ちょっと! おかしくない!?」
「アレはホラーっていうかスリラーっていうかサスペンス?」
「冷静な分析はいいから! 私マジでムリなんだっていきなり音バーン画面にドーンみたいな!!」
「それじゃあ……目のお口直しに美術部の展示見てく?」
「そうする……ていうか目のお口直しってなに? いやニュアンスは伝わるけどさ……」

「いやーやっぱ絵がうまい人は絵がうまいなあ……」
「油絵から漫画まで……すごいな美術部は」
「ねえねえ、あれ、アイスの天ぷらだってさ。すごいね? 溶けないのかな? 食べてみよーよ」
「うん。そういえばそろそろ吹奏楽部のコンサートの時間だけど」
「あ! ウコとマコが出るって言ってた! いこいこ!」

「……ウコとマコ、楽器演奏してる時ってなんか別人みたい……普段あんなにきゃっきゃしてるから……」
「かっこよかったな! 流石の吹奏楽部って感じだ」
「ねー。後でスマホで感想おくっとこ。……次どうしよっか、ああアイスの天ぷら食べるんだった。ふふ」
(ノバラさん楽しそうだな……さっきからずっと角と尻尾が出てるの気付いてないな……)
「あっち写真部の展示やってるよ。ねえ、見に行こうよ」
「うん、行こうか」

 ――そうして。
 賑やかな祭の時間は、ゆっくりと流れていく。

 ……今日の一日は夢だったんだろうか?
 サダヒロは自宅のベッドの上で大の字だった。カーテンを開けっぱなしの窓からは夜空が見える。外からはりりりりと虫の声。一日遊んだ心地よい疲労。静かで淑やかな夜。
「サダヒロ、あなた角は?」――帰宅するなり母親に尋ねられた言葉。「いやあ、それが、なんか、ひっこんだ、ハハハ」「ええ……!?」「文化祭パワーだな!」「ま、まあひっこんだならよかったけど」なんてやりとりがあった。
 胸の上に置きっぱなしのスマホを手に持った。つつつと操作して、アルバムを開く。ほとんどカメラを使っていないからスカスカのアルバムには、今日の日付が保存日の写真があった。タップすれば拡大される――ノバラとのツーショット。白いドレスの少女と学ランの少年。
 ――文化祭の写真部の展示コーナーで、写真部が「あなたのスマホで撮ります」という出し物をやっていた。いわゆる記念撮影コーナーだ。写真部がグッドなアングルやポーズや小道具で素敵な一枚を撮ってくれる、というもので。
「折角だし撮ってみよーよ」――ノバラが手を引いた。だから撮った。ノバラが折角のドレスだったので、それが全部綺麗に映るようなアングルで。エスコートされるようにサダヒロの手の上に手を置いて、微笑んで。
(綺麗だったな……ノバラさんのドレス……)
 画像の乙女に目を細め、サダヒロは今日の出来事をしみじみと思い返す。楽しそうな微笑み。翻る白いスカート。赤い角、赤い尻尾、小さな掌、笑い声、賑わい、甘い味……。
(ていうか……俺……告白を……してしまった……)
 はあああああ。大きな溜息。スマホを置いて、両手で顔を覆う。当然ながらあんな行為、人生で初めてであった。情動の勢いに押し流される自分自身に対し、もっと自分は自分を律せるものだと慢心していたことを思い知った。
「……」
 もう一度、ちらっとスマホの画面を見る。ノバラの柔らかな微笑み――……。

 ――「私も君が好き」
 ――「でもね、君と同じ好きかわかんないの。サダヒロくんのこと、友達として好きなのか……恋として好きなのか……もしかしたらもっと違う好きなのか……恋ってどういうものなのか……」
 ――「私、まだ、恋っていうのがなんなのか、わからない。きっとサダヒロくんより子供なんだ、私。だから……だからね、サダヒロくん」
 ――「私より先に恋がわかった君にさ……教えて欲しいな、私の『好き』が、恋なのかどうか」
 ――「君と恋ができたら、多分、それはとっても素敵なことだと思うから」

(あれは……少なくとも、拒絶……じゃない、んだよな? 遠回しな「お断りします」ではない……と思って、いいんだよ、な……?)
 とはいえ完全な承諾でもない、という雰囲気ではあるが。
 けれど。よかった。心底そう思う。少なくとも拒絶されなかっただけで。……いや、まあ、もしかしたら今後、「やっぱりサダヒロくんのことは友達として好きだと思う」と言われる可能性も無きにしも非ずだけれど、だけど、それが恐ろしいとは不思議と思わなかった。寧ろ今は、心にわだかまっていたこのぐるぐるともやもやを、キチンと話せて――吐き出せて、よかったとすら感じていた。その結果が「やっぱり友達でいよう」なら、それでもいいかもしれない。自分の感情にも一区切りがつくかもしれない。恋人になれなくても、ノバラとなら、これからもずっと友達でいれる気がする。
 ……もちろん、彼女と恋をしてみたいのは、紛れもない本心だけれど。ノバラが相手なら、失恋も受け入れられるような気がした。失恋の痛みも、いつか美しい思い出の花になる確信があった。
「……」
 ノバラに何かメッセージを送ろうかと思った。「今日は楽しかったですね」……台詞は思いつくけれど、いざ文字入力しようとすると、指が止まる。不思議と臆してしまうのだ。「嫌がられるかも」とか、そんなのではなく、サダヒロ自身にも説明がつかない奇妙な心地のせいで。
 この情動はなんぞや、と思案する。そうして……ああ、「もったいない」のか、と自分なりの結論を見つける。次に学校で会った時に、めいっぱい話そう。お腹を空かせてご飯を食べた方がおいしいように。今は、次の喜びの為に「会いたい」「話したい」を募らせておこう。そうすると、もっともっと「早く会いたいなあ」という気持ちになった。それはじれったくも、あたたかくて幸せな心地だった。
「……ふふ」
 少年はスマホの画面をオフにする。枕元に置いた。リモコンで部屋の電気を切る――夜の中、今日の幸せと恥ずかしさを噛み締めて、角のない少年は目を閉じた。
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