●4:えらいひとはこう言った、「時よ止まれ」と。
「サダヒロくん。私、まだ帰りたくないの」
●
かくして、蝉も真っ盛りな夏休みである。
クーラーをガンガンに効かせた自室。ノバラは極めてシリアスな顔をしていた。正座した彼女の前には、買ったばかりの水着が広げられている。白地にトロピカルでかわいらしい柄の、ビキニとパレオである。
(ビキニとか……初めて着るんですけど……)
今までスクール水着しか着たことがなかった。ものすごい幼児期には幼児用水着を着せてもらってたかもしれないが、ほぼ自我がなかったのでノーカンということで。
――海に行こう、という話になった。サダヒロと一緒に。海水浴場なら隣町にある。電車に乗ればすぐに着く。「じゃあさ、海にでも行く?」……我ながらものすごく、フランクに、その場のノリで、誘ってしまったものだ。期末テストでいい点だったから、親も娘が遊ぶことに関しても「行ってきていいよ」と寛容だった。
まあ、久々の海。楽しみではある。かわいい水着を着れるのもテンション上がる。しかし、だ。しかしながらだ。
「……」
ノバラは俯き、自分のお腹をモチリと掴んだ。
最近、モッチリした気がする。いや、「気がする」じゃない、マジなところ、ガチで、モチった。ほんとに。制服のスカートがちょいキツいな……? ていうのは、幻覚にしておきたかった。
心当たりは、ある。――連日の買い食い。帰り道の。サダヒロと一緒の。甘いドーナツ。甘いミルクティー。甘いアイス。お砂糖達のオンパレード。
そんな、日々の生活にちょっとドーナツとか甘いのが増えただけでこんなことになるんですか? おかしいじゃないですか!? ドーナツってそんな……あんな小さいのに……いやよく考えたらアレ揚げ物だわ……揚げ物に砂糖まぶしてるわ……挙句にはチョコだのハチミツだのぶっかけたり、生クリーム挟んだりしてるわ……言い逃れができないカロリーの権化だわ……。
「……」
そっと、勉強机の卓上カレンダーを見る。海に遊びに行く日まであと数日。数日あるじゃないですか! よし! 痩せよう! その日までダイエット! 決定! 勝訴! オヤツ禁止! 筋トレ! 走り込み! これだけ暑いなら汗もダバダバ出るし余裕で痩せるっしょ! もう水着っていう現物があるんだから後には退けない、やるしかない! きっときっと大丈夫ッ!
その日から、ノバラの長く苦しい闘い(?)が始まった。
――で。やってきました、当日。
「ノバラさん、綺麗だな!」
青い空、青い海、賑わいのサマービーチ、サダヒロの笑顔。
シンプルな黒いサーフパンツ姿の彼の目の前にはノバラがいた。……竜の姿の。
「あーどうもどうもありがとう」
ノバラは遠い目をして水平線を見つめていた。ダイエットですか? ダメでした。走り込みをしようと外に出たら暑すぎて十秒で帰った。筋トレも結局「昨日やったし今日はいいや……」みたいなやつの繰り返しでサボってしまった。ちょっとオヤツを我慢して食事を控えめにした程度では、簡単に痩せるはずがなかった。
ので。最終手段である。竜になれば体型なんぞいくらでも誤魔化せる。……水着ですか? 一応未練がましく持ってきたけれど、人前で着る勇気がなかった。
ビーチを見渡せば、他にも竜に姿になって海遊びをしている者もいる。別段、竜になって海水浴をするのは目立つ行為ではない。変身用の大きな更衣室もあるし。
……竜の姿は厳つくておっかなくて好きな方ではないけれど、だらしない体を見せるよりマシだし、それに最近は、ノバラは自分の竜の姿を少し受け入れられるようになっていた。サダヒロが、綺麗だと褒めてくれたから。単純でチョロい理由だなあ、と自分でも思うけれど。
「俺も竜に変身して水遊びしたいなあ……」
「まあ鱗あるから日焼けしないし便利だよね、あと砂が熱くない」
海に入る前に準備体操だ。ラジオ体操をイチニと生真面目にするサダヒロと、猫のようにぐっと伸びをしてストレッチをするノバラ。砂浜には人間の足跡と竜の足跡。波打ち際だった。冷たい海水が、ざざんと二人の脚を撫でていった。
「わー冷たい」
「気持ちいいな! よし! 泳ごう!」
ワッと海へ走り出すサダヒロ。ノバラもそれを追う。ざぶざぶ――冷たい海水に、身を委ねていく。
(サダヒロくん泳ぐの速ッ……)
ざばざばと彼はクロールでガンガン泳いでいく。竜になるべく体を鍛えていたメニューの一環に「無限遠泳」とか言っていたが、それは嘘ではなかったらしい。
一方のノバラはいわゆる犬かきに近い泳ぎ方である。とりあえず上に首を伸ばしておけば溺れない。遠くの方では、水棲型の竜――シーサーペントや魚のようなヒレがついた見た目のタイプ――が、水を得た魚のごとく泳ぎ回っている。水に特化した竜の姿になれる者は、海難救助とか漁とか、はたまた水上運輸や水中での工事と、水辺での仕事で大いにその力を発揮できる。また、人間の姿でも泳ぎが上手かったり長時間潜水できたり水圧に耐性があったり水中で目を開けてもクリアに見えたり、といった特徴があった。もうひとつ、泳ぐことが大好きという特徴も。なので水泳選手は専ら水棲型の竜だ。
「ノバラさーん!」
遠くの方でサダヒロが楽しそうに手を振っている。「はいはーい」とノバラはそっちへ泳いでいく――ふと、悪戯心がぽつりと湧いて、近付きつつある最中に鼻先を海に沈めた。いい感じの場所でざばんとマズルをかちあげれば、勢いよく掻かれた水がサダヒロにぶっかかる。ばしゃり。
「のわあ!」
「あははっ」
「やったな!」
サダヒロは笑いながら、見た目が拳銃の(とはいえプラスチック感がすごいが)水鉄砲を取り出した。ぴゅー、と竜の額に水をかける。
「ぶわあ。水鉄砲!?」
「買わざるを得んかった」
水着につけられるホルスターつきなのだ、と得意気だ。そのままノバラに水をかけてくる。竜は首を左右にかわそうとするが。
「くっ狙い定めるの上手いなッ……ふん!」
ならこれでどうだ、とサダヒロの胴をぱくりと噛む。もちろん加減している甘噛みだ。
「そりゃあ!」
咥えて持ち上げて、海面へぽーい。人体が宙に舞う。
「うわあーー!」
よくプールでパパが子供にやるようなアレ、のすごいバージョンである。だばーん、と大きな水柱。
「……すごい! もう一回!」
水面から顔を出すなりのおおはしゃぎである。
「えーどうしようかなあ」
ノバラはちょっとからかうように、はたまた逃げるように、泳いで距離を取る。そうすると「もう一回!!!」とサダヒロが追っかけてくるので、もう一度「どうしようかなあ」とざぶざぶ泳いで逃げた。そうすれば始まるおいかけっこ。少年少女の笑い声。
「よし捕まえた!」
最終的にサダヒロがノバラの尻尾を抱え込んだ。尻尾先の毒棘には触れないように気を付ける。海中で痺れたらちょっとシャレにならない。振り払われないので、そのままよじよじと竜の背中へ。
「ちょっと~勝手に乗るじゃん?」
「いいじゃないか」
「まあね」
不思議なことで、人同士で接触するのは遠慮が出るのに、竜の姿なら別にそういう気は湧かない。なんならさっきノバラがサダヒロを噛んだぐらい、接触には寛容になれる。無防備な肌ではなく、丈夫な鱗があるからだろうか? ちなみに竜の姿は分類的には全裸になるが、裸であるという認識もない。当然、恥ずかしくもない。
さておき。サダヒロは先日、背中に乗せて飛んでもらった時の位置へ。浮き輪しかり、他力本願で水に漂うのはいい気持ちだ。ノバラの濡れた鱗はひんやりしていた。
「……それは背に乗せて泳いでほしいアピール?」
「そういうことだな!」
「しょうがないなあ。私水棲タイプじゃないから、そんなに速く泳げないんだけど」
なんて言いながらも泳いでくれる。なんだかんだ気前はいい。遠くで、彼女を乗せた海蛇型ドラゴンの彼氏がものすごい速さでカーブをして、大きな波を起こしている。彼女さんの笑い声。
「ノバラさ――」
「いやできないからねあんなマッハ泳ぎ」
その光景を指さしたサダヒロにかぶせて言う。犬かきならぬ竜かきで我慢してちょうだい、とじゃぶじゃぶ泳いでいる。
「……速くは泳げないけど……じゃあ、ちょっと潜ってみる?」
「いいのか!?」
「まあそんな上手に潜れるわけじゃないんだけどね。じゃ、掴まってて」
ざぶ。――冷たい海の中へ。ごぼごぼ、泡の音。揺らめく水面に揺蕩う光。どこまでも――青くて静かな世界。海に閉ざされ、ふたりきり。
(海ってこんなに楽しかったっけなあ……)
ゆらめく水の世界に、竜は目を細めた。
●
それから、海に漂ってぼーっとしたり、他愛もない会話をしたり、好きにざぶざぶ泳いだり。
二人は波打ち際に戻ってきた。ノバラはぶるるっと犬のように体を震わせ水を切る。飛沫が全部サダヒロに当たる。日差しはギラギラ容赦ないが、海のおかげで体はひんやりしていた。小腹が空いたし、少し休憩したい気持ちだった。
「焼きそばでも食べるか?」
「うん、それに喉乾いたね」
海水が歩く度に滴っている。砂浜にはいろいろと屋台があった。いい香りが、海遊びで疲れた体を誘っている。
食事は竜の姿のままではとりにくい。一応ドラゴン用での提供もあるにはあるのだが――やはり食器を使った方がスマートなのだ。では一度人の姿に戻る……となると。
(……水着に着替えるべきか、普通に服を着るべきか……)
ノバラは悩む。更衣室の方をちらりと見る。
「そういえば……水着は?」
視線に気付いたサダヒロが、竜を見上げた。
「……持ってきてる、けどさ」
「見たいな」
「は、」
「……あ! いやなんていうかやましい意味じゃなくて、折角なんだし、その」
女の子の水着が見たい、ともすればヤバイ意味にも取られかねない言葉だったが、そうではないとサダヒロはものすごい早口で必死に否定した。
「ま、まあそれは分かってるけど……、」
ノバラは気まずそうに視線を逸らした。
「水着を持ってきていた、ということは、着ようと思ってたんじゃないのか?」
サダヒロは、ノバラが竜になってしまうことで水着が破れてしまうことを恐れているのではないか、と考えた。先日のスキニーや髪留めのように――だったら遠慮をして欲しくない、大丈夫だ、という意図を込めた。また何かあったら、今度こそ彼女を竜にせず守り通す心算だった。
「あ――えっと、破いちゃうかも的な、そういうのじゃなくて」
察するノバラだが、サダヒロはその真意が分からなくて首を傾げている。竜は逡巡した。それから――意を決する。
「うん……じゃあちょっと、着替えてくる」
「そうか……そうか! 焼きそば買っておくぞ! あと瓶ラムネも」
サダヒロはものすごく嬉しそうだ。これは女子の水着が見れるからといった下賤な下心などではなく、友人が自分の我慢をやめてやりたいことをしてくれたことが嬉しい、という感情で。
「あとで焼きそばとラムネ代わたすねー」
照れ隠しのようにそう言って、ノバラは更衣室へと向かった。
――屋台傍に併設された、パラソル付きのテーブル席。二人分の焼きそばと瓶ラムネ。
サダヒロが賑わいの中で待っていると、隣の椅子が引かれる気配がした。見やればそこに、人間の姿のノバラがいる。
「おまたせ」
水着だった。夏らしい模様と、ふんわりしたまだ濡れていないパレオ、まだ少女の形をした体。ノバラ本人は体型を気にしていたが、傍目からは健康的な肉付きに見えた。
「すごい!」
サダヒロは感動のはけ口が分からなくて、目の前の割りばしをッパーンと割った。
「かわいい!」
ノバラの分の割りばしもッパーンした。
「すごい……」
それからふぐっと泣きそうな顔になった。
「サダヒロくん……サダヒロくん大丈夫……!?」
渡される割りばし(ささくれなく綺麗に割れた)を受け取りつつ、ノバラは想像していなかったリアクションに困惑する。
「君が水着を着てくれることが嬉しい……よかったなあ……よかったなあ……綺麗だ……似合ってる……ううっ……」
「ちょっと……なにそれどういう目線の感情……!?」
「うう……」
竜の姿が厳めしくてあんまり見られたくないとか、かわいいオシャレをしたいけど抑圧しているところとか、そういうコンプレックスをノバラが克服している、サダヒロにはそう映っていた。友人のそんな変化が、少年には嬉しかった。よかった、と胸がじんとするのだ。
――そうも素直百パーセントに喜ばれると、ノバラも照れ臭い。水着姿に自信がなかっただけに、嬉しい。かわいい、似合うと言ってもらえて、嬉しい。嬉しすぎて……ちょっと角が生える。
「ほら、もう食べよ食べよ。冷めちゃうし」
焼きそばのパックを開ける。ビー玉入りの瓶ラムネを手に取った。冷たい。ぐっと喉に流し込む――しゅわしゅわ弾ける、甘い清涼感。ふう、とのどを潤してから、サダヒロが割ってくれた割りばしで焼きそばをいただきます。頬張れば、「屋台の焼きそば」と言われて思い浮かべるあの味だ。ハズレない裏切らないソースの味。この濃さが、体を動かした後の体にちょうどいい。……でもノバラは紅ショウガがちょっとだけ苦手だった。食べようと思えば食べれるけども。
「……サダヒロくん、紅ショウガ好き?」
「好き……というか普通に食べられるが?」
「じゃあ紅ショウガあげる……」
「もらおう」
感情を落ち着かせるように。ずず、と焼きそばをすする。甘いラムネを喉に流す。真昼、太陽は一番眩しく、海遊びの人々の声もいっそう賑やかだ。海はきらきら、遊ぶ人と竜に微笑みかけている。
サダヒロは二人分の紅ショウガを頬張りつつ――つんとした独特の風味――彼方の水平線を見やった。視界の端には、髪を耳にかけて昼食をとっているノバラ。もぐもぐと頬張って、飲みこんで、それから結露の浮かんだ瓶ラムネをぐっと飲む。ふう、と息を吐く唇。しばし、少年はその風景をぼうっと眺めていた。遠く、波の音が聞こえる。
「ノバラさん」
「ん?」
麺をもたげた少女が顔を上げる。目が合った。
「俺、もうちょっとしたら、しばらく遠くの町にいくことになった」
それは――唐突な切り出し。ノバラは一瞬、その言葉をうまく呑み込めなかった。
「……え、それってどういう」
「転校とかじゃないぞ。ちょっと病院で診てもらうんだ」
「え、え、ちょっと、病院? 待ってそれって」
ノバラの顔色が青くなった。食事の手も止まる。
「サダヒロくんどっか具合悪いの? それともどっか怪我したの?」
「あ! 病気とか怪我とかでもなくて……すまん順番に説明していくな、俺は竜になれないだろ。それが前例がほぼないレベルの特異すぎる症例だからって、なんか……世界的なえらい先生が診てくれるとかなんとか、精密検査をどうのこうのとか……」
「なんとか」「どうのこうの」、とちょっと曖昧な言い方をしたのは、大人達が決めたことゆえだろう。
とりあえず転校とか重篤な病気とかではないことが分かり、ノバラは額を押さえて長く溜息を吐く。また角が出るかと思った。
「そっかぁ。……『症例』、ねえ」
残りわずかのラムネを一口。
「なんか病気扱いなのヤだね。……竜になれないことが、おかしくてダメなことみたいな……もちろん、サダヒロくんが竜になりたいのは知ってるし、情熱を尊重してるけど……」
医者に診てもらって竜に変身できるようになるのなら、サダヒロの願いが叶うのでいいことだとは思う。しかしそれと、竜になれないことを病気扱いする大人達への対応にモヤモヤするのは別だ。
「でも、もし本当に病気なら、俺は治したいよ」
「……そうだけど」
「君は優しいな。……俺が竜になれないのを、病気だと言ってくる者は多いが、病気扱いは嫌だって言ってくれたのは、君が初めてだ」
サダヒロの表情は穏やかだ。その横顔から、ノバラはいろいろなものを感じ取る。悲しいこと、嫌なこと、つらいこと、そんなことがきっとあったのだ。『竜になれない』――ただそれだけで。
同時に、ふっと――バラエティーやらでよく見る「難病に冒された子供がどうのこうの~」という話で、竜になれないなんていう希少も希少なサダヒロの話を全く見聞きしてこなかったのは、ひとえに彼の親の尽力なのだろう、と感じた。本来なら(と言ってもいいのか分からないが)、こんな不可思議な『症例』、メディアが放っておくはずもないだろう。テレビや新聞や雑誌で取り上げられたっておかしくない。息子が余計な『悪目立ち』をしないよう、彼は両親や理解ある大人から守られて育ってきたのだ。おそらくは。それでも防ぎきれないほど……人の心には悪意というものがあるけれど。
(きっと……いろんなメディアから『おたくの息子さんを取材させてください』、なんて話が来てたんだろうな……)
そんなことを想像して。普段はそれを欠片も出さない、弱音も吐かないサダヒロの快活さを思い出して。改めて感じるのは、敬意だ。
「サダヒロくんは強いんだね。なんか、いつも元気そうに見えるもん。変な意味じゃなくて……うまく言えないんだけどさ、もしも私達が逆だったら、私、君みたいに笑ったりできてないと思うし、……うん、すごいよサダヒロくんは」
「そうかな。そう見えてるなら嬉しい。俺は強くなりたいからな」
「んー……」
すごい、強い、そう思う。だけど、だからこそ、なんだか心配だった。強く在ろうと振る舞うことは、弱さを見せないということで。弱さを見せないということは、安らげる時間がない、ということではないかとノバラは感じていた。もしもサダヒロが無理をして元気に振る舞っているのなら、それはノバラにとってモヤモヤすることだった。
強いことは孤独だ――ノバラの言葉を、少年は覚えている。だから、心配させまいと微笑んだ。
「心配するな、しんどくなったらちゃんと言う」
「……そう」
「大丈夫だ」
「なら、いいんだけど……。ねえ、それで、……いつこっちに戻ってくるの?」
「夏休みが終わる頃には。二学期は普通に登校できるよ」
「そっかあ。でも夏休みがほとんど潰れるのきついね……」
「やむをえない……けど申し訳ない。いろいろ遊びに行こう、って話してたのに」
「いいよいいよ、どうせ私たち帰宅部なんだし、二学期になってから土日とかにいけばいいじゃん。むしろ八月が終わって涼しくなってからのが快適だし? 九月も大概暑いけどさ」
なんて言いながら。ポツリ――ノバラの心に湧いたのは、「あ、なんか、寂しいな」、という感情で。
(……夏休み、友達と遊べないことが寂しい? そんな小学生みたいな……別に、スマホあるんだし、電話だってしようと思えばできるし、二学期にまた会えるし、二度と会えなくなるわけじゃないし)
残りの焼きそばを一気に食べた。ラムネもぐいっと飲み干した。サダヒロの笑みを思い出し、にこりと、笑ってみせる。
「じゃあ、今のうちにメッチャ遊ばないとね。宿題は……どーせ病院で暇になるでしょ? サダヒロくんがいないなら私もどーせ暇になるし」
寂しいな、って気持ちが湧かなくなるぐらい、夏休みの後半は宿題で逼迫してしまえばいい。「ごちそうさまでした」、とノバラは席を立った。「捨ててきてあげる」とサダヒロの分の空パックを手に。
「うん」
サダヒロもまた笑った。
「今日はたくさん遊ぼう、ノバラさん。せっかくの海なんだし」
「うん!」
●
どれぐらい遊んだだろうか。
泳いだり、童心に帰って砂遊びしたり、貝殻を拾ったり、ぼうっと海を眺めたり、また泳いだり――。
「はあ、疲れたあ~~」
すっかり昼下がり。二人とも日焼けをして、濡れた着替えの入ったビニール鞄を銘々提げて、じわじわと蒸したアスファルトを歩く。蝉の絶唱。黒いアスファルトに陽炎。サダヒロはハーフパンツに半袖とシンプルな姿、ノバラはミントグリーンのノースリーブワンピースだった。
「海遊びとかマジで久々~~……体くったくただよお」
「うん、楽しかった」
「ねー。にしてもあっつう……」
ノバラは自分で買った扇子でひらひら顔を扇いだ。シンプルな朝顔柄だ。髪にはサダヒロからもらったヘアピンを着けている。
「……サダヒロくん、おなかすかない?」
「実は空いてる……」
「だよね……どっか寄ってかない?」
昼間に焼きそばを食べたけれど、その分のエネルギーはとうに消費してしまったらしい。二人がいるのは、ちょうど駅周辺の栄えているエリア付近だった。見渡せば、よくある大手チェーン店のファストフード屋がある。「あそこにしよっか」「いいね」とやりとり。涼しいクーラーのある場所を求めて、ほどなく見えてきたガラス扉を開けた。
「あークーラーすずしー」
顔にひやんと当たる涼しさ。夏バテで食欲がなくなるなんて、成長期には都市伝説だった。さくっと注文をして、フライドポテトやハンバーガーの乗ったトレイをテーブルに置いて。中途半端な時間なので店内にひとけはほとんどなかった。奥の方の席、汗をかいた体に染み渡るしょっぱいポテトを頬張る。
「……」
「……」
海遊びで疲れてちょっと眠い。お互い会話もなく、黙々と食べている。だが沈黙は気にならなかった。むしろ沈黙をお互いに受け入れられるし、「何か喋って間を埋めないと」と焦燥感に駆られることのない、安心感がそこにはあった。
「ねむ……」
目をしばたかせるノバラ。サダヒロはまだ元気そうだが。
「食べたら帰ろうか」
「うん……でも――」
机へ腕を枕に突っ伏して。ノバラはちらと、正面に座っているサダヒロを見上げた。
「サダヒロくん。私、まだ帰りたくないの」
にへ、と冗句のような悪戯っぽい笑みを浮かべて。上目遣い、細められた深紅の瞳。竜の姿で見下ろされる時と変わらない瞳。きらきらしている。この世の全ての輝きを閉じ込めたような。
「ねえ。もう少しだけ、あと少しだけ、ここでなんにもしないで、私とぼーっとしてくれる?」
「――……、うん、いいよ」
何か、説明のつけがたい情動だった。サダヒロは机の下で、不意に震えそうになった拳をきゅっと握り込んだ。悟られないようにいつもの口調で言う。
「じゃあ……今日はもう少しだけ一緒にいよう。少し休んだら、ゲーセンでも行くか?」
「いいね。レースゲームあるじゃない? 車のやつ。あれ勝負しよーよ」
「よしいいぞ、せっかくだし何か賭ける?」
「なんか奢るとか」
「決まりだな」
「ぜ~ったい負けない」
「望むところだ」
「ふふ。楽しみ」
――しばらく会えなくなる、しかし明日からでもないし、永遠の別れでもない。
それなのにこうも時間が惜しくなるのは、どうしてだろう?
ゲームセンターでのカーレースゲームはノバラが僅差で勝った。たったの数分のワンゲーム、二〇〇円ぐらいなのに、時間とコイン以上に盛り上がった濃密な時間だった。
それから何を奢るかという話になって、「じゃあユーフォーキャッチャーで何かとってよ」とノバラが言ったので。何枚もの硬貨を代価に――何度も無力なアームが景品を優しく撫でていった――サダヒロはどうにかこうにか、鞄につけるような小さなぬいぐるみのキーホルダーを入手した。どこぞのレーベルのどこぞのゆるキャラだ。うさぎのようなねこのような、不思議なイキモノの形をしていた。
「かわいい。ありがと、大事にするね」
ノバラは受け取ったそれを、早速鞄にぶら下げた。「帰ったら学生鞄につけよっと」と上機嫌だった。
そうして、エアホッケーや太鼓のリズムゲームやらで遊んで、ゲームセンターを満喫した頃、外はもう暗くなり始めていて。
親に「今日はご飯を食べて帰ります」、なんて、初めて連絡した。
なんだか悪いことをしている気持ち。中学から友達と遊び慣れている子供は、こんな気持ちも抱かないんだろうか。
ひぐらしの声がノスタルジックだ。蒸し暑い。
昼下がりにジャンクフードを食べたから、夕飯代わりはコンビニでの買い食い程度。その辺の公園のベンチ、暑いねえなんて何度も言いながら、おにぎりを食べた。デザートは、いつものドーナツをはんぶんこだった。
――そうして、駅に向かってぶらぶら歩く道すがら。
「実はね、あんな風に誰かとゲームセンターで遊んだのって初めて」
海が近いから、潮風を感じる。フェンスの向こうに海が見える。まだ遊んでいる人や竜が見える。
「……友達とごはん食べて帰りますって親に連絡したのも、初めて」
ノバラが歩くと、彼女の鞄についたキーホルダーが揺れる。
「こんな夏、初めて。……楽しいね、サダヒロくん」
少女は笑う。楽しそうに。黄昏ていく世界の、ちっぽけな街の片隅で。
「うん」
少年はノバラの笑顔が嬉しい。彼女には笑顔でいて欲しいと思う。
「……まだ帰りたくない?」
聞いてみる。「そうだなあ」とノバラは海の方を見ていた。
「流石にもうヘトヘトかも。帰ってお風呂入って寝ちゃいたい。でもね、帰りたくないって気持ちも同じぐらいあるよ。……サダヒロくんは?」
「俺? 俺は――そうだなあ……」
一呼吸分の間を開けた。今日も暑いなあ、と思いながら。
「うん。帰りたくない、俺も。……こんなに楽しい夏は、初めてだから」
「そっかあ。んふふ」
ノバラは楽しそうだ。ああ、楽しそうにしているなあ――サダヒロは少女を見ている。逆光、海の方を見ている彼女の頭から、少しだけ竜の角が出ていた。そんなに嬉しくて楽しいのか。竜になってしまいそうなぐらい、はしゃいでいるのか。……そう思うと、また、サダヒロは胸がぎゅっとするのだ。切なくて、だけど幸せで。初めてで。
(……ああ……好きかも……)
ばらよ、赤ばら、のなかのばら。――気付いてしまった。目の前にいる少女は、人生という野中で見つけた薔薇だった。
そうか、これが恋なのか。少年は思わず足が止まった。呆然と立ち尽くし手、空を見上げた。
「サダヒロくん?」
「ああ――いや、」
なんでもないよ、と笑いかけて、また歩き出す。「暑いね」、なんてどうでもいいことを言って間を繋いで。
(……この帰り道が永遠に続けばいいのにな……)
駅がまた一歩と近付いていく。
楽しくて嬉しいのに胸が痛い。
(ノバラさんもこんな気持ちになったことがあるのかな)
会話が途切れて、思考が渦巻く。
(……ノバラさんは、俺のことをどう思っているのかな)
友達だよ、と言ってくれるのだろう。それは嬉しい、けれど……『けれど』、?
――彼女が自分と同じ気持ちだったらいいのにな。
(でも。……俺は恋をできる体ではないから)
それに、今のこの何にも代えがたい瞬間を、恋のせいで壊したくはないから。
ずっとこのままでいたい、そうも強く思っているから。
友情でもいい、一緒にいられて楽しいなら、それ以上に何を望む?
望みすぎて破滅するのは、寓話にも散々語られているじゃないか。
だから、今は想いを胸に秘めるのだ。
手を繋ごうか、そんな気持ちを静かに沈めた。手を固く握り込んで、解く。酷い手汗だった。
十二分に幸せだ。
今はこれでいい。今は。
――野薔薇を手折る時の棘の痛みに、まだ耐えられそうではないから。
●
サダヒロの入院の日まで、夏休みをこれでもかと遊んで謳歌した。
映画を観たり、水族館に行ったり、図書館で日がな一日読書をしたり、何の予定も行く先も決めず、延々と自転車で適当な道を走ってみたり、公園で無駄に延々とキャッチボールをしてみたり、手持ち花火をしたり。
そうして遊んでいると『その日』は来ないと思ってたのに、無情にも時間は流れ、『その日』は訪れるのだ。
――夏の朝。布団の上。目を覚ましたノバラは、日焼けした腕で枕元のスマホを取った。日付を確認する。今日だ。しばらくサダヒロは遠く遠くの町に行く。もしかしたら竜に変身できるようになるかもしれない。いいことだ。嬉しいことだ。喜ぶべきことだ。
(だけど、寂しいな……)
ここ連日、ずっとサダヒロと一緒だったから、なんだか急に静かになった感じ、胸にポッカリ穴が空いたような、というか。寝起きの目をこする。メッセージアプリを開く。もう彼は出発したんだろうか。なんて書こうか、ノバラは思案した。
「いってらっしゃい」? なんだかしっくりこないなあ。
「がんばってね」? いや、頑張るのはお医者さんの方では?
「竜になれるといいね」? なんか上から目線じゃない?
「またね」? いやいやいや、お別れじゃないんだってば。
(うーん……)
どれもこれも上っ面でズレた言葉になりそうで、結局、メッセージを諦めた。本当に言いたいことが見つかってからにしよう、と内心で言い訳をした。
(楽しかったな……)
布団の上で思い返す、ここ数日。
こんな風に夏を遊べる友達ができるなんて、思いもしなかった。
(空が青い……)
窓から見える夏の空。蝉が愛を求めて鳴いている。
布団に寝転がったまま、顔を横向ければ、海に行った時に持って行ったビニール鞄。横倒しになった鞄の口から、ティッシュで包まれているモノが見えた。それに手を伸ばす。紙切れの中には、砂浜で拾った貝殻とシーグラスが納められていた。ノバラはエメラルドグリーンのシーグラスを手に取って、顔の上に透かした。
「……宿題……やらなきゃな……」