●5:メタモルフォーゼとズッ友の定義
「サダヒロくんって恋したことある?」
●
物心ついた頃から、「何かおかしい」と感じ始めていた。
古い古い記憶、幼稚園の片隅――サダヒロはひとりきり、他の園児達を遠巻きに眺めていた。彼ら彼女らはみんな幼い竜に変身し、じゃれあう仔犬達のように、きゃあきゃあころげ回って遊んでいた。
「ねえ!」
竜のひとりが、サダヒロの方を見る。
「サダヒロくんもあーそぼ!」
その声で、遊び回っていた竜達が一斉にサダヒロの方を見た。皆にこにこ、楽しそうで。だからサダヒロも、その一員に加わりたくて。
「うん! ……でも、どうやって竜に変身するの?」
――え?
その時の、奇異な『異物』を見る幼く無垢で残酷な目玉達を、サダヒロは忘れることができない。
「どうして?」
「どうして?」
「どうして?」
「どうして?」
幼い咢は言葉を揃える。なんの悪意もないままに。
「竜に変身できないの?」
「サダヒロくん、ヘンなの!」
……ヘン?
ヘンって、なに?
竜になれないことは、『ヘン』?
結局仲間外れ、楽しそうな輪に加われないまま、遠巻きに、賑やかさを眺めていることしかできなかった。それがすごく、寂しくてつまらなかった。
――次の記憶は、病院でじっと大人しく座っている時の風景。
あの病院の独特のニオイ。遠くに見える金属質な医療器具が怖かった。口に何かつっこまれたり、冷たい聴診器を当てられたり、注射針を刺されたり、あれやこれやと質問をされたり……。
父親と母親と医者、大人達が言っていることは、難しすぎてほとんどのことがわからなかった。
どうにかわかったことは、普通は幼児期にはどんな人間も竜に変身できるようになるということ。もう一つは、サダヒロが竜になれないのは心因性ではないかと疑われていたこと。よくあるのだ、鬱病になった者が変身できなくなる事例が。
しかし――当たり前だが心因性などではなかった。サダヒロにはこれといった恒常的ストレスなんてなく、ましてや鬱でもなく。心の病気でもないし、体を調べても異常なしで。
かくして『原因不明』。こういう体質なのかもしれない、成長が遅いだけかも、しばらく様子を見よう、という話になったようで。
――時が流れて、小学生になった。それでもやっぱり、サダヒロは竜になれなかった。竜になれない子は、クラスを見渡しても、学年を見渡しても、学校を見渡しても、サダヒロだけだった。一年生になっても、二年生になっても、三年生になっても、四年生になっても、以下略。
やはり、なにか、おかしい。サダヒロはもう一度、親に連れられ病院に行くことになった。病院に行く途中の車の中、秋の空を見上げ、「竜になれないことは病気なんだ、悪いことなんだ、治療しないといけないことなんだ」、と漠然と思っていた。
でも、やっぱり、病気ではなかった。
こういう体質なのだ、と結論付けるしかなかった。
――しかし。
「竜になれないのがうつるぞ!」
自分達と違う、ということに。
幼い子供達は、残酷なほど過敏だった。
サダヒロは病原菌だった。近付くだけで悲鳴を上げられた。友達ができたことはなかった。
そんな幼少期だったから、他人との距離の詰め方も分からないまま大きくなってしまった――中学に上がる時に引っ越しをして、当時のクラスメイトと同じ中学に行くことにはならず、人間関係はリセットできたけれど。幸いにして小学生の時のような加虐こそ起きなかったものの、人付き合いが未熟なままで、かつ竜になれないサダヒロに向けられる目は、『敬遠』だった。
そうして強く感じた、「なにもかも自分が竜に変身できれば全てがうまくいく」という願い。
サダヒロは『普通』になりたかった。『普通のひと』みたいに、竜になれるようになりたかった。
だから努力をした。だが執念に近いその努力の仕方は、彼からますます人を遠ざけることになった。「あいつ、変な奴だよな」――と。
全校集会などで行われる表彰式。他の部活がどこそこの大会でいい成績を収めた、誰々が絵や写真のコンテストで入賞した、というなんやかやに混じって、サダヒロのそれは前者が全て霞むほどの成績。勉強面でも、友人らしい友人がいないからこそ暇なときはずっと勉強していて。常軌を逸した努力――『普通じゃない努力』――それはますます、敬遠を加速させていた。
どうして――
竜になれないと嫌がられるのに、竜になろうとしたら引かれるのだろう?
けれど――
竜になって、普通になって、強く在れたら、きっと全部うまくいくのだろう。
だから全部、今は耐えねば。
「竜になれないなんて恥だ」――親戚のひそひそ声も。
「お前、竜になれないってマジ?」――悪意的な好奇心に満ちた眼差しも。
「取材させていただけませんか?」――『消費物(ネタ)』にしようとするメディアやマスコミも。
艱難辛苦の日々であった。
けれどいずれ努力は報われるのだと、希望という地獄の拷問針で自分を突き刺し抉りながらも前を向くしかなかった。
それでも。
それでも、どうしても、心に残ってしまった痕がある。
ある日の夜のことだった。歳の離れた姉が泣いて帰ってきた。確か結婚間近の彼氏と食事に行っていたはずだったのに。楽しそうに化粧して、とっておきの服を着ていたのに。
玄関で泣き崩れる彼女は両親に抱き留められながら、泣き咽びながら事情を話した。彼からこう言われたのだと――「君の弟は生まれつき竜になれないそうだね」「だから、竜になれない異常な子供が生まれてくるのは困る」と。結婚がほとんど決まっていたのに、関係性を全て解消されたのだ、と。
姉も家族もサダヒロを責めることはしなかった。後に、姉は「私の弟を悪く言う男なんてこっちから願い下げ」と言ってくれたが。それでも。その時は。悲痛な姉の泣く姿を見て――「ああ自分のせいだ」……そう思うと同時、「そうか、俺は誰かと結ばれてはいけないのか」、そう思った。
今でも鮮明に覚えている。その日の夜、リビングで流しっぱなしになっていたテレビでは恋愛ドラマが流れていて、二人が幸せに結ばれてキスをする感動的なシーンが映し出されていた。お涙頂戴の最終話。姉のすすり泣く声をBGMに、幸せそうに見つめ合う二人を観て、サダヒロは思った。「ああ、あれは、『フィクション』なのだ。少なくとも、自分の人生では」
「俺がどれだけ手を伸ばしても、決して届くことはしない理想なのだ」
……手を伸ばしてはいけないのだ。恋というものに。
なのに。
「サダヒロくん」
時が流れて。高校生になって。
目の前で少女が笑う。赤い宝石の瞳を細くして。
綺麗だった。竜の姿も、人の姿も。
「サダヒロくん、私……」
泣いている彼女を見て、護りたいという決意を覚えた。
なんていじらしく愛おしい生き物なのか、赤い竜を抱き締めそう感じた。
「楽しいね、サダヒロくん」
美しい竜。可憐な野薔薇。不器用で、照れ屋で、繊細で、大人びているようで等身大の少女で。強く在りたくないなんて言うくせに強がりで。かわいくて。愛しくて。
きらめき。鱗の赤。瞳の赤。唇の赤。一緒に飛んだ空の青。一緒に泳いだ海の青。木漏れ日。お弁当を頬張る横顔。帰り道の喧騒。ドーナツの香り。図書室。伏目に詩集を読む睫毛。
名前を呼ぶと彼女はこちらを見てくれる。そうして、微笑んで、――
「私達、友達だよね」
ガクン、と落下して。
ハ、と目が覚めた。
――アナウンスとメロディ。新幹線。肘掛けに頬杖をついて微睡んでいたサダヒロは、顔が頬杖から落ちる落下感で夢から現実に帰ってきた。
「サダヒロ、そろそろ降りる準備しなさい」
隣の席の母親が言う。「ああ……うん」と涎で濡れていた口元を拭った。変な姿勢で寝ていたからか首が痛かった。
窓から見える夏の終わり。見知らぬ街並み。減速していく新幹線。ポケットから出したスマホをそっと見る。通知ゼロ件。明日から二学期だった。
●
九月になろうとまだ暑かった。
いつもの駅、いつもの時間、いつもの制服――約一か月振りの。
特にスマホで待ち合わせのやりとりをしている訳ではなく。ホームに立ってスマホでネットニュースを適当に流し見しているノバラの背中に、いつものように少年の声。
「ノバラさん!」
「あ――おはよ、サダヒロくん」
少女は振り返る。少年少女は「おはよ」と片手を上げて挨拶する。並ぶのは隣同士。
「……なんか久し振りだね」
一学期の時、この駅での振る舞いはどんなふうにしてたっけ……そう思いながら、ノバラは横目にサダヒロを見る。結局、サダヒロが「遠い町に行く」ことになってから、スマホでメッセージを取り合うことは行われなかった。
「サダヒロくん、元気だった?」
「まあそれなりに。ノバラさんは?」
「普通かなあ。宿題がたいへんでした」
「はははそうかそうか」
「ねえ、それで――」
病院に行った結果どうだった、とノバラの質問は、「まもなく電車が参ります」に掻き消された。
ああ、一か月忘れていたけど、そういえば朝は混雑するんだった。懐かしくもウゲェな気持ち、満員電車。電車はいつものようにぎゅうぎゅう詰めで、会話できるような状況じゃなかったから、二人は熱中症になりそうな車内で沈黙していた。そんな中、サダヒロはノバラの鞄にぬいぐるみのキーホルダーがついているのを見た。海遊びをした夏のあの日に彼がプレゼントしたものだった。ちなみに髪には例のヘアピンはついていない。ノバラの中であのヘアピンは、おでかけの時のとっておきアイテムらしい。
かくして、がたんごとんと数分揺られ。
「で、改めて聞くんだけど、どうだった? 世界的なえらい先生に診てもらった結果は」
まだ蝉がわんわんと鳴いている登校道、朝から厳しい直射日光。扇子で顔を扇ぐノバラの質問に、サダヒロは「ああ」と頷いた。
「結論から言うと実は竜になれてた!」
「……。なにそれ……どういうこと?」
まさかの発言すぎた。トンチか何かかと思ってノバラは首をひねる。サダヒロが言葉を続けた。
「俺の見た目は完全に人だがな、中身の方は竜化しているらしい。なんていうか中途半端な状態で……たとえるなら蛹だろうか? 人の形という蛹の中に、どろどろの未形成な竜としてのエネルギーだけが満ち溢れてる感じだと」
「ほへー……なんかややこしいことになってるんだね。ああ、もしかしてサダヒロくんがひときわ丈夫なのも」
「うん、中身だけが若干竜化していたからだろうな。だけど……前に調べてもらった時は、こうも観測可能なレベルで竜の力が活性化してなかったんだ」
「へえ。何かきっかけとかあったやつ?」
「どうも原因は君なんだよ」
「はい?」
さっきから『まさか』の連続。歩きながらも目を点にするノバラに、「順を追って説明しよう」と少年は続けた。
「竜化を促すには、外部から竜の力を体内に取り込むことが有用であるかもしれない、というのが医師の見解だ。つまるところ、輸血してもらうといった、竜の一部を物理的に体内に取り込むことだな」
竜の力の根源は血、すなわち体液に由来する。古来の伝承においては、強い竜の血を浴びた者が不死身の英雄になった、という話が残っているほどだ。
「……思い返して欲しい。俺達が出会った日のことだ。君の尻尾の棘に、俺は刺されただろう」
「そういえば……」
ノバラはあの校舎裏での出来事を思い返す。思えば随分と昔のことに感じる。
「あの時に君の毒液が体内に入って……竜化が促されたんだ」
「うそ……マジで?」
「思い当たることはそれぐらいしかない」
「じゃ、じゃあ、病院で輸血とかしてもらったら竜になれるってこと?」
「試してみたがダメだった。個体の力が特別に強い竜でないとダメみたいでな」
「あ、あ~~~……私って医学的にも……医学的にも? 強い竜だったんだ……あ~……」
なんか、なんとも言えない気持ちだ。薄々、周りの竜と比べてスペックが妙だとは感じていたが。「うん」とサダヒロは大真面目に頷いた。
「つまり俺の更なる竜化を促すには、君の体液が追加で必要なのだ!」
「なるほど……なるほど?」
ノバラは頭の中を整理する。
「ええと……じゃあまた尻尾で刺せばいい?」
「……そ……そう……だな……ッ!」
サダヒロが明らかに「ウッ」という顔になった。ただの針ならいざしらず、毒針に刺されるのは、やっぱり結構な根性が要る行為で……。
「あっ……ごめ……普通に毒だもんね、ていうかアナフィラキシー起きたらふつーに病院送りレベルで危ないね……」
ノバラはわたわたと手を振って毒針を撤回した。
(じゃあ汗を? いやいやいやムリムリムリ)
恥ずかしくて死ぬ。涙? 泣き顔を相手に晒すとか? 無理。唾液? もっと死ぬわ。じゃあ他には……。
「血とかなら……まあ……」
「……というかいいのか? 体液を提供してくれることについて……」
「え? これそういう流れでしょ?」
「でも血は……君の体に傷が」
「……じゃあサダヒロくんは逆にさ、どういうのを想定してたの?」
「棘に刺してもらうか、メチャクチャ運動してもらった服を絞って汗を……」
「毒は危ないし後者は絶対絶対ムリだからね!? キワモノすぎて引くよ!? ……それに血だって、そんな何リットルもダバダバ必要な感じじゃないでしょ? とりあえず指先ぐらいからちょっぴりと……それぐらいなら平気だろうし」
とりあえず指先からの血程度で様子を見て、もっと必要そうならそれこそ病院で輸血のような感じで……とノバラは言った。血を出す為にはちょっと痛い目に遭わないといけないが、まあ。
「サダヒロくんの夢を叶えられるなら安いもんだよ」
「……本当にいいのか?」
「いいよいいよ」
「ううっ……ありがとう……ありがとう……君は本当に……優しいな……ッ!」
「も~~目ぇうるうるさせないでよ、よかったじゃんいいことじゃん泣くこたないじゃん」
「なんか君とこうやってやりとりできるのが久々で嬉しいのもある……」
「涙腺弱すぎでしょ……」
「今日も一緒にお弁当食べよう……」
「いいけど」
――と、そんなやりとりをしていると。
「ノバラちゃ~ん!」
二人分の少女の声。振り返れば、ノバラの前と後ろの席の女子生徒が駆け寄って来る。
「おっはよー!」
「ひさしぶりー」
背丈も同じぐらい、髪の長さも同じぐらい、一心同体に仲良しの彼女らは鏡合わせのサイドテールで、色違いの同じデザインなシュシュを着けていた。
「あ、マコとウコ。ひさしぶりー」
「元気ぃ~? ていうかノバラちゃん、サダヒロくん泣かせてるのぉ?」
「なになに新学期そーそー喧嘩ですかな? ですかな?」
二人してノバラを覗き込んでくる。「違うってえ……」とノバラは手をひらひらさせた。……一学期に根気強く「恋人じゃなくて本当にただの友達」と言い続けたおかげさまか、もう「つきあってるの?」とは聞かれなくなった。もしかしたら内心では「つきあってるんだろーな」とか思ってるかもしれないが、まあ、「そういうことを思うな」と思考まで支配なんてできるわけないし。
さておき、かしましさに圧倒されることもあるけれど、ノバラにとって快活なマコとウコは高校生活の情報窓口のようなものでもあり、そのきゃぴきゃぴとした元気さは傍で見ていて楽しくもあった。
そんな彼女らは、一学期から変わらない元気さで話しかけてくる。
「ねえねえノバラちゃん、夏休みどーだった?」
「まあ……普通に?」
「普通って?」
「海遊びしたぞ!」
話に入って来たのはサダヒロである。まさかの参戦決定。「ちょっ」とノバラはサダヒロの方を見る。彼は溌溂とした様子で、ウコとマコを笑顔で見下ろしていた。
「ノバラさんの水着がかわいかった……です!」
「小学生の感想文!?」
とはいえ、目の前で「かわいかった」と褒められて恥ずかしい。顔を赤くするノバラに、ウコとマコは「え~~めっちゃいいじゃ~~ん」とそれはもう楽しそうに声を揃えた。
「そ、そういうウコマコはどうなのさ、海とか行った?」
話題の矛先を変える為にもノバラが早口でまくし立てる。
「うん! うちらもプール行ったよ~!」
「そうそう! 吹部の一年ズで!」
すっかり日焼けした腕はスマホを取り出し、「これ!」と見せてくれる。水着の少年少女がレジャープールで遊んでいる写真だ。イイ感じに加工もされている。
「おー、賑やかじゃん」
撮り慣れている写真、といった感じだ。というかアングル的におそらく自撮り棒使用。SNSやってるんだろうな~……と思いながら、ノバラは見せてくれる画面を覗き込む。中にはウコやマコが仲良く男子生徒とピースしているものもあったりして……。
「ねえねえウコマコ、このひと夏で彼氏できたりした?」
これまでいっぱい聞かされた「つきあってるの?」の意趣返し、半分冗談の心づもりでノバラは聞いてみた。
「そーれーがーねー」
はあ、と肩を落としたのが前の席のマコだ。
「イイ感じだな~って思ってた子に彼女いた……中学からつきあってて、学校は別だけどラブラブだった……」
「中学から? めっちゃプラトニックじゃん」
「そう……今にして思えば、彼女いるからメンタルに余裕があって、がっついたりしてこなくて、気遣いのできる紳士で、女の子に慣れてて、優しかったんだわ……」
「あ~……」
「いいひとには既にいいひとがいる……世知辛い恋愛市場のサダメですよ」
とほほ、と指先同士をツンツンさせるマコ。そのしょげっぷりに、ノバラはちょっとくすりとしてしまうも励ますように背を擦った。
「まあまあ。代わりに部活がんばりなさいっていう天からの啓示じゃない? いいひと見つかるって、マコかわいいし」
「ありがと~~っ……あー彼氏ほしー! クリスマスまでにはほしー……クリぼっちは回避したい……」
「ぼっちでもマコにはウコがいるじゃん?」
ノバラがそう言うと、「そーだよ!」とウコが意気込む。
「二人ともクリぼっちだったら、一緒にパーティしよ!!」
「ウコ~~~!!」
きゃいきゃいとじゃれ合う二人。「彼氏できるといいねえ」とノバラは微笑ましく言った。
一方……サダヒロは沈黙のまま、やけに真剣な顔で考え込んでいる様子だった。ノバラは首を傾げる。
「サダヒロくんどした? すごいシリアスな顔してるけど」
「うん……一つ疑問に思ったことがあって……」
彼は抱き合っているウコとマコをキリッと見た。
「おんなのこは……彼氏ができたら何をしたい生き物なんだ……!?」
「いや言い方よ」
生き物て。思わずつっこむノバラ。
「……だそうですけど、どーなの?」
そのままウコマコを見る。二人にとってはファニーな質問だったようで、少女らは「え~~」と愉快気に笑ったあと、交互にこう答えた。
「手ぇ繋いで歩いたり、夜遅くまでメッセージとか通話したり~?」
「いろんなとこデートしたり~、私はお弁当とかお菓子とか作ってあげたいな~」
「マコ超家庭的じゃん! 私はかわいいねって言われた~い!」
「ウコこそ超ロマンチストじゃ~ん! でもメッチャわかる~!」
きゃっきゃっ。互いにつっつきあうなかよしこよしである。と、「じゃあ逆にさ」と二人はサダヒロを見上げた。
「サダヒロくんはどーなの?」
「おとこのこは、彼女ができたら何したいイキモノ?」
その問いに。
「彼女が……できたら……?」
ぴくりとサダヒロの眉が動く。それから熟考。沈黙。……。……。……。
「サダヒロくん?」
あんまりにも沈黙するので、ノバラは彼の顔の前で手を振ってみた。そうすると彼は。
「……考えたこともなかった……」
しみじみと呟かれる言葉。
「超ピュアじゃ~ん!」
「サダヒロくんかわいい~~」
盛り上がるマコとウコ、の一方で。
(サダヒロくんに彼女か……)
ノバラはそんなことに想いを馳せていた。
(そういえばサダヒロくんって彼女いるのかな、あえて聞いたことなかったなそういえば。まあ、多分、普段の振る舞いを見るにいないとは思うけど……メッセージアプリにも家族と私しか登録されてなかったし……。彼女いないとしても、好きな子とか、気になってる子とか、いたりするのかな……。サダヒロくんに、彼女……)
なんて、ぶらぶら歩きつつ取り留めもなく考えていると。
――もや。
(……あれ? なんだこの感覚……)
心に湧いた、『もや』っとした謎の感じ。
それは、脳内でサダヒロの隣に仮想彼女を並べると強く感じた。
(いや……なんでもやっとする? 別にいいじゃん、友達に彼女できるのって……それがサダヒロくんの幸せなら、おめでとうって言ってあげるのが普通じゃん……)
それでも、もやもや。
脳内では勝手に、サダヒロと仮想彼女が手を繋いで、ノバラに背を向け、ノバラを置いて、笑いながら見つめ合いながら、遠く遠くへ歩いていく……。
なんだか、それが、ノバラには、とてもとても、『嫌』だった。勝手な妄想で勝手に不機嫌になりそうな自分は、もっともっと嫌だった。
うん、違うことを考えよう。あー今日も空が綺麗だなーいい天気だなー。
(彼女ができたら……何をしたいだろう……)
当のサダヒロは――ノバラの脳内のではなく現実の――ウコマコの問いに対し真剣に考え込んでいた。
(一緒に登下校したり……ごはん食べたり……勉強したり……遊んだり……? あれ……それってノバラさんとやってることと変わらない……?)
『かわいいねって言われた~い!』――少女の言葉を思い返す。そして自分の言動を顧みる。
(……言っている……俺は……言ってた……ノバラさんに……)
いや、彼女にしたいとかそういう意図じゃなくて、本当に、見て、かわいいと思ったから、別に隠す必要もないだろうと素直に言っただけで。悪口ならとかく、ポジティブな意味合いなら別によかろうと。
さておきだ。サダヒロは気付く。
(ノバラさんとの関係……たとえ彼女になってくれたとして、今とそう関わり方が変わらないなら、別に今のままでもよくないか……? この、友達のままで……)
そこまで考えたところで――心に過ぎったのは、あの時の、過去に観た、ドラマのワンシーン。姉の泣く声を背景に、テレビの中の抱き合う二人、キスする二人……。
(ああ……恋人になれたら、あんなことができるのか……)
じゃあ、それを自分はしたいのか?
ノバラを抱き締め、口付けを……。
(キス、かぁ……)
わからない、知らない、何もかも。分からないから想像が及ばなかった。
「サダヒロくん!」
「ノバラちゃん!」
二人を現実に引き戻したのは、マコとウコの声。
「校門通り過ぎよーとしちゃってるよ!」
「大胆な登校拒否になっちゃってるよ!」
え? と二人が顔を上げれば。確かに二人は高校の校門を仲良く通り過ぎかけていた。
あぶないあぶない。「今日から二学期なんだし、気を引き締めないと」……奇しくも二人とも、心の中で同じことを思った。
●
八月三一日に完成させた宿題も、無事に提出して。
「ねー、恋人ができるってどんな感じ? ウコマコは恋人できたことあるの?」
教室、頬杖をついて窓の外を眺めながら、ノバラは問いかけた。
「できたことある? って破局った前提で話すじゃ~ん!?」
前後の席の女子生徒達が顔を覗き込ませた。「いや悪気はなくて」「わかってるよ~」とくすくす笑う。
「私はいっつもイイ感じにはなるんだけど、その人にはもう彼女がいるオチばっかなんだよねー……」
今朝話した感じみたいな、と前の席のマコが頬に手を添えアンニュイな溜息。
「私はねー……」
後ろの席のウコが意味深に目を細める。
「実は中学三年の時にできたことある。でもね、受験勉強で忙しくなったり、違う高校行くことになったり、そういうので自然消滅しちゃったんだよねぇ。だからキスもな~んにもしてない! 手すら繋いでない! ぶっちゃけ名前のついた関係性だけって感じだった……」
「自然消滅……」
思わず復唱するノバラ。恋なんて知らないノバラからすれば、そんなものがあるのかと驚きだった。
「……ラブソングとか恋愛ドラマだと、あれだけ永遠だとかずっと一緒だとか君だけにだとか、とりまユーエンミーって謡ってるのにね」
「ま~現実になるとこんなもんだよね……」
ウコは肩を竦めた。
「じゃあ……なんで二人は『彼氏ほしい』の?」
ウコに、そしてマコに、ノバラは問いかける。
「なんていうか……『こんなもん』だったら、別に彼氏いなくてもよくない? 普通に……恋したせいで自然消滅しちゃうぐらいなら、別に友達として楽しく、さあ……」
「そうかもねえ~」
前後の席の少女達は、鏡合わせのように同じ頬杖の仕草をして、それから。
「でもさ、恋に恋する私達って、最高に『おんなのこ』してるって……思わない?」
「そうそう。結局は『彼氏』が欲しいんじゃなくて、『彼氏のいる私』が欲しいのかも。今よりすごい自分なら、今よりもっと自分のことを愛せそうじゃない?」
「それが『恋に恋する』ってことかもね!」
「『おんなのこ』でいたいって本能かも!」
二人はいたずらっ子のように愛嬌のある笑みを浮かべた。
「恋に恋する……、なんか、すごいね」
ウコとマコはノバラにはない視点を持っている。だからノバラは、そんな二人に憧れに似た感情を持っていた。知らない世界を覗き見させてくれる窓だった。
「ノバラちゃんはしたことない? 恋」
「恋……うん、全然ないな」
「でもさ、どうなの? ただの友達っていつも言ってるけど……サダヒロくんとかさ」
「……、」
サダヒロの名が出てきて、ノバラは押し黙る。ウコトマコの目は興味や好奇のそれではなく、優しく見守る者のそれだった。
「ノバラちゃん。一学期にさ、つきあってるのつきあってるの~~~って言いまくってごめんね」
「多分、嫌だったよね。ほんとにただの友達なら、失礼なこと言っちゃったよね、私達」
「うちらもさ、ウコマコいっつもいっしょだけどつきあってるの? って毎日のように言われたら、も~やだ~ってなるもん」
「だから……ごめんね、ノバラちゃん」
「うん。悪気はなかった……は言い訳になっちゃう。ごめんなさい」
二人に真剣にそう言われて、虚を突かれたノバラは「ちょ、」と両手を振った。
「いいよいいよそんな。嫌がらせで言ってるんじゃないってのも分かってたし。こっちこそ変に勘違いさせちゃったって言うか」
「優しいねえノバラちゃんは」
「お人よしだねえノバラちゃんは」
ウコとマコはそう言って、言葉を続けた。
「でね……でもさ……その上で私達がサダヒロくんのことを言ったのはね、本当にノバラちゃんとお似合いだなあって思ったから」
「ノバラちゃんを見るサダヒロくんの目、すごく優しかった。サダヒロくんがうちらの教室に来る時、いっつもチョー楽しそうだもん」
「実はね……ノバラちゃんとサダヒロくんがすごく楽しそうで仲良しだから、私達いいなあってずっと思っててさ」
「うらやましくて、それでなおさら、あ~彼氏ほし~ってなってるところあるの。ノバラちゃんとサダヒロくん、きらきらしてる」
「でも――もし、本当にずっと友達のままでいたいって感じだったらごめん」
「うんうん、あくまで私達のは第三者目線のただの感想なんだし」
「なんか相談事とか悩みとか、力になれることがあったら言ってね」
「友達でしょ。地球上を見渡してさ、同じクラスの前後の席になれる確率ってマジで奇跡だし」
「そうそう。鎧袖一触、じゃなくて、袖のなんちゃら、なんだっけ?」
「袖振り合うも他生の縁でしょ。そゆわけだから、ね、ノバラちゃん」
そう言ったウコとマコを、ノバラは順番に見た。
「ウコ、マコ……。……うん、ありがと」
笑みを返した。彼女たちはやっぱりすごいなあ、と思いながら。
(……なんか、世の中って浅慮で嫌な人ばっかりって思ってたけど)
思い返す中学時代。地獄のような連中と日々。……どうもあれが世界の全てではなく、人生の全てではなかったらしい。「生きてさえいればいつかいいことがある」なんて言葉があるけれど、あれは存外、違う世界の可能性を示唆しているのかもしれない。地獄にいた時は、世界はここだけなんだと前すら見えなかったけれど……。
――もしかしたら世界は、思っているよりずっと広くて、ずっとずっと多面的で、知らないことや知らないモノをたくさんたくさん隠し持っているのかもしれない。
(恋、か……)
それはノバラにとって、新しい世界で出会った知らないモノ。
恋ってどんな感じなんだろう。
恋って、楽しくて幸せなものなのかな。
(私に恋なんてできるのかな)
それはまだ分からない。少女はあまりに無垢だった。